しかし。
「開かない……?」
昼の時間を知らせる壁掛け時計の音が遠くで聞こえた。
本を読むのを中断して、食堂に用意されているはずの昼食を取りに行こうと図書室のドアノブに手を伸ばし、捻ろうとして……その手が止まった。
ドアが開かない。
真鍮製のノブを回そうとしても、がちりと止まって回らない。
鍵がかかっているのだ。
思わず無言でドアノブを見つめて、見つめただけではどうしようもないと諦めた。
屋敷にいるのは、すみれとエンヤとシュウレイだけだ。
この部屋は外側からしか鍵をかけられない。
よって鍵をかけたのは、その二人のどちらか、ということになる。
「あの、誰か近くにいないかしら。鍵が、閉まっているのだけれど」
ひとまず、ドアの前でそう呼びかけてみる。
図書室の中に誰もいないと思って鍵をかけたという可能性もゼロではない。楽観的に考えてみるけれど、それが空しい希望であることも、わかっていた。
ドアに耳を当ててみても廊下に人の気配はなく、予想通り、しばらく待っても誰の反応もなかった。
一刻は我慢した。空腹のピークは過ぎ、うろうろと部屋の中を歩き回る。
「困ったわね」
屋敷の主であるギーが、いつかは帰ってくる。
だからまさか一生、閉じ込められるわけではないだろうが、この状況をギーには見られたくない。
先日、朝食の件で怒りをあらわにした彼は、とても恐ろしかったから。
腕組みをして、すみれは唸る。
胸の中で不安がむくむくと膨張していく。
何をしたわけでもないのに、彼女達に嫌われている事実は胸に堪える。
「わたくしだって、好きでここにきたわけではないのに」
ぽつりと呟き、すみれはくっと唇を噛んだ。
マイナスな思考は、怖れや不満を引き寄せる。
すみれは部屋の中をぐるりと見回した。
洋風の壁紙が敷かれた図書室には、木製の本棚が七つ並んでいる。壁際には座って読めるようにと肘掛椅子が一つ。それから、調べ物ができるようにテーブルと椅子のセットが置いてある。
他の部屋のように床に絨毯が敷かれていないのは、本棚を固定するためだろう。
目を留めたのは、薄いカーテン越しに柔らかな光を届けてくれる、四角い窓だ。
腰の位置に窓枠があり、観音開きの窓は人が優に一人通れるくらいには大きい。
おそらく本の劣化を防ぐために、窓は部屋にこの一つしかない。
「幸い、ここは一階」
呟いて、レースのカーテンをさっと引く。
途端に飛び込んできた白い太陽光に目を瞑り、薄目を開けて窓の鍵に手探りで触れる。
ネジ式の鍵を捻って窓の木枠に手を置き、取っ手を引っ張る。
きしむ音と共に、白いカーテンが風を受け止め、大きく膨らんだ。
草花の瑞々しい香りが、静謐な図書室に春を運ぶ。
埃の粒が光に照らされてきらきらと舞った。
すみれは窓枠に手をかけ、外を覗き込んだ。
正面にはコデマリの低木が等間隔に並べて植えられていた。
白い房状の花が今を盛りと咲き誇り、甘い匂いと共に手招きするように風に揺らいでいる。
そのさらに向こう側には立派な松の木が大きく腕を伸ばし、池の水がすみれの窮状など知らずにきらきらと輝いていた。
下に視線を向ければ、花壇などはなく土の地面が広がっていた。
大丈夫。地面は近い。
確認が出来ればこっちのものだ。
額に落ちた一筋の髪を耳にかけ、すみれは部屋の端にある天鵞絨張りの肘掛椅子を見る。あの椅子があれば、この窓枠に足をかけることができるだろう。
床を傷つけないように注意しながら、重い黒柿の椅子を運んだ。
ほんの数メートルだったけれど、ちょうどいい位置に運べたときには、額にうっすらと汗が滲んでいた。
「これで、よし。あとは、外に出るだけ」
腰紐を一本解き、たすき掛けにして着物の袖を邪魔にならないように縛る。
椅子の座面に足を置き、勢いに任せて窓枠に足袋を履いた足を乗せる。
と、視界いっぱいに広がった地面が思っていたよりも遠く感じられて、身がすくんだ。
土の地面は、埃っぽく乾いていて硬そうだ。
少しの衝撃も吸収してくれないだろう。
すみれは窓枠をぎゅっと両手で握った。
もう一度、地面を見下ろす。
ここから上手く飛び降りることができるだろうか。
怪我をするかも。最悪、足を折ってしまうかもしれない。
嫌な予想が頭を過ぎり、体が固まってしまって動けない。
