「嵌められたな、これは」
祈織はさほど焦っていないようだが、ソフィアは目の前に整列した、圧倒的な数の兵士に戦慄していた。
退魔軍の討伐隊――吸血鬼や鬼、危険なあやかしを相手取る精鋭たち。
その中心に、自分たちはいる。
「どうして、退魔軍が祈織さんを……!?」
「その男が罪人だからだ、ソフィア嬢」
余裕綽々に勝ち誇った表情を浮かべた亜蓮は、ソフィアに知らしめるよう、声高に叫んだ。
「悪しき実験を繰り返した『死神』よ! 貴様の命運もこれまでだ! 貴様はこの毒薬を街の患者へ飲ませ、人を吸血鬼へ変える実験を繰り返していた! 国家転覆を企む、帝国の敵だ!」
そう言って、亜蓮は懐から薬の小瓶を取り出し、見せつけるように掲げた。
ソフィアはありふれたつまらない演劇を見せられている気分だった。
亜蓮の、悪人を追い詰めた正義の味方のような態度――恥ずかしくて目も当てられない。
こんな馬鹿げた主張など信じる気も起きないが、状況がまずいことは違いない。
亜蓮は、祈織に無実の罪を着せるつもりだ。
「そして、私の花嫁たるソフィア嬢を奪い、惑わし、我が物にしようとした!」
「誰がお前の花嫁だよ、気持ち悪い」
――ああ、そこは真っ先に否定してくれるんですね。
こんな状況だというのに、ソフィアは少しだけ安心してしまった。
「目を覚ませ、ソフィア嬢! 君の隣にいるその男は、紛れもない犯罪者だ!」
そんなソフィアの心境など露知らず、亜蓮はしつこくソフィアに訴えかける。
「私のもとへ来るんだ。今なら君だけは保護してやってもいい。先ほどの無礼な行いについても目を瞑ってやる。私は寛大だからな」
「もう嫌です、あの人……」
「分かるよ。七面倒くさいよね、あいつ」
ソフィアからあんなに拒絶されたというのに、プライドはまだまだ青天井のようだ――そんな上から目線の言葉に、誰が従うと思っているのか。
ソフィアの心はとうに祈織のもの、と理解するつもりが、彼にはまるでないのだろう。
返す言葉も出ないソフィアは、かわりに祈織の手を今一度強く握り、亜蓮を睨み返すことで、意志を示した。
「事実無根だ。そんなものを作った覚えはない」
ソフィアの意志を受け取った祈織も、毅然と反論する。
けれど、亜蓮は
「では他に誰が作るというのだ? 貴様以外の誰が、こんなものを使うというのだ!」
と、祈織をはなから悪人と決めつけるように言う。
ちりっ、と小さな火が燃えるような苛立ちを覚えたソフィアは、ここで声を上げた。
「……使った人なら、一人知っています! 私は、お仕えしていた更木家のお嬢様に、その薬を飲まされました!」
「はっ?」
ソフィアの反論は、亜蓮にとって想定外のものだったらしい。
突然何を言い出すのだ、とばかりに口を開けて呆けている。
「そのせいで、私は先日の舞踏会で発作を起こし、吸血鬼になりかけたのです」
ソフィアの主張に衝撃を受けたのか、亜蓮はしばらくぎくしゃくと動揺していたが、少しして持ち直したかと思うと、また祈織を指さして罵った。
「ソフィア嬢! それはそこの死神が与えた、事実と異なる情報だ! 君は死神に騙されて……」
「いいえ。お嬢様ご自身がお認めになりましたので、事実です」
「!?」
「私が飲んでいた治療薬を、その毒薬にすり替えて飲ませた。そして、発作を起こした私を鷹宮中尉に討ち取らせる算段だった――とお話しておいででしたよ。貴方はご存じではなかったのですか?」
ここで自分の名前が登場してしまい、亜蓮は再び狼狽えだした。
忌々しそうに歯噛みした亜蓮の顔が、ひどく醜い。
「私はそんなことを望んだ覚えはない!! だというのに、あの小娘が余計なことを……っ!!」
どうやら、ソフィアが発作を起こした件については、瑠璃子の独断だったらしい。
ソフィアはそう推察する――が、それは些末なことだ。
「あの時、助けを求めた私を、中尉はすぐに見捨てました。穢らわしい化け物だと言って、私を斬り殺そうとしましたね」
