「ブランを返しなさい、泥棒女!」
息を荒げながら要求する瑠璃子。
ソフィアはそれを受け、傍らのブランを見やった。
ブランは両耳を真横に倒し、ジッと瑠璃子を見ながら警戒している。
「戻ってきなさい、ブラン! お前の世話をしてやったのは誰だと思っているの!? 私から受けた恩を忘れるつもり!?」
微動だにしないブランに、瑠璃子は命令する。
けれど、ブランはそれでも彼女をじっとり睨んだままだ。
ふわふわの尻尾を箒のように逆立て、飛びかかる準備をするようにお尻を突き上げている。
「……お、嬢様……ブランは貴方を怖がっています。命令するような口調は、どうか控えて――」
「お黙り、ケガレ! 喋っていいと言った覚えはないわ!」
ソフィアは震える声で訴えるが、瑠璃子は聞き入れることなく、ぴしゃりと一蹴した。
まるで、喋ること自体が不快だとでも言うようだ。
「私の亜蓮様を惑わせた上に、ブランまで奪うなんて……病で心まで腐り果てたのね……!」
睨まれて、ソフィアの背筋に怖気が走る。
「ねえ、貴方! 良心があるなら、瑠璃子様の式神を返してあげて!」
「人の式神を泥棒するなんて酷いわ!」
瑠璃子の友人たちが、訴えてくる。
なんだろう、と周りの客がソフィアたちを注目し始める。
視線と声が突き刺さる。
まるで、自分が悪者だと言われているようだった。
――私は、ブランを彼女に返さなければいけないのではないか。
という思いが、ソフィアの頭をよぎる。
「フギャアアア……!」
けれど――ブランの威嚇の鳴き声を聞いて、すぐにその思いは消えた。
だって、ソフィアのもとにいたブランは、間違いなく平穏だったはずだ。
屋敷にいた頃はあんなにソフィアを引っ掻いていたのに、保護されてからのブランは、一度も誰かを攻撃しなかったのだから。
「ブラン、思い出して! お前の主は誰? お前を式神として召喚したのは誰? わたくしでしょう!?」
「フギャアアアアッ!」
瑠璃子の訴えを否定するように、ブランが再び鳴き声をあげる。
全身の毛を逆立てて、いよいよ飛びかかってしまいそうだ。
瑠璃子の肩を持っていた友人たちも、様子がおかしいと気づき始めたのか……瑠璃子を威嚇し続けるブランに困惑しつつ、お互いに顔を見合せたりしていた。
友人たちの前に立つ瑠璃子だけが、周囲の困惑に気づいていなかった。
「……ッ、なんてことしてくれたのよ! 私のブランをこんなに大きくて醜い猫に変えてしまって! せっかく運動も食事制限もして、見た目も整えてやっていたのに!」
「――!」
ソフィアの中で、逃げてきたブランを保護したときの記憶が蘇る。
――抱き上げて家に運んだ時の、驚くべき軽さ。
――ゴツゴツした骨の感触。
――ボサボサの体毛。
――疲れきった、悲しげな青い目。
瑠璃子は、ブランのそれらの兆候を全て無視して、あろうことか術で隠していた。
自分の考えだけをひたすら押し通し、ブランを飢餓の一歩手前まで追いやった。
……だというのに。
「……お嬢様。ブランはこの姿が一番霊力が安定するんです。お散歩する力もあって、毛もツヤツヤで、とても可愛いです。醜いなんてとんでもありません」
――腹が立つ。
ブランのことをなにも見ていない、見ようともしない怠慢さ。
ブランを苦しめてもなお、『愛情』だと言い張る傲慢さ。
ソフィアには、それがどうしても許せなかった。
「お前に何がわかるの!? この子の好物も、好きな遊びも分からないくせに……」
「ブランは南瓜が苦手なんですよ」
「は?」
――ほら、貴方の好きな南瓜のケーキよ。
瑠璃子はいつもそう言って、ブランにそれを与えていた。
それを真正面から『苦手』と否定されたからか、瑠璃子は戸惑っていた。
否定してきたのがソフィアだったから、というのもあっただろう。
