亜蓮の言葉を聞いた瞬間、ソフィアはさあっと血の気が引いていくのを感じた。
ただでさえ低い体温が、一気に零度まで急落していくような錯覚に襲われる。
「い、今の聞きました? 鷹宮中尉が婚約宣言を……!」
「いや、よく見ろ。隣のあのご令嬢、異人だぞ。婚約者は更木製薬のご令嬢だったはず……」
「じゃあ、あのご令嬢は一体……?」
人々のどよめきが、ソフィアの意識から遠ざかっていく。
こんな状況、彼女が黙っているわけがない――ぎりぎりで保たれたソフィアの理性が、次に起こる惨劇を予測する。
「どういうことですの、亜連様……」
人混みの中から、一人の少女の声が聞こえる。
人々が振り返ったその先には、ドレスの裾を握りしめた瑠璃子が立っていた。
「どうして、貴方の隣に、その女がいるの……?」
信じられない、と言わんばかりの屈辱と怒りで、瑠璃子の愛らしい顔は歪んでいた。
「違うのです、お嬢様っ! これは――」
「黙りなさい! 誰の許可を得て亜連様の手に触れているの、穢らわしい!!」
凄まじい剣幕で怒鳴り返され、ソフィアは心臓が縮み上がるのを感じた。
憧れの婚約者からないがしろにされたばかりか、目の前で自分が虐げていた女との婚約を宣言されたのだ――瑠璃子の逆鱗に触れるには十分すぎる。
巻き込まれてしまったソフィアからしてみれば、とんでもない災難だった。
しかし悪いことに、亜蓮はまったくそのことを理解していなかった。
「彼女をこれ以上侮辱するのはやめてもらおうか、更木瑠璃子。君に私の婚約者を名乗る資格はない」
「嫌よ! 亜連様、目を覚まして! その女だけは、絶対に貴方様の花嫁ではありませんわ! だって、その女は――!」
瑠璃子の叫び声を正面からもろに浴びていた、その時だった。
それまで早鐘を打っていたソフィアの心臓はついに――拍子を乱した。
(……あ)
ざわめきも、音楽も、すべてが水の底に沈んだようにぼやけていく。
甘ったるい香水のにおいに混じって、かすかに、しかし確かに、別のにおいを感じる。
――亜蓮の血の匂いだ。
(だめ……今は……!)
必死に抑えながらも、心のどこかで無理だと悟った。
ソフィアの喉は、激しい渇きを訴えていた。
耐えがたい喉の渇きはやがて牙を剥き、ソフィアの肉体を急速に蝕み始める。
(血が、血が足りない……!)
喉から腹へ、皮膚から肉へ、電気信号のようなものが伝わっていく。
ぐつぐつ煮立った大鍋の中身をかき混ぜられているかのごとく、ソフィアの内部がぐちゃぐちゃに引っ掻き回されていた。
――血毒の急性発作だ。
「――! ……なるほど、そういうことか!」
亜蓮も、ソフィアの異変を察知したのだろう。
嫌悪と敵意が色濃く表れた表情で、彼は突然、ソフィアを突き飛ばした。
硬い大理石の床に叩きつけられ、かけていた眼鏡が音を立てて転がる。
「穢れた怪物の分際で、私を蠱惑したのか。いい度胸だな……」
「ち、違います……! 私は……!」
亜蓮は憎悪の言葉を口にしながら、ソフィアを睨み付ける。
突然の事態に、華族たちから困惑と混乱の声が上がる中、
「目が赤くなってる……! あの女、吸血鬼だわ!」
と、一人の女性が金切り声を上げる。
すると、会場は瞬く間に混乱に陥った。
「ど、どうしてここに吸血鬼が……!?」
「逃げろ、血を吸われたら死ぬぞ!」
「その女を早く殺せ、中尉!」
人々は潮が引くようにその場から遠ざかり、渦中のソフィアに心ない言葉を投げつける。
亜蓮が腰に挿した軍刀を引き抜きながら近づいてくる。
「嫌、助けて……っ! 殺さないで――!」
黒いドレスを引きずりながら、ソフィアは床を這うように逃げた。
(違う、違うのに……! 私は、人間、なのに……!)
必死に否定する胸の内とは裏腹に、ソフィアの体はどんどん人から遠ざかっていく。
ヘーゼルブラウンだった瞳は、今や血のように赤くなり。
死人のように青白い肌は、陶器のようにひび割れていき。
やがて、栗色から瞬く間に白くなった髪を、亜蓮の手が鷲掴みにした。
「痛っ……! 嫌っ、やめて……!」
「我が剣の錆にしてくれる、化け物め――!」
亜蓮がソフィアを目がけて刀を振り下ろした、その瞬間。
「はい、そこまで」
という声と共に、猛烈な突風が会場に吹き込んだ。
「くぁっ……!?」
「え――?」
亜蓮の手が髪から離れ、気配が遠のいていく。
目をキツく瞑っていたソフィアには、何が起きたかよく分からなかった。
しかしたった今、舞踏場を吹き抜けたのが、ただの風でないことだけは察せられた。
(もしかして、霊力波……? でも、こんなに強い霊力波を、どうやって……!)
