思いを運ぶ、手紙屋さん―もう会えない人との絆―

 
「天瀬ちひろって、もしかして……」

 その時、チヒロの横に座るフミの、白い手が動いた。何をするかと思えば、口に人差し指を当てている。「今は黙っていて」ってこと?

 同じタイミングで、彼女のスマホが音を立てて鳴る。どうやら緊急らしい。みやちゃんは渋い顔をした後「ちょっと向こうで話してくる」と、ドアを開けて行ってしまった。

 その間、電車の動きに合わせて揺れる私たち。だけどずっと黙っているわけもいかず……。
 みやちゃんが離席した今なら聞いていいかと、思い切ってチヒロに尋ねる。

「さっきみやちゃんの話に出てきた天瀬ちひろは、チヒロのことだね?」
「……うん」

 チヒロは、泣きそうな顔のまま頷く。そんな彼を、ココが下から覗き込んだ。心配そうに、愛おしそうに。

「最初から気づいていたの? ココと会ったことがあるって」
「知らなかった……。気づいたのは、つい最近だ」

 ここまでチヒロが話して、やっとフミが口を開く。どうやら最近チヒロが悩んでいたのを、フミなりに心配していたらしい。いつもより真剣な顔だ。

「みやちゃんの家に行った時から、チヒロの様子がおかしかった。あの部屋で何を見たの?」
「……壁に貼られていた写真の中に、拾われたばかりのココが写っていた。その背景には、俺のハンカチと下敷きがあって……。
 そこで全て思い出した。
 まさかココが、あの時の犬だったなんて」

 どうやら死んだ際に、記憶がごちゃまぜになっていたらしい。初めてココを見ても、チヒロはピンとこなかったという。反対に、ココはすぐに気づいた。自分の命の恩人に。

「だからココは、会った時からチヒロにベッタリだったんだね。――不思議だったんだ。だってココは見ず知らずの人には警戒して手が出るって、みやちゃんが言ってたから」
「そういえばそうだったね」

 受傷ずみのフミは、己の頬に手を伸ばす。「あれは強烈な犬パンチだった」と、ひっかかれたことも今では笑い話になっているようだ。……そうか、私が亡くなったココと会った時に引っかかれなかったのは、小さい頃に会っていたからなんだ。ココは、私のことも覚えていてくれたんだね。
 するとチヒロが重たい口を開く。

「あの大雨の中、段ボールに捨てられているココを見つけた。その頃は、もう母さんの声は出なくなっていた。ふさぎ込む母さんを前に、俺は無力でしかなくて……。
 そういう負い目もあって、ココを助けた。自分には何かを助け守る力があると、それを証明したかったのかもしれない」
「実際ココは十八年も生きた。チヒロは、一つの命を立派に助けたんだよ」

 誇るべきことなのに、チヒロは力なく笑った。
 その笑みがどこか自嘲気味に見えたのは、気のせいではない。

「ココは助かった。と同時に、失われた命もあるんだ」
「失われた命?」
「下校中にココを発見した時、きっとお腹を空かせてると思ったんだ。だから家から牛乳を持ってこようと……焦っていた。あの雨で視界も悪かった。そんな条件が重なった時に道を渡った。左右を確認せず飛び出して……車に轢かれた。
 俺が目を覚ますことは、二度となかった」
「っ!」

 以前、チヒロが言っていた言葉を思い出す。

 ――そうすればあんな雨の中、突然いなくなることはなかったのに

 まさか、あの言葉の真相が、こんな形で分かるなんて。
 ココに会ったことがあるというだけで、どうして神妙な面持ちになるんだろう? って不思議に思っていた。
 でも今、チヒロの答えを聞いて納得した。
 ココを助けた一方で、チヒロは自分の命を失ったんだ。

「……なんで、あんたが泣くんだよ。芹香」
「だって……っ」

 お母さんを励ましたくて、だけどどうしたらいいか分からなくて。そんな時に困っているココを見つけた。まるでお母さんにできなかった優しさを注ぐように、ココに尽くした。その結果、帰らぬ人になるなんて……。

 言葉の代わりに、滝のような涙が出る。チヒロは「やめろよ」と眉間にシワを寄せた。

「もう終わったことだ。気にしてない」

 私とは違い、チヒロは気丈だ。
 だけど……フミにすっぽり抱きしめられた瞬間。
 彼の瞳が潤んで、きらりと光る。

「えらいね、チヒロ。お前はえらいよ」
「な、んだよ……。やめろよ、フミ兄」
「やめないよ。生きてた時も、死んでからも、誰かのために頑張るチヒロを、俺は尊敬するよ。お前はどこまでも強くて、優しい子だね」
「~っ!」

 堰を切ったように、チヒロの両目から涙が零れる。その瞬間、フミは互いのネックレスを、星空バッグへ姿を変えた。これで他の人から見えない。例え電車の中、大きな声で泣いたとしても。

「俺は、一体何をしているんだろうって思って……。母さんを助けることだけ考えてればよかったのに、それをせずに犬を助けて、代わりに自分が死んで。だけどココを助けて良かったとも思ってるし……。
 色んな気持ちがグチャグチャで、苦しくて……っ」

