教えてもらえなかったことに、不満はない。
……ただ、不安だった。
ソフィアは物思いに耽りながら、西日の色に染まった陰陽学校の廊下を歩いていた。
窓から差し込む夕焼けが、長い影を床へと落としている。
――大手製薬会社の更木製薬で、血毒の発作を促す薬が製造されていた疑いがある。
そんな話が新聞やラジオで報じられれば、国全体に衝撃と混乱をもたらすことになるだろう。
それほど重大なことを知ってしまったからこそ、ソフィアは不安だった。
――祈織はもしかして、軍医の仕事以上に危険な任務に関わっているのではないか。
(私、きっと守られてたんだ)
祈織に導かれ、少しずつ強くなれた気がしていた。
けれど実際は、ただぬくぬくとした安全地帯で、何も知らされないまま保護されていただけなのだ。
誰かからの悪意や危険に怯えることなく、祈織や周囲の人々に守られていた。
(……祈織さんが、よく笑っていた理由も分かった気がする)
祈織は、事件に巻き込まれてしまったソフィアを不安にさせないため、本来以上に明るく振る舞っていたのかもしれない。
余裕そうな、あの柔和な笑顔の裏では、ずっと危険と向き合っていたのだ。
その苦労にも気づかないまま、甘えていたことに、ソフィアはどうしようもなく腹が立った。
(……ちゃんと、聞かなきゃ)
これ以上、何も知らないまま過ごすなんて、そんなの絶対に嫌だ。
すべてを把握することはできなくても、せめて自分に関わることだけは知っておかなければ。
(私も、強くならなきゃ)
自分のせいで祈織が傷つくなんて、あってはいけない。
最低限、自分の身は自分で守れるようにならなければ。
臆病な自分から、生まれ変わらなければ。
……そんなことを考えているうちに、ソフィアはいつの間にか図書室へ辿り着いていた。
「……なにか、他にも使える術があるかしら」
独り言と共に、ソフィアは図書室の中へ足を踏み入れた。
コツ、コツ、というソフィアの控えめな靴音だけが、誰もいない空間に響き渡る。
なにかいい参考書を見つけたら、後で本屋さんで買うつもりで、黙々と本棚を物色する。
ふと、ソフィアは本棚の一番上の段に気になる本を見つけて、手を伸ばした。
「う~……届か、ないぃ……!」
こんなとき、祈織が一緒にいれば、すぐに気づいて本を取ってくれるのだろう。
あの時は動揺したのが思いきり顔に出て、恥ずかしかったな……と、ソフィアはほんのり頬が熱くなるのを感じた。
「これかい? ソフィア嬢」
その直後、背後から耳元にかかるように話しかけられる。
気色の悪い、甘く繕った声。
鼻が痛くなるような、香水のきつい匂い。
まるで、春の陽気が冬の冷気に逆戻りしたようだった。
なにやら覚えのある嫌悪感が、ソフィアの背筋をぞわりと撫であげる。
「勉強熱心なんだね、君は。令嬢として実に好ましい。傲慢な瑠璃子とは雲泥の差だ」
「鷹宮、中尉……」
錆びたブリキの人形のように後ろを振り返ると、ねっとりとした微笑みを浮かべる鷹宮亜蓮が、ソフィアのすぐ後ろに立っていた。
「い、いやっ……っ離れて、ください!」
逃げなければ。
誰もいない図書館の奥では、助けなど期待できない。
自分の力で抵抗しなければ。
ソフィアは亜蓮の体を押しのけようとするが、まだ恐怖が勝っているせいで、腕に上手く力が入らなかった。
「落ち着いてくれ、ソフィア嬢。何もしないから、私の話を聞くんだ」
「嫌ですっ、離して! 触らないでっ!」
「私は君を迎えに来たんだ、ソフィア嬢。あの死神は、君の居場所として相応しくない。私は君のためを思って言っているんだよ」
亜蓮は、まるで聞き分けのない子供を宥めるような口調で言う。