「なに、そんなでたらめを……」
「ブランは私の前では南瓜を一切口にしませんでしたよ」
「それは、お前の餌が気に入らなくて……」
「焼いたお魚やお芋は、おやつにあげるととても喜んでくれますよ。ご存知ではなかったのですか?」
瑠璃子がグッと唇を噛み締め、言い淀んでいる。
おそらく、知らなかったのだろう――動物を飼った経験のないソフィアでも、観察していればすぐに分かることなのに。
「っ、そんなの関係ないでしょう!? 私がその子のためを思ってやってきたことが、間違っていたと言いたいの!? 私のやり方に文句なんて――」
「ブランはっ!!」
イライラしていたからか――自分でも驚くほど大きな声が出た。
ソフィアは、今までにない大声で、瑠璃子の主張を遮っていた。
「この子は、霊力欠乏を起こしていました! 貴方は十分な霊力をこの子に与えていなかった! ずっとお腹を空かせて、苦しんでいたんです! それでも貴方を傷つけたくなくて、怒らせたくなくて、ずっと我慢していたんです!」
霊力を糧とする式神にとって、霊力の枯渇は死に直結する。
下級の式神を従える程度の霊力しか持たない瑠璃子が相手なら、ブランも本気を出せば反発できたはずだ。
けれど、ブランはそれをしなかった――仕方なく攻撃していたソフィアですら、最小限に留めていたのだ。
「ブランは優しいから、仕方なく受け入れていただけ! 貴方がしてきたことは、ただのごっこ遊び……この子の命を弄んだも同然です!」
ソフィアが断言した瞬間、瑠璃子の可憐な顔が、鬼の面のようにゆがんだ。
幼稚な苛立ちに満ちた顔が、ここまで醜いとは……と、ソフィアは心のどこかで冷静に思う。
「ごっこ遊び、ですって……!? ケガレのくせに、わたくしを侮辱するの……!?」
瑠璃子は鼻息を荒くして歩み寄り、「いいから返しなさい!!」とブランを無理やり連れていこうとする。
しかし、彼女の手がブランに触れる寸前――パッとまばゆい光が、ブランを包んだ。
「なっ……!?」
「ブラン!?」
ブランの体はどんどん大きくなり、ソフィアの胸の高さまで膨らんだところで、光が消えた。
現れたのは、蝶のように大きな耳と、純白の毛を持つ、しなやかな体躯の猛獣だった。
「ブラン、貴方……」
「ガロロロロ……!」
一頭の気高い虎のような姿になったブランが、鋭い牙を見せつける。
瑠璃子は、ひっ、と声を上げて後ずさった。
「それが、貴方の本来の姿なの……?」
ソフィアはたっぷりの毛をたくわえた、ブランの首あたりにそっと触れつつ言う。
すると、ブランは青い目をゆったりと細めて、ソフィアを見つめ返した。
まるで、微笑まれているようだ。
それを見た瑠璃子が、悲鳴をあげるように叫び出す。
「どうしてっ……? 私が、ケガレよりも劣ってるっていうの……!? 亜蓮様も、ブランも、どうしてその女を選ぶのよぉ!?」
声に涙を孕ませた瑠璃子は、今にも地団駄を踏みそうだ。
華族の令嬢とは言い難い瑠璃子の振る舞いを見て、ソフィアはハッと目が覚めたようだった。
――こんなの、身勝手でわがままなだけの子供じゃないか。
――高潔な華族たらんと怒りを抑え、毅然と振る舞うこともできない、未熟者。
――どうして私はこんなものを怖がっていたのだろう。
「……お嬢様。貴方の霊力では、ブランを使役することはできません。この子にとっても、貴方にとっても、荷が重すぎます」
「うるさい!! ケガレが、私を見下さないでよ!! 私と違って、大した才能もないくせに!!」
怒り狂った彼女を見ても、ソフィアはもう動じなかった。
瑠璃子は絶対的な支配者などではない――ただ、自分の思い通りにならないものを許せず、癇癪を起こしているだけの幼い少女だ。
心の隅に残っていた僅かな暗雲までもが、綺麗に晴れたようだった。
