陰陽医局副長の研究室は、呆れるほど雑然としていた。
本棚に収まりきらなかった医学書と呪術書が、部屋のあちこちに積み上げられていて、もはや砦のようだった。
その砦の中心で、烏丸祈織軍医中佐が眺めていたのは、一人の少女に関する調査資料だった。
『雛守ソフィア。
父:雛守蒼一郎。帝国退魔軍所属・妖魔討伐隊大隊長。最終階級・退魔軍大佐。故人』
紙面に記された情報を、祈織は無言でなぞる。
雛守蒼一郎――退魔軍所属の退魔師であり、十数年前、吸血鬼討伐任務の最中に殉職した男だ。
当時の記録によれば、彼は任務のさなかに自宅を襲撃され、妻子を逃がすため単身で応戦――結果として、吸血鬼たちと相討ちになって死亡した。
だが、犠牲はそれだけに留まらなかった。
当時の幼いソフィアもまた、吸血鬼の毒牙にかかっていたのだ。
祈織は報告書に書かれた診断記録を見下ろした。
『吸血鬼一体に左肩部を噛まれ、血毒に感染。目眩、倦怠感等の貧血症状、軽度の羞明を認める』
血毒――吸血鬼に噛まれ、生き延びた者だけが罹患する呪いの病。
進行すれば理性を侵し、人としての在り方そのものを変質させていく。
祈織はさらに資料をめくる。
『母:雛守エミリア。西洋魔術学者。故人』
脳裏によぎるのは五年前、無二の友と初めて出会った時のこと――『娘を助けてください』と頭を下げてきた彼女の姿を、祈織は今でも鮮明に覚えている。
西洋人らしいはっきりとした顔立ち。
知性と気品を感じさせる、柔和な物腰。
けれど、その瞳の奥には、娘を想う母としての力強さが宿っていた。
……だからこそ。
(情けない。この体たらくじゃ、エミリアさんに会わせる顔がないな……)
祈織は、自分の非力さが恨めしくてたまらなかった。
血毒の抗体を完成させる前に、エミリアは吸血鬼に襲われて亡くなり、ソフィアは消息を絶った。
そこから更木家に辿り着くまで、実に五年――救出まで、あまりにも長くかかりすぎた。
祈織はふっ、と窓を見やった。
「……日差しが痛い、か」
帝都の空の下を歩く人々を見ながら、ぽつりと漏らす。
祈織が捜索している間、血毒はソフィアの心身を蝕み――今や彼女は、青空の下を歩くことさえ困難になってしまった。
資料を持つ祈織の指先に、思わず力がこもった――その時だった。
「随分と険しい顔をしているな、烏丸中佐」
低く渋い声が、不意に執務室へ響いた。
祈織はハッと我に返り、椅子から立ち上がる。
「これは石動中将。お忙しいところ、御足労いただき――」
「まあまあ、あまり堅くなるな。周りに人がいない時くらい、肩の力を抜こうじゃないか」
執務室の入口に立っていたのは、壮年の男だった。
石動巌――陰陽医局の長にして、その実態は退魔軍内部監査官。
いわゆる、お目付け役である。
「聞いたぞ、中佐。先日の夜会で、『帝国の英雄』に無能と言い放ったそうだな?」
「事実を述べただけに過ぎません」
どこか愉快そうな笑みを浮かべた石動に、祈織は間髪入れずに真顔で答えた。
「ふははは! 相変わらず容赦がないな、死神軍医は。鷹宮の坊ちゃんも気の毒に」
「どこが気の毒だと言うのです。病人の容態を悪化させたうえに、刀まで抜くような阿呆ですよ」
祈織は冷めた口調で言い切った。
実を言えばあの時、祈織は鷹宮亜蓮を殴り飛ばしたい衝動を本気で堪えていた。
霊力波で軍刀の刃を腐食させて砕くに留めたのは、彼なりに理性を総動員した結果だったのだ。
石動はやれやれと苦笑しながら、ゆっくりと祈織の机へ歩み寄った。
「それで、報告とは何だね? 保護した雛守ソフィアについてか?」