けれど、言葉は少しもソフィアの耳に入ってこなかった。
手首を掴む亜蓮の手の感触が、気持ち悪くてたまらない――まるで、大きな毛虫が這っているようだ。
そうして必死にもみ合っていると、ソフィアが懐にしまっていた花の水晶玉が、ぽろっと転がり落ちた。
「あっ……!」
水晶玉がパリン! と音を立てて割れたかと思うと、中に入っていた咲きかけの花が飛び出た。
亜蓮の注意が、すぐさま床に落ちた花のほうへ向く。
「これは……藤の花?」
亜蓮は掴んでいたソフィアの手首を放り投げるように離し、落ちた花を拾い上げる。
「っ、返してください! お願いですから、返して……っ! それは、あの人に贈るための――!」
祈織に渡すために咲かせた特別な花。
たった二週間ではあったけれど、その中でありったけの想いを込めた、大切な贈り物。
頼むから何もしないでくれ、そのまま返してくれ、とソフィアは懇願した。
けれど。
「ただの花だろう? 大袈裟な。こんなもの、あの冷血漢に渡したところで、なんの意味もない」
亜蓮はそう吐き捨てる。
まるで、子供の遊びをたしなめるような口調だった。
「君は分かっていないんだ。烏丸祈織は、得体の知れない危険な男だ。あんな男に執着する必要はない。君は私の庇護下で、穏やかに生きればいいんだよ」
そして、花を床に叩きつけたかと思うと、ソフィアが急いで拾い上げる前に、かかとで潰すように踏みつけた。
「ぁっ――」
パキッ、と踏みつけられた花が音を立てたのと同時に、ソフィアの喉の奥から、ほんの小さく声が漏れた。
彼女の目と鼻の先で、亜蓮のブーツがぐりぐりとしつこく、花をすり潰していく。
「いくら私でも、不快に思うことだってあるんだよ。先日あれほど警告したのに、どうして君はあの男を慕い続けるんだい?」
「あ、あ――」
ソフィアの胸の中から、何かがポトッ……と抜け落ちた。
それは、先ほどまで頭の中を巡っていた、命乞いにも似ている、哀れで悲しい感情だ。
喩えるなら、目の前で生卵が落ちるのを見たときの、あっ! という一瞬の絶望感。
それが何倍にも、何万倍にも、増幅されて、引き延ばされて、ソフィアの中で再生されている。
――あ……これ、前にもあった……
踏み潰された花の残骸を目にしてよぎったのは、瑠璃子に父の形見の指輪を取られたときの記憶だった。
思えばあの時、なぜ自分は湧き上がった感情を抑え込んでしまったのだろう。
状況は同じだったはずだ――大切な宝物を穢されて、そこに込められた想いを踏みにじられて。
考えるより先に叫び、瑠璃子に掴みかかっていたのは、間違いなく――ソフィアの胸に、怒りが宿っていたからだ。
けれど、ソフィアは最終的に怒る選択をしなかった。
それは果たして、どうしてか。
――ああ、そうか。私、怖かったんだ。
自分を失ってしまうのが、怖かったのだ。
怒りでわけが分からなくなって、そのまま自分でなくなってしまうような、あの感覚が。
血毒に心を蝕まれていくのにも似た、あの錯覚が。
――あれは、きっと大きな間違いだった。
――私はあの時、怒るべきだった。
――そうしなかったから、お嬢様は私を虐めたんだ。
何をしても怒らない、牙を剥かない、軟弱者。
何をされても許してしまう……否、許すことしかできない、臆病者。
どうしようもなく脆く、どうしようもなく怖がりな、弱虫。
それが第三者から見た、ソフィアという少女だ。
――怒らなきゃ。このまま否定させたら、ダメだ。
――そうしなければ、私はまたこの人に殺される。
こんなつまらない男に、祈織への想いを踏みにじられたままでたまるか。
この心を好きなようにされて、たまるものか――!
