『帝国退魔軍直轄 陰陽医局副長・烏丸祈織軍医中佐』。
――それが、死神軍医と呼ばれた彼の肩書きだった。
「じゃあ、貴方は烏丸中佐の式神のヌイくん……ってことでいいのかしら?」
「あァ。普段はこの通りガキの姿なんで、混乱する奴が意外と多いんだが……」
式神の少年・ヌイはそこで言葉を切ると、ソフィアの顔を覗き込みながら、
「お前、臆病そうな顔して、意外と冷静なんだなァ?」
と言って、ニィィと不気味な笑顔を浮かべた。
……一応、称賛のつもりなのだろう、とソフィアは解釈する。
けれど、正直頭がこんがらがりそうだった。
短時間のうちに色々なことが起きたものだから、ヌイの説明を聞いて整理するのも精一杯だ。
そうしていると、病室の扉がコンコンと二回鳴らされた。
「ソフィアさん、入るよ? ……ああ、思ったより早く意識が戻ったね」
扉が開く音と、聞き覚えのある男性の声が、ソフィアの鼓膜をそっと叩く。
視線を向けると、そこには人当たりのいい笑みを浮かべる、黒髪と白衣の青年が立っていた。
「……烏丸、軍医中佐?」
「あ、覚えてた? よかった、記憶もしっかりしてるみたいだね」
祈織は安堵の表情を見せると、傍らで足をぶらぶら振っていたヌイに声をかけた。
「見守りお疲れ。休んでいいよ」
「あいよ。後でおやつ寄越せよなァ」
ヌイはそう言い残すと、祈織の足元の影にドブンと飛び込んで消えた。
「どこかつらいところはない?」
「えっ、と……少し、喉が……」
祈織に聞かれて、ソフィアはつい答えてしまった。
途中でハッと気づき、吐き出しかけた言葉を飲み込んだが、もう遅い。
『喉が渇いた』――そう自覚した瞬間、身体の奥底で眠っていた何かが、ゆっくりと目を覚ましてしまった。
「喉が渇いたの?」
「ち、違うんです! あの、お水が、欲しくて……!」
本当のことなど言えるわけがない、言っていいはずがない。
ソフィアは堪えるために、ごくりと唾を飲み込む。
渇ききった喉を、わずかな水分が頼りなく滑り落ちていくが、そんなものでは到底足りなかった。
(だめ……! 耐えなきゃ……!)
ソフィアは震える手を強く握りしめた。
爪が皮膚に食い込む痛みで、どうにか意識を繋ぎ止めようとする。
けれど、衝動は止まらない。
――血が欲しい。
――この渇きを癒したい。
――早く楽になりたい。
体に巣食った呪いが、じわじわと熱を帯びながら叫んでいる。
(違う……! 私は、人間……!)
振り払うように頭を振り、必死に否定するソフィア。
しかし、否定するたびに、かえって身体が血を求めていることを、嫌でも自覚してしまう。
喉が疼く。
目の奥が熱い。
ソフィアの鼓膜はありえないほど鮮明に、祈織の脈拍を捉えていた。
どくん。
どくん。
どくん。
白衣越しでも分かる。
薄い皮膚の下を流れる、温かな血の気配が、ありありと伝わってくる。
「……ソフィアさん。血が欲しいなら、そう言ってくれて構わないよ」
思いがけない言葉に、ソフィアはきつく閉じていた瞼を上げた。
「やっぱり、瞳が赤くなってる。今、吸血衝動起こしてるでしょ」
「!! ち、ちが……!」
反射的に否定する。
けれど、その声は情けないほど震えていた。
見開いた視界の真正面で、祈織が静かに白衣の袖を捲り上げる。
露わになった腕には、青い血管がうっすら浮かんでいた。
「ほら、噛んで。そもそも僕は、君に血を捧げるつもりでいるんだから」
「……? どういう、ことですか……?」
問い返しながらも、ソフィアの視線は彼の腕から離れなかった。
脈打つ血管。
柔らかそうな皮膚。
その下を流れる血液を、頭が勝手に想像してしまう。
温かいだろうか。
美味しいのだろうか。
喉を焼くこの渇きを、満たしてくれるのだろうか。
(……だめ!)