静かに振る舞うソフィアに、瑠璃子はますます怒りを滾らせて……ついに実力行使に出た。
「分からせてやる……お前がどんなに下で、私がどれだけ上なのか、思い知らせてやる!」
瑠璃子が、なにかの詠唱をはじめる。
友人たちは、彼女が何をしようとしているかを早々に悟り、悲鳴をあげて逃げ出す。
そしてソフィアにも、その術が何なのかはすぐに分かった。
式神として使役するための、あやかしを喚ぶ術――しかも上位のあやかしだ。
瑠璃子の霊力量では、たとえ喚び出せたとしても、使役できるはずがない。
「危険です、お嬢様! やめて!」
陣が二重、三重と浮かびあがり、光を放ち始める。
光の中から現れたのは、上級あやかしの代表格――気性が荒く、力も強いとされる『牛鬼』だ。
しかも、周囲には白い蛾のような、多数の蟲のあやかしたちも従えている。
「さようなら、ソフィア」
詠唱を終えた瑠璃子が、にやりと微笑むのと同時に、牛鬼が声高に嘶いて、暴れだした。
まずい、蹴られる――と思った次の瞬間、ブランが「グオォォ!」と唸り声を上げて牛鬼に飛びかかった。
「ブラン!?」
けれど、牛鬼の体躯は大きく、ブランの牙と爪をもってしても完封できない。
揉み合っているうちに、ブランの脇腹が後ろ脚で蹴り飛ばされてしまう。
「ブラン! 大丈夫!?」
地面に転がったブランに、ソフィアは急いで駆け寄る。
むくりと起き上がるブランだが、蹴られた箇所が痛むのか、少し動きがぎこちない。
「待ってて、すぐに癒すからね」
ソフィアはブランの脇腹にそっと手を当て、霊力を流し込む。
「やめて、止まりなさい! 私の命令を聞いて!」
治療をしていると、少し離れたところから、瑠璃子の必死な声が聞こえてきた。
やはり、彼女の霊力では、召喚したあやかしを式神化なかったのだろう――牛鬼はもはや、ソフィアもブランも見ていなかった。
錯乱した状態で、周囲の店や展示品などを壊しながら暴れ回っている。
もちろん、牛鬼だけではない――一緒についてきた蟲たちも制御を失って、通りすがりの客たちを無差別に攻撃していた。
既に収拾がつかないほど、状況は混沌としていた。
(どうしよう……! あんなにすばしっこいあやかしが何体も……! どうしたら……っ)
この人混みで、一網打尽に捕まえる方法が思いつかない。
ソフィアの知識ではどうにもできない、と困り果てた時だった。
「ヒィ~ヤッハァ~!!」
突然、奇声が聞こえたかと思うと――その辺を暴れ回っていた牛鬼の背中に、上空から降ってきた誰かが飛びついた。
「つっ、かまえたぁ~! オラ、こっちだぁ!」
「ヌイくん!?」
牛鬼の背中にしがみついたヌイが、そのまま牛鬼を乗りこなしていた。
激しい揺れをものともせず、腕を高く振り上げて叫ぶ彼は、実に弾けて楽しそうだ。
さらに、呆気にとられるソフィアを囲むように、祈織とリンが駆けつける。
「なんの騒ぎかと思えば、あの馬鹿令嬢……!」
あやかしたちが暴走している惨状に、祈織が舌打ちをしているのが聞こえた。
「ったく、最悪だわ……! 牛鬼なんか喚んじゃって、完全に錯乱状態じゃない!」
「リンさん、送還できそう?」
「牛鬼単体ならね。でも、蟲までまとめてはキツいわ。数が多すぎる」
リンは舌打ち混じりに言いながら、空中へ数枚の呪符を放つ。
呪符は蝶のようにひらりと舞い上がると、暴れ回る蟲たちの頭上で光を弾けさせた。
突然の閃光に驚いた蟲たちが、動きを止める。
「なら、ちょっと無茶してもらうよ。――送還術式を直ちに展開! 霊力は僕が補助する!」
「はいはい、引き受けたわよ!」
リンが両手を打ち鳴らした瞬間、幾重もの術式陣が空中へ展開される。
同時に、祈織の周辺に、濃密な霊力のにおいがたちこめた。
(――これ、祈織さんの霊力のにおい!?)
