次にソフィアが目を覚ましたのは、静かな病室だった。
窓からは柔らかな陽光が差し込み、ふっと滑り込んだ爽やかな風がソフィアの肌を撫でていく。
上半身をそっと起こし、寝台脇の小机に置かれていた眼鏡をかけた瞬間──ソフィアは仰天した。
(そんな、嘘っ……!)
視界の隅に、白い毛束が揺れているのが映っていた。
毛束を指で辿ると、それは間違いなくソフィアの頭皮へと繋がっている。
(そんな……お母さんにもらった髪色が……)
ソフィアは酷く動揺し、そして嘆いた。
亡き母と同じ栗色だった髪は、今やすっかり色を失ってしまっていた。
一体どうして、こんなことになってしまったのだろう。
(――そうだ! 私は夜会で発作を起こして、吸血鬼になりかけて……!)
発端の記憶に辿りつくと同時に、ソフィアの背筋を冷たい恐怖が撫で上げた。
それでも、辛うじて冷静さを保っていたソフィアは、恐る恐る病室の鏡の前に立つ。
(……よかった。大丈夫、変化したのは髪の色だけ……他はちゃんと戻っているわ……)
安心しなさい、とソフィアは自身に言い聞かせた。
赤くなっていた瞳は、ちゃんとヘーゼルブラウンに戻っている。
ボロボロに剥落していた肌も、今はカサカサに荒れたいつもの不健康な肌だ。
自分の尊厳は、まだ完全には失われていない。
それを確かめて、ソフィアは深呼吸をした。
「お? もう起きたのかぁ、オヒメサマぁ?」
……ところで、すぐ耳元で少年の声がした。
驚いたソフィアは「ひゃあ!」と腑抜けた悲鳴を上げてしまう。
「けらけらけ! とんだマヌケ面さらしてやんの。コレが運命のお姫様ってツラかよ」
ソフィアの背後にはいつの間にか、黒い肌をした子供が立っていた。
両目は白い前髪ですっぽり隠れており、口は耳の近くまで裂けていて、そこから覗く歯はすべてが犬歯のように尖っている。
かろうじて人間らしい姿格好をしているけれど、所々の造形が明らかに人間から逸脱している……そんな不気味な少年だった。
「ど、どちら様ですかっ……!?」
「けけけ、安心しなァ。取って食やしねえよ。オレは死神軍医の式神だからな」
「! 死神軍医って……もしかして、簪を挿した、白衣の男性のことですか?」
「お、記憶もハッキリしてるっぽいな? よしよし、上出来だぜぇ」
けらけらけ! と奇怪な笑い声を立てて、少年はソフィアが寝ていた寝台の端に腰をかけた。
「しっかしお前、最高に面倒な奴に絡まれちまったなァ。まァ、西洋かぶれのあいつが好みそうな異人顔ではあるが……」
「あいつ……とは、鷹宮中尉のこと、でしょうか?」
「あァ。あの恋愛馬鹿、世間じゃやたら英雄視されてるけど、親のコネがなきゃ雑兵で終わってたって言われるくらいのクソ無能なんだぜェ。どこにどんだけ袖の下を渡してんだか、けらけらけ!」
帝都の乙女たちを虜にするあの青年が、軍でそんな扱いを受けていたとは。
世間評と実態の乖離に驚くソフィア。
しかし、それでも意外だと思わないのは、夜会でのお粗末な振る舞いを目にしていたからだろうか。
「それより、あの方――『死神軍医』さんは、どこへ……!」
「まァまァ落ち着けや。今からちゃんと教えてやっからよ」
少年はソフィアを手招きして座らせつつ、ここまでの経緯を語り始めた。
*
夜会で発作を起こしたソフィアが、意識を失った直後。
白衣の男は、ぐらりと傾いた彼女の体を手早く抱き上げた。
「なっ……貴様、その娘に何をした!」
「眠ってもらっただけだよ。これ以上興奮させたら、本当に彼女が吸血鬼化するからね」
動揺して喚く亜蓮に淡々と返した男は、
「――ヌイ。そこに落ちた眼鏡、彼女のだから拾ってくれる?」
と、誰かに向かって呼びかける。
すると、彼の足元にあった床の一部が瞬く間に黒ずみ、むくむくと盛り上がりはじめた。
盛り上がったその場所からぬるっと飛び出てきたのは、真っ黒で筋骨隆々とした太い腕だった。
