氷姫の旦那様

 丁寧に、お茶を淹れた。
 用意されたお茶は、鹿児嶋県の知覧の紅茶だった。
 熱湯に茶葉を入れ、ゆっくりと蒸らして香りが出てきたら、青磁のティーカップに注ぐ。ほんのりと夕焼け色に染まるお茶は、窓から差し込む光を反射してきらきらと光っていた。
 ふわりと広がる爽やかな香り。本で読んだことしかないが、差し絵にあった広大な茶畑は大地の端まで続いていて、美しかった。
 手のひらにおさまる茶器から広い空を感じられる、良いお茶だ。

「二人とも、お座りなさい」
 客間にある窓際の四人掛けのテーブルに腰を下ろしたすみれが、突っ立ったままの二人に声をかけた。
 客間の窓際に備え付けてあるアンティークのテーブルセットは、曲線で作られた優美なものだ。千歳緑の色をした壁紙に良くあい、部屋の中央にある一対の革張りのソファと低いテーブルを邪魔しない。

「でも、これはお客様用の椅子で」
「いいから」
 抵抗する言葉をさえぎって、すみれが椅子を指し示す。
 エンヤとシュウレイは戸惑いも露わに、すみれの正面の椅子に腰かけた。
 覚悟さえ決まれば、獣人を前にしても心が委縮することはなかった。
 そのことに、少しだけほっとする。

「お飲みなさい。熱いから、気を付けて」
 角砂糖を一つ入れて、飴色に輝く紅茶を差し出す。
 豊かに香る白い湯気が、ゆらゆらと揺れている。
 二人はおずおずとティーカップを受け取り、顔を見合わせながら紅茶を啜った。
「……おいし」
 思わず、といったふうにシュウレイが呟いた。呟いた後、慌ててエンヤを窺う。エンヤは黙ってティーカップの中をのぞき込んでいた。

 すみれは着物の袷から、貝を合わせた形の木製の薬入れを取り出した。
 その蓋を開けて、右手を差し出す。
「手を」
 促すと、シュウレイは警戒を解かない瞳のまま、おずおずと右手を差し出した。

 彼女の手は、ギーには及ばないが、それでもすみれよりも大きく指は長く、鋭い爪が生えている。そして、指にはいくつものあかぎれが赤く線を作っていた。
「ずっと気になっていたの。暖かくなってきたとはいえ、水仕事は大変でしょう。働き者の手ね。大事にしてあげましょうね」
 薬入れの中の軟膏をひとすくいし、その手に丁寧に薬をもみ込む。
 疲れを癒すように、優しく指圧して、痛みがないかを確認する。
 右手が終わると、左手を。
 エンヤにも同じように、両手に薬をぬりこんで労をねぎらう。
 静かで、穏やかで、それでいてわずかな緊張が満ちた時間だった。

「……どうして」
 不意に、エンヤが低い声で呟いた。
「シュウレイに聞きました。図書室に閉じ込めた、って。……どうして、意地悪をしたのに、優しくするんですか」
 小鳥の囀りが遠くに聞こえる。
 風をはらんだ白いカーテンがふわりと広がり、春の風が花の香りを運んでくる。

 エンヤの喉が、ぐる、と鳴いた。
「どうせ、優しいふりをしてこの後、旦那様に言いつけるんでしょう。言いつけて、私達を解雇するのよ。したいならすればいいわ。私達、ほらやっぱりねって思うだけですから」
 エンヤは投げやりな口調で、あえて怖がらせるように喉の奥で威嚇の唸り声を発し、牙をむいた。
 しかしその目は、怯えと苛立ち、それから不安を映している。

 すみれは手についた軟膏を千鳥模様のハンカチで拭い、薬入れの蓋を閉めた。そして、瞬きを一つして二人を見つめる。
「想像でわたくしの行動を語るのをやめなさい。わたくしは旦那様に言いつけたりしないし、あなた達を解雇したりもしません」
 教室で生徒に教えるように、はっきりと目の前の二人に言って聞かせる。
「ただ知りたいの。なぜ、あなた達がわたくしを嫌うのか。わたくしは何をして、あなた達に嫌な態度を取らせたのか」
 エンヤとシュウレイのふかふかの耳が、へにょりと力を失った。黒い鼻がぴすぴすと戸惑いを訴える。

 すみれは紅茶を一口、飲んだ。
 口に含むと芳醇な香りが鼻から抜ける。
 他者に振る舞うお茶として、最適だ。
 そのお茶を選んだのは、他ならぬ彼女達なのだ。

 やがて、エンヤが小さく息を吐いた。それは諦めにも似た息だった。
「……人間は、嫌いです。小さい頃、人間に石を投げられたり、嘘つき呼ばわりされたりしました。でも、私達の方が力が強いから反撃してはいけないって、大人には散々言われて、殴られることもあって……」
「人間様は偉いのだと聞かされて育ちました。でも……どうして、私達を苛める人間を偉いと思わなければならないの。私が一番悲しかったのは、母の誕生日の贈り物を買いに行ったとき、人間に『獣人に売るものはない』と店を追い出されたときです。人間なんて大っ嫌い」
 シュウレイの瞳が潤み、ぐっと奥歯をかみしめる音がした。