なんて濃い霊力だろう、とソフィアは思わず息を呑む。
空気そのものが重くなるほどの、強大な霊力を放出させながら、
「来い、蟲ども! 僕の霊力をくれてやる!」
と祈織が呼びかけた。
すると、そこらじゅうを飛び回っていた蟲たちが、一斉に彼の霊力に吸い寄せられてくる。
真っ白な矢の雨が降り注ぐように、蟲たちが四方八方から殺到した。
「『歪な声に囚われし汝らへ、安寧たる帰途の導きを――』」
同時に、リンの詠唱とともに、地面へ白い陣が広がっていく。
それはあやかしを滅するための術ではなく――瑠璃子に突然喚ばれてしまった彼らを、元いた場所に還すための術だった。
「さあ、アンタたち――在るべき処へ還りなさい!」
リンの術式構築が完了すると同時に、四人を取り囲むように、半球状の白い陣が現れた。
祈織の霊力で引き寄せられたあやかしたちは、白い陣へ触れた瞬間、淡い光へ変わって消えていく。
まるで、流れ星が間近で弾けているようだった。
「すごい……!」
ブランを癒しながら、ソフィアは呆然と呟く。
祈織とリンの呼吸は、長年馴れ合った術師同士のそれだった。
「ヌイ! 牛鬼をこっちに投げろ!」
「あいよぉ!」
祈織が命じると、ヌイの全身からどす黒い霊力が噴き上がった。
「え――?」
ソフィアは目を見開いた。
小柄な少年の体が、一瞬で膨れ上がる。
漆黒の一本角、鋭い牙、獣のような筋肉、影そのものを凝縮したような黒い肌――
「けけけっ! そぉれ、牛投げだぁ!!」
巨体の黒い鬼へ変貌したヌイが、牛鬼の角をむんずと掴んで持ち上げる。
牛鬼の巨体が宙に浮かび、暴れる脚がむなしく空を切る。
(これが、ヌイくんの本来の姿……!)
なんて怪力だ――とソフィアは呆然とその光景を見ていた。
あれほど猛威をふるった牛鬼を、ヌイは軽々と持ち上げている。
まるで泣いた赤子を抱き上げるかのような、容易さで。
すると、ヌイは牛鬼の角を掴んだまま、ぐるぐると振り回し、
「オラァァァァァッ!!」
掛け声とともに、白い陣に向かって力任せにぶん投げた。
牛鬼の巨体が、嘶きと共に光に吸い込まれていく。
それを最後に、白い陣が霧散して消えていった。
祭り会場に、静寂が戻る。
ソフィアはようやく息を吐いた。
「ブラン、大丈夫……?」
抱きしめたブランが、少し苦しそうに息をしている。
けれど、治療されて落ち着いたらしい――ブランは普段の猫の姿に戻り、くたっとソフィアに身を預けていた。
そこへ祈織が駆け寄ってくる。
「ソフィアさん、ブラン! 怪我は!?」
「だ、大丈夫です! ブランの治療も、今終わりました……!」
祈織はブランの脇腹を確認し、「よかった……」と、ほっと息を吐いた。
「にしても、相変わらずとんでもない霊力量よねぇ、祈織ちゃんたら……この数のあやかしをまとめて返すなんて、普通は無理よぉ?」
「リンさんがいたからできたんだよ。式神関係の術はリンのほうが得意だからね。ほんと、討伐隊が出動する事態にならなくてよかったよ……」
祈織はげんなりした顔でこめかみを押さえる。
その間にも、周囲では陰陽医局の職員たちが慌ただしく動き回っていた。
「赤い腕章の人が優先です! 他の方は待機を――」
「他に蟲に齧られた人はいませんか!」
「こっちに担架持ってこい! 牛鬼に蹴られて骨がいってる!」
負傷者たちが次々と運ばれていく。
少し離れた場所では、錯乱した瑠璃子が退魔軍の隊員たちに取り囲まれていた。
「違うの! 私は悪くないわ! あのケガレが……!」
「落ち着いてください、更木令嬢!」
瑠璃子はソフィアを指さしながら、あの女が悪いだの、あいつは泥棒だのと喚いていた。
けれどソフィアは、もう彼女を見ても怯えなかった。
「ソフィアさん、とりあえずブランを救護所へ運ぼう」 「……はい」
ソフィアはブランを抱えて立ち上がる。