「――る、さない……許さ、ない……っ!」
涙がこぼれるのと共に、ソフィアの体の芯から、何かがあふれ出た。
増水した川の水圧が、堤防を内から外へ決壊させるように――ソフィアの怒りが、霊力と共にどうっと爆発した。
本棚がガタガタと音を立て、窓硝子がびりびりと軋む。
「なっ、ソフィア嬢っ……!?」
「許さない……! 祈織さんのための、大切なお花だったのに……っ! 絶対、壊されたくなかったのに!! 絶っ対に許さない……!!」
今まで体の奥に封じ込めていた霊力が、一気に解放されたのだろう。
恐ろしい力だと、ソフィア自身も感じていた。
けれど、今更抑えたりはしない――ソフィアはもう、怒ると決めたのだから。
「落ち着くんだ、ソフィア嬢……た、確かに乱暴なやり方だったが、あれは君の目を覚ますためで――」
「黙ってください!! 私は何度も何度も嫌だって言ったのに!! どうしてそんな酷いことをするんですか!!」
どうして、人が傷つくことを平然と行えるのだ。
どうして、何度言ってもやめてくれないのだ。
どうして、私の恋を否定し続けるのだ。
いくつもの『どうして』が浮かび上がる度に、ソフィアの奥から、激しい怒りがこみ上げた。
「貴方なんて、大っ嫌い!! しつこく私につきまとわないで!!」
「っ、いい加減にしろ! 私の言うことを聞くんだ――」
亜蓮の手が、またソフィアを掴もうと伸びてくる。
それを拒むように、ソフィアはありったけの霊力を放つ。
術式も、詠唱もない、ただ拒絶する意志だけを乗せた、荒々しい霊力の波。
それが、亜蓮の体を後ろへ吹き飛ばした。
無様に転がっていく亜蓮を見て、ソフィアは(やった……!)と気を緩めた。
「――うっ!?」
気を緩めた瞬間――多量の霊力を放った代償が、早くも返ってきた。
――喉が、激しく渇く。
――喉の渇きが、ソフィアに牙を剥く。
――喉から腹へ、皮膚から肉へ、うるさい鐘の音が響くように、信号が伝わっていく。
(だめ……っ! こんなところで、吸血鬼になるわけには……!)
けれど、ソフィアの意志を飲み込むように、血毒は急速に彼女を蝕んでいく。
肌に亀裂が入り、ボロボロと剥落していく。
「は、はは……それ見たことか。無理やり霊力を使ったツケが返ってきた!」
体を起こした亜蓮が、再び近づいてくる。
何とか抵抗を試みるソフィアだが、体に上手く力が入らない。
「だが、同じ過ちはもう冒さない。君が血毒だということは知っている。血を飲めば衝動は治まるのだろう? 降伏するなら、私の血をやっても――」
「いりません」
ソフィアはきっぱりと述べ、差し伸べられた亜蓮の手をぴしゃりと叩く。
この男に命乞いなど、今更するつもりはない。
「貴方の香水臭い血を飲むなんて、一滴でもまっぴらですよ。そんなもので救われるくらいなら、殺された方がまだいい……!」
「こ、の……っ!」
祈織やヌイを見て覚えた悪態をつきながら、ソフィアは抵抗を続ける。
最期の最後まで、誇り高く散ってやるつもりで言う。
「――まったくもって救いがたい女だ!!」
抜き放たれた軍刀が、ソフィアの頭上へ振り上げられる。
しかし、それが振り下ろされることはなかった。
「な……!? なんで、また剣が錆びて……!?」
ソフィアが先ほど放った霊力波は、ただの衝撃波ではなかった。
夜会で、祈織が亜蓮の軍刀を砕いた時の術――鉄を腐食させ、脆くする術。
不完全ながらも、ソフィアはそれを再現していた。
亜蓮の刀は、いまやただの棒切れも同然だ。
すると突然、
バァァン!!
