死神軍医の最愛 〜ケガレた私の処方箋〜

 すっきりと片付けられた病室の中で、ソフィアは退院の準備をしていた。
 窓の外は、雲ひとつない晴天だ。
 柔らかな春の日差しが白いカーテン越しに差し込み、病室の床へ淡い影を落としている。
 
「ったくよォ、袴程度で手こずるとか雑魚じゃん。よかったなァ、オレが着付けできて」
「ご、ごめんなさい、ヌイくん……」
 
 ぶつくさ文句を言うヌイに、ソフィアは申し訳なさそうに肩を縮こませた。
 西洋育ちの母に育てられた彼女は、洋装には多少馴染みがあっても、和装にはほとんど縁がない。
 屋敷でも洋風のお仕着せばかり着ていたから、袴の紐一本結ぶにも四苦八苦していた。
 それで結局、見かねたヌイが手伝う羽目になったのだ。

「はー、二人分も面倒見なきゃならねえとか、やってらんねーよ」
「二人分……ということは、祈織さんも着付けが苦手なのですか?」
「苦手っつーか、いい加減なんだ。あいつ、自分の興味が向かないものにはとことん無頓着だからな」

 あの祈織にも、そんな一面があるのか。
 意外に思っているソフィアの横で、はーぁ、とわざとらしくため息をつくヌイ。

(……でも、なんだかんだ世話を焼いてるってことは、仲がいいのね)
 
 式神と主人というより、歳の離れた兄弟みたいだ。
 そんなことをぼんやり考えながら、ソフィアは帯の感触を確かめるようにそっと触れた。
 
(それにしても、祈織さんと一緒に暮らすことになるなんて……)
 
 数日前までのソフィアなら、想像すらしなかった未来だ。
 先日、祈織はとても気まずそうな顔で、『ごめん、しばらく僕の家に住んでもらうことになっちゃった……』と説明してきた。 
 世間で死神と恐れられている男と同居するなど、普通なら悪夢みたいな話だと思うだろう。
 けれど、祈織はすでにあれこれと気を遣ってくれている。
 ソフィアは不安を抱くどころか、むしろ面倒をかけて申し訳ないと思っていた。

「ほれ、できたぞ。次からは自力で着付けられるようにしとけよな」
「あ、ありがとうございました……助かります」
 
 ソフィアが丁寧に頭を下げると、ヌイは「けっ」とそっぽを向いた。
 だが、この刺々しい態度も、更木家で受けていた扱いに比べれば可愛いものだ。
 むしろ、袴の着付けを一から教えてくれる時点で、十分すぎるほど親切だった。
 
(怖そうな見た目なのに、不思議な子)

 そんなことを考えていると、不意に病室の扉がコンコンと二度鳴った。
 
「ソフィアさん? 着替え終わったかな?」
「はい、お待たせいたしました」
 
 返事をすると同時に、扉が静かに開く。
 入ってきた祈織は、ソフィアの姿を見た瞬間、ぱっと表情を明るくした。
 
「お、ちょっとよさそうだね。これなら街を歩いても問題なさそうかな?」
「はい。わざわざ用意していただいて、ありがとうございます」
 
 退院に合わせて、着物や袴を揃えてくれたのは祈織だった。
 しかも、ソフィアの体調まで考慮して、軽く動きやすいものにしてくれている。
 ソフィアは改めて深く頭を下げた。
 
「この着物や化粧品は、烏丸中佐が選んでくださったのですか?」
「まっさかあ。祈織にそんなセンスあるわけねーだろぉ、けらけらけ」
「うるさいよ、ヌイ。センスないのは事実だけどさ」
 
 祈織はむっと口を尖らせながら、自身の式神を軽く睨みつけた。
 
「陰陽医局でこういうのに明るい職員がいたから、その人たちに選んでもらったんだ。男の感性で選ぶとろくなことにならないからね」
 
 そう言われて、ソフィアは改めて自分の格好を見下ろした。
 モダンな柄の銘仙に、上質な生地の袴に、三つ編みをまとめるリボン。
 どれも帝都の女学生たちが身につけていそうな、洒落た品ばかりだった。
 
