氷姫の旦那様

「毎度ありがとうございます。奥様によくお似合いですよ。それでは、失礼いたします」
 柔和な笑みを浮かべた外商が、桑染色の風呂敷包みを抱えて背を向けた。
 すみれは客を正門まで見送り、その姿が遠くなったのを確認して、ため息をついた。
「贈り物もこれで十個目。困ったわ……」
 露草色の柔らかな絹のショールを手に、屋敷へと戻る。

 ひんやりとした風は、優しく頬を撫でていく。
 太陽の光は庭の木々に白く降り注ぎ、地面に植えられた鮮やかなヤグルマギクが通り過ぎる者の目を楽しませてくれる。
 見事に整えられた日本庭園は、そこかしこに若葉が芽吹いている。青々とした葉は見ているだけで背筋が伸びる。
 深く息を吸うと、清涼な空気が体の中の淀みを一掃してくれる気がした。
 池の鯉が、ぴちょんと跳ねる音が響いた。
 心躍る春は、皆が少しだけ浮かれている。

 ふと、梅の古木の裏側、橙色のヤグルマギクの中に青いヤグルマギクが一輪、咲いているのに気づいた。
 種が紛れ込んだのだろうか。
 すみれは花の盛りを過ぎた梅の木をぐるりと回って腰を下ろした。その拍子に、手にしたショールが滑り落ちそうになって慌てて両腕で抱きとめる。
「お断りしようにも、お支払いは済んでいるというし。頑なに断れば旦那様の面子をつぶすことにもなりかねないし。普通の奥様方はどう対処しているのかしら……」

 この屋敷に来て、早十日が過ぎた。
 毎朝、ギーと朝食を取っているけれど、特にこれといった会話はない。
 護警官として働く彼の予定を聞いても良いものかわからないし、自分が何をして過ごしているのかを話していいものかもわからない。
 ただひたすら、相手の皿の上に載せられた骨付き肉やサラダ、パンの量の多さに驚くだけだ。

 最初の朝食のとき、「わたくしはこのお屋敷で何をすればよろしいのでしょうか」と問いかけた。
 本当に、心底わからなかったからだ。
 でも、ギーから返ってきたのは、「自由に」という短い言葉。

 自由、とは、何。

 教師一筋で生きてきたすみれは、実際の夫婦の在り方がわからない。
 実家の母は父に逆らうことはなく、常に従順に父の後をついて回っていた。
 すみれが何か尋ねても、いちいち父に教えてもいいものか伺いを立て、父の了承を得てから教えてくれるような、気の弱い人だった。
 今、母に連絡を取りたくとも、父に内容が筒抜けになると思うと躊躇われる。
 父はこの縁談を仕組んだ人。
 すみれが獣人と結婚するのを許した、世間体も、すみれの気持ちもまったく考えない人。
 安易に信用することはできない。

「贈り物のお礼を言ってもそっけないし、でも尻尾はばたばたと忙しなく、わたくしを警戒しているし……嫌われている、のよね、きっと」
 頬に手を当て、もう一度、ため息をついた。

 すみれがギーに怯えるように、ギーもすみれを避けている気がする。
 けれど、その理由がわからない。

 可憐に咲くヤグルマギクを、掬い上げるように穏やかな風が吹く。
 ふと顔を上げると、目の前のツツジの木に小さな蕾がついていた。
 すみれは目を細め、ふっと息を吐いた。
「蕾は咲く場所を選べない。わたくしには、雨風がしのげるお屋敷があって、食べ物があって、寝るお部屋がある。贅沢を言っては罰が当たるわね」

 エンヤとシュウレイとの心の距離は依然、遠いままだ。
 だが、食事は出してくれるようになったし、洗い物もやってくれるようになった。
 部屋の掃除も、すみれが図書室に行っている間に終わらせてくれているらしい。
 こちらが喋りかければ喋ってくれるが、それもとても口数少なく、用が終わればさっと姿を消してしまう。
 親しさなど、欠片も生まれていない。

 孤独だった。
 学校ではあんなにたくさんの生徒に囲まれ、かしましい彼女達のお喋りを聞くのが何よりの楽しみだったのに。
 今は一人、ぼんやりと縁側に座って、図書室から持ってきた本をめくるしかやることのない日々。
 それは自分が透明な人間になったように感じる日々だった。

「獣人の方々は、他人との距離が遠いのが普通なのかも。あまりうるさくして煩わせるのも申し訳ないし……なかなか難しいものね」
 ため息をつき、すみれはゆっくりと立ち上がった。

 手に抱いていた露草色のショールをふわりと広げ、肩にかける。
 絹で出来たショールは手触りが滑らかで、光に当てれば薄く透ける。
 青空に良く似たその色からは、上品な伽羅の香りがした。

 嫌われていても、物に罪はない。
 贈り物をくれるということは、ギーなりにすみれのことを忘れていないというアピールだろう。
 もっとも、高価な石がはめ込まれたブローチや派手なネックレス、大仰な髪飾りや手袋など、一日中家にいるすみれには無用のものばかりが贈られるのは、どうしたものかと困ってしまうけれど。

「今回は初めて、箪笥の肥やしにならなくて済みそう。いったい、どんな顔でこれを選んだのやら……いえ、部下に選ばせているのかもしれないわね」
 身分が上の者は、下の者を自分に都合よく使えるものだ。
 父もそうだった。妻に貧相な格好をさせると自分の評価が下がる、見た目だけは気を付けろと母に重々言い含めていた。

 もっとも、毎朝ギーの姿を見ることで少しずつ獣人に対する恐れはなくなってきたように思う。
 銀の毛並は艶やかで、琥珀色の瞳は宝石のようだ。体の大きさについ目が言ってしまうけれど、ナイフとフォークを扱う所作は洗練されていて、マナーをよく理解している。
 あの筋肉質の腕で殴られれば、すみれなど一発で死んでしまうだろうが、ギーはおそらくそのようなことはしない。よくよく考えれば、メリットがない。
 貴族の娘を嫁にしたという事実は、すみれが生きていてこそ意味を持つ。
 ギーはまだ、しばらくは利用価値のあるすみれをこの屋敷で養ってくれるだろう。

 ふと、視線を感じた。
 何気なく振り返り、すみれは思わずびくりと身をすくませた。
 梅の古木の向こうに、狼が立っていたのだ。