「っだから! その件についてはもうお詫びしただろう!」
「私は貴方を許すとは一言も言っていませんよ」
「ではどうすれば許してくれるのだ!?」
「許しません」
「っ!?」
当たり前だ――許せるわけがない。
だって、亜蓮はこれまで、一度たりともソフィアに誠意を見せてこなかった。
うわべだけの謝罪ですべてを帳消しにできたつもりで、勝手に話を終わらせていたのだから。
「貴方は、自分が悪いなんて欠片も思っていないのでしょう。私が自分の思い通りにならないと分かったら、また斬ろうとしたんですから。そんな人を許せるほど、私は寛大ではないのです」
「っ……では、どうして死神の肩を持つ!? どこの馬の骨かも知れない、悪しき噂にまみれたその男を、どうしてそこまで……」
「私を救ってくれたからです」
未だに理解できない様子の亜蓮に、ソフィアは突きつけるように言う。
「吸血鬼になりかけた私を、みんな恐がって逃げていく中で……烏丸中佐だけは、私を最後まで見捨てませんでした。私の命を繋いでくれました。私が今ここに立てているのは、すべて彼のおかげです」
「っ、それは君という症例を手に入れたかったからで……」
「いい加減にしてください!!」
難癖をつけてでも祈織を貶そうとする亜蓮に、ソフィアはとうとう二度目の爆発を迎えた。
「身勝手な貴方と、私に寄り添ってくれた中佐とでは、比較にならないと言っているんです!! 貴方は私を思いのままにしたいから、手を差し伸べるふりをしているだけ!! 私は貴方の人形や飼い猫ではありません!!」
たとえ、祈織との仲が引き裂かれることがあったとしても、こんな見かけだけの男の手を取ることだけは、絶対にあり得ない。
「私を救ってくれたのは、烏丸中佐です。この人を貶めることは、私が許しません」
嫌悪と敵意を込めて、ソフィアは力強く言い放った。
なにがあっても、この心が亜蓮へと傾くことはないと告げた。
「ソフィアさん、ありがとう。もう十分だ」
「祈織さん……」
怒りで上下しはじめたソフィアの肩に、祈織の手がそっと置かれる。
ここまであえて見守りに徹してくれていたのだろう――興奮したソフィアを落ち着けるよう、穏やかに微笑んでいた。
「鷹宮中尉、全てを知っていると言ったな。正直、その発言で私は失望したよ」
「なんだと? どういう意味だ」
「まあ、意訳すると――苦しい演技はやめておけ、って意味だよ」
「っ!?」
祈織はナイフを突きつけるような鋭い口調で、反撃に出た。
「昼間の瑠璃子の件を皮切りに、更木製薬の関係者たちが拘束されたことは、貴様もさすがに耳にしているだろう? 更木男爵はすでに、毒薬を密造した事実を認めている。『死神軍医が毒薬を開発した』……と悪意を持って主張している時点で、貴様はもう虚偽告訴をしたことになるぞ」
「う……っ」
「世間がどれだけ貴様の味方をしようと、私をどれだけ悪しざまに見せかけようと、退魔軍が私を犯罪者として扱うことはない。却って、貴様がただ罪を犯すことになるだけだ」
死神軍医は世間でこそ恐ろしい人物と噂されているが、退魔軍での信頼は亜蓮よりも圧倒的に上だ。
権力よりも実力を重視する退魔軍の中で、祈織が軍医中佐まで昇進している事実が、なによりそれを物語っている。
「そもそも、中尉はどうやって毒薬の存在を知った? どうして街に現れていた吸血鬼が、発作を起こした元患者だと分かった? 我々陰陽医局の力を借りずに、どうやって突き止めた?」
「そ、それは……っ、直感でそう思ったのだ! 現場を捜査して情報をかき集めて……!」
「直感だと? 発作を起こしたソフィアを患者と見抜けなかったお前が? ちゃんちゃらおかしいわ、ド阿呆が」
「あ、阿呆だと……っ!?」
祈織は悪役じみた底意地の悪い笑みを浮かべて、分かりやすく亜蓮を侮辱し始めた。
