検査を受け、その三時間後。
全ての検査を受けている間になんとなく体の使い方を思い出した私は現在――
別室に呼ばれ、担当医の話を聞いている。
「ここがね、少しダメージを負ってしまったみたいで――」
私の頭が輪切りになった画像が、パソコンの画面に出ている。それを拡大し、血管の一部を指さした。
どこがどうなっているのか、何がダメなところか。素人目ではとても判断がつかなかったが、先生がしきりに指さしている箇所がある。見ると、確かに白くなっているような。
「藤村さんは自転車から転倒して、頭を強打したんですよ。雨の日だったから、滑りやすかったんでしょうね。自転車は、既にアパートに戻っています。多少、修理が必要かもしれませんが」
先生の話によれば、私は単独で事故を起こしたらしい。
その日、八月十三日は一日中「雨」だったという。それなのに、夕方に自転車に乗って出かけたらしいのだ。一体なんの目的があって……?
私が自転車で出かけようとした動機までは、さすがの先生も分からない。先生は「怪我の具合ですが」と、私の体の説明に移る。
「アスファルトに頭を打った瞬間、ぱっくり割れてしまいましてね。五針縫いました。医療用のホッチキスでは止め切れなかったので、今回は縫っています。
ケガ自体は良い方向に向かっているので、引き続き病院で消毒していきます。今週中には退院できるでしょう」
ここまでは軽快に説明した医者だが、「ただ」と机上に乗せた手をスルリと組む。
「記憶に関しては、いつ、どのような条件で思い出すか、全く分かりません。分からない中で退院するのは不安だとは思いますが、こういった場合の治療や薬はなくて。記憶に関しては経過観察となります」
「……分かりました」
何となく、そんな感じはしていた。私の趣味は読書だから、そういった題材の本をいくつか読んだことがあった。記憶をなくした登場人物はなすすべがなかった、と記憶している。……ん?
「趣味が読書だっていう記憶と、読んだ本の内容は、今……思い出せました」
言うと、先生がニコリと笑った。
「あることを考えたり、ある物を見たり、あることに触れたり。記憶を戻すヒントは日常に散らばっている、とよく言われます。
だから焦らないことが大事。
散らばった記憶を、一つ一つ、ゆっくり集めていきましょう」
「……はい」
つまり些細なことがきっかけで、記憶が戻ることがあるってことだ。そう思うと、胸が楽になった。もしかしたらずっと記憶を失ったままかもと心細かったから。
「お腹は空いていますか? 丸一日、目を覚まさなかったので。
もし食べられそうなら普通食を食べましょう。ご飯を食べると、やはり傷の治りも早いですからね」
「分かりました」
先生は最後に「頑張りましょうね」と言ってくれた。記憶がない状態で、どこまで頑張れるか。正直いって不安だ。
だけど……私に読まれたがっている手紙がある。
誰が手紙を書いてくれたのか、知りたい。
差出人は、もうこの世にいない人。
この世を離れてまで私を思うなんて、一体どんな人だろう。
◇
それから三日が経ち、自分の身の回りのことを一通りできるようになった。
最初は傷口がズキズキと痛んだけど、最近はだいぶ痛みが緩和された。たぶん慣れもあるのだろう。
最後に先生に診てもらい、私は今日、とうとう退院する。
「やーやー、退院おめでとう。
さっそく家に帰りますかっ」
「……元気だね」
大荷物を持って病院を出ると、久しぶりの外を気持ちよく思う暇もなく、紫の目をした例の男が現れた。日光に当たった白色の髪が、キラキラと光っている。ずっと室内にいたからか、男のあまりの眩しさに目をそらした。
あれから男は度々病室にきて、その都度私と会話を重ねた。フランクに話しかけてくれるから、いつの間にか私も敬語がとれていた。
一人じゃなかったから、入院中も寂しくなかった。家族が一度として見舞いにこなかった私が「寂しくない」というのも、変な話だけど。
「それにしても、退院なのに、あまり荷物がないね」
「必要最低限しか買わなかったから。私の荷物を持って来てくれる家族もいなかったし」
「あぁ、そうか」
男の名前は、フミと言うらしい。よく喋る男の人だ。いつもニコニコと笑みを浮かべ、つかみどころがない。それに一見重たそうな話にも、あっけらかんと対応する。
さっきの「家族が荷物を持って来なかった」という話。あれも裏を返せば、家族が見舞いに来ない哀れな私……という印象を持っても不思議ではないが、フミは「そうか」の一言で終わった。
私がどんなネガティブな事を言おうが、フミの前では、気まずい空気が流れることなく適切に調理される。それが今の私には有難かった。同情してもらおうと思って話しているわけじゃないからだ。
入院中は「親が見舞いに来なかった大学生」として、色んな人から同情の視線を向けられた。向けられれば向けられるほど凹んでしまうから、むしろ放っておいてほしかったのが本音だ。
「そういえば、どれくらい自分のことを思い出した?」
「……あまり」