そんなことを考えた自分にゾッとして、ソフィアは振り切るように顔を背けた。
「は、離れて……! 私、もう……!」
もう限界だった。
これ以上近づかれたら、本当に噛みついてしまう。
この人を傷つけてしまったら、自分は本物の怪物だ。
そんなふうに耐えるソフィアを見て、祈織はほんの数秒だけ黙り込んだ。
「失敬するよ」
そして、白衣の袖から小刀のようなものを出したかと思うと――一瞬の躊躇いも感じさせない素早さで、自分の手の甲を斬りつけた。
「え――」
ぷつり、と皮膚が裂ける音。
赤い血が滲むより早く、祈織はその傷口をソフィアの唇へ強く押し当てた。
「む……っ!? んん……!」
突然のことに、ソフィアの思考は真っ白になる。
けれど、口内へ流れ込んできた温かな液体を舌が捉えた瞬間――身体がびくりと反応した。
(あ……)
鉄臭いだけだと思っていた。
気持ち悪いだけだと思っていた。
なのに。
(甘い……?)
とろけるように甘く、わずかにほろ苦い――祈織の血は、そんな甘美な味をしていた。
溶岩流のように煮えていた身体の奥へ、ひんやりと心地いい温度が広がっていく。
喉の痛みがほどけ、身体を締めつけていた飢えが、ゆっくり溶かされていく。
――もっと欲しい。
――もっと飲みたい。
そんな欲望が、理性をじわじわ侵食していく。
ソフィアはこく、こく、と夢中で喉を鳴らした。
流し込まれる血を、一滴も逃すまいとするように。
「そうそう、いい子だ。そのままゆっくり飲んで」
祈織の穏やかな声が、どこか遠くで響く。
激しかった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
身体から力が抜け、ソフィアはそのまま寝台へ崩れ落ちた。
「よし、呼吸が安定してきた。よく頑張りました」
優しく頭を撫でられ、そこでようやくソフィアは、自分がどれほど必死だったのかを理解した。
肩で荒く繰り返していた呼吸は、いつの間にか落ち着きを取り戻している。
あれほど焼けつくようだった喉の渇きも、今は嘘みたいに静まっていた。
けれど。
「い、今のは……?」
ソフィアは同時に、怯えていた。
自分は今、確かに他人の血を飲んだ。
それも、理性では止められないほど夢中になって。
その事実が実感を伴って押し寄せてくるにつれ、ソフィアは恐ろしい気持ちになった。
まるで、自分ではない自分を垣間見てしまったような……。
「安心して。今のはただの治療」
「治療……?」
ソフィアは呆然と瞬きを繰り返した。
血を飲むことが治療だなんて、そんなの聞いたことがない。
むしろ、誰かの血を口にしてしまうことこそが、怪物の証だと思っていたのに。
理解が追いつかないソフィアを見て、祈織は苦笑まじりに肩をすくめる。
「あんまり気分のいい方法じゃなくて申し訳ないんだけどね。今の君には、これが一番確実なんだ」
「でも、どうして……」
問い返しながらも、ソフィアはちらりと祈織の手元を見てしまう。
彼の手の甲には、先ほど斬りつけた赤い痕跡が残っていた。
彼自身が、ソフィアを助けるためにつけた傷――それを見ていると、胸がチリチリと痛んでくる。
「僕の血は少し特殊でね。吸血鬼の血毒は効かないし、血毒に対する強力な抗体も持っているんだ」
「抗体……?」
「うん。だから、僕の血を継続的に摂取すれば、理論上は血毒を寛解させることができる」
穏やかな説明とは裏腹に、その内容はあまりにも異様だった。
血毒を抑えるために、これからも彼の血を飲み続けなければならないなんて。
吸血鬼にならないために、吸血を繰り返すなんて。
まるで悪い冗談みたいな話だった。
ソフィアの顔色を見て、祈織は少し困ったように笑う。