「あいよォ。っと、外枠がゆがんじまってら」
腕の持ち主は落ちていた眼鏡を指先でつまみ上げると、まるで水中から出てくるように、床の上へと這い上がった。
――黒い鬼だ。
一本角の巨体の鬼が、男の影の中から出てきたのだ。
「病院に戻ったら、急いで修理してもらおう。本当、眼鏡に詳しい人材がうちにいてよかったよ」
不気味な光景に周囲の人々がおののく中、なおも平然と会話を続ける男。
彼は鬼の指先から眼鏡を受け取ると、ソフィアを抱えたまま、何事もなかったかのようにバルコニーへと歩き出した。
「ヌイ、全速力で運んで。でも、あまり揺らさないようにね」
「まァた難しい注文しやがる。式神使いの荒いご主人様だぜ」
「ぼやくなよ。後で千匹堂の甜瓜買ってやるから」
「マジで!? それならオレ本気出すわ。ほら、乗りな」
鬼が差し出した手に、男が足をかけたところで、
「待て! その娘をどこへ連れていく気だ!?」
と、亜蓮がまた叫ぶ。
すると、男は呆れたような態度で返した。
「病院に運ぶだけだ。早く処置をしないと、彼女が危ない」
「その娘は吸血鬼だぞ! 今この場で屠らねば――」
「鷹宮中尉」
男の声が、亜蓮の喚き声を遮った。
決して大きくはない――しかし、場のすべてを押さえつけるような、重く冷たい響きだった。
「お前、この期に及んでまだ分からないのか? この娘は吸血鬼ではなく、血毒に罹患した人間だ」
「なっ……! ば、馬鹿を言うな! あんなおぞましい怪物が、人間なはず――」
「黙れよ、無能が」
もう一度、男が亜蓮の声を遮る。
今度は威圧感だけでなく、殺気に近いものまではらんでいた。
「この状況を招いたのは誰だ? お前が馬鹿みたいに騒いだからだろうが。そのせいで彼女の心拍数が上がって、急性発作が誘発された。鷹宮家の次期当主が、なぜそれに気づけない?」
祈織は視線を逸らさず、淡々と告げる。
感情的な怒鳴り声よりも鋭い非難に、亜蓮は怯んでいた。
「英雄を気取るなら、英雄らしく救い方を考えろ。それができないなら、雑兵として野垂れ死ね。そのほうが数倍マシだ」
「……っ!」
亜蓮は目を見開いた。
言葉はなくとも、酷く狼狽していたのは明白だった。
「き、貴様、何者だ……!? ただの医者が、軍人の私に説教など、許されると思って……っ」
「許されるよ。これでも、お前より階級は上だからね」
「……は?」
「陰陽医局副長・烏丸祈織。階級は軍医中佐。君の軍刀に仕込んであった『吸血鬼の毒薬』を開発した張本人。……さすがにこれで分かるね、鷹宮亜蓮中尉?」
それを聞いて一転、亜蓮の鬼気迫る表情から、瞬く間に覇気という覇気が抜け落ちていく。
「そんな、馬鹿な……死神軍医が、なぜこんなところに……!?」
「僕がどこにいようと勝手でしょう?」
亜蓮が目の前の男の正体に気づけなかったのは、無理からぬ話だった。
変わり者である死神軍医は、滅多に公の場に出ない。
それゆえに、功績と、仰々しい二つ名と、恐ろしい噂だけが一人歩きしてしまっているのだ。
言葉を失った亜蓮を一瞥し、祈織は続ける。
瞬く間に騒がしくなる空気を切り裂くように、祈織は「鷹宮中尉!」と言い放つ。
「上官への不敬については黙っておいてやる。けれど、他は全て軍本部に報告しておくからな。罪のない市民に暴言を吐き、刀を向けた、と」
「っ!?」
亜蓮の喉が、ひゅうっと音を立てる。
彼からすれば、祈織の言葉は死刑宣告にも等しいものだった。
「ヌイ、急いで。着いたらすぐに検査だ」
「あいよォ!」
鬼は男とソフィアをまとめて肩に担ぐと、バルコニーから飛び降り、夜の帝都を駆け抜けた。
窓からは柔らかな陽光が差し込み、ふっと滑り込んだ爽やかな風がソフィアの肌を撫でていく。
上半身をそっと起こし、寝台脇の小机に置かれていた眼鏡をかけた瞬間──ソフィアは仰天した。
(そんな、嘘っ……!)