手のひらに、額に、じわりと嫌な汗が浮かんだ。
そのとき、頭上から小鳥の声が聞こえた。
視線を上げれば軒先から、白い腹に灰色の羽をした小鳥が首を傾げてすみれを見下ろしている。
この人間は何をしているのかと、思っているのだろうか。
つぶらな瞳のその小鳥は、すみれが「あ」と呟く間に、小さな羽を広げてあっという間に飛び立ってしまった。
自由な、世界へと。
すみれはゆっくりと膝を折った。
窓枠に腰を下ろせば地面が少しだけ近くなって、怖さが半減する。
跳び下りてもそれほど衝撃はないはずだ。足袋は汚れるだろうが、仕方がない。着物も乱れるだろうが、今、ここには誰もいない。
すみれは心を決めて、窓の外へと身を投げだした。
***
「ひっ、どうして」
玄関の上り框に座って汚れた足袋を脱いでいると、背後からシュウレイの声が聞こえた。
振り返ると、幽霊でも見たような顔で廊下に立ち尽くしている。
黒いワンピースに白いエプロンは今朝見たままの姿で、左腕にはめた金色の腕輪がシャツの袖からちらりと光った。
「どうして、とは、どういうことかしら」
足袋の汚れをざっと払って、立ち上がる。
人間が五人並んでもなお余裕のある広い玄関の床は、ひんやりとした大理石でできている。火照った足に、ちょうどいい冷たさだ。
薄暗がりの中、二人の間に緊張が走った。
「いっ、いえ。言葉のあやです。何でも、ないのです」
シュウレイの声は尻すぼみになり、茶色の頭を下げて身を翻そうとした。
「あなたが」
あなたが図書室の鍵を閉めたの。
そう、問い詰めようとした。
でも、できなかった。
顔を上げた彼女が、学校で見た女学生と同じ目をしていたからだ。
自分が悪いことをしたという自覚のある、後ろめたさを秘めた目を。
幼さの中に、怖れを抱いた目を。
きっと彼女は、閉じ込められる不安や痛みを知っている。
そのとき、後ろから洗濯かごを抱えたエンヤが現れた。
彼女は立ち尽くすシュウレイとすみれを見比べ、首を傾げた。しかし、すぐに目を眇めてすみれを眺める。
「何かご不満なことでもありましたか。人間にお生まれの奥様には、私達の作法などご不満だらけかもしれませんが」
つけつけと言って、シュウレイを流し見る。
シュウレイははっとしたように居住まいを正した。そして、長い舌で鼻の頭を舐め、迷うように視線を彷徨わせた後、威居丈高に言い放つ。
「じ、獣人と同じ屋根の下で暮らすなんて、お嫌でしょう。一日中、退屈そうですし。とはいえ刺激のあることがお好みのようではなさそうですね」
刺激のあること、ということが、朝食や洗濯、図書室に閉じ込められることであるのは明白だ。
さっきまでおどおどとしていたシュウレイが今はもう、取り繕ったような笑みを浮かべてすみれを見下ろしている。
彼女達の態度には、どういう理由があるのだろう。
ギーの前では従順な彼女達が、なぜすみれに嫌がらせをするのか。
すみれは長い睫毛を震わせ、二人の獣人を見つめた。
すみれより体が大きく、力も強い狼の獣。
力では敵わないからこそ、恐ろしいと思う心はどうしても消えない。
けれど。
険しい顔ですみれを睨みつける二人は、まるで逃げ道を失った手負いの獣のようだ。
すみれは確信した。
「あなた達は、わたくしを怒らせたいのね」
淡々とした声に、シュウレイの肩がぴくりと動いた。
「怒ったわたくしが、この屋敷から出て行けばいいと思っている。もしくは、旦那様にわたくしが告げ口をして、あなた達自身を解雇させたい。違うかしら」
こくりと喉を鳴らしたエンヤが、無意識に後退りした。
耳をへたらせたシュウレイが、迷うようにエンヤを見る。
すみれは背筋を伸ばした。
彼女達は身長も、体も、すみれよりも大きい。
大きいけれど、年若い。
すみれはふっと息を吐く。
「……お茶にしましょうか。お湯と茶器を三人分、客間に持ってきてちょうだい」
否やの声はなかった。
彼女達はわかっている。
すみれの後ろにはギーがいる。
女主人であるすみれの一言で、ギーは彼女達の処遇を決める。前回、お叱りを受けた彼女達に、失敗は許されない。
それでも。
それでも、シュウレイは、すみれを図書館に閉じ込めることを選んだのだ。
そこにはきっと、理由がある。
「わたくしは一度、自室に戻るわ。客間で待っていて」