「こんな能無しが英雄として街を闊歩しているくらいなら、この国も平和だな。実に馬鹿馬鹿しい」
「黙れぇぇ!!」
挑発に乗った亜蓮が、唾を飛ばしながら喚き散らす。
額には青筋が浮かび、目は血走り、もはや新聞の一面を飾った美貌など見る影もない。
そこにいるのは、称賛を奪われることに耐えられない、醜い男だった。
「私はお前とは違う! 私は鷹宮家の次期当主で! 称賛されて然るべき人間だ! 血毒に穢された人間もどきを排除し、市民の生活を守ってやっているのだからなあ!!」
「……人間もどき?」
それまで亜蓮を嘲笑していた祈織だったが、その一言だけは、医者として許し難かったのだろう。
手を握っていたソフィアにも、彼が一気に殺気立ったのが伝わった。
「そうだとも! 私が斬ってきたのは、人間の皮を被った怪物予備軍だ!! 血毒の人間はもはや倒すべき仇敵! 人間だった事実など知ったことではない! 倒された者たちも、この私の栄華の礎となるのだ。さぞ誇らしかろうよ!」
ソフィアの中にもまた、祈織と同じような殺意に近い怒りが湧いた。
こんな男、もはや軍人の風上にも置けない──人間でさえない、おぞましい悪魔だ。
この悪魔のせいで犠牲になった人々のことを思うと、はらわたが煮えくり返りそうだ。
「市民を欺く、偽りの英雄か。こんなものに騙されていたと知ったら、市民はどんな顔をするのだろうな」
「なに、心配はいらない。貴様を全ての元凶として仕立てあげれば、バカ市民どもは信じるはずだ! 私は英雄で! 貴様は忌むべき死神なのだからなあ!!」
亜蓮はついに、市民までコケにし始めた。
ソフィアが祈織の味方だと理解した時点で、とうに本性を隠す気はなくなっていたのだろう。
「さあ、死神を捕らえろ!! 哀れなソフィア嬢もまとめて牢に送ってやれ!!」
亜蓮の号令に身構えたソフィアだったが、しかし。
隊員たちはまったく動かない。
二人に武器を向けたままの状態で、まるで時が止まったかのように静止している。
そして、祈織もまた、平然としている。
四方を囲む兵士のことなど少しも気にもせず、ただ一人――亜蓮だけを見据え続けている。
「な、何をしている!? 早く捕らえろ! ……私の命令が聞こえないのか!?」
「──げひゃひゃひゃひゃ!!」
亜蓮が再び兵士たちに呼びかけたところで、少年の奇怪な笑い声が、空間にこだました。
「もう無理だよぉ、祈織! こいつマジで気づいてねえ! もうおかしくてっ、我慢できねえよぉ! あっひゃひゃひゃひゃ!」
まるで閉鎖空間で反響するような、聞き馴染んだ笑い声。
ソフィアは亜蓮よりも早く、違和感に気づいた。
――なぜ、開放された建物の外で、音が反響しているのだ。
「誰だ!? 何を笑っている!?」
「本っ当、英雄の最後を飾るに相応しい演説だったよ。まさに愉快痛快ってやつだ。――じゃあ、そろそろ幕引きと行こうか」
祈織がそう言った途端――三者を囲んでいた風景にヒビが入り、卵の殻のように割れ始めた。
天井から壁に向かって、あたり一面の風景がガラガラと崩れ落ちていく。
夜露のにおいをまとった風が吹き抜け、淀んだ空気が新鮮なものへと入れ替わっていく。
「は……? ここは、広場……?」
祭の会場入口ではない。
昼間、ソフィアが壱子とともに昼食をとっていた広場だ。
それに付随して、ソフィアはもう一つ、あることを思い出した。
――確か、ここには放送設備があったような……。
「はいどーぞ! 今のお気持ちをひとつ叫んでみなぁ」
亜蓮の足元からぬるっと現れたヌイが、彼の口元へ、音声収集用の『マイク』と呼ばれる機械を持ってくる。
ここで、ようやくすべてを察した亜蓮が、見るも無惨に青ざめた。
「ま、まさか……っ!? 貴様ああああああああ――っっっ!?」
キィィィィン!! という鼓膜が裂けるような不快音。
それと共に、亜蓮の悲鳴に似た絶叫が、帝都中のスピーカーとラジオから響いた。
