紅茶と共に縁側に腰をかけて、二人はそのまま無言の時間を過ごす。
不思議と気まずさはない――まるで、二人だけ取り残されたような、穏やかで心地のいい空間だった。
「今日は月が綺麗だねぇ」
月を見上げた祈織が、ぽつりと漏らす。
青白い月を見ていると、荒んでいた心が驚くほど穏やかになっていく。
包むような月明かりに照らされた植物たちが、夜露の匂いをまとっている。
澄んだ空気を肺に取り込み、ふっと落ち着きを取り戻したところで、
「昔、エミリアさんが言ってたんだ
と、祈織が紅茶のカップに視線を落としながら言う。
「特別な魔術を使わなくても、人を癒すすべは溢れてるんだよって。これもその一つだって言って、よく淹れてくれてた」
同じことを言っていたのを、ソフィアはぼんやりとした頭で思い出す。
幼い頃のソフィアが怖い夢を見て眠れないでいた時、母はいつもこうしてハーブティーを淹れてくれた。
子供の舌にもなじむよう、ミルクをたっぷり混ぜたお手製のハーブティーは、その夜だけの特別な飲み物のようだった。
「幻聴が聞こえるって、さっき教えてくれたよね。それは多分、僕の血の抗体が効いているからだと思う。君を蝕んでいる血毒の病原体が、君の回復を妨害しているんだと思う」
祈織曰く、ソフィアの肉体は今、血毒と奪い合いの状態になっているのだという。
抗体が効き始めたことで、肉体を蝕んでいた血毒側も抵抗を始め、ソフィアの精神を害しているのだろう。
……というのが、祈織の考察だった。
「……ごめんね、ソフィアさん。さっきの『治療だと思えばいい』は、少し不十分だったかもしれない」
祈織は眉根に寄ったしわを指で押し潰しながら、静かに吐露し始めた。
「治療のためだと言えば、君の罪悪感も軽くできるだろうと考えたんだけど――その台詞が、却って君を追い詰めたんだね」
ソフィアは痛いのも怖いのも大嫌いだから、できるだけ避けようとする。
けれど祈織は、ソフィアのためなら痛みも恐怖も受け入れてしまう。
それを見抜いていたからこそ、ソフィアは余計につらかったのだ。
「ソフィアさん。今からちょっと衝撃的なことを言うね」
「え?」
「頼むから、あんまり引かないでほしいんだけど……」
祈織は息をひと吸いし、意を決したようにソフィアの目を見据えた。
「正直言うと、僕──ソフィアさんに噛みつかれた時、めちゃくちゃ喜んでた」
「……。……? ……はい?」
それを耳にした瞬間、ソフィアの頬に残っていた涙の痕が、たちどころに乾いた。
ごく真面目な顔で告げられた、あまりにも予想外な事実。
それを前に呆けているソフィアに、祈織はもう一度、ダメ押しのように暴露する。
「あの、僕ね、注射とかわりと好きなんだよ。それに似た感じっていうか……。噛みつかれた時の『アッ』って感じとか、血を吸い出されてる感覚とか……けっこう好きだったり、する」
「…………。ええ、と。つまりそれは」
吸血の痛みが好き、ということだろうか。
目の前の彼に、そのような稀有な性質が、というより性癖が、あるというのか。
ひとしきり驚いたソフィアは今、困惑していた。
「……うん。そりゃそんな反応にもなるよね、うん」
目に見えて、祈織の表情から生気という生気が消えていく。
まずい、何かフォローを入れなければ、とソフィアは急いで言葉を探した。
「あ、えと、苦痛でなかったのなら、よかったです……?」
悲しいかな、中途半端に疑問形の語尾になってしまったのが悪かったのか、今度は祈織が泣きそうな顔をしていた。
かろうじて口元だけが笑顔を保っているが、瞳は涙を孕んでいて切なげだ。
「ごめんなさい……そんなことまで言わせてしまって……」
「いや、いいんだ……ソフィアさんの気持ちが少しでも楽になるなら、僕の威厳なんかどうなってもいいよ……っ」
どうやら祈織は、性癖を自ら暴露したことで心に深手を負ったらしい。
ソフィアのために身を切る覚悟で言ってくれたのだろう――自己犠牲もここまで来ると立派だ。
「……あの、では、祈織さん。もし、本当にお嫌でないなら……あともう少しだけ、血を分けてほしいです」
彼の心をこれ以上辱めないよう、ソフィアは丁重にお願いをする。
本当に喉が渇いていたのもあったが、もしならばお詫びに、という意味合いもあった。
祈織は意外そうにソフィアを凝視したあと、少しばかり寝間着の衿を緩め、「……ン」と首筋を見せた。
