氷姫の旦那様

「だっ……旦那様」
 上げかけた悲鳴をなんとか飲み込み、すみれはギーに向き直った。
 無表情を取り繕うのは得意だ。
 貴族の娘として、表情が顔に出るのははしたないことと教わってきた。
 ギーがゆっくりとこちらに近づいてくる。

「まだお仕事のお時間では」
 今は朝の十時だ。ギーが出かけて行って半日も経っていない。
 ギーの三角の耳がぴるぴると動いた。
「昨日、仕事で持ち帰った印鑑を忘れたので、取りに帰った……ら、君が見えた」
「言っていただければ届けましたのに」
「それは駄目だ。君を一人で歩かせるわけにはいかない」
 厳格な声に、すみれはそっと目を伏せる。

 やはり、この屋敷からは出してもらえないらしい。
 ギーはすみれに孤独でいろ、と言っているのだ。
 心がぐらりと傾ぐ。
 普通の妻のありようがわからないからこそ、自分が何の役にも立てないことに無力を感じる。

 自由に、と言われても、家の中で出来ることは刺繍や読書くらいのものだ。
 学校に行けば、同僚の先生方と議論して、生徒達の前で授業をし、通勤途中の瀬戸物屋のおばあさんと挨拶を交わしていたはずなのに。
 誰かの喜ぶ顔を見て、一緒に考えて、共に学んで、お喋りを楽しんでいたはずなのに。
 今はただ、ようやく少しだけ慣れた獣人の屋敷で、息をひそめて生きているだけ。

 俯いたすみれは、ショールの端をきゅっと掴んだ。そして、はっと顔を上げる。
「こちら、ありがとうございます。綺麗な青ですね」
「ああ、見立て通りだ。よく似合う」
 ギーは蜂蜜色の瞳を眇めて数度、頷いた。
 彼自身が選んでいるのか、ということに驚きつつ、すみれは小さく頭を下げた。
「いつもいつも買ってもらうばかりで、申し訳なく」
「遠慮する必要はない。君に贈り物を買う金くらいはある」
「さよう、ですか……」
 すみれは再び俯いた。どう言葉を繋げばいいか、わからなくなったのだ。

 なぜ、ギーが贈り物をしてくれるのか、聞くべきだろうか。
 でも、単純に金があるから買っているだけだとしたら、そこに心はないということ。
 野良猫に気まぐれで餌を与えるのと同じ行為ということだ。
 下手に理由を聞いて、わずらわしいと思われるのも本意ではない。
 綱渡りのような思考戦に、すみれはため息をつきたくなる。

 衣擦れの音が聞こえた。それは素早くすみれに近づき、気づいたときには地面に片膝をついて、こちらを覗き込むギーがいた。
 予想外の相手の行動に、すみれの肩がびくりと揺れる。
「気に入らないか。では、共に買い物に出るか」
「え」
「俺と一緒なら、外出は許可する」
 低い声はどこまでも真面目で。

 すみれは目を見開いた。
「外出しても、いいのですか……?」
 すみれの戸惑いをどうとらえたのか、ギーは少し考えて、言葉を重ねた。
「詳しくは話せないが、仕事の関係で周囲がざわついていて、護警官の家族はしばらく身の回りに気を付けるようにという通知が出ている。君にはできるだけ安全なこの屋敷にいてほしい。ここのすぐ裏手には駐在所があって、何かあればすぐに護警官が駆けつけられるから」
 落ち着いた、穏やかな声。
 じっとすみれを見上げる琥珀色の視線が、すみれの心を覗くように気遣わしげに向けられている。
 きっと、すみれの発した短い問いの意味を考え、理由を教えてくれたのだ。

 すみれはこくりと喉を鳴らした。
 意味もなく、ギーはすみれを屋敷に閉じ込めていたわけではない。
 事実を知れば、心の靄がすうっと消えていく気がした。
「そうなのですね……わかりました」
 視界が開けたような気分だ。
 一生を、屋敷の中だけで過ごさなければならないわけではなかったのだ。
 問いかければ簡単に、答えは得られたのに。

 ぐるぐると悩むばかりで、ただの大人しい妻を演じてしまった。
 そのことが我ながらおかしくて、すみれの口元に笑みが浮かぶ。
 春の女神が目覚めを促す吐息を吹きかけたように、それはまるで艶やかな牡丹の蕾が綻び、大輪の花が目覚めたかのような、誰の目をも惹きつける美しさがあった。
 ギーが息を飲む。
 琥珀色の目が食い入るようにすみれを見つめ、しかし、なぜすみれが微笑んだのかが分からずに戸惑っている。