まだ祭り会場は騒然としていたが、それでも先ほどまでの絶望的な混乱は、もう消えていた。
息を荒げながら要求する瑠璃子。
ソフィアはそれを受け、傍らのブランを見やった。
ブランは両耳を真横に倒し、ジッと瑠璃子を見ながら警戒している。
「戻ってきなさい、ブラン! お前の世話をしてやったのは誰だと思っているの!? 私から受けた恩を忘れるつもり!?」
微動だにしないブランに、瑠璃子は命令する。
けれど、ブランはそれでも彼女をじっとり睨んだままだ。
ふわふわの尻尾を箒のように逆立て、飛びかかる準備をするようにお尻を突き上げている。
「……お、嬢様……ブランは貴方を怖がっています。命令するような口調は、どうか控えて――」
「お黙り、ケガレ! 喋っていいと言った覚えはないわ!」
ソフィアは震える声で訴えるが、瑠璃子は聞き入れることなく、ぴしゃりと一蹴した。
まるで、喋ること自体が不快だとでも言うようだ。
「私の亜蓮様を惑わせた上に、ブランまで奪うなんて……病で心まで腐り果てたのね……!」
睨まれて、ソフィアの背筋に怖気が走る。
「ねえ、貴方! 良心があるなら、瑠璃子様の式神を返してあげて!」
「人の式神を泥棒するなんて酷いわ!」
瑠璃子の友人たちが、訴えてくる。
なんだろう、と周りの客がソフィアたちを注目し始める。
視線と声が突き刺さる。
まるで、自分が悪者だと言われているようだった。
――私は、ブランを彼女に返さなければいけないのではないか。
という思いが、ソフィアの頭をよぎる。
「フギャアアア……!」
けれど――ブランの威嚇の鳴き声を聞いて、すぐにその思いは消えた。
だって、ソフィアのもとにいたブランは、間違いなく平穏だったはずだ。
屋敷にいた頃はあんなにソフィアを引っ掻いていたのに、保護されてからのブランは、一度も誰かを攻撃しなかったのだから。
「ブラン、思い出して! お前の主は誰? お前を式神として召喚したのは誰? わたくしでしょう!?」
「フギャアアアアッ!」
瑠璃子の訴えを否定するように、ブランが再び鳴き声をあげる。
全身の毛を逆立てて、いよいよ飛びかかってしまいそうだ。
瑠璃子の肩を持っていた友人たちも、様子がおかしいと気づき始めたのか……瑠璃子を威嚇し続けるブランに困惑しつつ、お互いに顔を見合せたりしていた。
友人たちの前に立つ瑠璃子だけが、周囲の困惑に気づいていなかった。
「……ッ、なんてことしてくれたのよ! 私のブランをこんなに大きくて醜い猫に変えてしまって! せっかく運動も食事制限もして、見た目も整えてやっていたのに!」
「――!」
ソフィアの中で、逃げてきたブランを保護したときの記憶が蘇る。
――抱き上げて家に運んだ時の、驚くべき軽さ。
――ゴツゴツした骨の感触。
――ボサボサの体毛。
――疲れきった、悲しげな青い目。
瑠璃子は、ブランのそれらの兆候を全て無視して、あろうことか術で隠していた。
自分の考えだけをひたすら押し通し、ブランを飢餓の一歩手前まで追いやった。
……だというのに。
「……お嬢様。ブランはこの姿が一番霊力が安定するんです。お散歩する力もあって、毛もツヤツヤで、とても可愛いです。醜いなんてとんでもありません」
――腹が立つ。
ブランのことをなにも見ていない、見ようともしない怠慢さ。
ブランを苦しめてもなお、『愛情』だと言い張る傲慢さ。
ソフィアには、それがどうしても許せなかった。
「お前に何がわかるの!? この子の好物も、好きな遊びも分からないくせに……」
「ブランは南瓜が苦手なんですよ」
「は?」
――ほら、貴方の好きな南瓜のケーキよ。
瑠璃子はいつもそう言って、ブランにそれを与えていた。
それを真正面から『苦手』と否定されたからか、瑠璃子は戸惑っていた。