フミは「そうか」と、これまた適切に調理した。ありがたい。
「僕は君の傍を離れられない、と言ったけどさ。
でも僕って、手紙を配る仕事があるじゃん?」
「……そうだね」
何やら、雲行きが怪しい。
警戒しつつ、笑みを浮かべるフミを見つめる。
「入院中はさすがに頼めなかったけど、もう芹香は退院したわけだし、今は夏休み中で、時間があるんでしょ? それなら僕の手紙配りを手伝ってよ」
「え、手伝う……?」
「そう。最初は見て学んでほしいから、僕と一緒に同行してほしい。それで慣れてきたら、」
「ま、待ってよ!」
フミが運ぶ手紙というのは、死んだ人から生きている人への手紙であって、普通とは違う。現代で「異質」なそれを、果たして私が手伝っていいものか。……いや、そもそも手伝えるのだろうか。触ることすら出来なかったりして。
すると私の心中を察したフミが「大丈夫」と、全ての長い指を、パッと天井に向ける。
「君は『手紙』の存在を知っている。もう、これが存在すると認識している者なら、この手紙に触れることは可能だ。……残念ながら、自分あての手紙を開けることは、できないけどね」
「でも……」
「それに」
フミが、ズイと私に近づく。ビックリした私は、持っていた少量の入院道具がガサリと音がするほど、勢いよく身を引いた。
空から熱湯が垂れ落ちているのかと思うほど、暑い日差しが降り注ぐ。飛行機が頭上を通過し、僅かな間だけ太陽を遮ってくれた。
その瞬間、私たちに影が落ちる。フミの黄色の目が、強く発光して見えた。
「芹香は、自分が何者なのか思い出す必要がある。
記憶っていうのは、色んな物事に触れた方が手っ取り早く回収しやすいんだ」
「記憶を、回収……」
「そう。一通の手紙を届けるだけでも、送り主と受取人がいる。
色んな人に触れる。色んな過去を見る。
そういう経験は、君に何かしらの効果をもたらすと、僕は思っているよ」
「……」
なるほど、と思った。
先生は、「日常の中に記憶を取り戻すヒントは転がっている」と言っていた。自分の日常だけじゃなく、他の人の日常や人生を見つめることで、拾えるものがあるかもしれない。
それに夏休み中だ。サークルに入っていなければ、バイトもしていない私にとって、手紙屋の手伝いはうってつけだ(ちなみにこれは先生から聞いた情報)。
「分かった……。でも、どんなことすればいいか、きちんと教えてね」
「はいはーい」
ちょっと不安になるのは、フミの楽観的な態度を見ちゃうせい。何も考えてなさそうに見える……なんて。いい大人なのに、そんな言い方は失礼か。フミって何歳なのか不明だけど(というか人間かさえも分からない)。
病院から徒歩十分のところに、私のアパートはあった。目と鼻の先に明比野大学がある。かなり恵まれた立地だ。
「わ、ボロボロだ」
アパートは新築で、かなりキレイだった。新築特有の匂いが心地いい。
だけど自転車置き場を見た瞬間、ギョッとしてしまう。そこには前輪がぐにゃりと曲がった、私の赤色の自転車が停まっていたからだ。
「そう言えば、先生が『自転車はアパートに戻ってる』と言ってたっけ」
ついでに「修理が必要」とも言ってた。でも……これは買い替えた方が早いかも。
「部屋の鍵は持ってるの?」
「うん、ここに」
カード式の鍵を取り出し、階段を上がる。壁が白い。部屋のドアも、白い。
「ピンときた? 何か思い出せそう?」
「……ごめん」
「や、謝ることじゃない」
そうは言っても申し訳ない気持ちになりながら、玄関扉を開ける。
早くフミを解放してあげたいと思いつつも、叶わない。それが歯がゆい。
「おぉ、かなり整理整頓されているね。芹香っぽいなぁ」
「引っ越して日が浅いから、散らかす暇がなかっただけだよ」
学生証を見るに、私は四月に入学したばかり。ここに住み始めてから、まだ四ヶ月といったところだ。
「インテリアとかに、興味はない?」
「……見る限り、その趣味は私になさそうだね」
部屋は閑散としていた。教科書や本が並べられているだけで、それ以外はきちんと棚にしまってある。壁にも、冷蔵庫の扉にも、写真や思い出の品は飾られていなかった。
「そういえばスマホの中身は確認した?」
「したけど、壊れてた。画面が真っ暗で、何も確認できない」
私の手より一回り大きなスマホを取り出す。自転車でこけた時に落としてしまったらしい。画面には、大きなヒビが幾重にも入っていた。
「ショップに行って、直してもらわなきゃ」
「そういうのって、前の情報は引き継がれるもの?」
フミは興味深そうにスマホを見る。スマホを使いこなしていそうな見た目なのに、スマホについて知識がないところを見ると、やはりフミはこの世の人じゃないのだと実感できた。
「運が良ければデータは戻ってくる。でも私、バックアップとっていたかなぁ」
正直に言って、自信がない。
「せっかく勇気を出して、大学で一人だけ友達ができたのに。その子とも連絡とれなくなっちゃった。……え?」
「今、『拾った』ね」
フミが私に手のひらを出す。ハイタッチをしろということかな?