「本当なら、血液から抗体だけ抽出して薬にできればいいんだけどね。そこまで研究が進んでないんだ。だから今は、どうしてもこんな方法になってしまう」
「……! ま、待ってください!」
そこでソフィアは、ハッと顔を上げた。
「じゃあ、私が今まで飲んでいた薬は……!?」
更木製薬から支給されていた薬。
あれだけが、自分を人間に繋ぎ止める唯一の希望だったはずなのに。
祈織はほんの少しだけ表情を曇らせる。
「あれは軽度患者向けの進行抑制剤だよ。君みたいな重症例には、ほとんど効果がない代物だ」
「そんな……」
信じられなかった。
あれほど必死に縋っていたものが、無意味も同然だったなんて。
薬を切らさないよう働いて、頭を下げて……あれがなければ怪物になると、本気で怯えていたのに。
「じゃあ、どうして私は……」
吸血衝動を起こしながらも、ここまで理性を保てていたのか。
「病は気から、とはよく言ったものだよねぇ」
困惑するソフィアに、祈織は半ば感心したように答えた。
「薬と思い込みだけで、よく今まで耐えてたものだよ」
「……そ、れは」
きっと、怖かったからだ。
吸血鬼になりたくない、殺されたくない、人間でいたい。
そんな恐怖と理性が、彼女をギリギリで繋ぎ止めていたのだ。
そうでなければ、ソフィアの心はどこかで折れ、発作と共に化け物になっていた。
「にしても、更木男爵も見かけによらないクズだねぇ。薬を餌に、こんなにやつれるまで女の子を働かせるなんて」
「ち、違うんです! 旦那様は母の知人で……身寄りのいない私を、雇ってくださってただけです……!」
確かに、酷い扱いを受けることは多々あったけれど、更木家に保護されていたのは事実だ。
彼らを批判する資格など、ソフィアにはない。
しかし、祈織はソフィアの言葉が意外だと言わんばかりに、目を丸くした。
「君のお母さんの知人? 更木男爵が?」
「はい。私の病を治すために、母が頼っていた先が、更木製薬で……」
それが、更木男爵から聞かされていた話だった。
病身の娘を助けるため、母は更木製薬に頭を下げていたのだと。
だからこそ、自分は更木家に恩があるのだと、ずっとそう信じていた。
けれど、祈織は眉根を寄せ、静かに首を横へ振った。
「違うよ。エミリアさんが頼ったのは、更木製薬じゃなくて、僕だよ」
「え……」
その瞬間、ソフィアの思考はぴたりと止まった。
病室に流れる時計の音。
窓の外で揺れる木々のざわめき。
それらすべてが、急に遠くなったように感じる。
「烏丸中佐……母の名前を知って……?」
掠れた声で問うと、祈織は当然のことのように頷いた。
「うん。雛守エミリアさん。そして君は、一人娘の雛守ソフィア」
どうして。
なぜ、この人が――死神軍医が。
混乱するソフィアを前に、祈織は白衣の胸ポケットへ手を差し入れた。
「これ、覚えてる?」
差し出された一枚の紙片を見て、ソフィアの呼吸が一瞬止まる。
それは、少し色褪せた写真だった。
――五年前、母が亡くなる前に撮った、最後の写真。
まだ無邪気だった頃の、栗色の髪のソフィアと、その隣で柔和に微笑む母。
写真の端には、見慣れた流麗な筆記体で名前が書かれていた。
間違えようがない――母の字だった。
「どうして……これを……」
柔らかな栗色の髪。
薬草の匂いが染みついた指先。
異国の子守唄。
胸の奥に押し込めていた記憶が、一気に溢れ出す。
祈織は写真の中のエミリアへ静かに視線を落としながら、ぽつりと答えた。
「五年前、エミリアさんから預かったんだ。彼女が吸血鬼に襲われて亡くなる、三日前だった」
祈織の声音に、大げさな悲痛さはなかった。
けれど、それがかえって、彼がその死を今も引きずっていることを感じさせた。
