「近頃、機嫌がいいようだな。中佐?」
再び、陰陽医局副長の研究室にて。
意味深な笑顔の上官に対して、祈織は「そうでしょうか?」と首を傾げた。
「何かいいことがあったのかね?」
「いいえ、特段変わったことは――あ。家に猫が一匹増えました」
「……猫?」
珍しく呆けた顔をする石動。
そんなに意外だっただろうか、と思いつつ、祈織は「ええ、猫です」と返す。
「ソフィアさんが拾ってきたのですが、観察しているとなかなか面白いですよ。鉢植えに悪戯された時は少々肝が冷えましたけれどね」
「そうか、君が猫好きとは意外だな……」
「僕がというより、ソフィアさんがそうなのでしょう。彼女、猫を撫でている間、顔がふやけているので」
「ふやけ……」
会話を交わしつつも、祈織の脳裏に浮かんでいるのはソフィアのことばかりだった。
ブランを撫でてくつろぐソフィア。
空になったブランの皿をご機嫌顔で洗うソフィア。
ブランと共に食後のうたた寝をしてしまうソフィア。
――思い出すだけで、自然と笑みが零れてくる。
「先日も、二人で猫の新しい首輪を選んできました。治療の効果も出てきて、今は心身ともに安定しているようです。正直僕もほっとしています」
「そうか。……中佐、それは惚気のつもりかね?」
「惚気?」
祈織は「定期的に状況を報告するように」と石動に命じられたから、それを守っているだけに過ぎない。
なのに、どうして石動はそんなことを、そんな訝しげな顔で聞いてくるのだろうか。
「今のはどう見ても惚気だ。君は猫の話をしているつもりなのだろうが、その実ソフィア嬢のことばかりではないか」
「患者の経過を気にかけるのは、医師として当然では?」
「だとしても、『猫を撫でる顔』まで観察する必要はないだろう?」
そう言われれば、確かに、と祈織は気づく。
というのも、ここ最近の彼は何かにつけ、ソフィアのことばかり気にしていた。
今までは『彼女は患者で友人の娘だから仕方ない』と結論づけてきたものの――この感情は、それにしてはあまりに熱を持ちすぎている気がする。
「そんな難しい顔をするな、中佐。私は安心しているのだ。なにせ、鷹宮中尉はソフィア嬢に懸想しているとの噂だからな」
思いがけず鷹宮中尉の名前を聞き、眉をひそめる祈織。
「……本当に、わけが分かりません。自分のしたことがどれだけ彼女を傷つけたか、あの馬鹿はまるで理解していない」
中庭でのやり取りを踏まえるに、おそらく彼は、自分の犯した間違いなど些事にすぎない、とでも考えているのだろう。
あまつさえ、自分の婚約者を降ろし、ソフィアをその座に据えようとしているのだから呆れてしまう。
次々噴出してくる不快感を、深呼吸で落ち着けて、祈織は切り出した。
「……中将、話を戻しましょう。もう一つ、重要な報告がありますので」
眉根の皺を指でほぐし、姿勢を正してから、祈織は続けた。
「どうやらこの件、我々に先駆けて、エミリアさんも深く関わっていたようなのです」
「……エミリアくんが? 退魔軍よりも先に?」
石動の目尻が、僅かに吊り上がる。
祈織は湧き上がる怒りを冷静に抑え、手にしていた机に資料を広げる。
「数日前、ソフィアさんからエミリアさんの手帳を拝借したのですが――思ったとおり、暗号でした」
広げた資料は、エミリアの手帳に綴られていた文章を、一言一句漏らさず書き写したものだった。
生活に活かせる昔ながらの西洋魔法を記した、娘への温かい愛情を感じられる文章で、一見しただけでは、ここに暗号が隠されているとは到底思えない。
「なぜ暗号に気づいた?」
「ソフィアさんから手帳を見せてもらったとき、綴りに所々違和感があって……最初は単に間違えたのかと思いましたが、几帳面なエミリアさんがこんなに間違えるとは思えなくて。それに、この冒頭の言葉」
そう言って、祈織は一番上にあった資料の文章を指で示す。
