思いを運ぶ、手紙屋さん―もう会えない人との絆―

 
 起きたら知らない場所にいた。
 右へ左へ視線を動かすと、ここが病院だということは分かった。
 だけどお医者さんが教えてくれた、私の名前。

「あなたの名前は藤村芹香です」

 これに関しては、全くピンとこなかった。




 目が覚めて、妙に気怠い体を起こす。
 すると偶然隣に立っていた看護師が、私を見て「え」と声を漏らす。

「よかった、目が覚めたんですね」

 目が覚めてよかった?
 となると今まで私は、起きることが出来なかったのだろうか?

 周りを見渡す。何も思い出せない。まるでシワのないツルツルの脳に、五感で得た情報を落とし込んでいるような感覚だ。見るもの聞くもの触るもの、これら全てが新鮮で、新しい。

「今ドクターを呼んだので、待っている間、血圧と脈を測っておきましょうか」
「よろしく、お願…………」

 しばらく寝ていたからか、喉が枯れて上手く話せない。口の中の上と下が、ピッタリとくっついてしまう。
 気づいた看護師が、「お水をもってきますね」と病室を出た。

「私……」

 何をして、病院に運ばれたんだろう?
 ……ダメだ、全く思い出せない。

 ゆっくりと、体を動かしてみる。右手、左手、右足、左足。どの部位も動くし、痛くない。つまりケガをしたわけじゃない、っていうこと?

「あ、痛っ……」

 体を起こそうとした瞬間、頭にズシンと重い痛みが走る。手を当てると、包帯が巻かれている。どうやら頭を怪我したらしい。

 現状から、少しずつ自分の状況を把握していく。
 だけど、不気味だ。

「今」から情報を得ることはできるけど、過去の記憶からは何一つ情報が読み取れない。

「あぁ、よかった。目が覚めたんですね」

 混乱しながらベッドの上で横になっていると、背の高い男性医師が入ってきた。後ろに、銀色のトレーを持つ看護師が二人いる。その中には、さっきの看護師がいて、言った通り水を持ってきてくれていた。

 脈や血圧を測りながら、ゆっくり水を飲ませてもらう。そうはいっても、口の中を潤す程度だ。それ以上は「体に負荷がかかるかもしれないから検査が終わった後に」、と言われてしまった。

「あの……どうして私は、ココにいるんでしょうか?何も思い出せなくて……」

 どうやら頭を五針縫ったらしい。傷口を確認した先生が「順調ですね」と私に微笑みかけた。
 と言っても先生の笑みは、思いもよらない私の質問を受けて、石化してしまったけど。

「えぇっと、ご自分のことは分かりますか?」
「いえ……。自分が誰かも、全く……」
「検査をしてみましょうか。――至急、検査室を確保して」

 指示された看護師は「はい」と返事をして、さっそく電話をかける。「検査室を使いたいのですが、今日空いている時間は」と言いつつ、退室した。

 頭の検査だろうか? 痛くなければいいなと、この歳になっても臆病者の自分が顔を出す。
 ……この歳って、自分がどの歳か分からないけど。

「あなたの名前は藤村芹香です。
 18歳で、この四月に明比野(あけびの)大学の学生になったようです」
「その情報は、どこから……。あ、家族でしょうか?」

 そう聞いた瞬間、医師たちは顔を曇らせた。どうやら違ったらしい。

「あなたの財布に学生証があったので、そちらを確認させて頂きました。病院から大学に連絡を入れています。大学経由で、ご家族にも『藤村芹香さんの入院』については話がいってるのですが……」
「……」

 歯切れの悪い言葉に違和感を覚え、ぐるりと病室を見回す。荷物がほとんどない。すなわち、家族が来ていない、ということだ。

「……分かりました。ありがとうございます」

 目を瞑って、お礼を言った。
 ちょうど血圧も測り終え、ベリッとマジックテープがはがされる。
 さっき締め付けられるような痛みが走ったのは、これのせいだったのか――軋んだ胸を落ち着かせるよう、ゆっくり擦る。その動きに合わせて、点滴の管がゆらりと揺れた。