「ええ。彼女の血液から、とんでもないモノが検出されたものですから。早急に共有すべき事案と判断いたしました」
「とんでもないモノ?」
祈織は束ねた書類の中から、検査記録の一部を取り出すと、淡々と説明を始めた。
「先日、ソフィアさんを搬送した直後に行った、血液検査の結果です」
「……! なるほど。通常の血毒の患者には、あるはずのない成分だな」
祈織の黒い瞳が、わずかに鋭さを帯びる。
「これは、『発作誘発剤』を検出した、ということかね?」
「ご明察の通りです。話が早くて助かります」
祈織はさらに別の資料を石動へ見せる。
「加えて、全身に複数の虐待痕を確認しています。古い打撲痕、拘束痕、栄養失調、慢性的な疲労症状……典型的な長期虐待の痕跡です」
「む……」
石動は黙ったまま資料へ目を落としていた。
記されている所見はどれも、十八歳の少女が抱えるには惨いものばかりだ。
「つまり、夜会で起きた急性発作は偶発ではなかった可能性がある、と」
「ええ。意図的に引き起こされた、と考えたほうが自然です」
祈織は静かに、重く頷いた。
しばしの沈黙が落ちる。
窓の外では、遠くを走る路面電車の音が微かに響いていた。
やがて石動は深く息を吐き、資料を机へ戻した。
「……とはいえ、現状では弱いな」
「仰る通りです。不審な成分の検出と虐待痕だけでは、相手の犯罪性までは立証できません」
石動は腕を組み、難しい顔で唸った。
「更木製薬、か。あそこは財も技術も申し分ない。その気があれば、毒薬の製造も十分可能だろう。……が、今はまだ動くべき時ではないな」
祈織は静かに首肯する。
こちらの動きに気づかれれば、真っ先に潰されるのは薬の流通経路。
証拠の回収が困難になる事態だけは、絶対に避けたいところだ。
「はあ……更木製薬だけが相手なら、ここまで慎重になる必要もなかったのだがね」
「まったくです」
二人にとって厄介なのは、その先――更木製薬の背後の存在だった。
「鷹宮家まで絡んでいるとなると、なあ」
石動が苦々しく呟く。
軍医中将としてではない。
退魔軍の内部を監視する“お目付け役”としての顔だ。
鷹宮家は、退魔軍創設時から中枢を担ってきた名家。
軍内部にも支持者は多い。
下手に刺激すれば、証拠を消されるどころか、こちらが握り潰されかねなかった。
「連中に牙を向けられれば終わりです。本丸まで辿り着けなくなる」
石動はしばらく考え込んでいたが、やがてふっと口元を緩めた。
「……とはいえ、鷹宮のせがれが謹慎処分になってくれたおかげで、一つ確信が持てたよ」
「確信、ですか?」
「ああ。奴の管轄区で頻発していた吸血鬼騒ぎが、急に静かになったとは思わんかね」
石動は手近にあった椅子へ腰を下ろしながら、皮肉っぽく肩をすくめる。
「最近の吸血鬼は空気が読めるらしい。専門家としては興味深い事象ではないかね?」
「……それは、確かに」
祈織も同調するように、くつりと喉を鳴らす。
「先日、石動中将から共有された件も考えれば、なおのことです」
最近、帝都で相次いでいる奇妙な行方不明事件。
その被害者たちには、ある共通点が存在していた。
――血毒患者であること。
――身寄りがないこと。
――更木家と雇用契約を結んでいたこと。
無論、この中には雛守ソフィアも含まれる。
「この舞台は、あまりにも出来すぎている」
「ああ。だが、まだ断片的だ。どれも決定打に欠ける」
証拠はまだ足りない。
更木家を押さえるだけでは意味がない。
その先にいる鷹宮家まで辿り着かなければ、この事件は終わらない。
