「幼稚園の時ね。いつも元気いっぱいだった芹香が、ある日から、急に寡黙になっちゃったの。何を話しかけても反応が薄いし、外で遊ばなくなっちゃって……。
そのまま芹香が引っ越しして、それきりだったんだよ私たち」
「そうだったんだ……」
そんな話を、昨日も聞いた。
手紙の差出人のおばあちゃん、梶谷さんからだ。
――だけどある日、パッタリ姿をみせなくなってねぇ。
――あなたもお母さんも、家にこもるようになってしまったの。
二人からこんな話を聞いてしまっては……考えたくないけど、過去の私に、何かあったとしか思えない。
といっても、何もピンと来ない。
もう少し、何かヒントがあれば――
私は一字一句聞き逃すことがないよう手に汗握りながら、話の続きを聞く。
「あれは、引っ越す直前のことだったかな?
私とお父さんお母さん、そして妹と買い物をしていた時。同じく買い物をしていた芹香と、芹香のお母さんにバッタリ会ったんだよ。
その時に芹香は怒ったような、それでいて泣きそうな顔をしていたの」
「……あ」
まるで絵の具がついた筆を、バケツに入れたように。その時の光景が、じんわりと頭に流れてくる。
『あ、芹香ちゃんも買い物なの? 一緒だね』
『……うん』
私はみやちゃん一家を見て、視界が右往左往していた。まるで彼女たちを「見たくない」とでも言うように。
『芹香ちゃんは、ママとお買い物なんだね。
今日パパは?お仕事なの?』
『っ!』
その言葉を聞いた時。動揺した私は、視界がグラリと揺れた。体中が熱い。あるはずのない湯気が私をまとっている気がして、思わずむせてしまった。息が、しづらい。
『パパね……いないの』
『あ、やっぱり今日お仕事なんだ?』
『そうじゃなくて……。
出て行ったの、お家から』
『え?』
そこまで言った時。私の後ろから、ニュッと腕が伸びた。口を塞がれ、私は何も言えなくなってしまう。そのまま「それじゃあ失礼します」と、お母さんがみやちゃん達に挨拶した。
去り際に見た彼女たちは、ポカンとしていて……。だけどご両親は何かを悟ったように、目配せし合っている。
そこでバツンと記憶が途切れた。
同時にパパ――父親の姿が、零したジュースが絨毯に染み込むように。私の脳裏に「シミ」となって、ジワリと姿を現す。
「体に悪いよ」。
それは母の口癖だった。
いつも父は浴びるように酒を飲み、一人で三人分のご飯を食べる大食いだった。
母は何度も「体を壊す」と言ったが、それはハッタリではなかった。その証拠に、父がいくつもの薬を毎日服薬していたのを、私は目撃している。
日々の不摂生。それが原因で薬を飲むはめになったのに、お父さんは食生活を全く改善しなかった。
あの時の、お母さんのため息が蘇ってくる。
私を抱っこしたまま吐いた息が、その記憶が。今この時、鮮明に思い出された。
「……っ」
どうして、ピンポイントでこんなことを思い出すんだろう。思い出すなら、もっと楽しい記憶がいいのに。……いや、そもそも。そんな心温まる記憶はないのかもしれない。
私には、家族みんなで笑い合った過去がないんだ。
「芹香、大丈夫?」
「……うん」
「じゃあ私、そろそろサークルに行くね。また連絡するから!」
そう約束し、私たちは別れた。みやちゃんは音楽サークルに入っているらしく、この後活動するらしい。
別れ際、「落ち着いたら、芹香も同じサークルに入ってよ」と言ってくれたみやちゃん。その背中を、私とフミの二人で見送る。
「……優しい子だね」
「うん。だからこそ、何度でも友達になりたいんだと思う」
「幼稚園の時、大学で再会した時、そして今。まさに三度目の正直だね。
長く続く友情になるといいね。それこそ、手紙を送り合うようなさ」
「……そうだね」
フミが星空バッグを肩にかける。これで他の人から、彼の姿は見えなくなった。
その時、少し離れた講義室から「おはようございます」と挨拶が聞こえる。さっきみやちゃんが入った部屋だ。あそこが、音楽サークルの活動場所。
「今日は――をして、それから――」
部長と思われる女性の声が、途切れ途切れに聞こえた後。それぞれの楽器が、異なった音を奏で始める。
あ、この爽やかな音はフルート……だと思う。さっきみやちゃんが持っていた楽器だ。まるで踊り出しそうな、軽やかな音色……明るいみやちゃんにピッタリの楽器。
その他に電子ピアノやウクレレ、それにハープなど、様々な音が聴こえた。色んな楽器の音が混じるから統一感がないのに、どの音も楽しく談笑しているように聴こえる。
「さっきの友達の音は、あれかな?」
「フミ、楽器に詳しいの?」
「洋楽をね。少しの間、嗜んでいたんだ」
音楽初心者の私には、最初こそ聞こえていたフルートの音を、もう拾うことはできない。みやちゃんが奏でる音は、一体どれだろう?