「開かない……?」
昼の時間を知らせる壁掛け時計の音が遠くで聞こえた。
本を読むのを中断して、食堂に用意されているはずの昼食を取りに行こうと図書室のドアノブに手を伸ばし、捻ろうとして……その手が止まった。
ドアが開かない。
真鍮製のノブを回そうとしても、がちりと止まって回らない。
鍵がかかっているのだ。
思わず無言でドアノブを見つめて、見つめただけではどうしようもないと諦めた。
屋敷にいるのは、すみれとエンヤとシュウレイだけだ。
この部屋は外側からしか鍵をかけられない。
よって鍵をかけたのは、その二人のどちらか、ということになる。
「あの、誰か近くにいないかしら。鍵が、閉まっているのだけれど」
ひとまず、ドアの前でそう呼びかけてみる。
図書室の中に誰もいないと思って鍵をかけたという可能性もゼロではない。楽観的に考えてみるけれど、それが空しい希望であることも、わかっていた。
ドアに耳を当ててみても廊下に人の気配はなく、予想通り、しばらく待っても誰の反応もなかった。
一刻は我慢した。空腹のピークは過ぎ、うろうろと部屋の中を歩き回る。
「困ったわね」
屋敷の主であるギーが、いつかは帰ってくる。
だからまさか一生、閉じ込められるわけではないだろうが、この状況をギーには見られたくない。
先日、朝食の件で怒りをあらわにした彼は、とても恐ろしかったから。
腕組みをして、すみれは唸る。
胸の中で不安がむくむくと膨張していく。
何をしたわけでもないのに、彼女達に嫌われている事実は胸に堪える。
「わたくしだって、好きでここにきたわけではないのに」
ぽつりと呟き、すみれはくっと唇を噛んだ。
マイナスな思考は、怖れや不満を引き寄せる。
すみれは部屋の中をぐるりと見回した。
洋風の壁紙が敷かれた図書室には、木製の本棚が七つ並んでいる。壁際には座って読めるようにと肘掛椅子が一つ。それから、調べ物ができるようにテーブルと椅子のセットが置いてある。
他の部屋のように床に絨毯が敷かれていないのは、本棚を固定するためだろう。
目を留めたのは、薄いカーテン越しに柔らかな光を届けてくれる、四角い窓だ。
腰の位置に窓枠があり、観音開きの窓は人が優に一人通れるくらいには大きい。
おそらく本の劣化を防ぐために、窓は部屋にこの一つしかない。
「幸い、ここは一階」
呟いて、レースのカーテンをさっと引く。
途端に飛び込んできた白い太陽光に目を瞑り、薄目を開けて窓の鍵に手探りで触れる。
ネジ式の鍵を捻って窓の木枠に手を置き、取っ手を引っ張る。
きしむ音と共に、白いカーテンが風を受け止め、大きく膨らんだ。
草花の瑞々しい香りが、静謐な図書室に春を運ぶ。
埃の粒が光に照らされてきらきらと舞った。
すみれは窓枠に手をかけ、外を覗き込んだ。
正面にはコデマリの低木が等間隔に並べて植えられていた。
白い房状の花が今を盛りと咲き誇り、甘い匂いと共に手招きするように風に揺らいでいる。
そのさらに向こう側には立派な松の木が大きく腕を伸ばし、池の水がすみれの窮状など知らずにきらきらと輝いていた。
下に視線を向ければ、花壇などはなく土の地面が広がっていた。
大丈夫。地面は近い。
確認が出来ればこっちのものだ。
額に落ちた一筋の髪を耳にかけ、すみれは部屋の端にある天鵞絨張りの肘掛椅子を見る。あの椅子があれば、この窓枠に足をかけることができるだろう。
床を傷つけないように注意しながら、重い黒柿の椅子を運んだ。
ほんの数メートルだったけれど、ちょうどいい位置に運べたときには、額にうっすらと汗が滲んでいた。
「これで、よし。あとは、外に出るだけ」
腰紐を一本解き、たすき掛けにして着物の袖を邪魔にならないように縛る。
椅子の座面に足を置き、勢いに任せて窓枠に足袋を履いた足を乗せる。
と、視界いっぱいに広がった地面が思っていたよりも遠く感じられて、身がすくんだ。
土の地面は、埃っぽく乾いていて硬そうだ。
少しの衝撃も吸収してくれないだろう。
すみれは窓枠をぎゅっと両手で握った。
もう一度、地面を見下ろす。
ここから上手く飛び降りることができるだろうか。
怪我をするかも。最悪、足を折ってしまうかもしれない。
嫌な予想が頭を過ぎり、体が固まってしまって動けない。