「だからこそ、今はまだ泳がせるしかない」
「なんとも歯がゆいものですね。お目付け役とは」
祈織のため息に、石動は肩をすくめた。
「ところで、雛守ソフィアについてはどうする?」
しばし間を置いたところで、石動はやがて何かを思い出したように口を開いた。
「と、言いますと?」
「彼女の住居だよ。女性宿舎は確保できたのかね?」
「ああ……それが、どこも空きがないと言われましてね。お手上げです」
日常生活が送れるまで回復したソフィアを、いつまでも病室へ閉じ込めておくわけにはいかない。
しかし、近年は女性入隊希望者が多く、宿舎は慢性的な満室状態になっている。
「条件が厳しいのは百も承知なのですが、こればかりはどうにも……。陰陽医局に近い宿舎でなければ、ソフィアさんが危ないですし」
万が一に備えて、彼女には迅速な処置が可能な場所にいてもらいたい――というのが祈織の考えだ。
この条件だけは、絶対に妥協するわけにはいかない。
「ふむ」
石動は顎に手を当て、少し考える素振りを見せた後――ぽん、と軽く手を打った。
「ならば、君の家はどうかね?」
「……はい?」
ぽかん、と思わず口を開ける祈織。
しかし、石動は妙案を思いついたと言わんばかりの爽やかな笑顔だった。
「君の家なら、住人が一人増えたところで問題あるまい?」
「は? いやいや、ご冗談を……若いお嬢さんを、こんな三十路手前の男の家になんて」
「式神のヌイもいるじゃないか。男と女が二人きり、という状況にはならん」
やんわり抵抗する祈織だが、石動はまるで意に介した様子もなく言う。
「立地も病院の近くだ。彼女に異変が起きた場合、君が即座に対処できる環境が望ましいのではないか?」
「それは……いや、しかし、中将。彼女の心境を考慮すれば、男と同じ屋根の下というのは……!」
「二十四時間、主治医が傍にいてくれるのだぞ? そのほうが彼女にとっても安心ではないか」
「主治医が男という時点で、安心できないでしょう!」
「そうか?」
石動は面白そうに片眉を上げた。
「もしや中佐、なにかやましい気持ちでもあるのかね」
「ありますか、そんなもの! 僕をあの女たらしと一緒にしないでいただきたい!」
珍しく取り乱している祈織を見て、石動は喉の奥で笑っている。
どうやらこの上官、完全に面白がっているらしい。
「正気ですか、中将!? 本当に僕の家に住ませろと!?」
「仕方ないだろう。女性宿舎に空きが出るまでの辛抱だ。それに――」
そこで、石動の目がわずかに鋭くなった。
「ソフィア嬢の発作を意図的に起こした犯人がいるのなら、彼女が再び狙われる可能性もある。警戒するに越したことはない」
「……!」
その一言で、祈織は押し黙った。
確かにその通りだった。
更木家が関与しているなら、ソフィアの存在そのものが、重要な証拠になり得る。
だからこそ、向こう側が証拠隠滅のために、ソフィアを襲う危険性もあった。
「それ、は、仰る通りです……」
「うむ、決まりだな」
石動は満足そうに頷いた。
もはや、男女がどうこうと言っている場合ではない。
最優先されるべきなのは、ソフィアの安全だ。
……理屈では、分かっているのだが。
(こんなの、どう説明すればいいんだ……⁉)
祈織は本気で頭を抱えた。
つい昨日まで、顔も合わせたことがなかった少女に向かって、『今日から僕の家に住んでね』などと、どう切り出せと言うのか。
祈織は机に肘をつきながら、頭を抱えた。
そんな彼の姿を見て、石動はとうとう堪えきれなくなったらしい。