ソフィアは恐る恐る目を開け、状況を確かめる。
視界に映ったのは、白衣をまとった男の後ろ姿だった。
「誰……?」
震える声で、ソフィアは問いかける。
それに応えるよう、くるりと振り返って微笑みかける白衣の男。
その素顔を見た瞬間、ソフィアは身の毛もよだつような、恐怖に似た感覚を覚えた。
瑠璃子や亜蓮のようなありふれた美貌とは、あまりにもかけ離れた美しさだったからか。
(綺麗……)
だと言うのに、頭に浮かんだのは、そんな月並みな言葉だけで。
黒い詰襟と白衣をまとうその立ち姿は、まるで銀幕の中からそのまま出てきたかのような、異様なものだった。
「だ、誰だ、貴様は!」
少し離れたところから、亜蓮の叫び声が聞こえた。
すると、ソフィアの意識の外に追いやられていた群衆のざわめきが、一気に戻ってきた。
「吸血鬼を庇うなら、貴様も容赦なく――」
「斬り捨てるか? 無理だな、その鈍ら刀では」
「……っ!?」
亜蓮は手にしていた軍刀を見て、言葉を失っていた。
当然だ――先ほどまで存在していたはずの軍刀の刃は、今や跡形もなく砕けていたのだから。
亜蓮のことなど眼中にもない、といった様子で、男はソフィアの目の前に静かに屈んだ。
「君が、雛守ソフィアさんかな?」
「……! は、はい……」
名前を呼ばれて、ソフィアは戸惑いながらも頷く。
知らない相手にいきなり名前で呼ばれたのに、なぜか警戒心は起こらなかった。
目の前の彼の笑顔はとても優しげで、穏やかで――見ているだけで、心のざわめきが不思議と気にならなかった。
男はソフィアの答えを聞いて微笑むと、唇の前で人差し指を立てながら、こう言った。
「Îmi pare rău .……Am venit să te iau.」
「――!」
意図的に選んだ言葉だったのだろう。
彼が話したのは、この国の多くの人々には理解できない言語だった。
だからこそ、この場においてはただ一人――ソフィアだけが、彼の意思を正しく読み取れた。
――『遅くなってごめんね。迎えに来たよ』
ソフィアもよく知る、母の故郷の言葉。
うわべだけの囁きとは比較にならない説得力が、そこにはあった。
「もう大丈夫。少しだけ眠っていて」
男はその人差し指の先をソフィアに向けたかと思うと、トン――と彼女の額を軽く突いた。
瞬間、ソフィアの意識はそのまま闇に沈んだ。
ただでさえ低い体温が、一気に零度まで急落していくような錯覚に襲われる。
「い、今の聞きました? 鷹宮中尉が婚約宣言を……!」
「いや、よく見ろ。隣のあのご令嬢、異人だぞ。婚約者は更木製薬のご令嬢だったはず……」
「じゃあ、あのご令嬢は一体……?」
人々のどよめきが、ソフィアの意識から遠ざかっていく。
こんな状況、彼女が黙っているわけがない――ぎりぎりで保たれたソフィアの理性が、次に起こる惨劇を予測する。
「どういうことですの、亜連様……」
人混みの中から、一人の少女の声が聞こえる。
人々が振り返ったその先には、ドレスの裾を握りしめた瑠璃子が立っていた。
「どうして、貴方の隣に、その女がいるの……?」
信じられない、と言わんばかりの屈辱と怒りで、瑠璃子の愛らしい顔は歪んでいた。
「違うのです、お嬢様っ! これは――」
「黙りなさい! 誰の許可を得て亜連様の手に触れているの、穢らわしい!!」
凄まじい剣幕で怒鳴り返され、ソフィアは心臓が縮み上がるのを感じた。
憧れの婚約者からないがしろにされたばかりか、目の前で自分が虐げていた女との婚約を宣言されたのだ――瑠璃子の逆鱗に触れるには十分すぎる。
巻き込まれてしまったソフィアからしてみれば、とんでもない災難だった。
しかし悪いことに、亜蓮はまったくそのことを理解していなかった。
「彼女をこれ以上侮辱するのはやめてもらおうか、更木瑠璃子。君に私の婚約者を名乗る資格はない」
「嫌よ! 亜連様、目を覚まして! その女だけは、絶対に貴方様の花嫁ではありませんわ! だって、その女は――!」
瑠璃子の叫び声を正面からもろに浴びていた、その時だった。
それまで早鐘を打っていたソフィアの心臓はついに――拍子を乱した。
(……あ)
ざわめきも、音楽も、すべてが水の底に沈んだようにぼやけていく。
甘ったるい香水のにおいに混じって、かすかに、しかし確かに、別のにおいを感じる。
――亜蓮の血の匂いだ。
(だめ……今は……!)
必死に抑えながらも、心のどこかで無理だと悟った。
ソフィアの喉は、激しい渇きを訴えていた。
耐えがたい喉の渇きはやがて牙を剥き、ソフィアの肉体を急速に蝕み始める。
(血が、血が足りない……!)