大きな手のフミと、パチンと手を合わせた。思いがけない記憶の登場に、目を丸くしたまま。
「記憶って、こんな風に戻ってくるんだ。友達の名前とか顔までは思い出せないけど……」
「それでも充分だよ。少しずつピースを拾っていけば、いつか一つの作品が完成する。君は焦らず、君のパズルを完成させればいい」
「フミのためにも?」
「……というよりは」
フミは、肩にかける星空のカバンを見る。
「君に手紙を送った送り主のためにも。手紙を出す行為は、読んでほしいという気持ちがあってのものだから。
送り主の気持ちが浮かばれたらいいなって、僕はそう思ってる」
「……うん。そうだね」
手紙の話をする時、フミはここぞという真剣な顔になる。その凛々しい横顔を見て、背筋が伸びた。
私も手紙を配る時、フミみたいな手紙屋でいなくては――
なぜそう思ったのかは分からない。ただ単に、仕事に対する責任感が芽生えたのかもしれない。でもそれだけじゃなく、敬意のようなものを覚えたのだ。
「手紙って、自分の気持ちを書くためのものだよね?」
「そうだけど、どうした?」
「……ううん」
それが出来る人はすごいな、尊敬する――って、いつの間にかそう思っていた。
ひょっとしたら私は、自分の気持ちを素直に言えない性格なのかもしれない。
全ての検査を受けている間になんとなく体の使い方を思い出した私は現在――
別室に呼ばれ、担当医の話を聞いている。
「ここがね、少しダメージを負ってしまったみたいで――」
私の頭が輪切りになった画像が、パソコンの画面に出ている。それを拡大し、血管の一部を指さした。
どこがどうなっているのか、何がダメなところか。素人目ではとても判断がつかなかったが、先生がしきりに指さしている箇所がある。見ると、確かに白くなっているような。
「藤村さんは自転車から転倒して、頭を強打したんですよ。雨の日だったから、滑りやすかったんでしょうね。自転車は、既にアパートに戻っています。多少、修理が必要かもしれませんが」
先生の話によれば、私は単独で事故を起こしたらしい。
その日、八月十三日は一日中「雨」だったという。それなのに、夕方に自転車に乗って出かけたらしいのだ。一体なんの目的があって……?
私が自転車で出かけようとした動機までは、さすがの先生も分からない。先生は「怪我の具合ですが」と、私の体の説明に移る。
「アスファルトに頭を打った瞬間、ぱっくり割れてしまいましてね。五針縫いました。医療用のホッチキスでは止め切れなかったので、今回は縫っています。
ケガ自体は良い方向に向かっているので、引き続き病院で消毒していきます。今週中には退院できるでしょう」
ここまでは軽快に説明した医者だが、「ただ」と机上に乗せた手をスルリと組む。
「記憶に関しては、いつ、どのような条件で思い出すか、全く分かりません。分からない中で退院するのは不安だとは思いますが、こういった場合の治療や薬はなくて。記憶に関しては経過観察となります」
「……分かりました」
何となく、そんな感じはしていた。私の趣味は読書だから、そういった題材の本をいくつか読んだことがあった。記憶をなくした登場人物はなすすべがなかった、と記憶している。……ん?