「エミリアさんの依頼を受けて、僕は彼女と血毒を治す方法を模索していたんだよ。でも、それを完成させる前に、彼女が亡くなってしまった」
祈織はわずかに目を伏せる。
「彼女の死後、僕は行方不明になった娘さんをずっと探してた。更木家にそれらしい異人の娘がいるって突き止めて、会わせろって手紙を送ったのがつい先日」
伏せられた黒い瞳が、再びソフィアへ向けられる。
祈織はほんの少しだけ、胸の痛そうな笑顔を浮かべた。
「迎えが遅くなってごめんね、ソフィアさん」
瞬間、ソフィアの中で、何かが音を立てて崩れた。
――死神軍医。
――悪逆非道の研究者。
――血毒患者を解剖する恐ろしい男。
そんな噂を信じ込んでいた。
だから、自分は夜会で引き渡されるのだと思っていた。
けれど違った――この人は実験台を求めていたのではなく、母と交わした約束を守ろうとしてくれたのだ。
行方不明になっていた自分を、ずっと探してくれていたのだ。
「あ……っ、ごめ、なさ」
視界が滲んでいるのに気づいた時には、既にぼろりと涙がこぼれ落ちていた。
だめだ、泣いてはいけない……そう思うのに、涙は次から次へ溢れてくる。
怖かった。
苦しかった。
ずっと、ずっと、助けてほしかった。
でも誰にも言えなかった。
言ってはいけないと思っていた。
ソフィアは引きつった喉から、どうにか言葉を絞り出した。
「助けてくれて……ありがとう、ございます……」
傷だらけだった心が、じわりと温まっていく。
まるで凍え切っていた場所へ、ようやく灯火が届いたみたいに。
ソフィアは深い安堵の中で、静かに泣き崩れた。
祈織はそんな彼女を宥めるでもなく、ただ静かに傍らで見守っていた。
――それが、死神軍医と呼ばれた彼の肩書きだった。
「じゃあ、貴方は烏丸中佐の式神のヌイくん……ってことでいいのかしら?」
「あァ。普段はこの通りガキの姿なんで、混乱する奴が意外と多いんだが……」
式神の少年・ヌイはそこで言葉を切ると、ソフィアの顔を覗き込みながら、
「お前、臆病そうな顔して、意外と冷静なんだなァ?」
と言って、ニィィと不気味な笑顔を浮かべた。
……一応、称賛のつもりなのだろう、とソフィアは解釈する。
けれど、正直頭がこんがらがりそうだった。
短時間のうちに色々なことが起きたものだから、ヌイの説明を聞いて整理するのも精一杯だ。
そうしていると、病室の扉がコンコンと二回鳴らされた。
「ソフィアさん、入るよ? ……ああ、思ったより早く意識が戻ったね」
扉が開く音と、聞き覚えのある男性の声が、ソフィアの鼓膜をそっと叩く。
視線を向けると、そこには人当たりのいい笑みを浮かべる、黒髪と白衣の青年が立っていた。
「……烏丸、軍医中佐?」
「あ、覚えてた? よかった、記憶もしっかりしてるみたいだね」
祈織は安堵の表情を見せると、傍らで足をぶらぶら振っていたヌイに声をかけた。
「見守りお疲れ。休んでいいよ」
「あいよ。後でおやつ寄越せよなァ」
ヌイはそう言い残すと、祈織の足元の影にドブンと飛び込んで消えた。
「どこかつらいところはない?」
「えっ、と……少し、喉が……」
祈織に聞かれて、ソフィアはつい答えてしまった。
途中でハッと気づき、吐き出しかけた言葉を飲み込んだが、もう遅い。
『喉が渇いた』――そう自覚した瞬間、身体の奥底で眠っていた何かが、ゆっくりと目を覚ましてしまった。
「喉が渇いたの?」
「ち、違うんです! あの、お水が、欲しくて……!」
本当のことなど言えるわけがない、言っていいはずがない。
ソフィアは堪えるために、ごくりと唾を飲み込む。
渇ききった喉を、わずかな水分が頼りなく滑り落ちていくが、そんなものでは到底足りなかった。
(だめ……! 耐えなきゃ……!)