――『いつか遠からず訪れる日に備えて遺します。愛する娘・ソフィアのために』
「おかしいと思いませんか。エミリアさんはまだお若かったし、持病があった訳でもない。なのに、遠からず自分が死ぬことを予見していたかのようで……」
エミリアは吸血鬼に襲われて亡くなった。
事件に巻き込まれた女性の、不運な死――だというのに、エミリアの行動はまるで、自身の死を悟っていたかのようだ。
「ふむ。……それで、彼女の暗号は何を示していた?」
「鍵になるのは、このメモです。中将もご存知の通り、これは烏丸一族に伝わる、旧き陰陽術の記号ですが――」
祈織が暗号の解読方法を一つ一つ記していく。
終盤に近づくにつれ、石動の顔色は少しずつ険しくなっていった。
「『吸血鬼』、『変身』、『薬』、『不正』、『サラキ』と『タカミヤ』……告発文か」
「エミリアさんは、退魔軍よりも早く事態に気づいた。だから、自身に何かあったときのために、こうして暗号を遺していたのでしょう」
「口封じに殺害された、というわけか」
しかも、特定の人物――旧き陰陽術を理解できる者だけが気づける仕掛けを施しているあたり、よほど警戒していたことが伺える。
「業腹のようだな、中佐」
「不甲斐ないのです。自分の力が及ばなかったことが」
今までの経緯を踏まえるに、ソフィアはおそらく、更木家に人質として囚われていたのだろう――事態に気づいたエミリアの支援者や、退魔軍の内部監査官を牽制するための手札として。
ソフィアの捜索が難航したのも、更木家か鷹宮家が手を回していたと考えれば、辻褄が合う。
雛守ソフィアの失踪は、単なる行方不明ではなく、軍内部の人間が密接に関わった『誘拐事件』だった。
「もっと早く、ソフィアさんを保護できていれば……」
ソフィアは更木家の中で、ずっと怯えながら日々を生きていた。
夜会で目にした、痩せ細った体も、怯えきった目も――思い出すだけで怒りが込み上げる。
「詮無きことだ。むしろ、最悪の事態を回避できたのが不幸中の幸いだった。そう思っておけ」
石動中将の言葉に、祈織はギリッと奥歯を噛み締める。
「エミリアくんに意図的に吸血鬼をけしかけた者がいるのなら、彼奴らの裏には吸血鬼がいると見るべきだ。彼女に告発される可能性まで予見していたとなれば、頭も切れるのだろう」
「……相手は想定以上に手強いようですね」
それを思えば確かに、ソフィアを奪還できたのは幸いだった。
しかし、まだ安心はできない――鷹宮亜蓮はこれから、ソフィアを自身の花嫁にするつもりで動いてくるだろう。
おそらく、父である鷹宮子爵に操られた形で。
「鷹宮家にソフィア嬢が渡ってしまえば、彼女はまた人質に逆戻りだ。なんとしてでも彼女を守れ、中佐」
「無論、心得ております」
ソフィアがやっと手にした平穏を、あの悪魔たちに再び壊させてなるものか。
なにより、ソフィアの心を深く傷つけた愚か者に、彼女を好きにさせるわけにはいかない。
祈織は拳を固く握りしめ、石動を見据える。
「くく、よい眼だ。実に頼もしい。……こちらも早く、強制捜査の手札を切らねばな」
「それなのですが、中将。いっそ、あの馬鹿を利用するのも一つの手かもしれません」
祈織の発言に、石動の眉が吊り上がる。
「なにか策があるのかね」
「ええ。彼はどうしても『英雄』でいたいようですから、そこを利用します。ただ、方々に協力を得る必要がありますので、中将の人脈に頼ることになりますが……」
「かまわん。使えるものは上官だろうと活用するべきだ。無論、君自身も」
「そう言っていただけると助かります」
祈織は静かに目を伏せた。
英雄を気取りたいなら、存分に舞台で踊ればいい。
ただし、その舞台を整えるのはこちら側だ。
鷹宮亜蓮が酔いしれている英雄譚ごと、すべてひっくり返してやる。