 みやちゃんの部屋で、自分の持ち物が写る写真を見た後。チヒロはずっと苦しかっただろうな。
 何が正しくて、何が正解だったのか――分からないからこそ苦しい。

 そんな彼にしてあげられることといえば、一つしかない。
 今、ここにいることが、きっと正解なのだと。彼を前向きに導いてあげる、それだけだ。

「何を言っても慰めにしか聞こえないかもしれないけど、僕はチヒロに会えて良かった。それだけは自信を持って言えるよ」
「私もだよ。チヒロに会えて、毎日すごく楽しいよ。今までチヒロは、たくさん頑張ってきたんだね」
「う~……っ」

 チヒロは、フミの胸に顔を押し付け、泣きじゃくった。その膝にココが飛び乗り、一生懸命チヒロの耳を舐める。その仕草は「あの時、助けてくれてありがとう」って伝えているみたいだ。……いや、きっとそう言っているのだろう。だってココの目もキラキラ光っているから。つぶらな瞳に浮かんだ涙は、今にも落ちそうだ。

「ただいま~。もう妹ったら、今日は私がいないっていうのに、またウチに来て……って、わあ⁉ 芹香、なんで泣いてるの⁉ それにあの二人は?」
「え、あ、えっと……!」

 急いで涙をふき取り、二人を見る。チヒロはまだフミに顔を埋めていて、当分起き上がりそうにない。そんな彼の背中を優しく叩きながら、フミは再び、人差し指を口にあてた。どうやら、このまま姿を消しておくらしい。

「私は、ちょっと記憶がこんがらがって泣いちゃって……。でも、もう大丈夫! あの二人は、ちょっと電車の中を探検してくるって」
「それならよかったけど……。っていうか電車の探検? あ、チヒロくんはまだ小さいもんね。兄弟水入らずでいいなぁ」

 みやちゃんがチヒロの名前を聞いて「天瀬ちひろ」を連想しないのは、チヒロの見た目が幼いからだ。あの雨の日から十八年経っている。彼女の中の「天瀬ちひろ」は、もう立派な男性だ。

 だけどこうして縁ができたわけだし、みやちゃんに真実を言ってもいいのでは?と思った。みやちゃんは、ずっと天瀬ちひろを気にしているわけだし。
 だけど、チヒロは言わないらしい。フミの腕の中で、彼の真似で「シー」のポーズをしている。
 私は「分かったよ」と言えない代わりに、口角を上げた。



 ――結局、電車を降りる時に、フミたちは姿を見せた。だけど、ココの姿がない。さっきまでチヒロに引っ付いていたのに。

「ココはどこ? もう電車降りるよ?」

 みやちゃんに聞こえないようチヒロに尋ねる。だけど彼はキョロキョロもせずに「いいんだよ」と。吹っ切れた表情で笑った。ココがどこにいるか、知ってるって感じだ。

「今ココは消えてる。その内ひょっこり戻ってくるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。散歩だよ、散歩」
「……そっか」

 チヒロはそう言ったけど、私は、もうココは戻ってこないような気がした。
 きっと成仏したんだって、自分でもビックリするほどすんなり納得できたから。

「きっとココは、チヒロにお礼が言いたかったんだね」
「……そうかもな」

 先にチヒロが電車を降りる。ホームの屋根と停車中の電車の隙間から、光がさす。それがチヒロの足元に灯り、一瞬だけココの姿に形を変えた。白い体に、前足だけ茶色の毛。
 靴を履いたココは私たちと違う所に行くため、今、歩き出したのだ。

 ◇

 駅から実家は、ありがたいことにすぐだった。なぜありがたいかと言うと、今日も今日とて日差しが強いから。もはやどこにいようと関係ない。日本全土に夏きたる、だ。

「ここが芹香の家だよ。どう? 何かピンとくる?」
「う~ん……」

 正直あまりピンと来ない。というよりも、これから母と対面することに全神経を使っているから、家を気にするどころじゃない。心臓がバクンバクンと音を立て、今にも口から出てきそうだ。
 フミが「無理はダメだよ?」と気にしてくれたけど……弱音なんか言ってられない。さっきのチヒロの姿が目に焼き付いている。彼ほどの努力を、年上の私がしないでどうするんだ。精一杯、向かい合う。

「私は大丈夫――それじゃあ押すよ」

 チャイムを鳴らす。家の中からトントンと音が響く。その足音は軽そうで、華奢な母を想像した。

「はい、どちらさま…………芹香」

 母が玄関から顔を出す。肩までの髪をした母は、想像したよりずっと痩せていた。
 私を見て、たいそうビックリしたのか放心状態。だけど私が「お母さん」と言うと、ハッと我を取り戻す。
 お母さんは私ではなく、私の後ろに控える皆を見た。

「あら、みやこちゃんも来てくれたのね。そちらの二人は……」
「わ、私の友達です! すみません、大人数で押し掛けちゃって!」

「手紙屋です」と言えない私に代わり、みやちゃんが申し出てくれた。母は「そう」と納得したようだ。
 だけど一難去って、また一難。「今日は何の用事?」と、母は今度こそ私を見た。鋭い視線だったため、怖くなって目をそらす。

「わ、忘れ物を、とりに……」

 思わずウソを言ってしまった。本当は、母と話に来たのに。だけどあまりの威圧感で、話をするどころじゃない。私のつま先が、母とは違う方向へツイと向く。

「忘れ物って……。あなた記憶が戻ったの?」
「まだ、完全には……」
「――そう」

 ホッと、母が息を吐いた。まるで安心したような表情で。
 安心? 娘の記憶が戻らないのに?