ソフィアは震える手を強く握りしめた。
爪が皮膚に食い込む痛みで、どうにか意識を繋ぎ止めようとする。
けれど、衝動は止まらない。
――血が欲しい。
――この渇きを癒したい。
――早く楽になりたい。
体に巣食った呪いが、じわじわと熱を帯びながら叫んでいる。
(違う……! 私は、人間……!)
振り払うように頭を振り、必死に否定するソフィア。
しかし、否定するたびに、かえって身体が血を求めていることを、嫌でも自覚してしまう。
喉が疼く。
目の奥が熱い。
ソフィアの鼓膜はありえないほど鮮明に、祈織の脈拍を捉えていた。
どくん。
どくん。
どくん。
白衣越しでも分かる。
薄い皮膚の下を流れる、温かな血の気配が、ありありと伝わってくる。
「……ソフィアさん。血が欲しいなら、そう言ってくれて構わないよ」
思いがけない言葉に、ソフィアはきつく閉じていた瞼を上げた。
「やっぱり、瞳が赤くなってる。今、吸血衝動起こしてるでしょ」
「!! ち、ちが……!」
反射的に否定する。
けれど、その声は情けないほど震えていた。
見開いた視界の真正面で、祈織が静かに白衣の袖を捲り上げる。
露わになった腕には、青い血管がうっすら浮かんでいた。
「ほら、噛んで。そもそも僕は、君に血を捧げるつもりでいるんだから」
「……? どういう、ことですか……?」
問い返しながらも、ソフィアの視線は彼の腕から離れなかった。
脈打つ血管。
柔らかそうな皮膚。
その下を流れる血液を、頭が勝手に想像してしまう。
温かいだろうか。
美味しいのだろうか。
喉を焼くこの渇きを、満たしてくれるのだろうか。
(……だめ!)
そんなことを考えた自分にゾッとして、ソフィアは振り切るように顔を背けた。
「は、離れて……! 私、もう……!」
もう限界だった。
これ以上近づかれたら、本当に噛みついてしまう。
この人を傷つけてしまったら、自分は本物の怪物だ。
そんなふうに耐えるソフィアを見て、祈織はほんの数秒だけ黙り込んだ。
「失敬するよ」
そして、白衣の袖から小刀のようなものを出したかと思うと――一瞬の躊躇いも感じさせない素早さで、自分の手の甲を斬りつけた。
「え――」
ぷつり、と皮膚が裂ける音。
赤い血が滲むより早く、祈織はその傷口をソフィアの唇へ強く押し当てた。
「む……っ!? んん……!」
突然のことに、ソフィアの思考は真っ白になる。
けれど、口内へ流れ込んできた温かな液体を舌が捉えた瞬間――身体がびくりと反応した。
(あ……)
鉄臭いだけだと思っていた。
気持ち悪いだけだと思っていた。
なのに。
(甘い……?)