祈織はさほど焦っていないようだが、ソフィアは目の前に整列した、圧倒的な数の兵士に戦慄していた。
退魔軍の討伐隊――吸血鬼や鬼、危険なあやかしを相手取る精鋭たち。
その中心に、自分たちはいる。
「どうして、退魔軍が祈織さんを……!?」
「その男が罪人だからだ、ソフィア嬢」
余裕綽々に勝ち誇った表情を浮かべた亜蓮は、ソフィアに知らしめるよう、声高に叫んだ。
「悪しき実験を繰り返した『死神』よ! 貴様の命運もこれまでだ! 貴様はこの毒薬を街の患者へ飲ませ、人を吸血鬼へ変える実験を繰り返していた! 国家転覆を企む、帝国の敵だ!」
そう言って、亜蓮は懐から薬の小瓶を取り出し、見せつけるように掲げた。
ソフィアはありふれたつまらない演劇を見せられている気分だった。
亜蓮の、悪人を追い詰めた正義の味方のような態度――恥ずかしくて目も当てられない。
こんな馬鹿げた主張など信じる気も起きないが、状況がまずいことは違いない。
亜蓮は、祈織に無実の罪を着せるつもりだ。
「そして、私の花嫁たるソフィア嬢を奪い、惑わし、我が物にしようとした!」
「誰がお前の花嫁だよ、気持ち悪い」
――ああ、そこは真っ先に否定してくれるんですね。
こんな状況だというのに、ソフィアは少しだけ安心してしまった。
「目を覚ませ、ソフィア嬢! 君の隣にいるその男は、紛れもない犯罪者だ!」
そんなソフィアの心境など露知らず、亜蓮はしつこくソフィアに訴えかける。
「私のもとへ来るんだ。今なら君だけは保護してやってもいい。先ほどの無礼な行いについても目を瞑ってやる。私は寛大だからな」
「もう嫌です、あの人……」
「分かるよ。七面倒くさいよね、あいつ」
ソフィアからあんなに拒絶されたというのに、プライドはまだまだ青天井のようだ――そんな上から目線の言葉に、誰が従うと思っているのか。
ソフィアの心はとうに祈織のもの、と理解するつもりが、彼にはまるでないのだろう。
返す言葉も出ないソフィアは、かわりに祈織の手を今一度強く握り、亜蓮を睨み返すことで、意志を示した。
「事実無根だ。そんなものを作った覚えはない」
ソフィアの意志を受け取った祈織も、毅然と反論する。
けれど、亜蓮は
「では他に誰が作るというのだ? 貴様以外の誰が、こんなものを使うというのだ!」
と、祈織をはなから悪人と決めつけるように言う。
ちりっ、と小さな火が燃えるような苛立ちを覚えたソフィアは、ここで声を上げた。
「……使った人なら、一人知っています! 私は、お仕えしていた更木家のお嬢様に、その薬を飲まされました!」
「はっ?」
ソフィアの反論は、亜蓮にとって想定外のものだったらしい。
突然何を言い出すのだ、とばかりに口を開けて呆けている。
「そのせいで、私は先日の舞踏会で発作を起こし、吸血鬼になりかけたのです」
ソフィアの主張に衝撃を受けたのか、亜蓮はしばらくぎくしゃくと動揺していたが、少しして持ち直したかと思うと、また祈織を指さして罵った。
「ソフィア嬢! それはそこの死神が与えた、事実と異なる情報だ! 君は死神に騙されて……」
「いいえ。お嬢様ご自身がお認めになりましたので、事実です」
「!?」
「私が飲んでいた治療薬を、その毒薬にすり替えて飲ませた。そして、発作を起こした私を鷹宮中尉に討ち取らせる算段だった――とお話しておいででしたよ。貴方はご存じではなかったのですか?」
ここで自分の名前が登場してしまい、亜蓮は再び狼狽えだした。
忌々しそうに歯噛みした亜蓮の顔が、ひどく醜い。
「私はそんなことを望んだ覚えはない!! だというのに、あの小娘が余計なことを……っ!!」
どうやら、ソフィアが発作を起こした件については、瑠璃子の独断だったらしい。
ソフィアはそう推察する――が、それは些末なことだ。
「あの時、助けを求めた私を、中尉はすぐに見捨てました。穢らわしい化け物だと言って、私を斬り殺そうとしましたね」