喉から腹へ、皮膚から肉へ、電気信号のようなものが伝わっていく。
ぐつぐつ煮立った大鍋の中身をかき混ぜられているかのごとく、ソフィアの内部がぐちゃぐちゃに引っ掻き回されていた。
――血毒の急性発作だ。
「――! ……なるほど、そういうことか!」
亜蓮も、ソフィアの異変を察知したのだろう。
嫌悪と敵意が色濃く表れた表情で、彼は突然、ソフィアを突き飛ばした。
硬い大理石の床に叩きつけられ、かけていた眼鏡が音を立てて転がる。
「穢れた怪物の分際で、私を蠱惑したのか。いい度胸だな……」
「ち、違います……! 私は……!」
亜蓮は憎悪の言葉を口にしながら、ソフィアを睨み付ける。
突然の事態に、華族たちから困惑と混乱の声が上がる中、
「目が赤くなってる……! あの女、吸血鬼だわ!」
と、一人の女性が金切り声を上げる。
すると、会場は瞬く間に混乱に陥った。
「ど、どうしてここに吸血鬼が……!?」
「逃げろ、血を吸われたら死ぬぞ!」
「その女を早く殺せ、中尉!」
人々は潮が引くようにその場から遠ざかり、渦中のソフィアに心ない言葉を投げつける。
亜蓮が腰に挿した軍刀を引き抜きながら近づいてくる。
「嫌、助けて……っ! 殺さないで――!」
黒いドレスを引きずりながら、ソフィアは床を這うように逃げた。
(違う、違うのに……! 私は、人間、なのに……!)
必死に否定する胸の内とは裏腹に、ソフィアの体はどんどん人から遠ざかっていく。
ヘーゼルブラウンだった瞳は、今や血のように赤くなり。
死人のように青白い肌は、陶器のようにひび割れていき。
やがて、栗色から瞬く間に白くなった髪を、亜蓮の手が鷲掴みにした。
「痛っ……! 嫌っ、やめて……!」
「我が剣の錆にしてくれる、化け物め――!」
亜蓮がソフィアを目がけて刀を振り下ろした、その瞬間。
「はい、そこまで」
という声と共に、猛烈な突風が会場に吹き込んだ。
「くぁっ……!?」
「え――?」
亜蓮の手が髪から離れ、気配が遠のいていく。
目をキツく瞑っていたソフィアには、何が起きたかよく分からなかった。
しかしたった今、舞踏場を吹き抜けたのが、ただの風でないことだけは察せられた。
(もしかして、霊力波……? でも、こんなに強い霊力波を、どうやって……!)
ソフィアは恐る恐る目を開け、状況を確かめる。
視界に映ったのは、白衣をまとった男の後ろ姿だった。
「誰……?」
震える声で、ソフィアは問いかける。
それに応えるよう、くるりと振り返って微笑みかける白衣の男。
その素顔を見た瞬間、ソフィアは身の毛もよだつような、恐怖に似た感覚を覚えた。
瑠璃子や亜蓮のようなありふれた美貌とは、あまりにもかけ離れた美しさだったからか。
(綺麗……)
だと言うのに、頭に浮かんだのは、そんな月並みな言葉だけで。
黒い詰襟と白衣をまとうその立ち姿は、まるで銀幕の中からそのまま出てきたかのような、異様なものだった。
「だ、誰だ、貴様は!」
少し離れたところから、亜蓮の叫び声が聞こえた。
すると、ソフィアの意識の外に追いやられていた群衆のざわめきが、一気に戻ってきた。
「吸血鬼を庇うなら、貴様も容赦なく――」
「斬り捨てるか? 無理だな、その鈍ら刀では」
「……っ!?」
亜蓮は手にしていた軍刀を見て、言葉を失っていた。
当然だ――先ほどまで存在していたはずの軍刀の刃は、今や跡形もなく砕けていたのだから。
亜蓮のことなど眼中にもない、といった様子で、男はソフィアの目の前に静かに屈んだ。
「君が、雛守ソフィアさんかな?」
「……! は、はい……」
名前を呼ばれて、ソフィアは戸惑いながらも頷く。
知らない相手にいきなり名前で呼ばれたのに、なぜか警戒心は起こらなかった。
目の前の彼の笑顔はとても優しげで、穏やかで――見ているだけで、心のざわめきが不思議と気にならなかった。
男はソフィアの答えを聞いて微笑むと、唇の前で人差し指を立てながら、こう言った。
「Îmi pare rău .……Am venit să te iau.」
「――!」
意図的に選んだ言葉だったのだろう。
彼が話したのは、この国の多くの人々には理解できない言語だった。
だからこそ、この場においてはただ一人――ソフィアだけが、彼の意思を正しく読み取れた。
――『遅くなってごめんね。迎えに来たよ』
ソフィアもよく知る、母の故郷の言葉。
うわべだけの囁きとは比較にならない説得力が、そこにはあった。
「もう大丈夫。少しだけ眠っていて」
男はその人差し指の先をソフィアに向けたかと思うと、トン――と彼女の額を軽く突いた。
瞬間、ソフィアの意識はそのまま闇に沈んだ。