祈織の黒い瞳に、冷たい光が宿った。
再び、陰陽医局副長の研究室にて。
意味深な笑顔の上官に対して、祈織は「そうでしょうか?」と首を傾げた。
「何かいいことがあったのかね?」
「いいえ、特段変わったことは――あ。家に猫が一匹増えました」
「……猫?」
珍しく呆けた顔をする石動。
そんなに意外だっただろうか、と思いつつ、祈織は「ええ、猫です」と返す。
「ソフィアさんが拾ってきたのですが、観察しているとなかなか面白いですよ。鉢植えに悪戯された時は少々肝が冷えましたけれどね」
「そうか、君が猫好きとは意外だな……」
「僕がというより、ソフィアさんがそうなのでしょう。彼女、猫を撫でている間、顔がふやけているので」
「ふやけ……」
会話を交わしつつも、祈織の脳裏に浮かんでいるのはソフィアのことばかりだった。
ブランを撫でてくつろぐソフィア。
空になったブランの皿をご機嫌顔で洗うソフィア。
ブランと共に食後のうたた寝をしてしまうソフィア。
――思い出すだけで、自然と笑みが零れてくる。
「先日も、二人で猫の新しい首輪を選んできました。治療の効果も出てきて、今は心身ともに安定しているようです。正直僕もほっとしています」
「そうか。……中佐、それは惚気のつもりかね?」
「惚気?」
祈織は「定期的に状況を報告するように」と石動に命じられたから、それを守っているだけに過ぎない。
なのに、どうして石動はそんなことを、そんな訝しげな顔で聞いてくるのだろうか。
「今のはどう見ても惚気だ。君は猫の話をしているつもりなのだろうが、その実ソフィア嬢のことばかりではないか」
「患者の経過を気にかけるのは、医師として当然では?」
「だとしても、『猫を撫でる顔』まで観察する必要はないだろう?」
そう言われれば、確かに、と祈織は気づく。
というのも、ここ最近の彼は何かにつけ、ソフィアのことばかり気にしていた。
今までは『彼女は患者で友人の娘だから仕方ない』と結論づけてきたものの――この感情は、それにしてはあまりに熱を持ちすぎている気がする。
「そんな難しい顔をするな、中佐。私は安心しているのだ。なにせ、鷹宮中尉はソフィア嬢に懸想しているとの噂だからな」
思いがけず鷹宮中尉の名前を聞き、眉をひそめる祈織。
「……本当に、わけが分かりません。自分のしたことがどれだけ彼女を傷つけたか、あの馬鹿はまるで理解していない」
中庭でのやり取りを踏まえるに、おそらく彼は、自分の犯した間違いなど些事にすぎない、とでも考えているのだろう。
あまつさえ、自分の婚約者を降ろし、ソフィアをその座に据えようとしているのだから呆れてしまう。
次々噴出してくる不快感を、深呼吸で落ち着けて、祈織は切り出した。
「……中将、話を戻しましょう。もう一つ、重要な報告がありますので」
眉根の皺を指でほぐし、姿勢を正してから、祈織は続けた。
「どうやらこの件、我々に先駆けて、エミリアさんも深く関わっていたようなのです」
「……エミリアくんが? 退魔軍よりも先に?」
石動の目尻が、僅かに吊り上がる。
祈織は湧き上がる怒りを冷静に抑え、手にしていた机に資料を広げる。
「数日前、ソフィアさんからエミリアさんの手帳を拝借したのですが――思ったとおり、暗号でした」
広げた資料は、エミリアの手帳に綴られていた文章を、一言一句漏らさず書き写したものだった。
生活に活かせる昔ながらの西洋魔法を記した、娘への温かい愛情を感じられる文章で、一見しただけでは、ここに暗号が隠されているとは到底思えない。
「なぜ暗号に気づいた?」
「ソフィアさんから手帳を見せてもらったとき、綴りに所々違和感があって……最初は単に間違えたのかと思いましたが、几帳面なエミリアさんがこんなに間違えるとは思えなくて。それに、この冒頭の言葉」
そう言って、祈織は一番上にあった資料の文章を指で示す。