否定してきたのがソフィアだったから、というのもあっただろう。
「なに、そんなでたらめを……」
「ブランは私の前では南瓜を一切口にしませんでしたよ」
「それは、お前の餌が気に入らなくて……」
「焼いたお魚やお芋は、おやつにあげるととても喜んでくれますよ。ご存知ではなかったのですか?」
瑠璃子がグッと唇を噛み締め、言い淀んでいる。
おそらく、知らなかったのだろう――動物を飼った経験のないソフィアでも、観察していればすぐに分かることなのに。
「っ、そんなの関係ないでしょう!? 私がその子のためを思ってやってきたことが、間違っていたと言いたいの!? 私のやり方に文句なんて――」
「ブランはっ!!」
イライラしていたからか――自分でも驚くほど大きな声が出た。
ソフィアは、今までにない大声で、瑠璃子の主張を遮っていた。
「この子は、霊力欠乏を起こしていました! 貴方は十分な霊力をこの子に与えていなかった! ずっとお腹を空かせて、苦しんでいたんです! それでも貴方を傷つけたくなくて、怒らせたくなくて、ずっと我慢していたんです!」
霊力を糧とする式神にとって、霊力の枯渇は死に直結する。
下級の式神を従える程度の霊力しか持たない瑠璃子が相手なら、ブランも本気を出せば反発できたはずだ。
けれど、ブランはそれをしなかった――仕方なく攻撃していたソフィアですら、最小限に留めていたのだ。
「ブランは優しいから、仕方なく受け入れていただけ! 貴方がしてきたことは、ただのごっこ遊び……この子の命を弄んだも同然です!」
ソフィアが断言した瞬間、瑠璃子の可憐な顔が、鬼の面のようにゆがんだ。
幼稚な苛立ちに満ちた顔が、ここまで醜いとは……と、ソフィアは心のどこかで冷静に思う。
「ごっこ遊び、ですって……!? ケガレのくせに、わたくしを侮辱するの……!?」
瑠璃子は鼻息を荒くして歩み寄り、「いいから返しなさい!!」とブランを無理やり連れていこうとする。
しかし、彼女の手がブランに触れる寸前――パッとまばゆい光が、ブランを包んだ。
「なっ……!?」
「ブラン!?」
ブランの体はどんどん大きくなり、ソフィアの胸の高さまで膨らんだところで、光が消えた。
現れたのは、蝶のように大きな耳と、純白の毛を持つ、しなやかな体躯の猛獣だった。
「ブラン、貴方……」
「ガロロロロ……!」
一頭の気高い虎のような姿になったブランが、鋭い牙を見せつける。
瑠璃子は、ひっ、と声を上げて後ずさった。
「それが、貴方の本来の姿なの……?」
ソフィアはたっぷりの毛をたくわえた、ブランの首あたりにそっと触れつつ言う。
すると、ブランは青い目をゆったりと細めて、ソフィアを見つめ返した。
まるで、微笑まれているようだ。
それを見た瑠璃子が、悲鳴をあげるように叫び出す。
「どうしてっ……? 私が、ケガレよりも劣ってるっていうの……!? 亜蓮様も、ブランも、どうしてその女を選ぶのよぉ!?」
声に涙を孕ませた瑠璃子は、今にも地団駄を踏みそうだ。
華族の令嬢とは言い難い瑠璃子の振る舞いを見て、ソフィアはハッと目が覚めたようだった。
――こんなの、身勝手でわがままなだけの子供じゃないか。
――高潔な華族たらんと怒りを抑え、毅然と振る舞うこともできない、未熟者。
――どうして私はこんなものを怖がっていたのだろう。
「……お嬢様。貴方の霊力では、ブランを使役することはできません。この子にとっても、貴方にとっても、荷が重すぎます」
「うるさい!! ケガレが、私を見下さないでよ!! 私と違って、大した才能もないくせに!!」
怒り狂った彼女を見ても、ソフィアはもう動じなかった。
瑠璃子は絶対的な支配者などではない――ただ、自分の思い通りにならないものを許せず、癇癪を起こしているだけの幼い少女だ。
心の隅に残っていた僅かな暗雲までもが、綺麗に晴れたようだった。