「趣味が読書だっていう記憶と、読んだ本の内容は、今……思い出せました」
言うと、先生がニコリと笑った。
「あることを考えたり、ある物を見たり、あることに触れたり。記憶を戻すヒントは日常に散らばっている、とよく言われます。
だから焦らないことが大事。
散らばった記憶を、一つ一つ、ゆっくり集めていきましょう」
「……はい」
つまり些細なことがきっかけで、記憶が戻ることがあるってことだ。そう思うと、胸が楽になった。もしかしたらずっと記憶を失ったままかもと心細かったから。
「お腹は空いていますか? 丸一日、目を覚まさなかったので。
もし食べられそうなら普通食を食べましょう。ご飯を食べると、やはり傷の治りも早いですからね」
「分かりました」
先生は最後に「頑張りましょうね」と言ってくれた。記憶がない状態で、どこまで頑張れるか。正直いって不安だ。
だけど……私に読まれたがっている手紙がある。
誰が手紙を書いてくれたのか、知りたい。
差出人は、もうこの世にいない人。
この世を離れてまで私を思うなんて、一体どんな人だろう。
◇
それから三日が経ち、自分の身の回りのことを一通りできるようになった。
最初は傷口がズキズキと痛んだけど、最近はだいぶ痛みが緩和された。たぶん慣れもあるのだろう。
最後に先生に診てもらい、私は今日、とうとう退院する。
「やーやー、退院おめでとう。
さっそく家に帰りますかっ」
「……元気だね」
大荷物を持って病院を出ると、久しぶりの外を気持ちよく思う暇もなく、紫の目をした例の男が現れた。日光に当たった白色の髪が、キラキラと光っている。ずっと室内にいたからか、男のあまりの眩しさに目をそらした。
あれから男は度々病室にきて、その都度私と会話を重ねた。フランクに話しかけてくれるから、いつの間にか私も敬語がとれていた。
一人じゃなかったから、入院中も寂しくなかった。家族が一度として見舞いにこなかった私が「寂しくない」というのも、変な話だけど。
「それにしても、退院なのに、あまり荷物がないね」
「必要最低限しか買わなかったから。私の荷物を持って来てくれる家族もいなかったし」
「あぁ、そうか」
男の名前は、フミと言うらしい。よく喋る男の人だ。いつもニコニコと笑みを浮かべ、つかみどころがない。それに一見重たそうな話にも、あっけらかんと対応する。
さっきの「家族が荷物を持って来なかった」という話。あれも裏を返せば、家族が見舞いに来ない哀れな私……という印象を持っても不思議ではないが、フミは「そうか」の一言で終わった。
私がどんなネガティブな事を言おうが、フミの前では、気まずい空気が流れることなく適切に調理される。それが今の私には有難かった。同情してもらおうと思って話しているわけじゃないからだ。
入院中は「親が見舞いに来なかった大学生」として、色んな人から同情の視線を向けられた。向けられれば向けられるほど凹んでしまうから、むしろ放っておいてほしかったのが本音だ。
「そういえば、どれくらい自分のことを思い出した?」
「……あまり」
フミは「そうか」と、これまた適切に調理した。ありがたい。
「僕は君の傍を離れられない、と言ったけどさ。
でも僕って、手紙を配る仕事があるじゃん?」
「……そうだね」
何やら、雲行きが怪しい。
警戒しつつ、笑みを浮かべるフミを見つめる。
「入院中はさすがに頼めなかったけど、もう芹香は退院したわけだし、今は夏休み中で、時間があるんでしょ? それなら僕の手紙配りを手伝ってよ」
「え、手伝う……?」
「そう。最初は見て学んでほしいから、僕と一緒に同行してほしい。それで慣れてきたら、」
「ま、待ってよ!」
フミが運ぶ手紙というのは、死んだ人から生きている人への手紙であって、普通とは違う。現代で「異質」なそれを、果たして私が手伝っていいものか。……いや、そもそも手伝えるのだろうか。触ることすら出来なかったりして。
すると私の心中を察したフミが「大丈夫」と、全ての長い指を、パッと天井に向ける。
「君は『手紙』の存在を知っている。もう、これが存在すると認識している者なら、この手紙に触れることは可能だ。……残念ながら、自分あての手紙を開けることは、できないけどね」
「でも……」
「それに」
フミが、ズイと私に近づく。ビックリした私は、持っていた少量の入院道具がガサリと音がするほど、勢いよく身を引いた。
空から熱湯が垂れ落ちているのかと思うほど、暑い日差しが降り注ぐ。飛行機が頭上を通過し、僅かな間だけ太陽を遮ってくれた。
その瞬間、私たちに影が落ちる。フミの黄色の目が、強く発光して見えた。
「芹香は、自分が何者なのか思い出す必要がある。