「先生、一時間後に検査室を確保できました」
「了解。それじゃあ藤村さん、また少ししたら看護師が迎えにきますね。頭の検査をします。その結果を踏まえて、ゆっくりお話させてください」
「……はい」

 初めにお医者さんが退室し、続けて点滴の様子を確認した看護師がいなくなった。
 ここは個室。誰もいなくなった部屋が、私が一人であることを強調するように静まり返る。

「……」

 自分の名前も分からなかった。もちろん明比野大学なんて名も初耳だ。

「四月から入学……。今は、何月なんだろう?」

 窓の外は、空に浮かぶ雲が見えた。それだけでは今が何月か分からない。私は半袖を着ているけど、病院の温度は一定に保たれているというし、正確な判断材料にはならない。

 もしかして、ずっとこの状態なのかな?
 いつか思い出せる日が来る? あと何日で?
 私の記憶、どこに埋もれてしまったのだろうか?

「最悪だ……」

 体の内側で不安の埋火が勢いを上げた、その時だった。

「本当だよね、僕も困っちゃったなぁ」

 一人きりだと思っていた病室に、見慣れない白髪が現れた。
 いつ、入って来た? 音はしなかった。ドアの音も、足音も。

「だ、れ……?」

 もしかして私の家族? 今さらになって現れた?
 だけど白髪の男は「違うよ」と、私の心の声に返事をするように言った。透き通るような紫色の目が、私へ向く。

「僕は手紙屋。残念ながら、君の家族じゃない」
「て、がみ……?」
「そう。君宛てに一通、手紙が届いているんだ。今日はそれを渡しに来た」

 背はかなり高いけど、柔らかい眼差しが特徴的な男性だ。
 着ているのは白いシャツに、黒いパンツ。かなり大きな紺色のカーディガンを、ゆるく羽織っている。どのくらい緩いかというと、今にも肩からずり落ちそうなほど。

「手紙屋って、つまり……郵便局の人ってことですか?」
「あはは、違うよ。手紙屋は手紙屋だ。といってもマイナーな職業だから、知らなくて当たり前だよ」

 手紙屋の男性は、その名の通り、肩から長いショルダーバッグを下げている。そのカバンは星空の模様をしていて……なぜか動いている。あ、今カバンの中で、流れ星が流れた。

「きれい……」

 起き上がれないから、目だけをカバンに向ける。すると男性は、そんな私に気づいたのか近づいてくれた。今となっては、視界いっぱいに一面の夜空が広がっている。……ちょっと近づきすぎじゃないだろうか。

「あの……」
「あぁっと、失礼。ちょっとイスを拝借しよう」

 男性は、近くにあったパイプイスを広げる。ベッド脇に据えられていたものの、ずっと使われてなかったのだろう。広げる時に、ギギギと妙な音がした。

「……」
「……それで、君宛ての手紙なんだけど」

 男は、星空のカバンから、一枚の封筒を取り出した。
 だけど……その封筒は外郭のみ金色に縁どられているけど、それ以外は透明だ。透明といっても、ミルキーウェイのように白と透明のマーブル模様、それにラメが散りばめられている。

「これは、手紙が開封されない時に出てくる天の川だよ」
「天の川……手紙に?」

 でも、よく見るとラメだと思っていた物は星だった。男が持つカバンのように、チカチカと瞬いている。これも、動いている。まさか本物だろうか? この天の川も、男のカバンに施された星空も。……いや、そんなわけないか。

「ところで、『開封されない』って……?」

 聞き間違いじゃなければ、男はそう言った。せっかく手紙を持って来てくれたのに「読めない」、ということだろうか?
 すると概ね正解なのか、男は頷いた。眉を下げて、私よりも悲しそうだ。