静かに振る舞うソフィアに、瑠璃子はますます怒りを滾らせて……ついに実力行使に出た。
「分からせてやる……お前がどんなに下で、私がどれだけ上なのか、思い知らせてやる!」
瑠璃子が、なにかの詠唱をはじめる。
友人たちは、彼女が何をしようとしているかを早々に悟り、悲鳴をあげて逃げ出す。
そしてソフィアにも、その術が何なのかはすぐに分かった。
式神として使役するための、あやかしを喚ぶ術――しかも上位のあやかしだ。
瑠璃子の霊力量では、たとえ喚び出せたとしても、使役できるはずがない。
「危険です、お嬢様! やめて!」
陣が二重、三重と浮かびあがり、光を放ち始める。
光の中から現れたのは、上級あやかしの代表格――気性が荒く、力も強いとされる『牛鬼』だ。
しかも、周囲には白い蛾のような、多数の蟲のあやかしたちも従えている。
「さようなら、ソフィア」
詠唱を終えた瑠璃子が、にやりと微笑むのと同時に、牛鬼が声高に嘶いて、暴れだした。
まずい、蹴られる――と思った次の瞬間、ブランが「グオォォ!」と唸り声を上げて牛鬼に飛びかかった。
「ブラン!?」
けれど、牛鬼の体躯は大きく、ブランの牙と爪をもってしても完封できない。
揉み合っているうちに、ブランの脇腹が後ろ脚で蹴り飛ばされてしまう。
「ブラン! 大丈夫!?」
地面に転がったブランに、ソフィアは急いで駆け寄る。
むくりと起き上がるブランだが、蹴られた箇所が痛むのか、少し動きがぎこちない。
「待ってて、すぐに癒すからね」
ソフィアはブランの脇腹にそっと手を当て、霊力を流し込む。
「やめて、止まりなさい! 私の命令を聞いて!」
治療をしていると、少し離れたところから、瑠璃子の必死な声が聞こえてきた。
やはり、彼女の霊力では、召喚したあやかしを式神化なかったのだろう――牛鬼はもはや、ソフィアもブランも見ていなかった。
錯乱した状態で、周囲の店や展示品などを壊しながら暴れ回っている。
もちろん、牛鬼だけではない――一緒についてきた蟲たちも制御を失って、通りすがりの客たちを無差別に攻撃していた。
既に収拾がつかないほど、状況は混沌としていた。
(どうしよう……! あんなにすばしっこいあやかしが何体も……! どうしたら……っ)
この人混みで、一網打尽に捕まえる方法が思いつかない。
ソフィアの知識ではどうにもできない、と困り果てた時だった。
「ヒィ~ヤッハァ~!!」
突然、奇声が聞こえたかと思うと――その辺を暴れ回っていた牛鬼の背中に、上空から降ってきた誰かが飛びついた。
「つっ、かまえたぁ~! オラ、こっちだぁ!」
「ヌイくん!?」
牛鬼の背中にしがみついたヌイが、そのまま牛鬼を乗りこなしていた。
激しい揺れをものともせず、腕を高く振り上げて叫ぶ彼は、実に弾けて楽しそうだ。
さらに、呆気にとられるソフィアを囲むように、祈織とリンが駆けつける。
「なんの騒ぎかと思えば、あの馬鹿令嬢……!」
あやかしたちが暴走している惨状に、祈織が舌打ちをしているのが聞こえた。
「ったく、最悪だわ……! 牛鬼なんか喚んじゃって、完全に錯乱状態じゃない!」
「リンさん、送還できそう?」
「牛鬼単体ならね。でも、蟲までまとめてはキツいわ。数が多すぎる」
リンは舌打ち混じりに言いながら、空中へ数枚の呪符を放つ。
呪符は蝶のようにひらりと舞い上がると、暴れ回る蟲たちの頭上で光を弾けさせた。
突然の閃光に驚いた蟲たちが、動きを止める。
「なら、ちょっと無茶してもらうよ。――送還術式を直ちに展開! 霊力は僕が補助する!」
「はいはい、引き受けたわよ!」
リンが両手を打ち鳴らした瞬間、幾重もの術式陣が空中へ展開される。
同時に、祈織の周辺に、濃密な霊力のにおいがたちこめた。
(――これ、祈織さんの霊力のにおい!?)