記憶っていうのは、色んな物事に触れた方が手っ取り早く回収しやすいんだ」
「記憶を、回収……」
「そう。一通の手紙を届けるだけでも、送り主と受取人がいる。
色んな人に触れる。色んな過去を見る。
そういう経験は、君に何かしらの効果をもたらすと、僕は思っているよ」
「……」
なるほど、と思った。
先生は、「日常の中に記憶を取り戻すヒントは転がっている」と言っていた。自分の日常だけじゃなく、他の人の日常や人生を見つめることで、拾えるものがあるかもしれない。
それに夏休み中だ。サークルに入っていなければ、バイトもしていない私にとって、手紙屋の手伝いはうってつけだ(ちなみにこれは先生から聞いた情報)。
「分かった……。でも、どんなことすればいいか、きちんと教えてね」
「はいはーい」
ちょっと不安になるのは、フミの楽観的な態度を見ちゃうせい。何も考えてなさそうに見える……なんて。いい大人なのに、そんな言い方は失礼か。フミって何歳なのか不明だけど(というか人間かさえも分からない)。
病院から徒歩十分のところに、私のアパートはあった。目と鼻の先に明比野大学がある。かなり恵まれた立地だ。
「わ、ボロボロだ」
アパートは新築で、かなりキレイだった。新築特有の匂いが心地いい。
だけど自転車置き場を見た瞬間、ギョッとしてしまう。そこには前輪がぐにゃりと曲がった、私の赤色の自転車が停まっていたからだ。
「そう言えば、先生が『自転車はアパートに戻ってる』と言ってたっけ」
ついでに「修理が必要」とも言ってた。でも……これは買い替えた方が早いかも。
「部屋の鍵は持ってるの?」
「うん、ここに」
カード式の鍵を取り出し、階段を上がる。壁が白い。部屋のドアも、白い。
「ピンときた? 何か思い出せそう?」
「……ごめん」
「や、謝ることじゃない」
そうは言っても申し訳ない気持ちになりながら、玄関扉を開ける。
早くフミを解放してあげたいと思いつつも、叶わない。それが歯がゆい。
「おぉ、かなり整理整頓されているね。芹香っぽいなぁ」
「引っ越して日が浅いから、散らかす暇がなかっただけだよ」
学生証を見るに、私は四月に入学したばかり。ここに住み始めてから、まだ四ヶ月といったところだ。
「インテリアとかに、興味はない?」
「……見る限り、その趣味は私になさそうだね」
部屋は閑散としていた。教科書や本が並べられているだけで、それ以外はきちんと棚にしまってある。壁にも、冷蔵庫の扉にも、写真や思い出の品は飾られていなかった。
「そういえばスマホの中身は確認した?」
「したけど、壊れてた。画面が真っ暗で、何も確認できない」
私の手より一回り大きなスマホを取り出す。自転車でこけた時に落としてしまったらしい。画面には、大きなヒビが幾重にも入っていた。
「ショップに行って、直してもらわなきゃ」
「そういうのって、前の情報は引き継がれるもの?」
フミは興味深そうにスマホを見る。スマホを使いこなしていそうな見た目なのに、スマホについて知識がないところを見ると、やはりフミはこの世の人じゃないのだと実感できた。
「運が良ければデータは戻ってくる。でも私、バックアップとっていたかなぁ」
正直に言って、自信がない。
「せっかく勇気を出して、大学で一人だけ友達ができたのに。その子とも連絡とれなくなっちゃった。……え?」
「今、『拾った』ね」
フミが私に手のひらを出す。ハイタッチをしろということかな?
大きな手のフミと、パチンと手を合わせた。思いがけない記憶の登場に、目を丸くしたまま。
「記憶って、こんな風に戻ってくるんだ。友達の名前とか顔までは思い出せないけど……」
「それでも充分だよ。少しずつピースを拾っていけば、いつか一つの作品が完成する。君は焦らず、君のパズルを完成させればいい」
「フミのためにも?」
「……というよりは」
フミは、肩にかける星空のカバンを見る。
「君に手紙を送った送り主のためにも。手紙を出す行為は、読んでほしいという気持ちがあってのものだから。
送り主の気持ちが浮かばれたらいいなって、僕はそう思ってる」
「……うん。そうだね」
手紙の話をする時、フミはここぞという真剣な顔になる。その凛々しい横顔を見て、背筋が伸びた。
私も手紙を配る時、フミみたいな手紙屋でいなくては――
なぜそう思ったのかは分からない。ただ単に、仕事に対する責任感が芽生えたのかもしれない。でもそれだけじゃなく、敬意のようなものを覚えたのだ。
「手紙って、自分の気持ちを書くためのものだよね?」
「そうだけど、どうした?」
「……ううん」
それが出来る人はすごいな、尊敬する――って、いつの間にかそう思っていた。
ひょっとしたら私は、自分の気持ちを素直に言えない性格なのかもしれない。