恥ずかしそうに口元を隠している彼の姿からは、羞恥と僅かばかりの期待が伺えた。
(……なに、これ)
なぜこんな奇妙な状況で、自分はドキドキしているのだ。
変にもほどがある。
ソフィアは思い切って、首筋にカプッと噛みついた。
「ぐ……っ! ンンン……!」
傷口から血を吸い上げると、祈織がなんとも悩ましい声を出す。
なんだか恥ずかしいことをしている気がしてくるが、もう引き返すことはできない。
ひと口啜る程度の量を、時間をかけて吸い上げ、ゆっくり味わいながら飲み込む。
「止血、しますね」
口を離したソフィアはすかさず術を使い、噛み痕から流れ出た血を止めた。
力が抜けて、くたっと気だるそうな祈織を見ていると、不思議と惹かれるものがあった。
(……私、本当に何を考えてるんだろう)
自分は清純だと無意識に信じていたが、実はそこそこに不純だったのでは……と思い始めるソフィア。
いやしかし、祈織の仕草や声が妙に妖艶で、心を揺さぶってくるから、というのも間違いなくある。
この奇妙な胸の鼓動は、祈織がそうさせたのだ。
……そう思いたい。
「あの、ソフィアさん」
「! は、はい! どうかしましたか?」
気だるげな表情の祈織を見て、具合を悪くしたのだろうかと不安になるソフィア。
しかし、祈織は心配するソフィアから目を背けて、
「ごめん、今、本当にキモい顔してるから、そんなに見ないで……っ」
と、口元を覆い隠す。
どうやら、考え事をしているうちに、祈織を凝視してしまっていたらしい。
恥じらっている様子の彼を見ていると、ふっとなにかがソフィアの脳裏をかすめた。
(あれ、前にもこんなことがあったような……)
よくよく記憶をまさぐって、ソフィアはあっ、と思い出した。
そうだ――初めて彼に噛みついてしまったとき。
あの時も、彼はソフィアに見つめられて、慌てて顔を隠していた。
体調不良を誤魔化そうとしている、とその時のソフィアは思ったのだが、実はそうではなく――
「まさか、祈織さん……あの時、照れていたんですか……!?」
「ぐっふ……! ……はい、そうです……ドン引きされるのが嫌で黙ってました……」
痛いところを突かれたとばかりに呻く祈織。
間違いない――祈織はあの時、実は歓喜していて、それをソフィアに悟られないよう、必死に隠していたのだ。
それに気づいた途端、ソフィアの中で、言いようのない感情がきゅうんと込み上げてきた。
「ひ、引いてません! 大丈夫ですよ!」
「ううう、本当にごめん……まさか、こんな形で裏目に出るとは……」
「いえっ、あの、むしろ謝らなきゃいけないのは私で……!」
本当に、彼に申し訳ないことをさせてしまった。
予想外の事実があったとはいえ、深刻に考えすぎていた。
ソフィアが過敏になって落ちこみまくったせいで、祈織は言いたくなかったであろう性癖を暴露するはめになったのだ。
「ほ、本当にごめんなさい……! 今度からは、ちゃんと我慢しないで『欲しい』って言いますっ!」
「ぶっ!? ちょ、その言い方もどうなの……!? というか、ちょっと一旦離れよう!?」
「えっ? ……あああっ、すみません、すみません!」
祈織に促されて、ソフィアは慌てて彼から離れる。
吸血のときの体勢のまま、体がぴったりとくっついていたのを忘れていた。
「でも、私がうっかり飲みすぎたりして、祈織さんが貧血にならないか、やっぱり心配です……」
「んー、確かにそれは一理あるな……対策はいくつあってもいいし、追々考えようか」
祈織はそう言って、顔にかかった髪を払い除けながら、月を見上げた。
相変わらず、綺麗な顔立ちだ――夜闇の中で見ているせいか、今の彼はいつにも増して艶やかに見える。
巷の人々の『陰の美しさ』という評も、今の彼を見れば殊更腑に落ちた。
「……そういえば、紅茶がなくなっちゃったんだけど、さ」
祈織の言葉を聞いて、ソフィアは彼の手元に視線を落とす。
確かに、祈織はいつの間にか、中身を全部飲み干していた。
「なんか僕、もう一杯欲しいかも」
「……でしたら、二杯目は別の茶葉でお淹れしましょうか?」
「うん、それがいいな。……ねえ」
ソフィアがその場を立とうとしたところで、祈織が言う。
「紅茶を淹れてるところ、僕も見ていていい? どうやって淹れてるのか、知りたいな」
「……ええ。もちろん、いいですよ」
「ふふ。今夜は夜更かし確定だね」