石動の愉快そうな笑い声が、部屋中に響き渡った。
本棚に収まりきらなかった医学書と呪術書が、部屋のあちこちに積み上げられていて、もはや砦のようだった。
その砦の中心で、烏丸祈織軍医中佐が眺めていたのは、一人の少女に関する調査資料だった。
『雛守ソフィア。
父:雛守蒼一郎。帝国退魔軍所属・妖魔討伐隊大隊長。最終階級・退魔軍大佐。故人』
紙面に記された情報を、祈織は無言でなぞる。
雛守蒼一郎――退魔軍所属の退魔師であり、十数年前、吸血鬼討伐任務の最中に殉職した男だ。
当時の記録によれば、彼は任務のさなかに自宅を襲撃され、妻子を逃がすため単身で応戦――結果として、吸血鬼たちと相討ちになって死亡した。
だが、犠牲はそれだけに留まらなかった。
当時の幼いソフィアもまた、吸血鬼の毒牙にかかっていたのだ。
祈織は報告書に書かれた診断記録を見下ろした。
『吸血鬼一体に左肩部を噛まれ、血毒に感染。目眩、倦怠感等の貧血症状、軽度の羞明を認める』
血毒――吸血鬼に噛まれ、生き延びた者だけが罹患する呪いの病。
進行すれば理性を侵し、人としての在り方そのものを変質させていく。
祈織はさらに資料をめくる。
『母:雛守エミリア。西洋魔術学者。故人』
脳裏によぎるのは五年前、無二の友と初めて出会った時のこと――『娘を助けてください』と頭を下げてきた彼女の姿を、祈織は今でも鮮明に覚えている。
西洋人らしいはっきりとした顔立ち。
知性と気品を感じさせる、柔和な物腰。
けれど、その瞳の奥には、娘を想う母としての力強さが宿っていた。
……だからこそ。
(情けない。この体たらくじゃ、エミリアさんに会わせる顔がないな……)
祈織は、自分の非力さが恨めしくてたまらなかった。
血毒の抗体を完成させる前に、エミリアは吸血鬼に襲われて亡くなり、ソフィアは消息を絶った。
そこから更木家に辿り着くまで、実に五年――救出まで、あまりにも長くかかりすぎた。
祈織はふっ、と窓を見やった。
「……日差しが痛い、か」
帝都の空の下を歩く人々を見ながら、ぽつりと漏らす。
祈織が捜索している間、血毒はソフィアの心身を蝕み――今や彼女は、青空の下を歩くことさえ困難になってしまった。
資料を持つ祈織の指先に、思わず力がこもった――その時だった。
「随分と険しい顔をしているな、烏丸中佐」
低く渋い声が、不意に執務室へ響いた。
祈織はハッと我に返り、椅子から立ち上がる。
「これは石動中将。お忙しいところ、御足労いただき――」
「まあまあ、あまり堅くなるな。周りに人がいない時くらい、肩の力を抜こうじゃないか」
執務室の入口に立っていたのは、壮年の男だった。
石動巌――陰陽医局の長にして、その実態は退魔軍内部監査官。
いわゆる、お目付け役である。
「聞いたぞ、中佐。先日の夜会で、『帝国の英雄』に無能と言い放ったそうだな?」
「事実を述べただけに過ぎません」
どこか愉快そうな笑みを浮かべた石動に、祈織は間髪入れずに真顔で答えた。
「ふははは! 相変わらず容赦がないな、死神軍医は。鷹宮の坊ちゃんも気の毒に」
「どこが気の毒だと言うのです。病人の容態を悪化させたうえに、刀まで抜くような阿呆ですよ」
祈織は冷めた口調で言い切った。
実を言えばあの時、祈織は鷹宮亜蓮を殴り飛ばしたい衝動を本気で堪えていた。
霊力波で軍刀の刃を腐食させて砕くに留めたのは、彼なりに理性を総動員した結果だったのだ。
石動はやれやれと苦笑しながら、ゆっくりと祈織の机へ歩み寄った。
「それで、報告とは何だね? 保護した雛守ソフィアについてか?」