視界の隅に、白い毛束が揺れているのが映っていた。
毛束を指で辿ると、それは間違いなくソフィアの頭皮へと繋がっている。
(そんな……お母さんにもらった髪色が……)
ソフィアは酷く動揺し、そして嘆いた。
亡き母と同じ栗色だった髪は、今やすっかり色を失ってしまっていた。
一体どうして、こんなことになってしまったのだろう。
(――そうだ! 私は夜会で発作を起こして、吸血鬼になりかけて……!)
発端の記憶に辿りつくと同時に、ソフィアの背筋を冷たい恐怖が撫で上げた。
それでも、辛うじて冷静さを保っていたソフィアは、恐る恐る病室の鏡の前に立つ。
(……よかった。大丈夫、変化したのは髪の色だけ……他はちゃんと戻っているわ……)
安心しなさい、とソフィアは自身に言い聞かせた。
赤くなっていた瞳は、ちゃんとヘーゼルブラウンに戻っている。
ボロボロに剥落していた肌も、今はカサカサに荒れたいつもの不健康な肌だ。
自分の尊厳は、まだ完全には失われていない。
それを確かめて、ソフィアは深呼吸をした。
「お? もう起きたのかぁ、オヒメサマぁ?」
……ところで、すぐ耳元で少年の声がした。
驚いたソフィアは「ひゃあ!」と腑抜けた悲鳴を上げてしまう。
「けらけらけ! とんだマヌケ面さらしてやんの。コレが運命のお姫様ってツラかよ」
ソフィアの背後にはいつの間にか、黒い肌をした子供が立っていた。
両目は白い前髪ですっぽり隠れており、口は耳の近くまで裂けていて、そこから覗く歯はすべてが犬歯のように尖っている。
かろうじて人間らしい姿格好をしているけれど、所々の造形が明らかに人間から逸脱している……そんな不気味な少年だった。
「ど、どちら様ですかっ……!?」
「けけけ、安心しなァ。取って食やしねえよ。オレは死神軍医の式神だからな」
「! 死神軍医って……もしかして、簪を挿した、白衣の男性のことですか?」
「お、記憶もハッキリしてるっぽいな? よしよし、上出来だぜぇ」
けらけらけ! と奇怪な笑い声を立てて、少年はソフィアが寝ていた寝台の端に腰をかけた。
「しっかしお前、最高に面倒な奴に絡まれちまったなァ。まァ、西洋かぶれのあいつが好みそうな異人顔ではあるが……」
「あいつ……とは、鷹宮中尉のこと、でしょうか?」
「あァ。あの恋愛馬鹿、世間じゃやたら英雄視されてるけど、親のコネがなきゃ雑兵で終わってたって言われるくらいのクソ無能なんだぜェ。どこにどんだけ袖の下を渡してんだか、けらけらけ!」
帝都の乙女たちを虜にするあの青年が、軍でそんな扱いを受けていたとは。
世間評と実態の乖離に驚くソフィア。
しかし、それでも意外だと思わないのは、夜会でのお粗末な振る舞いを目にしていたからだろうか。
「それより、あの方――『死神軍医』さんは、どこへ……!」
「まァまァ落ち着けや。今からちゃんと教えてやっからよ」
少年はソフィアを手招きして座らせつつ、ここまでの経緯を語り始めた。
*
夜会で発作を起こしたソフィアが、意識を失った直後。
白衣の男は、ぐらりと傾いた彼女の体を手早く抱き上げた。
「なっ……貴様、その娘に何をした!」
「眠ってもらっただけだよ。これ以上興奮させたら、本当に彼女が吸血鬼化するからね」
動揺して喚く亜蓮に淡々と返した男は、
「――ヌイ。そこに落ちた眼鏡、彼女のだから拾ってくれる?」
と、誰かに向かって呼びかける。
すると、彼の足元にあった床の一部が瞬く間に黒ずみ、むくむくと盛り上がりはじめた。
盛り上がったその場所からぬるっと飛び出てきたのは、真っ黒で筋骨隆々とした太い腕だった。