なんて濃い霊力だろう、とソフィアは思わず息を呑む。
空気そのものが重くなるほどの、強大な霊力を放出させながら、
「来い、蟲ども! 僕の霊力をくれてやる!」
と祈織が呼びかけた。
すると、そこらじゅうを飛び回っていた蟲たちが、一斉に彼の霊力に吸い寄せられてくる。
真っ白な矢の雨が降り注ぐように、蟲たちが四方八方から殺到した。
「『歪な声に囚われし汝らへ、安寧たる帰途の導きを――』」
同時に、リンの詠唱とともに、地面へ白い陣が広がっていく。
それはあやかしを滅するための術ではなく――瑠璃子に突然喚ばれてしまった彼らを、元いた場所に還すための術だった。
「さあ、アンタたち――在るべき処へ還りなさい!」
リンの術式構築が完了すると同時に、四人を取り囲むように、半球状の白い陣が現れた。
祈織の霊力で引き寄せられたあやかしたちは、白い陣へ触れた瞬間、淡い光へ変わって消えていく。
まるで、流れ星が間近で弾けているようだった。
「すごい……!」
ブランを癒しながら、ソフィアは呆然と呟く。
祈織とリンの呼吸は、長年馴れ合った術師同士のそれだった。
「ヌイ! 牛鬼をこっちに投げろ!」
「あいよぉ!」
祈織が命じると、ヌイの全身からどす黒い霊力が噴き上がった。
「え――?」
ソフィアは目を見開いた。
小柄な少年の体が、一瞬で膨れ上がる。
漆黒の一本角、鋭い牙、獣のような筋肉、影そのものを凝縮したような黒い肌――
「けけけっ! そぉれ、牛投げだぁ!!」
巨体の黒い鬼へ変貌したヌイが、牛鬼の角をむんずと掴んで持ち上げる。
牛鬼の巨体が宙に浮かび、暴れる脚がむなしく空を切る。
(これが、ヌイくんの本来の姿……!)
なんて怪力だ――とソフィアは呆然とその光景を見ていた。
あれほど猛威をふるった牛鬼を、ヌイは軽々と持ち上げている。
まるで泣いた赤子を抱き上げるかのような、容易さで。
すると、ヌイは牛鬼の角を掴んだまま、ぐるぐると振り回し、
「オラァァァァァッ!!」
掛け声とともに、白い陣に向かって力任せにぶん投げた。
牛鬼の巨体が、嘶きと共に光に吸い込まれていく。
それを最後に、白い陣が霧散して消えていった。
祭り会場に、静寂が戻る。
ソフィアはようやく息を吐いた。
「ブラン、大丈夫……?」
抱きしめたブランが、少し苦しそうに息をしている。
けれど、治療されて落ち着いたらしい――ブランは普段の猫の姿に戻り、くたっとソフィアに身を預けていた。
そこへ祈織が駆け寄ってくる。
「ソフィアさん、ブラン! 怪我は!?」
「だ、大丈夫です! ブランの治療も、今終わりました……!」
祈織はブランの脇腹を確認し、「よかった……」と、ほっと息を吐いた。
「にしても、相変わらずとんでもない霊力量よねぇ、祈織ちゃんたら……この数のあやかしをまとめて返すなんて、普通は無理よぉ?」
「リンさんがいたからできたんだよ。式神関係の術はリンのほうが得意だからね。ほんと、討伐隊が出動する事態にならなくてよかったよ……」
祈織はげんなりした顔でこめかみを押さえる。
その間にも、周囲では陰陽医局の職員たちが慌ただしく動き回っていた。
「赤い腕章の人が優先です! 他の方は待機を――」
「他に蟲に齧られた人はいませんか!」
「こっちに担架持ってこい! 牛鬼に蹴られて骨がいってる!」
負傷者たちが次々と運ばれていく。
少し離れた場所では、錯乱した瑠璃子が退魔軍の隊員たちに取り囲まれていた。
「違うの! 私は悪くないわ! あのケガレが……!」
「落ち着いてください、更木令嬢!」
瑠璃子はソフィアを指さしながら、あの女が悪いだの、あいつは泥棒だのと喚いていた。
けれどソフィアは、もう彼女を見ても怯えなかった。
「ソフィアさん、とりあえずブランを救護所へ運ぼう」 「……はい」
ソフィアはブランを抱えて立ち上がる。
まだ祭り会場は騒然としていたが、それでも先ほどまでの絶望的な混乱は、もう消えていた。