と、大爆発が起きたかのように、図書室のドアが弾け飛んだ。
「気持ち悪いんだよ、クソ野郎!!」
ドスの利いた罵声と共に、祈織が遅れて飛び込んでくる。
真っ黒な弾丸のような勢いの跳び蹴りが、亜蓮の横っ面に炸裂した。
先ほどのソフィアの霊力波にも劣らない勢いで、亜蓮の体は再び吹っ飛び、後方の本棚へ激突する。
「ソフィアさん、飲んで!」
亜蓮の上に、本棚から落ちてきた大量の本がばさばさと降り注ぐ。
その隙に、祈織は迷わず自分の指先を噛み切って、それをソフィアの口へ押し込んだ。
傷口から流れ出た彼の甘い血が、喉の渇きを急速に癒やし、発作を鎮めていく。
「――っのおお! どいつもこいつも私を……っ!!」
本の山から亜蓮が顔を出す。
蹴られたときに口を怪我したのだろう――整っていた輪郭は大きく真っ赤に腫れ上がり、口の端からは血を流し、ついでに歯も一本折れていた。
「こっちだ!」
祈織はソフィアを立ち上がらせると、腕を引いて走り出した。
「待てぇええ!! 逃がさんぞ、死神ぃい!!」
新聞の一面を飾っていた美貌はどこへやら、憤怒に駆られた亜蓮は、今や怪物も顔負けの迫力だった。
日が沈んだ屋外に出た祈織は、そのまま近くの転移装置を作動させる。
すっと体が溶けていくような感覚の後、二人は祭の会場の入口まで移動していた。
しかし。
「あ……っ!」
ソフィアは目の前の光景に、血の気が引いた。
周辺を、二人を待ち構えていた退魔軍の討伐隊たちが囲んでいる。
携えられた武器の矛先は、ソフィアと祈織へ向けられていた。
「ははははっ、馬鹿め! まんまと引っかかったな、死神!!」
後から追いついた亜蓮が、声を上げて笑う。
彼は血の滲む口元を歪め、勝ち誇ったように叫んだ。
「私は今こそ、この死神に囚われた哀れな吸血鬼を救い出す! 抵抗するならば――討伐もやむを得まい!」
ソフィアは息を呑んだ。
これは、最初から仕組まれていたのだ――ソフィアが恐怖することも、祈織が助けに来ることも。
向こうは全て想定していた。
まんまと亜蓮の描いた『英雄譚』の舞台に引きずり出されてしまったのだ。
「……大丈夫。僕から離れないで」
傍らの祈織が、静かに囁く。
けれどその横顔には、かつてないほど鋭い怒りが宿っていた。
……ただ、不安だった。
ソフィアは物思いに耽りながら、西日の色に染まった陰陽学校の廊下を歩いていた。
窓から差し込む夕焼けが、長い影を床へと落としている。
――大手製薬会社の更木製薬で、血毒の発作を促す薬が製造されていた疑いがある。
そんな話が新聞やラジオで報じられれば、国全体に衝撃と混乱をもたらすことになるだろう。
それほど重大なことを知ってしまったからこそ、ソフィアは不安だった。
――祈織はもしかして、軍医の仕事以上に危険な任務に関わっているのではないか。
(私、きっと守られてたんだ)
祈織に導かれ、少しずつ強くなれた気がしていた。
けれど実際は、ただぬくぬくとした安全地帯で、何も知らされないまま保護されていただけなのだ。
誰かからの悪意や危険に怯えることなく、祈織や周囲の人々に守られていた。
(……祈織さんが、よく笑っていた理由も分かった気がする)
祈織は、事件に巻き込まれてしまったソフィアを不安にさせないため、本来以上に明るく振る舞っていたのかもしれない。
余裕そうな、あの柔和な笑顔の裏では、ずっと危険と向き合っていたのだ。
その苦労にも気づかないまま、甘えていたことに、ソフィアはどうしようもなく腹が立った。
(……ちゃんと、聞かなきゃ)
これ以上、何も知らないまま過ごすなんて、そんなの絶対に嫌だ。
すべてを把握することはできなくても、せめて自分に関わることだけは知っておかなければ。
(私も、強くならなきゃ)
自分のせいで祈織が傷つくなんて、あってはいけない。
最低限、自分の身は自分で守れるようにならなければ。