「……」
聴きたい音が、周りの音にかき消され、聴こえなくなる。それは、私の記憶と同じように思えた。
私は、私のことが知りたい。それなのに思い出すのは、これといって楽しくない、苦い記憶ばかり。
別れ際、みやちゃんはキラキラした笑顔を私に向けた。それに今聴こえる、楽しそうな楽器の音色。……どれも私にはないものだ。むしろ記憶がないため落ち込む私と、正反対のもののように思える。
私も記憶を取り戻せば、彼女のように笑えるだろうか。好きなことに、打ち込めるのかな?
それなら、早く解決しないと。
みやちゃんと笑い合う……友達と楽しく過ごす日常を、取り戻すために――
「……梶谷のおばあちゃんと、みやちゃん。その二人が言っていた『急に私の元気がなくなった』っていう話。その答えは、お父さんが家から出て行ったから、が正解だと思う」
突然に話し始めた私に、フミがピクリと反応する。
「さっき芹香は、何の記憶を『拾った』の?」
「お父さんの不摂生。どうしようもない酒飲みで、暴飲暴食を繰り返していた。お母さんが、呆れてため息を吐いていた。……あとは、何となく分かるでしょ?
二人がケンカをした結果、お父さんは家を出て行った。これが『私が急に落ち込んだ原因』だよ」
どれほど不仲な両親であれ、いざ片親になると、幼心でも辛いだろう。だから私は落ち込んだんだ。周りの人が心配するくらいに、激しく。
フミは「なるほど」と頷く。
「急に引っ越したっていう話も、三人で住んでいた家が大きすぎるから小さな家に引っ越した、ってことかな。もしアパート住まいなら、家賃の差も大きいだろうし」
だけど……、とフミ。
「昨日おばあちゃんが言っていた、あれはどうなるの?」
――『これからいいことがあるんだよ』って、すごくあなたが幸せそうに話していた。
私たちは腕を組む。
確かに、そこだけが分からない。
もしや「両親の冷え切った関係を察した私」が、二人の仲をくっつけようと何か企んでいたのだろうか。勝手にパーティーを企画した、とか。
自主的にパーティーを企画するなんて、今の私からはあまり想像できない。でも記憶の中の私はまぁまぁ明るかったし、ポジティブそうだった。
そもそも子供の考えることだ。「誰かの誕生日会」を計画していただけかもしれない。
ここまで熟考した後――「ひとまず」と。私は組んだ腕をほどく。
「私の家族について、なんとなく見えてきた。みやちゃんと再び友達になれたし、だいぶ自分を取り戻したと思う。だから……
そろそろ手紙を開けられるんじゃないかな?」
「それは、まだ無理かな」
フミは、言い切った。
私の提案を、冷静に否定した。
てっきり「そうだね」と言われるかと思っていたから、思ってもみない反応に神経が逆なでされる。
「どうして、まだ無理なの?」
「今の芹香は、たくさんの記憶を一気に知って、『自分を取り戻した気』になっているだけだ。それは、本当に記憶を取り戻したことにはならない。
まだ芹香は記憶の大半を失っているし、自分を取り戻せていないよ」
「……どうして、そう言い切れるの?」
「さっきの話。後半は、ほぼ芹香の『推測』だ。実際に記憶を拾ったわけじゃない。
推測を、無理やり記憶として自分に落とし込む。それは危険な行為だ。
自分で自分を、違う何者かに塗り替えてしまうってことだから」
なんだ、それは。
だって私自身を、私が塗り替えたところで。
生まれるのは、やっぱり私じゃないの?