「ええ。彼女の血液から、とんでもないモノが検出されたものですから。早急に共有すべき事案と判断いたしました」
「とんでもないモノ?」
祈織は束ねた書類の中から、検査記録の一部を取り出すと、淡々と説明を始めた。
「先日、ソフィアさんを搬送した直後に行った、血液検査の結果です」
「……! なるほど。通常の血毒の患者には、あるはずのない成分だな」
祈織の黒い瞳が、わずかに鋭さを帯びる。
「これは、『発作誘発剤』を検出した、ということかね?」
「ご明察の通りです。話が早くて助かります」
祈織はさらに別の資料を石動へ見せる。
「加えて、全身に複数の虐待痕を確認しています。古い打撲痕、拘束痕、栄養失調、慢性的な疲労症状……典型的な長期虐待の痕跡です」
「む……」
石動は黙ったまま資料へ目を落としていた。
記されている所見はどれも、十八歳の少女が抱えるには惨いものばかりだ。
「つまり、夜会で起きた急性発作は偶発ではなかった可能性がある、と」
「ええ。意図的に引き起こされた、と考えたほうが自然です」
祈織は静かに、重く頷いた。
しばしの沈黙が落ちる。
窓の外では、遠くを走る路面電車の音が微かに響いていた。
やがて石動は深く息を吐き、資料を机へ戻した。
「……とはいえ、現状では弱いな」
「仰る通りです。不審な成分の検出と虐待痕だけでは、相手の犯罪性までは立証できません」
石動は腕を組み、難しい顔で唸った。
「更木製薬、か。あそこは財も技術も申し分ない。その気があれば、毒薬の製造も十分可能だろう。……が、今はまだ動くべき時ではないな」
祈織は静かに首肯する。
こちらの動きに気づかれれば、真っ先に潰されるのは薬の流通経路。
証拠の回収が困難になる事態だけは、絶対に避けたいところだ。
「はあ……更木製薬だけが相手なら、ここまで慎重になる必要もなかったのだがね」
「まったくです」
二人にとって厄介なのは、その先――更木製薬の背後の存在だった。
「鷹宮家まで絡んでいるとなると、なあ」
石動が苦々しく呟く。
軍医中将としてではない。
退魔軍の内部を監視する“お目付け役”としての顔だ。
鷹宮家は、退魔軍創設時から中枢を担ってきた名家。
軍内部にも支持者は多い。
下手に刺激すれば、証拠を消されるどころか、こちらが握り潰されかねなかった。
「連中に牙を向けられれば終わりです。本丸まで辿り着けなくなる」
石動はしばらく考え込んでいたが、やがてふっと口元を緩めた。
「……とはいえ、鷹宮のせがれが謹慎処分になってくれたおかげで、一つ確信が持てたよ」
「確信、ですか?」
「ああ。奴の管轄区で頻発していた吸血鬼騒ぎが、急に静かになったとは思わんかね」
石動は手近にあった椅子へ腰を下ろしながら、皮肉っぽく肩をすくめる。
「最近の吸血鬼は空気が読めるらしい。専門家としては興味深い事象ではないかね?」
「……それは、確かに」
祈織も同調するように、くつりと喉を鳴らす。
「先日、石動中将から共有された件も考えれば、なおのことです」
最近、帝都で相次いでいる奇妙な行方不明事件。
その被害者たちには、ある共通点が存在していた。
――血毒患者であること。
――身寄りがないこと。
――更木家と雇用契約を結んでいたこと。
無論、この中には雛守ソフィアも含まれる。
「この舞台は、あまりにも出来すぎている」
「ああ。だが、まだ断片的だ。どれも決定打に欠ける」
証拠はまだ足りない。
更木家を押さえるだけでは意味がない。
その先にいる鷹宮家まで辿り着かなければ、この事件は終わらない。