――『いつか遠からず訪れる日に備えて遺します。愛する娘・ソフィアのために』
「おかしいと思いませんか。エミリアさんはまだお若かったし、持病があった訳でもない。なのに、遠からず自分が死ぬことを予見していたかのようで……」
エミリアは吸血鬼に襲われて亡くなった。
事件に巻き込まれた女性の、不運な死――だというのに、エミリアの行動はまるで、自身の死を悟っていたかのようだ。
「ふむ。……それで、彼女の暗号は何を示していた?」
「鍵になるのは、このメモです。中将もご存知の通り、これは烏丸一族に伝わる、旧き陰陽術の記号ですが――」
祈織が暗号の解読方法を一つ一つ記していく。
終盤に近づくにつれ、石動の顔色は少しずつ険しくなっていった。
「『吸血鬼』、『変身』、『薬』、『不正』、『サラキ』と『タカミヤ』……告発文か」
「エミリアさんは、退魔軍よりも早く事態に気づいた。だから、自身に何かあったときのために、こうして暗号を遺していたのでしょう」
「口封じに殺害された、というわけか」
しかも、特定の人物――旧き陰陽術を理解できる者だけが気づける仕掛けを施しているあたり、よほど警戒していたことが伺える。
「業腹のようだな、中佐」
「不甲斐ないのです。自分の力が及ばなかったことが」
今までの経緯を踏まえるに、ソフィアはおそらく、更木家に人質として囚われていたのだろう――事態に気づいたエミリアの支援者や、退魔軍の内部監査官を牽制するための手札として。
ソフィアの捜索が難航したのも、更木家か鷹宮家が手を回していたと考えれば、辻褄が合う。
雛守ソフィアの失踪は、単なる行方不明ではなく、軍内部の人間が密接に関わった『誘拐事件』だった。
「もっと早く、ソフィアさんを保護できていれば……」
ソフィアは更木家の中で、ずっと怯えながら日々を生きていた。
夜会で目にした、痩せ細った体も、怯えきった目も――思い出すだけで怒りが込み上げる。
「詮無きことだ。むしろ、最悪の事態を回避できたのが不幸中の幸いだった。そう思っておけ」
石動中将の言葉に、祈織はギリッと奥歯を噛み締める。
「エミリアくんに意図的に吸血鬼をけしかけた者がいるのなら、彼奴らの裏には吸血鬼がいると見るべきだ。彼女に告発される可能性まで予見していたとなれば、頭も切れるのだろう」
「……相手は想定以上に手強いようですね」
それを思えば確かに、ソフィアを奪還できたのは幸いだった。
しかし、まだ安心はできない――鷹宮亜蓮はこれから、ソフィアを自身の花嫁にするつもりで動いてくるだろう。
おそらく、父である鷹宮子爵に操られた形で。
「鷹宮家にソフィア嬢が渡ってしまえば、彼女はまた人質に逆戻りだ。なんとしてでも彼女を守れ、中佐」
「無論、心得ております」
ソフィアがやっと手にした平穏を、あの悪魔たちに再び壊させてなるものか。
なにより、ソフィアの心を深く傷つけた愚か者に、彼女を好きにさせるわけにはいかない。
祈織は拳を固く握りしめ、石動を見据える。
「くく、よい眼だ。実に頼もしい。……こちらも早く、強制捜査の手札を切らねばな」
「それなのですが、中将。いっそ、あの馬鹿を利用するのも一つの手かもしれません」
祈織の発言に、石動の眉が吊り上がる。
「なにか策があるのかね」
「ええ。彼はどうしても『英雄』でいたいようですから、そこを利用します。ただ、方々に協力を得る必要がありますので、中将の人脈に頼ることになりますが……」
「かまわん。使えるものは上官だろうと活用するべきだ。無論、君自身も」
「そう言っていただけると助かります」
祈織は静かに目を伏せた。
英雄を気取りたいなら、存分に舞台で踊ればいい。
ただし、その舞台を整えるのはこちら側だ。
鷹宮亜蓮が酔いしれている英雄譚ごと、すべてひっくり返してやる。
祈織の黒い瞳に、冷たい光が宿った。