「っだから! その件についてはもうお詫びしただろう!」
「私は貴方を許すとは一言も言っていませんよ」
「ではどうすれば許してくれるのだ!?」
「許しません」
「っ!?」
当たり前だ――許せるわけがない。
だって、亜蓮はこれまで、一度たりともソフィアに誠意を見せてこなかった。
うわべだけの謝罪ですべてを帳消しにできたつもりで、勝手に話を終わらせていたのだから。
「貴方は、自分が悪いなんて欠片も思っていないのでしょう。私が自分の思い通りにならないと分かったら、また斬ろうとしたんですから。そんな人を許せるほど、私は寛大ではないのです」
「っ……では、どうして死神の肩を持つ!? どこの馬の骨かも知れない、悪しき噂にまみれたその男を、どうしてそこまで……」
「私を救ってくれたからです」
未だに理解できない様子の亜蓮に、ソフィアは突きつけるように言う。
「吸血鬼になりかけた私を、みんな恐がって逃げていく中で……烏丸中佐だけは、私を最後まで見捨てませんでした。私の命を繋いでくれました。私が今ここに立てているのは、すべて彼のおかげです」
「っ、それは君という症例を手に入れたかったからで……」
「いい加減にしてください!!」
難癖をつけてでも祈織を貶そうとする亜蓮に、ソフィアはとうとう二度目の爆発を迎えた。
「身勝手な貴方と、私に寄り添ってくれた中佐とでは、比較にならないと言っているんです!! 貴方は私を思いのままにしたいから、手を差し伸べるふりをしているだけ!! 私は貴方の人形や飼い猫ではありません!!」
たとえ、祈織との仲が引き裂かれることがあったとしても、こんな見かけだけの男の手を取ることだけは、絶対にあり得ない。
「私を救ってくれたのは、烏丸中佐です。この人を貶めることは、私が許しません」
嫌悪と敵意を込めて、ソフィアは力強く言い放った。
なにがあっても、この心が亜蓮へと傾くことはないと告げた。
「ソフィアさん、ありがとう。もう十分だ」
「祈織さん……」
怒りで上下しはじめたソフィアの肩に、祈織の手がそっと置かれる。
ここまであえて見守りに徹してくれていたのだろう――興奮したソフィアを落ち着けるよう、穏やかに微笑んでいた。
「鷹宮中尉、全てを知っていると言ったな。正直、その発言で私は失望したよ」
「なんだと? どういう意味だ」
「まあ、意訳すると――苦しい演技はやめておけ、って意味だよ」
「っ!?」
祈織はナイフを突きつけるような鋭い口調で、反撃に出た。
「昼間の瑠璃子の件を皮切りに、更木製薬の関係者たちが拘束されたことは、貴様もさすがに耳にしているだろう? 更木男爵はすでに、毒薬を密造した事実を認めている。『死神軍医が毒薬を開発した』……と悪意を持って主張している時点で、貴様はもう虚偽告訴をしたことになるぞ」
「う……っ」
「世間がどれだけ貴様の味方をしようと、私をどれだけ悪しざまに見せかけようと、退魔軍が私を犯罪者として扱うことはない。却って、貴様がただ罪を犯すことになるだけだ」
死神軍医は世間でこそ恐ろしい人物と噂されているが、退魔軍での信頼は亜蓮よりも圧倒的に上だ。
権力よりも実力を重視する退魔軍の中で、祈織が軍医中佐まで昇進している事実が、なによりそれを物語っている。
「そもそも、中尉はどうやって毒薬の存在を知った? どうして街に現れていた吸血鬼が、発作を起こした元患者だと分かった? 我々陰陽医局の力を借りずに、どうやって突き止めた?」
「そ、それは……っ、直感でそう思ったのだ! 現場を捜査して情報をかき集めて……!」
「直感だと? 発作を起こしたソフィアを患者と見抜けなかったお前が? ちゃんちゃらおかしいわ、ド阿呆が」
「あ、阿呆だと……っ!?」
祈織は悪役じみた底意地の悪い笑みを浮かべて、分かりやすく亜蓮を侮辱し始めた。
