陽気な祭囃子が風に乗って聞こえてくる。
赤い提灯に照らされた神社の参道と打って変わって、神社のお社の裏は薄暗く、ひんやりとしていた。
群青色の空に広がる満天の星は、大正の世になっても変わらない。
夏の夜の湿っぽい土の匂いも。
「獣人のくせに、人間様にたてつくのかよ」
「目つきが生意気なんだよ、お前」
肩を小突かれ、ギーはよろけた。
使い古された下駄が、じゃりりと耳障りな音を立てる。
中等学校に入学して、二ヶ月。
ギーは既にいじめの対象だった。
狼の頭。鋭い爪。白い牙。三角形の耳。ふさふさとした尻尾。
獣人だから。ただそれだけの理由だ。
「何とか言えよ。それとも、先生に告げ口するか? 獣人が人間様に助けを求めるか?」
甲高い笑い声が上がり、ギーはぐっと奥歯を噛む。
告げ口をしたってどうせ誰も相手にしてくれない。
クラスの中で獣人はギー一人だ。
人間である先生は最初から人間の味方で、ギーの意見など聞いてくれない。
再び肩を小突かれた。
喉の奥から唸り声が出そうなのを、必死で堪える。
人間に牙をむいてはいけない。幼い頃からそう教えられて育った。
人間は獣人のギーよりもずっと細身で、力が弱い。けれど人間は権力を持っている。
彼らを傷つけるのなんてわけないのに、我慢するしかない自分が情けなかった。
それでも、ここで倒れておかなければ今度は道具を使った暴力を振るわれる。
ギーは尻餅をついた。
クラスメイト達がぎゃははと笑った。
今は亡き母が縫ってくれた浴衣に泥がついてしまったことが、ギーはとても悲しかった。
そのときだった。
「おやめなさい」
弓の弦を弾くような、鋭い声が響いた。
「大人を呼びました。すぐに来てくれます」
強い口調のその声に、クラスメイト達は「やべっ」と言い捨ててばたばたと逃げていく。
ギーは動けなかった。
動く気力がなかった。
もうどうだっていいと、思った。
ここでギーが息絶えても、誰も気にしない。
誰も、助けてくれない。
早く、天国の両親のもとへ行きたかった。
でも。
からん、ころん、と軽やかな下駄の音が近づいてくる。
衣擦れとともに現れたその人は、ギーの目の前に右手を差し出した。
それはギーの手よりもずっと細く小さな人間の手で。
驚いて見上げると、紺地に朝顔の柄の浴衣を来た人間の少女が、じっとこちらを見つめていた。
荒野に一輪咲いた白百合のように、凛とした少女だった。
ギーよりも少し年下だろうか。
つぶらな瞳に白く滑らかな頬。肩で切りそろえられた黒髪。
思わず目を引かれずにはいられない人形のように整ったその顔には一切の表情はなく、まるで観察するかのようにギーを見つめている。
差し出した手を取らないギーに焦れたのか、少女の薄い唇が開いた。
「強くなりなさい」
麗しい少女は幼い声で、きっぱりと言い切った。
その黒い瞳はまっすぐに、ギーだけを見ている。
獣人の、ギーを。
ギーはおそるおそる、その手に自分の手を重ねた。
ぐい、と引く力は弱い人間のもので、ギーは慌てて自分の力で立ち上がる。
少女はギーの浴衣の汚れを払い落とし、何事もなかったかのように踵を返した。
からん、ころん、と鳴る下駄の高い音が少しずつ遠ざかる。
大人は誰も来なかった。
立ち尽くすギーの心臓が、全力疾走した後のようにどきどきと動いていた。
***
大和国永崎(ながさき)県(けん)は、今日も平和だ。
大和国は現人神(あらひとがみ)である神宮(かみのみや)を国の中枢に据えた中央集権国家だ。
その中でも永崎県は、千年の長きにわたり鎖国を続けるこの国で、唯一、異国との貿易が許された国際貿易港を備えた県だ。
神秘に包まれた島国。
大和国は、諸外国の敵なのか味方なのか。
大陸にある多くの国が極東の大和国に興味を持ち、かの国の文化や品物を輸入するとともに、自国を売り込みにくる。
もしくは、侵略が可能な地であるかどうかを探りに来る。
永崎県は常に難しい政治を行う場所だ。
その政治の頂点に立つ県令は、常に不特定多数にその身を狙われている。
そのため、百五十年ほど前に大陸から傭兵を雇い入れるようになった。
獣人だ。
獣人とは、狼の頭と尻尾を持ち、その手や足には鋭い爪が生え、強靭な肉体と驚くべき瞬発力を持つ、狩りのために生まれてきた種族だ。
力の強い彼らは役人を襲う暴漢をいとも簡単にねじ伏せ、降伏させる。
最初は県令を護るという名目で永崎県に住みついた獣人達だが、その力の有用性は明らかで、今では役人の警護の他に市中の治安を守る役目までも仰せつかっている。
大和国ほど金払いの良い国はない。
よって、獣人である彼らは雇い主に従順だ。
しかし、その姿が人間ではないことは、純血の大和人の不安をかきたてる。
さらに力の強さは暴力を思い起こさせ、獣人反対を声高に叫ぶ者もいる。
人々の生活に獣人の姿が珍しくなくなった今も、獣人は人間から差別の対象になっている。