臆病な自分から、生まれ変わらなければ。
……そんなことを考えているうちに、ソフィアはいつの間にか図書室へ辿り着いていた。
「……なにか、他にも使える術があるかしら」
独り言と共に、ソフィアは図書室の中へ足を踏み入れた。
コツ、コツ、というソフィアの控えめな靴音だけが、誰もいない空間に響き渡る。
なにかいい参考書を見つけたら、後で本屋さんで買うつもりで、黙々と本棚を物色する。
ふと、ソフィアは本棚の一番上の段に気になる本を見つけて、手を伸ばした。
「う~……届か、ないぃ……!」
こんなとき、祈織が一緒にいれば、すぐに気づいて本を取ってくれるのだろう。
あの時は動揺したのが思いきり顔に出て、恥ずかしかったな……と、ソフィアはほんのり頬が熱くなるのを感じた。
「これかい? ソフィア嬢」
その直後、背後から耳元にかかるように話しかけられる。
気色の悪い、甘く繕った声。
鼻が痛くなるような、香水のきつい匂い。
まるで、春の陽気が冬の冷気に逆戻りしたようだった。
なにやら覚えのある嫌悪感が、ソフィアの背筋をぞわりと撫であげる。
「勉強熱心なんだね、君は。令嬢として実に好ましい。傲慢な瑠璃子とは雲泥の差だ」
「鷹宮、中尉……」
錆びたブリキの人形のように後ろを振り返ると、ねっとりとした微笑みを浮かべる鷹宮亜蓮が、ソフィアのすぐ後ろに立っていた。
「い、いやっ……っ離れて、ください!」
逃げなければ。
誰もいない図書館の奥では、助けなど期待できない。
自分の力で抵抗しなければ。
ソフィアは亜蓮の体を押しのけようとするが、まだ恐怖が勝っているせいで、腕に上手く力が入らなかった。
「落ち着いてくれ、ソフィア嬢。何もしないから、私の話を聞くんだ」
「嫌ですっ、離して! 触らないでっ!」
「私は君を迎えに来たんだ、ソフィア嬢。あの死神は、君の居場所として相応しくない。私は君のためを思って言っているんだよ」
亜蓮は、まるで聞き分けのない子供を宥めるような口調で言う。
けれど、言葉は少しもソフィアの耳に入ってこなかった。
手首を掴む亜蓮の手の感触が、気持ち悪くてたまらない――まるで、大きな毛虫が這っているようだ。
そうして必死にもみ合っていると、ソフィアが懐にしまっていた花の水晶玉が、ぽろっと転がり落ちた。
「あっ……!」
水晶玉がパリン! と音を立てて割れたかと思うと、中に入っていた咲きかけの花が飛び出た。
亜蓮の注意が、すぐさま床に落ちた花のほうへ向く。
「これは……藤の花?」
亜蓮は掴んでいたソフィアの手首を放り投げるように離し、落ちた花を拾い上げる。
「っ、返してください! お願いですから、返して……っ! それは、あの人に贈るための――!」
祈織に渡すために咲かせた特別な花。
たった二週間ではあったけれど、その中でありったけの想いを込めた、大切な贈り物。
頼むから何もしないでくれ、そのまま返してくれ、とソフィアは懇願した。
けれど。
「ただの花だろう? 大袈裟な。こんなもの、あの冷血漢に渡したところで、なんの意味もない」
亜蓮はそう吐き捨てる。
まるで、子供の遊びをたしなめるような口調だった。
「君は分かっていないんだ。烏丸祈織は、得体の知れない危険な男だ。あんな男に執着する必要はない。君は私の庇護下で、穏やかに生きればいいんだよ」
そして、花を床に叩きつけたかと思うと、ソフィアが急いで拾い上げる前に、かかとで潰すように踏みつけた。
「ぁっ――」
パキッ、と踏みつけられた花が音を立てたのと同時に、ソフィアの喉の奥から、ほんの小さく声が漏れた。
彼女の目と鼻の先で、亜蓮のブーツがぐりぐりとしつこく、花をすり潰していく。
「いくら私でも、不快に思うことだってあるんだよ。先日あれほど警告したのに、どうして君はあの男を慕い続けるんだい?」
「あ、あ――」