私は、私以外の何者でもない。
私は――私だ。
「試しに、私に封筒を渡してくれない? もしかしたら開けられるようになっているかも」
「……悪いけど、許可できない」
フミは、星空バッグの上から手を置いた。渡さない、と言わんばかりに。
頑なだ。……私もだけど。
「どうしてダメなの? ちょっと試すだけなら、いいでしょ?」
「芹香は焦っているんだよ」
「焦る?」
「友達と再会して、その子が楽しそうに過ごす姿を見て、羨ましいと思っているんだ。そこに早く自分も追いつきたいと思ってる」
「っ!」
その時、雲によって太陽が隠れる。日が落ちたように、辺り一面が暗くなった。同時に、アスファルトの匂いが、地上から一気に上がってきた。開いた窓から、むわっとした湿気が運ばれてくる。
夕立がくる合図だ。
外を見ると、鳥が高度を下げて飛んでいる。
確か、虫の羽に湿気がついて、体が重くなるんだっけ。低くしか飛べない虫を追いかけるから、自ずと鳥も低く飛ぶんだとか。
だけど――さっきのフミの言葉を思い出して、ハッとする。
「……この豆知識は記憶なのかな、それとも私の推測なのかな」
全てがぐにゃぐにゃに、ごちゃごちゃに絡み、混ざり合っていく。私の意図しない所でも。
そうなると、もう何が記憶で、推測で、間違った情報なのか。全てこんがらがり、訳が分からなくなる。
私が私であると言いきれない。私は、みやちゃんが知っている昔の私なのだろうか?……自信は、さらさらなかった。
フミが言いたかったことは、きっとこういうことだ。
「……ごめん、フミ。私の記憶を取り戻すってことは、私自身を取り戻すってことなんだよね」
そこに必要なのは推測じゃなく、揺るぎない記憶のみ。
確かに私は、焦っていたのかもしれない。みやちゃんを羨ましいと思っていたのかもしれない。かたやサークルを楽しむ学生、かたや幽霊から手紙を受け取りながら記憶を取り戻す学生。埋まり切らない二人の差に、愕然としてしまったのだ。
「私……間違ってたね。ごめんね」
「いや、僕こそごめん。キツイ言い方になった。……帰ろうか、雨が降らない内に」
「うん」
私たちは、来た道を急いで戻る。六階から、一階へ。
だけど建物の外に出た途端。ザーとバケツをひっくり返したような雨が降り始めた。
「間に合わなかったね……」
肩で息をしながら、雨雲を見上げる。呼吸が乱れるほど急いだのに……無念だ。
「いや、これはこれでいいんじゃない?」
「えぇ……?」
フミの言葉は、まるで苦労が報われるような一言……ではなく。傘がない私たちにとって、「これはこれで全く良くない」状況だ。
苦言を呈す私をたしなめるように、フミがゆっくり手を伸ばし、勢いのいい雨に触れる。
「これはこれでいいと言ったのは、記憶を思い出すヒントになるからだよ」
「ヒントになる? 雨が?」
「そう。芹香は今まで生きてきて、雨に打たれたことが必ず一度はあるはずだ。であれば今、雨に打たれることにも意味はある。記憶を拾える可能性が上がるってことだ」
「つまり……この雨のなか帰ろう、って言ってる?」
フミは返事をする代わりに、私に微笑みかける。
「今日は暑かったから、汗をいっぱいかいたでしょ? だから雨に濡れるのは、シャワー代わりになってちょうどいいよ。
僕なんかワンちゃんに会いに、ここから徒歩一時間の所まで行ってきたんだから」
そういえば大学に来る前。フミは差出人の手紙を受け取りに行ったんだっけ。
「ココちゃんに会えるなんて羨ましいなぁ。私も行きたかった」
「動物からの手紙って、稀にだけどあるよ。また遭遇するかもしれないし、今度は芹香も一緒に行こう」
「……うん、ありがと」
さっき少しケンカしてしまったけど、今はもういつも通りだ。確実に私が間違っていたのに、フミは怒らず諭してくれた。ただでさえ往復二時間も歩いて、疲れているはずなのに。
「差出人の所まで行くのは大変だよね。それこそ赤いポストみたいな物があればいいのに」
「僕も、そう思う時があるけどね」
フミは、雨に濡れた手を引っ込める。次に、星空バッグへ視線を移した。
「差出人がどういう気持ちで手紙を書いたのか。直接会うと、それがよく伝わるんだ。皆、気持ちを込めて書いている。
だから僕も『絶対に手紙を届けよう』ってヤル気が起きるんだよ。苦労した分、得る物が多いんだ」
「そっか。…………ん?」
ふと、あることを思った。
あること、というか……。
どうして今までソコに気づかなかったのか、不思議に思うくらい。
「フミは、手紙の差出人みんなと会っているんだよね?」
「そうだよ」
「私に手紙を書いた人とも?」
「もちろん」
何か言いたげな私を見て、フミは目を細める。
「最初に言ったけど、顔も名前も教えられないんだ。差出人は、手紙を開封して初めて分かる仕組みになっているからね」
「わ、わかってるよ。ただ……」
ちょっとヒントをもらえないかなって、そう思っただけ――
そう言うと、フミは眉を下げた。どうやら少しのヒントでさえも、開示できないらしい。分かってはいたけど、さっきみやちゃんがなんの苦もなく手紙を開けた姿を見ているだけに歯がゆい。……フミに言ったら、また「焦ってる」と言われそうだから黙っておくけど。
「さ、心の準備はできた? 雨の中に突っ込む勇気!」
「……まだ、ない。だけど頑張るよ。これが記憶を拾うヒントになるなら」
私への手紙を書いた差出人と会って、フミは「絶対に届けよう」とヤル気を起こしてくれて、徒歩何分かかるか分からない私の元に来てくれた。
ここまでくると、もう私だけの手紙じゃない気がする。みんなが繋いでくれた、思いのこもった手紙だ。
その思いに応えたい。自分の過去を知るのは怖いけど、フミに「届けてよかった」と思ってほしいから。
だから私は、これからも記憶を拾い続けよう。
例え雨が降ろうと、槍が振ろうと――
「ゲボ、ゴホッ」
そんな無茶をしたせいで、翌日にフミが風邪を引こうとも……。