とろけるように甘く、わずかにほろ苦い――祈織の血は、そんな甘美な味をしていた。
溶岩流のように煮えていた身体の奥へ、ひんやりと心地いい温度が広がっていく。
喉の痛みがほどけ、身体を締めつけていた飢えが、ゆっくり溶かされていく。
――もっと欲しい。
――もっと飲みたい。
そんな欲望が、理性をじわじわ侵食していく。
ソフィアはこく、こく、と夢中で喉を鳴らした。
流し込まれる血を、一滴も逃すまいとするように。
「そうそう、いい子だ。そのままゆっくり飲んで」
祈織の穏やかな声が、どこか遠くで響く。
激しかった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
身体から力が抜け、ソフィアはそのまま寝台へ崩れ落ちた。
「よし、呼吸が安定してきた。よく頑張りました」
優しく頭を撫でられ、そこでようやくソフィアは、自分がどれほど必死だったのかを理解した。
肩で荒く繰り返していた呼吸は、いつの間にか落ち着きを取り戻している。
あれほど焼けつくようだった喉の渇きも、今は嘘みたいに静まっていた。
けれど。
「い、今のは……?」
ソフィアは同時に、怯えていた。
自分は今、確かに他人の血を飲んだ。
それも、理性では止められないほど夢中になって。
その事実が実感を伴って押し寄せてくるにつれ、ソフィアは恐ろしい気持ちになった。
まるで、自分ではない自分を垣間見てしまったような……。
「安心して。今のはただの治療」
「治療……?」
ソフィアは呆然と瞬きを繰り返した。
血を飲むことが治療だなんて、そんなの聞いたことがない。
むしろ、誰かの血を口にしてしまうことこそが、怪物の証だと思っていたのに。
理解が追いつかないソフィアを見て、祈織は苦笑まじりに肩をすくめる。
「あんまり気分のいい方法じゃなくて申し訳ないんだけどね。今の君には、これが一番確実なんだ」
「でも、どうして……」
問い返しながらも、ソフィアはちらりと祈織の手元を見てしまう。
彼の手の甲には、先ほど斬りつけた赤い痕跡が残っていた。
彼自身が、ソフィアを助けるためにつけた傷――それを見ていると、胸がチリチリと痛んでくる。
「僕の血は少し特殊でね。吸血鬼の血毒は効かないし、血毒に対する強力な抗体も持っているんだ」
「抗体……?」
「うん。だから、僕の血を継続的に摂取すれば、理論上は血毒を寛解させることができる」
穏やかな説明とは裏腹に、その内容はあまりにも異様だった。
血毒を抑えるために、これからも彼の血を飲み続けなければならないなんて。
吸血鬼にならないために、吸血を繰り返すなんて。
まるで悪い冗談みたいな話だった。
ソフィアの顔色を見て、祈織は少し困ったように笑う。
「本当なら、血液から抗体だけ抽出して薬にできればいいんだけどね。そこまで研究が進んでないんだ。だから今は、どうしてもこんな方法になってしまう」
「……! ま、待ってください!」
そこでソフィアは、ハッと顔を上げた。
「じゃあ、私が今まで飲んでいた薬は……!?」
更木製薬から支給されていた薬。
あれだけが、自分を人間に繋ぎ止める唯一の希望だったはずなのに。
祈織はほんの少しだけ表情を曇らせる。
「あれは軽度患者向けの進行抑制剤だよ。君みたいな重症例には、ほとんど効果がない代物だ」
「そんな……」
信じられなかった。
あれほど必死に縋っていたものが、無意味も同然だったなんて。
薬を切らさないよう働いて、頭を下げて……あれがなければ怪物になると、本気で怯えていたのに。
「じゃあ、どうして私は……」
吸血衝動を起こしながらも、ここまで理性を保てていたのか。
「病は気から、とはよく言ったものだよねぇ」
困惑するソフィアに、祈織は半ば感心したように答えた。
「薬と思い込みだけで、よく今まで耐えてたものだよ」
「……そ、れは」
きっと、怖かったからだ。
吸血鬼になりたくない、殺されたくない、人間でいたい。
そんな恐怖と理性が、彼女をギリギリで繋ぎ止めていたのだ。
そうでなければ、ソフィアの心はどこかで折れ、発作と共に化け物になっていた。