 それに「記憶のことを私に聞いた」ということは、やっぱり病院から聞かされていた。それでも見舞いに来なかった。……本当は病院の手違いで、母は私の記憶喪失を知らないのでは?なんて淡い期待もあった。……でも違った。
 母は、全て知っていたんだ。
 それでも手を差し伸べないのは、きっと――

「お母さんは、私のことを大切に思ってないんだね……っ」
「え…………ちょっと、芹香!」

 気づけば私は、玄関を飛び出していた。
 今までの不安が虚無へと変わり、大群となって押し寄せる。全てがやるせない。これまでの母の行動は、私を何とも思っていない証拠だ。私は、大切にされていない。

「はぁ、はぁ……っ」

 息がつまるような家を飛び出した後は、当てもなく走った。だけどお寺が見えた時、なぜか「着いた」と思った。
 私は、ここを目指していたのかな?

「階段があって、その先に寺の門――山門(さんもん)がある。立派なお寺だね」
「フミ……」

 追いかけてきてくれたフミは「あっちは心配いらないよ」と、私の隣に並ぶ。

「みやちゃんとチヒロが、お母さんと話している。落ち着いたら戻ればいいよ」
「……私、落ち着けるかな」

 こんなグチャグチャな感情を収束できる気がしない。チヒロの勇姿を前にしても、私は、こんなにも弱い。

「どうして母に嫌われているんだろう。小さい頃からそうだったのかな? 私は、何のために産まれてきたの」
「芹香……ん? 何か音がしてる?」

 山門の向こうから、カラカラと音が鳴る。軽い物がぶつかり合う音だ。その音を聞きながら、フミは私に笑いかける。

「ここが芹香の故郷なら、心はきっと落ち着いてくるよ。気分転換に行ってみようよ」
「でも……」

 その時、彼がするネックレスがキラリと光る。……そうだ。これは私だけの問題じゃない。フミの悲願のためでもある。彼が手紙を書けるようになるには「私が私を思い出す勇気」が必要不可欠なんだ。

「この先に、記憶を拾うヒントがあるかもしれないしね。……行こう、フミ」
「うん」

 覚悟を決めた私を見て、フミが頭を撫でた。
 よく言った、頑張ったね、もう少し踏ん張れ、そして、僕のことを考えてくれてありがとう――色んな感情を乗せた、そんな手つきだった。

 二人で一歩ずつ階段を上がる。全て登ると、賽銭箱と本堂が見えた。それを目にした途端、雪のようにしんしんと、私に記憶が積もっていった。

「初詣は、必ずここに来てたなぁ」
「素敵な習慣だね。おみくじとか引いたの?」
「もちろん。それが一番の楽しみだったからね。
 だけど……絵馬は書かせてもらえなかった。お母さんが許してくれなかったから」

 本堂から少し離れた場所に絵馬がある。今まで寺を訪れた人たちのそれが、ズラリと並んでいた。
 風が吹くと絵馬は揺れ、それらがぶつかり合って音が鳴る。さっきカラカラと鳴っていたのは、この音だったんだ。

「……ちょっとだけ、絵馬を見てみる」

 絵馬に呼ばれた気がした。
 あのカラカラという音がなければ、私は階段を上がろうと思わなかったから。

 絵馬には、色んな人が書いた願いごとが並んでいた。

【ココを助けてくれたT.A.さんが見つかりますように】

 TAというのは、天瀬ちひろのイニシャル表記だろう。願いを叶えたくて、みやちゃんもこのお寺に来ていたんだね。

「ん?」

 見覚えのある字が視界に写る。
 この流れるような字は……母だ。

【芹香がよくなりますように】

 まだ新しい、傷もシミもない絵馬。
 つまりこれを書いたのは、最近?

「入院した私を、心配してくれていたんだ。でも、どうして……」

 絵馬に書くほど私を思っているなら、見舞いに来たらいいのに。電話だってすればいい。それなのに、どうして何もせず、会ったら会ったで他人行儀なんだろう。

 なんとも言えない気持ちで、再び絵馬をみる。すると、その奥に古びた絵馬を発見した。なんと、これもお母さんの字だ。古い絵馬ということは、だいぶ昔に書いたものかな?

「私には散々書くなって言ったくせに、自分は書くなんて」

 文句を言いながら、絵馬に視線を走らせる。
 だけど母の願いを読んだ瞬間――息を呑んだ。