(お嬢様と同じ、はいからさんだわ……)
 
 更木家にいた頃、瑠璃子が得意げに最新の流行を語っていたのを思い出す。
 まさか、自分がこうした服を着る日が来るなんて、考えたこともなかった。
 
(私なんかが、こんな立派なものを着てもいいのかしら……)
 
 そっと袖を撫でると、さらりとした手触りが心地よくて、いささか落ち着かない気分だった。
 
「つまんねえなぁ。変な服選んできたら面白かったのによ。こいつ、冷静に最適解選びやがった」
「何が『つまんねえ』だよ。お前は僕をどうしたいんだ」
 
 呆れる祈織の横で、ヌイはけらけら笑いながら続ける。
 
「んじゃあ、一応持ち上げといてやるか。その日傘、祈織が選んだんだぜ。日差しを遮る術付きの、一点モノだってよ」
「これですか?」
 
 ソフィアは渡されていた白い日傘をそっと開いてみた。
 ふわり、と薄い霊力の膜が広がる感覚がある。
 麻の生地に重ねられた繊細なレースは、量産品にはない職人技を感じさせた。
 傘越しに差し込む光は驚くほど柔らかい。
 内側から見上げると、レース模様の影が淡く映り込み、思わず息を呑むほど綺麗だった。
 
(……素敵)
 
 久しく忘れていた、胸の高鳴り。
 可愛いものを見てときめくなんて、いつ以来だろう。
 
「ソフィアさん、日差しが苦手って言っていたでしょう? こういうのがあれば、少しでも楽になるかと思って」
「覚えていてくださったのですね……」

 入院中、ぽろりと零した程度の話だったのに、彼はちゃんと覚えていてくれた。
 それがソフィアの胸をじんわり温める。
 
「何から何までありがとうございます、烏丸中佐」
「ああ、祈織でいいよ。階級もつけなくていい。君は軍属じゃないんだから」
 
 さらりと言われて、ソフィアは困ったように目を瞬いた。
 退魔軍の軍医中佐を下の名前で呼ぶなんて、平民の自分には恐れ多すぎる。
 けれど、彼自身が望んでいるなら――。
 ソフィアは意を決するように、小さく息を吸った。
 
「……い、祈織さん」
「そうそう。これからも気軽にそう呼ぶといい」
「は、はい……」
 
 名前を呼んだだけなのに、胸が妙にそわそわする。
 なんだか、とても照れくさかった。 
 早く自然に呼べるように慣れなければ。
 そんなことを考えていると、
 
「ほらほら祈織ぃ。早くオレの着付けのご褒美でも買いに行こうぜぇ。千匹堂の甜瓜で負けといてやるよ」

 とヌイが祈織の着物の袖を引っ張って促す。

「どこが負けてるんだよ、高価な物要求しやがって。今の働きじゃ、せいぜい喫茶店のメロンソーダくらいだっての」
「ケチくせぇやつだなぁ、けらけらけ!」
 
 騒がしいやり取りをしながら、祈織は黒い外套を羽織った。
 
「じゃあ、行こうか」
 
 彼が歩き出すと同時に、ヌイはするりと影の中へ潜り込む。
 その背中を眺めながら、ソフィアはふと思った。
 
(この人は、どうしてあんな怖い噂があるんだろう……)
 
 滅多に公の場に出ないことを加味すれば、噂だけが一人歩きして、悪い方向に増長してしまったのかもしれない。
 白と黒だけで構成された異様な外見も加われば、『死神軍医』という二つ名もしっくり来る。
 けれどソフィアには、彼が悪逆非道の人物には見えなかった。
 むしろ――
 
(……本当は、優しい人なのに)

 と、思った。 
 あの夜、母の故郷の言語で告げられた言葉を思い出しながら、ソフィアはそっと白い日傘を抱きしめた。