ソフィアの胸の中から、何かがポトッ……と抜け落ちた。
それは、先ほどまで頭の中を巡っていた、命乞いにも似ている、哀れで悲しい感情だ。
喩えるなら、目の前で生卵が落ちるのを見たときの、あっ! という一瞬の絶望感。
それが何倍にも、何万倍にも、増幅されて、引き延ばされて、ソフィアの中で再生されている。
――あ……これ、前にもあった……
踏み潰された花の残骸を目にしてよぎったのは、瑠璃子に父の形見の指輪を取られたときの記憶だった。
思えばあの時、なぜ自分は湧き上がった感情を抑え込んでしまったのだろう。
状況は同じだったはずだ――大切な宝物を穢されて、そこに込められた想いを踏みにじられて。
考えるより先に叫び、瑠璃子に掴みかかっていたのは、間違いなく――ソフィアの胸に、怒りが宿っていたからだ。
けれど、ソフィアは最終的に怒る選択をしなかった。
それは果たして、どうしてか。
――ああ、そうか。私、怖かったんだ。
自分を失ってしまうのが、怖かったのだ。
怒りでわけが分からなくなって、そのまま自分でなくなってしまうような、あの感覚が。
血毒に心を蝕まれていくのにも似た、あの錯覚が。
――あれは、きっと大きな間違いだった。
――私はあの時、怒るべきだった。
――そうしなかったから、お嬢様は私を虐めたんだ。
何をしても怒らない、牙を剥かない、軟弱者。
何をされても許してしまう……否、許すことしかできない、臆病者。
どうしようもなく脆く、どうしようもなく怖がりな、弱虫。
それが第三者から見た、ソフィアという少女だ。
――怒らなきゃ。このまま否定させたら、ダメだ。
――そうしなければ、私はまたこの人に殺される。
こんなつまらない男に、祈織への想いを踏みにじられたままでたまるか。
この心を好きなようにされて、たまるものか――!
「――る、さない……許さ、ない……っ!」
涙がこぼれるのと共に、ソフィアの体の芯から、何かがあふれ出た。
増水した川の水圧が、堤防を内から外へ決壊させるように――ソフィアの怒りが、霊力と共にどうっと爆発した。
本棚がガタガタと音を立て、窓硝子がびりびりと軋む。
「なっ、ソフィア嬢っ……!?」
「許さない……! 祈織さんのための、大切なお花だったのに……っ! 絶対、壊されたくなかったのに!! 絶っ対に許さない……!!」
今まで体の奥に封じ込めていた霊力が、一気に解放されたのだろう。
恐ろしい力だと、ソフィア自身も感じていた。
けれど、今更抑えたりはしない――ソフィアはもう、怒ると決めたのだから。
「落ち着くんだ、ソフィア嬢……た、確かに乱暴なやり方だったが、あれは君の目を覚ますためで――」
「黙ってください!! 私は何度も何度も嫌だって言ったのに!! どうしてそんな酷いことをするんですか!!」
どうして、人が傷つくことを平然と行えるのだ。
どうして、何度言ってもやめてくれないのだ。
どうして、私の恋を否定し続けるのだ。
いくつもの『どうして』が浮かび上がる度に、ソフィアの奥から、激しい怒りがこみ上げた。
「貴方なんて、大っ嫌い!! しつこく私につきまとわないで!!」
「っ、いい加減にしろ! 私の言うことを聞くんだ――」
亜蓮の手が、またソフィアを掴もうと伸びてくる。
それを拒むように、ソフィアはありったけの霊力を放つ。
術式も、詠唱もない、ただ拒絶する意志だけを乗せた、荒々しい霊力の波。
それが、亜蓮の体を後ろへ吹き飛ばした。
無様に転がっていく亜蓮を見て、ソフィアは(やった……!)と気を緩めた。
「――うっ!?」
気を緩めた瞬間――多量の霊力を放った代償が、早くも返ってきた。
――喉が、激しく渇く。
――喉の渇きが、ソフィアに牙を剥く。
――喉から腹へ、皮膚から肉へ、うるさい鐘の音が響くように、信号が伝わっていく。
(だめ……っ! こんなところで、吸血鬼になるわけには……!)