「こんな能無しが英雄として街を闊歩しているくらいなら、この国も平和だな。実に馬鹿馬鹿しい」
「黙れぇぇ!!」
挑発に乗った亜蓮が、唾を飛ばしながら喚き散らす。
額には青筋が浮かび、目は血走り、もはや新聞の一面を飾った美貌など見る影もない。
そこにいるのは、称賛を奪われることに耐えられない、醜い男だった。
「私はお前とは違う! 私は鷹宮家の次期当主で! 称賛されて然るべき人間だ! 血毒に穢された人間もどきを排除し、市民の生活を守ってやっているのだからなあ!!」
「……人間もどき?」
それまで亜蓮を嘲笑していた祈織だったが、その一言だけは、医者として許し難かったのだろう。
手を握っていたソフィアにも、彼が一気に殺気立ったのが伝わった。
「そうだとも! 私が斬ってきたのは、人間の皮を被った怪物予備軍だ!! 血毒の人間はもはや倒すべき仇敵! 人間だった事実など知ったことではない! 倒された者たちも、この私の栄華の礎となるのだ。さぞ誇らしかろうよ!」
ソフィアの中にもまた、祈織と同じような殺意に近い怒りが湧いた。
こんな男、もはや軍人の風上にも置けない──人間でさえない、おぞましい悪魔だ。
この悪魔のせいで犠牲になった人々のことを思うと、はらわたが煮えくり返りそうだ。
「市民を欺く、偽りの英雄か。こんなものに騙されていたと知ったら、市民はどんな顔をするのだろうな」
「なに、心配はいらない。貴様を全ての元凶として仕立てあげれば、バカ市民どもは信じるはずだ! 私は英雄で! 貴様は忌むべき死神なのだからなあ!!」
亜蓮はついに、市民までコケにし始めた。
ソフィアが祈織の味方だと理解した時点で、とうに本性を隠す気はなくなっていたのだろう。
「さあ、死神を捕らえろ!! 哀れなソフィア嬢もまとめて牢に送ってやれ!!」
亜蓮の号令に身構えたソフィアだったが、しかし。
隊員たちはまったく動かない。
二人に武器を向けたままの状態で、まるで時が止まったかのように静止している。
そして、祈織もまた、平然としている。
四方を囲む兵士のことなど少しも気にもせず、ただ一人――亜蓮だけを見据え続けている。
「な、何をしている!? 早く捕らえろ! ……私の命令が聞こえないのか!?」
「──げひゃひゃひゃひゃ!!」
亜蓮が再び兵士たちに呼びかけたところで、少年の奇怪な笑い声が、空間にこだました。
「もう無理だよぉ、祈織! こいつマジで気づいてねえ! もうおかしくてっ、我慢できねえよぉ! あっひゃひゃひゃひゃ!」
まるで閉鎖空間で反響するような、聞き馴染んだ笑い声。
ソフィアは亜蓮よりも早く、違和感に気づいた。
――なぜ、開放された建物の外で、音が反響しているのだ。
「誰だ!? 何を笑っている!?」
「本っ当、英雄の最後を飾るに相応しい演説だったよ。まさに愉快痛快ってやつだ。――じゃあ、そろそろ幕引きと行こうか」
祈織がそう言った途端――三者を囲んでいた風景にヒビが入り、卵の殻のように割れ始めた。
天井から壁に向かって、あたり一面の風景がガラガラと崩れ落ちていく。
夜露のにおいをまとった風が吹き抜け、淀んだ空気が新鮮なものへと入れ替わっていく。
「は……? ここは、広場……?」
祭の会場入口ではない。
昼間、ソフィアが壱子とともに昼食をとっていた広場だ。
それに付随して、ソフィアはもう一つ、あることを思い出した。
――確か、ここには放送設備があったような……。
「はいどーぞ! 今のお気持ちをひとつ叫んでみなぁ」
亜蓮の足元からぬるっと現れたヌイが、彼の口元へ、音声収集用の『マイク』と呼ばれる機械を持ってくる。
ここで、ようやくすべてを察した亜蓮が、見るも無惨に青ざめた。
「ま、まさか……っ!? 貴様ああああああああ――っっっ!?」
キィィィィン!! という鼓膜が裂けるような不快音。
それと共に、亜蓮の悲鳴に似た絶叫が、帝都中のスピーカーとラジオから響いた。

