死神軍医の最愛 〜ケガレた私の処方箋〜

「すまない、ソフィアさん。君に残酷なことを聞かせた」

 しゃがんだ祈織が、ソフィアの肩をさする。
 その手は少し熱くて、まだ怒りの余韻を残していた。
 
「もしかして、祈織さんは……最初からお嬢様を疑っていましたか……?」
「ああ。鎌の一つもかける前に、向こうが勝手に馬脚(ばきゃく)(あら)わしたのは予想外だったけど」

 祈織は苦々しい表情を浮かべながら、何度もソフィアに謝罪した。

「君にはもっとマシな形で、真実を伝えるつもりだった。僕の意識が及ばなかった。本当にごめん」
「大丈夫、です……でも、何が起きているのですか……?」
「……それは、言えない。捜査に支障が出るから、教えられないんだ」
 
 祈織はまだ、ソフィアが知らないソフィアの真実を抱えているのだろうか。
 気になって仕方がないが、祈織は口を堅く閉ざして、ただ首を横に振るのみだった。

「この件が落ち着いたら、必ず話す。それまでは不安かもしれないけれど、今は耐えてくれ」

 はい、と頷く声は、驚くほどか細かった。
 膝に置いた手にも、力が入らない。

「私、本当に馬鹿だったんですね。お嬢様の言う通り……あの家で、大事な薬を誰でも触れられる場所に置くなんて」

 意地悪をされることには慣れていた。
 罵られることにも、理不尽に叩かれることにも、使い潰されることにも。
 それでもまさか、殺されるかもしれないとは、思い至らなかった。
 
「ソフィアさんは何も悪くない」
「でも、間抜けでした」
 
 自分はまだ恵まれているのだと言い聞かせなければ、あの家では生きていけなかった。
 そうやって安心しようとして――結果的に、自分の身を滅ぼしかけた。

「私も、強くならないと」

 誰かに守られて安心するのではなく、自分で自分を守れるように。

「ソフィアさんは、もう十分強いよ。あんな場所で生き延びてきたんだから」
「私はただの怖がりですよ」 
「怖がることの何が悪い。ちゃんと怖がらなきゃ、いつか自滅するよ」
「……祈織さんが、それを言うのですか?」
 
 思わず、そんな言葉が零れた。
 自分の体に病原体を打ち込んでまで研究を進めた人が。
 他人を助けるためなら、自分が傷つくことも厭わない人が。
 けれど祈織は、困ったように笑った。
 
「だから言うんだよ。僕には、恐怖がよく分からないから。危ないことでも、面白そうだと思うと突っ込んでしまう。そういう人間は、止めてくれる誰かがいないと、すぐ身を滅ぼす」
 
 祈織はそこで、少しだけ視線を落とした。
 
「君は怖がれる。傷つくことも、誰かを傷つけることも、ちゃんと怖いと思える。大事なことだよ」

 喉が引きつって、声が上手く出せない。
 
「でも、私は、すぐ泣いて、誰かに守ってもらってばかりで……」

 臆病で、何もできない自分が嫌いだった。
 瑠璃子に逆らえず、更木家からも逃げられず、祈織に助けられてばかりの自分が、情けなくて仕方なかった。

「君はブランを守ろうとした。瑠璃子に怯えていたのに、自分の足でここまで来て、真実を聞いた。それで十分だよ」
 
 祈織の手が、ソフィアの肩からそっと離れる。
 けれど、その温度だけは残っていた。

「君はもう、自分を守る力を持ち始めている。だから焦らなくていい」

 ――ああ、この人はいつもそうだ。
 ソフィアが自分で嫌っているものを、少しも否定しない。
 血を欲しがることも、怖がることも、泣くことも、生きたいと願うことも。
 全部、人間として当然のことだと言ってくれる。
 
「……祈織さん」
 
 名前を呼ぶだけで、胸がいっぱいになった。
 
「私、貴方のことが……」
 
 そこまで言って、ソフィアはほんの少し、逡巡する。
 ――今、この場で言っていいのだろうか。
 こんな事件の直後に、こんなにも心がぐちゃぐちゃなまま。
 けれど、今だからこそ、言わなければいけない気がした。
 
「好き、です」
 
 震える声で絞り出すように。
 この心が、少しでも伝わるように。
 祈織は不意をつかれたような顔をしていたが、やがて

「……ふは」

 と小さく笑った。
 いつもと違う、ひどく乾いた笑みだった。
 どこか自嘲めいていて、だからこそ、ソフィアはありのままの祈織を見た気がした。

「なんだ。君、度胸あるじゃない。僕なんか、いつ君に切り出せばいいのか、ずっと困ってたのにさ」
「え……?」
「うん。僕も、君が好きだよ」
 
 あまりにもあっさりと言われて、呼吸が止まる。
 祈織はそんなソフィアを見て、困ったように眉を下げた。
 
「本当はもっと格好つける予定だったんだけどね。もう全部台無しだよ。さっきまで人を怒鳴り散らしてたし」

 祈織はそう言って、片手で顔を覆った。
 
「君のことになると、どうも駄目だ。冷静でいようとしても、全然上手くいかない」
 
 低く落ちた声が、静かな部屋の中に沈んでいく。
 
「最初は、エミリアさんの娘だから気にかけていたつもりだった。血毒の患者だし、放っておけなかったし」
「……はい」
「でも、気づいたら、君が笑ってるだけで嬉しくなってた。ブランを撫でてる顔とか、美味しそうにご飯食べてる顔とか、回復術の練習で失敗して半泣きになってる顔とか。そういうの見てるだけで、なんかもう……満たされちゃって。……だから多分、かなり早い段階で好きだったんだと思う」
 
 祈織はそこでようやく、観念したように笑う。
 
「ただ、君はずっと傷ついてたから。僕の気持ちを押しつけたら、余計に追い詰めるんじゃないかって思ってさ」
 
 ソフィアは息を呑む。
 この人も、怖がっていたのだ。
 自分を傷つけないよう、ちゃんと大切にしたいと思ってくれていたから。
 
 
「安心したよ。君がこんな変人を好きでいてくれて」
「……っ!」

 その笑顔は、今まで見たどんな顔よりも穏やかだった。
 湧き上がる言葉はいくつもあるのに、どれもソフィアの声にはならない。

「君は、守られるのは嫌って言うかもしれないけど、それを承知であえて言うよ。……これからもずっと、僕に君を守らせてほしい。――あ。いや、ちょっと違うか」

 顎に手をやって、祈織は少しの間考え込む。
 そして。

「これからも、君を支えさせてほしい。君のこれからを、一番近くで見守らせてほしい」

 先ほどよりも照れくさそうな表情で伝えてくれた。
 ソフィアの目から転がり出るように、大粒の涙がこぼれる。
 その涙を、祈織の指がそっとすくう。

「ありがとうね、ソフィアさん。すごく嬉しかった」
「っ、私の、ほうこそ……ありがとう、ございます……」

 窓の外では、祭りの喧騒がまだ微かに続いている。
 けれど、この部屋だけは不思議なほど静かだった。
 ソフィアが祈織の袖を掴むと、彼は何も言わず、その手を優しく握り返した。