「もうこの世にいない人が、まだ生きている人に向けて書いた手紙。
 それを届けるのが、僕ら手紙屋の仕事なんだ」
「もう、この世にいない人……?」
「つまりこの手紙の送り主は、もう死んでいる。そういうことだ」
「……」

 言わば、死人からの手紙。ともすればホラーになりそうな設定だが、それでも不気味に思わなかったのは、手紙に流れる天の川が、あまりにもキレイだったからだろうか。

「誰から、なんですか?」
「……それは言えない。当然、封筒にも書かれていない。
 誰からの手紙なのか。それは手紙を読んで、初めて分かることなんだ」

 男性の聞き心地良い声が、耳の奥までしっかり届く。だからか、非現実的なことでも、ゆっくりと納得することができた。

「手紙は、どうやったら開きますか?」
「君が、君自身を思い出せば開く。
 この手紙は、記憶を失っていない君にあてて書かれたものだから。
 受け取る側が、『その状態』になっていないと、手紙は実体を現さない」
「……あの」

 それを聞いて、不安に思った。

「手紙に、期限はありますか? 何日までに開封しないと消えてしまう、とか」

 自分の記憶を取り戻すまでに、一体どれほどの時間がかかるのか。
 もし時間がかかりすぎて、手紙が消えてしまったら――それが不安だった。
 だけど男性が「期限はないけど……」と、意味深に答える。

「そこまでして『読みたい』手紙なの? 誰からの手紙か、もう見当がついてるってこと?」
「いえ……。私、記憶がないですし」
「それなのに、この手紙に執着するの?」
「……」

 男が不思議に思うのは、その通りだと思う。だって過去の記憶がない私は、家族構成も友達関係も、何も知らない。私と接点のある誰かが、既に亡くなっているのだろうか?

「確かに、今の私は何も分からないし、周りの人のことも何一つ分かりません。
 だけど……この手紙は読むべきだと。なんとなく、そう思うんです」

 手紙を見た瞬間、なんだか心を掴まれた気がした。キレイな天の川に目を奪われたのかもしれない。だけど実態をもたない手紙には、哀愁が漂っている気がした。まるで私に読まれないことを憂いているような、そんな雰囲気がある。

「……そう。分かったよ」

 男は、どこか諦めたように。自分のカバンに手紙をしまった。……ん?

「渡してくれるんじゃ、ないんですか?」
「僕の仕事は、『渡した手紙が読まれる瞬間を見届けること』だ。
 実は、手紙を受け取る人は『拒否権』を持っているんだけど……。
 君は『読む』と選択しちゃったからね」

 カバンに手紙を戻した男は、大事そうにカバンをポンポンとなでる。

「君が全てを思い出し、手紙を開封して読むまでは、僕の仕事は終わらない。
 全ての糸がほどけるまで、君の傍にいるとしよう」
「え……」

 傍にいる? まさか、ずっと行動を共にするってこと?
 それは、ちょっとなぁ……。相手は男の人だし。
 表情に出していないつもりだったけど、男は「安心してよ」と、へらりと笑う。

「僕、他の人には視えないから」
「生きていない、ってことですか?」
「君と同じ時間に生きていない、ってことだね」

 じゃあ死んでいるわけではない、ってことだろうか?
 もっと深く聞きたかったけど、ドアがノックされた。私よりも先に、男が「おっと検査の時間だね」と言った。この人、一体いつから、この部屋にいたんだろう?

「藤村さん、そろそろ行きましょうか」

 笑顔を浮かべた看護師さんが、車いすを持って来てくれた。私は時間をかけながら、気怠い体をゆっくり起こす。そうして退室するまで、男はずっと部屋にいたけど……。
 ニコニコと人懐こい笑みを浮かべる男の姿に、看護師が反応することはなかった。
 本当に、他の人からは視えないんだ。

 ◇