「にしても、更木男爵も見かけによらないクズだねぇ。薬を餌に、こんなにやつれるまで女の子を働かせるなんて」
「ち、違うんです! 旦那様は母の知人で……身寄りのいない私を、雇ってくださってただけです……!」
確かに、酷い扱いを受けることは多々あったけれど、更木家に保護されていたのは事実だ。
彼らを批判する資格など、ソフィアにはない。
しかし、祈織はソフィアの言葉が意外だと言わんばかりに、目を丸くした。
「君のお母さんの知人? 更木男爵が?」
「はい。私の病を治すために、母が頼っていた先が、更木製薬で……」
それが、更木男爵から聞かされていた話だった。
病身の娘を助けるため、母は更木製薬に頭を下げていたのだと。
だからこそ、自分は更木家に恩があるのだと、ずっとそう信じていた。
けれど、祈織は眉根を寄せ、静かに首を横へ振った。
「違うよ。エミリアさんが頼ったのは、更木製薬じゃなくて、僕だよ」
「え……」
その瞬間、ソフィアの思考はぴたりと止まった。
病室に流れる時計の音。
窓の外で揺れる木々のざわめき。
それらすべてが、急に遠くなったように感じる。
「烏丸中佐……母の名前を知って……?」
掠れた声で問うと、祈織は当然のことのように頷いた。
「うん。雛守エミリアさん。そして君は、一人娘の雛守ソフィア」
どうして。
なぜ、この人が――死神軍医が。
混乱するソフィアを前に、祈織は白衣の胸ポケットへ手を差し入れた。
「これ、覚えてる?」
差し出された一枚の紙片を見て、ソフィアの呼吸が一瞬止まる。
それは、少し色褪せた写真だった。
――五年前、母が亡くなる前に撮った、最後の写真。
まだ無邪気だった頃の、栗色の髪のソフィアと、その隣で柔和に微笑む母。
写真の端には、見慣れた流麗な筆記体で名前が書かれていた。
間違えようがない――母の字だった。
「どうして……これを……」
柔らかな栗色の髪。
薬草の匂いが染みついた指先。
異国の子守唄。
胸の奥に押し込めていた記憶が、一気に溢れ出す。
祈織は写真の中のエミリアへ静かに視線を落としながら、ぽつりと答えた。
「五年前、エミリアさんから預かったんだ。彼女が吸血鬼に襲われて亡くなる、三日前だった」
祈織の声音に、大げさな悲痛さはなかった。
けれど、それがかえって、彼がその死を今も引きずっていることを感じさせた。
「エミリアさんの依頼を受けて、僕は彼女と血毒を治す方法を模索していたんだよ。でも、それを完成させる前に、彼女が亡くなってしまった」
祈織はわずかに目を伏せる。
「彼女の死後、僕は行方不明になった娘さんをずっと探してた。更木家にそれらしい異人の娘がいるって突き止めて、会わせろって手紙を送ったのがつい先日」
伏せられた黒い瞳が、再びソフィアへ向けられる。
祈織はほんの少しだけ、胸の痛そうな笑顔を浮かべた。
「迎えが遅くなってごめんね、ソフィアさん」
瞬間、ソフィアの中で、何かが音を立てて崩れた。
――死神軍医。
――悪逆非道の研究者。
――血毒患者を解剖する恐ろしい男。
そんな噂を信じ込んでいた。
だから、自分は夜会で引き渡されるのだと思っていた。
けれど違った――この人は実験台を求めていたのではなく、母と交わした約束を守ろうとしてくれたのだ。
行方不明になっていた自分を、ずっと探してくれていたのだ。
「あ……っ、ごめ、なさ」
視界が滲んでいるのに気づいた時には、既にぼろりと涙がこぼれ落ちていた。
だめだ、泣いてはいけない……そう思うのに、涙は次から次へ溢れてくる。
怖かった。
苦しかった。
ずっと、ずっと、助けてほしかった。
でも誰にも言えなかった。
言ってはいけないと思っていた。
ソフィアは引きつった喉から、どうにか言葉を絞り出した。
「助けてくれて……ありがとう、ございます……」
傷だらけだった心が、じわりと温まっていく。
まるで凍え切っていた場所へ、ようやく灯火が届いたみたいに。
ソフィアは深い安堵の中で、静かに泣き崩れた。
祈織はそんな彼女を宥めるでもなく、ただ静かに傍らで見守っていた。