「二人は、姉妹、ではないのよね?」
 静かなすみれの問いに、シュウレイが頷いた。
「幼馴染みです。家が隣でした。ずっとずっと、何をするのでも一緒だったんです」
 並んで座る彼女達は、よく見れば違う顔立ちの狼だとわかる。
 それでも似た雰囲気を漂わせているのは、長年一緒にいるからなのか。

 二人の獣人の少女は、互いの手を握りしめ、すみれを見つめた。
「私達は、中等学校に行くのは諦めました。どうせ苛められると思ったからです。二人で働いて生きていこうって決めて職を転々としていたときに、旦那様に拾われました」
「旦那様は私達の恩人です。旦那様の幸せは絶対なのです。それなのに、卑怯で意地悪で性根の汚い人間を、奥様に選ばれたので」
「旦那様は騙されていると思いました。私達が、旦那様の目を覚まさせてあげなければ、と。嫌な目に合えば、あなたがきっと本性を表すと思って」
「あなたは人間だから絶対に私達に嫌がらせをするって思いました。それを見たら旦那様も幻滅して、結婚をやめると言ってくれるはずだって思って……」
 エンヤとシュウレイは交互に、矢継ぎ早に怒りを込めてすみれに訴える。
 けれどその声は、次第に小さくなっていった。

 彼女達は賢い。
 わかっているのだ。
 彼女達が出会って来た人間と、日々大人しく息をひそめて暮らすすみれが重ならないことを。
 重ならないけれど、彼女達の中の今まで人間に受けた仕打ちもまた、現実のもので。
 戸惑いながら、それでも過去の人間像を打ち消すにはすみれのことをよく知らなくて、嫌がらせをしたのだろう。

 けれど、相手のことをよく知らないのは、すみれも同じだ。

「わたくし、あなた方が怖かったの」
「え?」
 静かなすみれの告白に、エンヤとシュウレイは目を瞬かせた。
 すみれは顔を上げ、正面から二人を見つめた。
「今まで、わたくしの周りに獣人はいなかったわ。だから、噂で聞く獣人の野蛮さや暴力的な一面だけを真実と思い、あなた方に話しかけるのを躊躇ってしまいました」

 彼女達は、実体験が伴った人間像を抱いている。
 一方で、すみれは単に噂話を聞いたり、本で読んだりしただけ。この屋敷に来て初めて、獣人は暴力的ではないし、知能が遅れてもいない。姿かたちは違えど、知性を持った人だとわかった。
 エンヤとシュウレイの受けた心の傷を、獣人を知ったばかりのすみれがどうこうできるとは言えないけれど。
 それでも、こうして言葉を交わせるのなら、ここから始めるしかないのだ。

「あなた方は力が強くて、爪も牙もあり、わたくしを簡単に殺してしまえる。だから、あからさまな嫌がらせも黙って受け入れて、我慢するしかないと思っていたの」
 ティーカップにそっと手を触れる。ほんのりとした温かさは、二人のてのひらのそれとよく似ていた。
「獣人の方に暴力を振るわれたことなんて、今までに一度もないのに。勝手に怖がって、勝手に怯えていた。これは大変失礼な態度でした。ごめんなさい」
 すみれは頭を下げた。

 エンヤとシュウレイが息を飲む。
 人間が獣人に謝罪する、なんて。きっと彼女達の人生の中で、一度たりともなかったことなのだ。そのことが不憫だと、心底思う。
 すみれがこの十日間で受けた彼女達からの嫌がらせは確かに良くないことではあったけれど、彼女達のこれまで受けてきた仕打ちに比べれば、きっと微々たるものだ。
 だって、シュウレイは図書室に閉じ込められたはずのすみれの姿を見て、言葉を失っていた。悪いことをしたと理解している瞳をしていたからこそ、嫌がらせをしなれていないことがわかったのだ。

 しばらくの沈黙が落ちた。
 大きな柱時計が、かちかちと時を刻む音がする。
 さあっと風が吹き、白いカーテンをふんわりと踊りに誘う。
 新緑の季節の風は、爽やかな新緑の香りを運んでくる。

 やがて、エンヤが顔を上げた。
 その瞳は戸惑いに揺れ、まるで迷子の子供のように途方に暮れた色をしていた。
「でも、人間は獣人を憎んでるでしょう。純血の人間しか価値がないと思ってる。あなたはそうじゃないの?」
 か細い声に、すみれは自分の心を暴かれた気持ちになった。