「あいよォ。っと、外枠がゆがんじまってら」
腕の持ち主は落ちていた眼鏡を指先でつまみ上げると、まるで水中から出てくるように、床の上へと這い上がった。
――黒い鬼だ。
一本角の巨体の鬼が、男の影の中から出てきたのだ。
「病院に戻ったら、急いで修理してもらおう。本当、眼鏡に詳しい人材がうちにいてよかったよ」
不気味な光景に周囲の人々がおののく中、なおも平然と会話を続ける男。
彼は鬼の指先から眼鏡を受け取ると、ソフィアを抱えたまま、何事もなかったかのようにバルコニーへと歩き出した。
「ヌイ、全速力で運んで。でも、あまり揺らさないようにね」
「まァた難しい注文しやがる。式神使いの荒いご主人様だぜ」
「ぼやくなよ。後で千匹堂の甜瓜買ってやるから」
「マジで!? それならオレ本気出すわ。ほら、乗りな」
鬼が差し出した手に、男が足をかけたところで、
「待て! その娘をどこへ連れていく気だ!?」
と、亜蓮がまた叫ぶ。
すると、男は呆れたような態度で返した。
「病院に運ぶだけだ。早く処置をしないと、彼女が危ない」
「その娘は吸血鬼だぞ! 今この場で屠らねば――」
「鷹宮中尉」
男の声が、亜蓮の喚き声を遮った。
決して大きくはない――しかし、場のすべてを押さえつけるような、重く冷たい響きだった。
「お前、この期に及んでまだ分からないのか? この娘は吸血鬼ではなく、血毒に罹患した人間だ」
「なっ……! ば、馬鹿を言うな! あんなおぞましい怪物が、人間なはず――」
「黙れよ、無能が」
もう一度、男が亜蓮の声を遮る。
今度は威圧感だけでなく、殺気に近いものまではらんでいた。
「この状況を招いたのは誰だ? お前が馬鹿みたいに騒いだからだろうが。そのせいで彼女の心拍数が上がって、急性発作が誘発された。鷹宮家の次期当主が、なぜそれに気づけない?」
祈織は視線を逸らさず、淡々と告げる。
感情的な怒鳴り声よりも鋭い非難に、亜蓮は怯んでいた。
「英雄を気取るなら、英雄らしく救い方を考えろ。それができないなら、雑兵として野垂れ死ね。そのほうが数倍マシだ」
「……っ!」
亜蓮は目を見開いた。
言葉はなくとも、酷く狼狽していたのは明白だった。
「き、貴様、何者だ……!? ただの医者が、軍人の私に説教など、許されると思って……っ」
「許されるよ。これでも、お前より階級は上だからね」
「……は?」
「陰陽医局副長・烏丸祈織。階級は軍医中佐。君の軍刀に仕込んであった『吸血鬼の毒薬』を開発した張本人。……さすがにこれで分かるね、鷹宮亜蓮中尉?」
それを聞いて一転、亜蓮の鬼気迫る表情から、瞬く間に覇気という覇気が抜け落ちていく。
「そんな、馬鹿な……死神軍医が、なぜこんなところに……!?」
「僕がどこにいようと勝手でしょう?」
亜蓮が目の前の男の正体に気づけなかったのは、無理からぬ話だった。
変わり者である死神軍医は、滅多に公の場に出ない。
それゆえに、功績と、仰々しい二つ名と、恐ろしい噂だけが一人歩きしてしまっているのだ。
言葉を失った亜蓮を一瞥し、祈織は続ける。
瞬く間に騒がしくなる空気を切り裂くように、祈織は「鷹宮中尉!」と言い放つ。
「上官への不敬については黙っておいてやる。けれど、他は全て軍本部に報告しておくからな。罪のない市民に暴言を吐き、刀を向けた、と」
「っ!?」
亜蓮の喉が、ひゅうっと音を立てる。
彼からすれば、祈織の言葉は死刑宣告にも等しいものだった。
「ヌイ、急いで。着いたらすぐに検査だ」
「あいよォ!」
鬼は男とソフィアをまとめて肩に担ぐと、バルコニーから飛び降り、夜の帝都を駆け抜けた。