「だからこそ、今はまだ泳がせるしかない」
「なんとも歯がゆいものですね。お目付け役とは」
祈織のため息に、石動は肩をすくめた。
「ところで、雛守ソフィアについてはどうする?」
しばし間を置いたところで、石動はやがて何かを思い出したように口を開いた。
「と、言いますと?」
「彼女の住居だよ。女性宿舎は確保できたのかね?」
「ああ……それが、どこも空きがないと言われましてね。お手上げです」
日常生活が送れるまで回復したソフィアを、いつまでも病室へ閉じ込めておくわけにはいかない。
しかし、近年は女性入隊希望者が多く、宿舎は慢性的な満室状態になっている。
「条件が厳しいのは百も承知なのですが、こればかりはどうにも……。陰陽医局に近い宿舎でなければ、ソフィアさんが危ないですし」
万が一に備えて、彼女には迅速な処置が可能な場所にいてもらいたい――というのが祈織の考えだ。
この条件だけは、絶対に妥協するわけにはいかない。
「ふむ」
石動は顎に手を当て、少し考える素振りを見せた後――ぽん、と軽く手を打った。
「ならば、君の家はどうかね?」
「……はい?」
ぽかん、と思わず口を開ける祈織。
しかし、石動は妙案を思いついたと言わんばかりの爽やかな笑顔だった。
「君の家なら、住人が一人増えたところで問題あるまい?」
「は? いやいや、ご冗談を……若いお嬢さんを、こんな三十路手前の男の家になんて」
「式神のヌイもいるじゃないか。男と女が二人きり、という状況にはならん」
やんわり抵抗する祈織だが、石動はまるで意に介した様子もなく言う。
「立地も病院の近くだ。彼女に異変が起きた場合、君が即座に対処できる環境が望ましいのではないか?」
「それは……いや、しかし、中将。彼女の心境を考慮すれば、男と同じ屋根の下というのは……!」
「二十四時間、主治医が傍にいてくれるのだぞ? そのほうが彼女にとっても安心ではないか」
「主治医が男という時点で、安心できないでしょう!」
「そうか?」
石動は面白そうに片眉を上げた。
「もしや中佐、なにかやましい気持ちでもあるのかね」
「ありますか、そんなもの! 僕をあの女たらしと一緒にしないでいただきたい!」
珍しく取り乱している祈織を見て、石動は喉の奥で笑っている。
どうやらこの上官、完全に面白がっているらしい。
「正気ですか、中将!? 本当に僕の家に住ませろと!?」
「仕方ないだろう。女性宿舎に空きが出るまでの辛抱だ。それに――」
そこで、石動の目がわずかに鋭くなった。
「ソフィア嬢の発作を意図的に起こした犯人がいるのなら、彼女が再び狙われる可能性もある。警戒するに越したことはない」
「……!」
その一言で、祈織は押し黙った。
確かにその通りだった。
更木家が関与しているなら、ソフィアの存在そのものが、重要な証拠になり得る。
だからこそ、向こう側が証拠隠滅のために、ソフィアを襲う危険性もあった。
「それ、は、仰る通りです……」
「うむ、決まりだな」
石動は満足そうに頷いた。
もはや、男女がどうこうと言っている場合ではない。
最優先されるべきなのは、ソフィアの安全だ。
……理屈では、分かっているのだが。
(こんなの、どう説明すればいいんだ……⁉)
祈織は本気で頭を抱えた。
つい昨日まで、顔も合わせたことがなかった少女に向かって、『今日から僕の家に住んでね』などと、どう切り出せと言うのか。
祈織は机に肘をつきながら、頭を抱えた。
そんな彼の姿を見て、石動はとうとう堪えきれなくなったらしい。
石動の愉快そうな笑い声が、部屋中に響き渡った。