手のひらに、額に、じわりと嫌な汗が浮かんだ。
そのとき、頭上から小鳥の声が聞こえた。
視線を上げれば軒先から、白い腹に灰色の羽をした小鳥が首を傾げてすみれを見下ろしている。
この人間は何をしているのかと、思っているのだろうか。
つぶらな瞳のその小鳥は、すみれが「あ」と呟く間に、小さな羽を広げてあっという間に飛び立ってしまった。
自由な、世界へと。
すみれはゆっくりと膝を折った。
窓枠に腰を下ろせば地面が少しだけ近くなって、怖さが半減する。
跳び下りてもそれほど衝撃はないはずだ。足袋は汚れるだろうが、仕方がない。着物も乱れるだろうが、今、ここには誰もいない。
すみれは心を決めて、窓の外へと身を投げだした。
***
「ひっ、どうして」
玄関の上り框に座って汚れた足袋を脱いでいると、背後からシュウレイの声が聞こえた。
振り返ると、幽霊でも見たような顔で廊下に立ち尽くしている。
黒いワンピースに白いエプロンは今朝見たままの姿で、左腕にはめた金色の腕輪がシャツの袖からちらりと光った。
「どうして、とは、どういうことかしら」
足袋の汚れをざっと払って、立ち上がる。
人間が五人並んでもなお余裕のある広い玄関の床は、ひんやりとした大理石でできている。火照った足に、ちょうどいい冷たさだ。
薄暗がりの中、二人の間に緊張が走った。
「いっ、いえ。言葉のあやです。何でも、ないのです」
シュウレイの声は尻すぼみになり、茶色の頭を下げて身を翻そうとした。
「あなたが」
あなたが図書室の鍵を閉めたの。
そう、問い詰めようとした。
でも、できなかった。
顔を上げた彼女が、学校で見た女学生と同じ目をしていたからだ。
自分が悪いことをしたという自覚のある、後ろめたさを秘めた目を。
幼さの中に、怖れを抱いた目を。
きっと彼女は、閉じ込められる不安や痛みを知っている。
そのとき、後ろから洗濯かごを抱えたエンヤが現れた。
彼女は立ち尽くすシュウレイとすみれを見比べ、首を傾げた。しかし、すぐに目を眇めてすみれを眺める。
「何かご不満なことでもありましたか。人間にお生まれの奥様には、私達の作法などご不満だらけかもしれませんが」
つけつけと言って、シュウレイを流し見る。
シュウレイははっとしたように居住まいを正した。そして、長い舌で鼻の頭を舐め、迷うように視線を彷徨わせた後、威居丈高に言い放つ。
「じ、獣人と同じ屋根の下で暮らすなんて、お嫌でしょう。一日中、退屈そうですし。とはいえ刺激のあることがお好みのようではなさそうですね」
刺激のあること、ということが、朝食や洗濯、図書室に閉じ込められることであるのは明白だ。
さっきまでおどおどとしていたシュウレイが今はもう、取り繕ったような笑みを浮かべてすみれを見下ろしている。
彼女達の態度には、どういう理由があるのだろう。
ギーの前では従順な彼女達が、なぜすみれに嫌がらせをするのか。
すみれは長い睫毛を震わせ、二人の獣人を見つめた。
すみれより体が大きく、力も強い狼の獣。
力では敵わないからこそ、恐ろしいと思う心はどうしても消えない。
けれど。
険しい顔ですみれを睨みつける二人は、まるで逃げ道を失った手負いの獣のようだ。
すみれは確信した。
「あなた達は、わたくしを怒らせたいのね」
淡々とした声に、シュウレイの肩がぴくりと動いた。
「怒ったわたくしが、この屋敷から出て行けばいいと思っている。もしくは、旦那様にわたくしが告げ口をして、あなた達自身を解雇させたい。違うかしら」
こくりと喉を鳴らしたエンヤが、無意識に後退りした。
耳をへたらせたシュウレイが、迷うようにエンヤを見る。
すみれは背筋を伸ばした。
彼女達は身長も、体も、すみれよりも大きい。
大きいけれど、年若い。
すみれはふっと息を吐く。
「……お茶にしましょうか。お湯と茶器を三人分、客間に持ってきてちょうだい」
否やの声はなかった。
彼女達はわかっている。
すみれの後ろにはギーがいる。
女主人であるすみれの一言で、ギーは彼女達の処遇を決める。前回、お叱りを受けた彼女達に、失敗は許されない。
それでも。
それでも、シュウレイは、すみれを図書館に閉じ込めることを選んだのだ。
そこにはきっと、理由がある。
「わたくしは一度、自室に戻るわ。客間で待っていて」