 一方、すみれも驚いていた。
 獣人が、戸惑っている。
 凛々しい顔立ちの狼が、人間の表情が変わったぐらいでおろおろと手を宙に浮かせている。黒い鼻先がぴすぴすと動き、三角のふわふわの耳が忙しなく動いている。
 冷たさを含んだ風が吹き、ギーのつけている若竹に似た香りが鼻孔をくすぐる。
 彼の首の下の、もふもふとした白い毛が一斉に風になびく。

 可愛い。
 すみれは初めて、そう思った。
 自分よりも体が大きくて力の強い獣人に対し、そんな感情を抱く日が来ようなどとは思ってもみなかったけれど、それ以外の言葉が見つからない。
 大きく強い獣が、人懐こい大きなワンコに見えてしまう。
 親の許しがなくて今まで犬を飼ったことはないけれど、ずっと憧れはあったのだと思い出す。あのふかふかの毛皮に顔を埋めたい。犬の笑顔を間近で見たい、と。

 まだ、彼について何も知らないのだ。
 すみれは一歩、足を前に踏み出してみた。
 途端に、ギーはがばりと立ち上がる。立ち上がってしまえば、ギーの顔は遠くなり、その大きな体が日差しを遮って影が出来る。

「ごほん。それでは、まず、買い物だったな。買い物……次の休みに、行くとするか」
「お休みが取れるのですか」
 結婚式の日でさえ、呼び出されて一晩帰ってこなかったような人が。
 大きく目を見開いたすみれに、何を思ったかギーは狼狽えた。
「なんとかしよう。いや、する」
 すみれを見おろし、ギーは少しだけ言い淀んで、しかし、決意を表すかのように深く頷く。

 胸の中に、ぽっと明かりが灯った。
 周囲がざわついている、と言っていた。
 休みが取れるのかという問いに、なんとかする、と答えた。
 きっと彼は忙しいのだ。
 朝食を食べてすぐに出かけ、深夜まで帰ってこないのは、すみれを避けるのが理由ではなく、本当に忙しいからなのでは。

 二人、視線が絡み合う。
 どちらともなく微笑んで、ギーの尻尾がゆらりと揺れた。

 そのとき。

「すみれさん、いらっしゃるの。あら、ギー」
 正門の引き戸がからりと開いて、ミレイが古木の裏から顔を出した。
「叔母上」
 ギーの尻尾がぴたりと止まった。
 桃色のフリルたっぷりのドレスを着たミレイが、弾む足取りでギーの前に立つ。

「あなた、仕事は?」
「用があったので帰宅しました。今から職場に戻ります」
 しかし、ギーの固い返事をミレイは途中で遮った。
「あら、駄目よ。ギーにと思って良い布地を仕入れたの。うちまで取りにいらっしゃい」
「では、エンヤを遣わせます」
「あなたのための布地なのに? あなたが気に入るかどうかわからないのに、使用人をよこすの? それに上沼のお嬢様から相談を受けていて、あなたにぜひ聞いてもらいたい話があるのよ」
 ミレイの眉間に皺が寄り、声がひび割れた。喉の奥から威嚇するような低い唸り声も聞こえてくる。
 明らかに機嫌を損ねる前兆だ。

 ギーはゆっくりと頭を下げた。
「……取りに行かせていただきます」
「よろしい」
 満足げに頷くミレイが、そこで初めてすみれを見た。
「すみれさん、そういうわけで、この人は連れていきますからね」
「はい」
 それ以外に持ちうる返事はない。

 ミレイは表に出てきたエンヤに一言、二言告げて踵を返した。
 ギーの仕事は大丈夫なのだろうかと思うけれど、それを口に出してはミレイの不興を買うということだけはわかっていた。
 この屋敷の大家だというミレイは、頻繁に屋敷にやって来ては嫌味を言って帰って行く。
 聞いたところによると、この屋敷はミレイが結婚当初に住んでいた家らしい。今、彼女は独り身で、高級住宅街の一画に自分だけの屋敷を構えているのだとか。
 ギーはすみれに「ではまた」と言い置いて、ミレイと共に玄関を出て行った。

 すみれは一人、空を見上げる。
 澄み渡った四月の空は、眩しいほどに青かった。
 花の盛りを終えた梅の古木には若葉がのぞき、日陰となったこの場所には冷たい風がびゅうと吹く。
 まだ午前中だ。
 外出が許されない理由がわかって、胸の重しが軽くなった。
 まだギーの尻尾の警戒は取れていないようだし、すみれもギーに心のすべてを預けるのはまだ怖い。
 でも少なくとも、獣人を野蛮で恐ろしい生き物だとは思わなくなった。
「図書室で、本でも読みましょうか」
 肩にかけたショールをそっと撫で、すみれはゆっくりと歩き出した。