けれど、ソフィアの意志を飲み込むように、血毒は急速に彼女を蝕んでいく。
肌に亀裂が入り、ボロボロと剥落していく。
「は、はは……それ見たことか。無理やり霊力を使ったツケが返ってきた!」
体を起こした亜蓮が、再び近づいてくる。
何とか抵抗を試みるソフィアだが、体に上手く力が入らない。
「だが、同じ過ちはもう冒さない。君が血毒だということは知っている。血を飲めば衝動は治まるのだろう? 降伏するなら、私の血をやっても――」
「いりません」
ソフィアはきっぱりと述べ、差し伸べられた亜蓮の手をぴしゃりと叩く。
この男に命乞いなど、今更するつもりはない。
「貴方の香水臭い血を飲むなんて、一滴でもまっぴらですよ。そんなもので救われるくらいなら、殺された方がまだいい……!」
「こ、の……っ!」
祈織やヌイを見て覚えた悪態をつきながら、ソフィアは抵抗を続ける。
最期の最後まで、誇り高く散ってやるつもりで言う。
「――まったくもって救いがたい女だ!!」
抜き放たれた軍刀が、ソフィアの頭上へ振り上げられる。
しかし、それが振り下ろされることはなかった。
「な……!? なんで、また剣が錆びて……!?」
ソフィアが先ほど放った霊力波は、ただの衝撃波ではなかった。
夜会で、祈織が亜蓮の軍刀を砕いた時の術――鉄を腐食させ、脆くする術。
不完全ながらも、ソフィアはそれを再現していた。
亜蓮の刀は、いまやただの棒切れも同然だ。
すると突然、
バァァン!!
と、大爆発が起きたかのように、図書室のドアが弾け飛んだ。
「気持ち悪いんだよ、クソ野郎!!」
ドスの利いた罵声と共に、祈織が遅れて飛び込んでくる。
真っ黒な弾丸のような勢いの跳び蹴りが、亜蓮の横っ面に炸裂した。
先ほどのソフィアの霊力波にも劣らない勢いで、亜蓮の体は再び吹っ飛び、後方の本棚へ激突する。
「ソフィアさん、飲んで!」
亜蓮の上に、本棚から落ちてきた大量の本がばさばさと降り注ぐ。
その隙に、祈織は迷わず自分の指先を噛み切って、それをソフィアの口へ押し込んだ。
傷口から流れ出た彼の甘い血が、喉の渇きを急速に癒やし、発作を鎮めていく。
「――っのおお! どいつもこいつも私を……っ!!」
本の山から亜蓮が顔を出す。
蹴られたときに口を怪我したのだろう――整っていた輪郭は大きく真っ赤に腫れ上がり、口の端からは血を流し、ついでに歯も一本折れていた。
「こっちだ!」
祈織はソフィアを立ち上がらせると、腕を引いて走り出した。
「待てぇええ!! 逃がさんぞ、死神ぃい!!」
新聞の一面を飾っていた美貌はどこへやら、憤怒に駆られた亜蓮は、今や怪物も顔負けの迫力だった。
日が沈んだ屋外に出た祈織は、そのまま近くの転移装置を作動させる。
すっと体が溶けていくような感覚の後、二人は祭の会場の入口まで移動していた。
しかし。
「あ……っ!」
ソフィアは目の前の光景に、血の気が引いた。
周辺を、二人を待ち構えていた退魔軍の討伐隊たちが囲んでいる。
携えられた武器の矛先は、ソフィアと祈織へ向けられていた。
「ははははっ、馬鹿め! まんまと引っかかったな、死神!!」
後から追いついた亜蓮が、声を上げて笑う。
彼は血の滲む口元を歪め、勝ち誇ったように叫んだ。
「私は今こそ、この死神に囚われた哀れな吸血鬼を救い出す! 抵抗するならば――討伐もやむを得まい!」
ソフィアは息を呑んだ。
これは、最初から仕組まれていたのだ――ソフィアが恐怖することも、祈織が助けに来ることも。
向こうは全て想定していた。
まんまと亜蓮の描いた『英雄譚』の舞台に引きずり出されてしまったのだ。
「……大丈夫。僕から離れないで」
傍らの祈織が、静かに囁く。
けれどその横顔には、かつてないほど鋭い怒りが宿っていた。