夜風に促されるように、二人で台所へ向かう。
穏やかな月に見守られるこの時間を、もう少しだけ続けていたかった。
不思議と気まずさはない――まるで、二人だけ取り残されたような、穏やかで心地のいい空間だった。
「今日は月が綺麗だねぇ」
月を見上げた祈織が、ぽつりと漏らす。
青白い月を見ていると、荒んでいた心が驚くほど穏やかになっていく。
包むような月明かりに照らされた植物たちが、夜露の匂いをまとっている。
澄んだ空気を肺に取り込み、ふっと落ち着きを取り戻したところで、
「昔、エミリアさんが言ってたんだ
と、祈織が紅茶のカップに視線を落としながら言う。
「特別な魔術を使わなくても、人を癒すすべは溢れてるんだよって。これもその一つだって言って、よく淹れてくれてた」
同じことを言っていたのを、ソフィアはぼんやりとした頭で思い出す。
幼い頃のソフィアが怖い夢を見て眠れないでいた時、母はいつもこうしてハーブティーを淹れてくれた。
子供の舌にもなじむよう、ミルクをたっぷり混ぜたお手製のハーブティーは、その夜だけの特別な飲み物のようだった。
「幻聴が聞こえるって、さっき教えてくれたよね。それは多分、僕の血の抗体が効いているからだと思う。君を蝕んでいる血毒の病原体が、君の回復を妨害しているんだと思う」
祈織曰く、ソフィアの肉体は今、血毒と奪い合いの状態になっているのだという。
抗体が効き始めたことで、肉体を蝕んでいた血毒側も抵抗を始め、ソフィアの精神を害しているのだろう。
……というのが、祈織の考察だった。
「……ごめんね、ソフィアさん。さっきの『治療だと思えばいい』は、少し不十分だったかもしれない」
祈織は眉根に寄ったしわを指で押し潰しながら、静かに吐露し始めた。
「治療のためだと言えば、君の罪悪感も軽くできるだろうと考えたんだけど――その台詞が、却って君を追い詰めたんだね」
ソフィアは痛いのも怖いのも大嫌いだから、できるだけ避けようとする。
けれど祈織は、ソフィアのためなら痛みも恐怖も受け入れてしまう。
それを見抜いていたからこそ、ソフィアは余計につらかったのだ。
「ソフィアさん。今からちょっと衝撃的なことを言うね」
「え?」
「頼むから、あんまり引かないでほしいんだけど……」
祈織は息をひと吸いし、意を決したようにソフィアの目を見据えた。
「正直言うと、僕──ソフィアさんに噛みつかれた時、めちゃくちゃ喜んでた」
「……。……? ……はい?」
それを耳にした瞬間、ソフィアの頬に残っていた涙の痕が、たちどころに乾いた。
ごく真面目な顔で告げられた、あまりにも予想外な事実。
それを前に呆けているソフィアに、祈織はもう一度、ダメ押しのように暴露する。
「あの、僕ね、注射とかわりと好きなんだよ。それに似た感じっていうか……。噛みつかれた時の『アッ』って感じとか、血を吸い出されてる感覚とか……けっこう好きだったり、する」
「…………。ええ、と。つまりそれは」
吸血の痛みが好き、ということだろうか。
目の前の彼に、そのような稀有な性質が、というより性癖が、あるというのか。
ひとしきり驚いたソフィアは今、困惑していた。
「……うん。そりゃそんな反応にもなるよね、うん」
目に見えて、祈織の表情から生気という生気が消えていく。
まずい、何かフォローを入れなければ、とソフィアは急いで言葉を探した。
「あ、えと、苦痛でなかったのなら、よかったです……?」
悲しいかな、中途半端に疑問形の語尾になってしまったのが悪かったのか、今度は祈織が泣きそうな顔をしていた。
かろうじて口元だけが笑顔を保っているが、瞳は涙を孕んでいて切なげだ。
「ごめんなさい……そんなことまで言わせてしまって……」
「いや、いいんだ……ソフィアさんの気持ちが少しでも楽になるなら、僕の威厳なんかどうなってもいいよ……っ」
どうやら祈織は、性癖を自ら暴露したことで心に深手を負ったらしい。
ソフィアのために身を切る覚悟で言ってくれたのだろう――自己犠牲もここまで来ると立派だ。
「……あの、では、祈織さん。もし、本当にお嫌でないなら……あともう少しだけ、血を分けてほしいです」
彼の心をこれ以上辱めないよう、ソフィアは丁重にお願いをする。
本当に喉が渇いていたのもあったが、もしならばお詫びに、という意味合いもあった。
祈織は意外そうにソフィアを凝視したあと、少しばかり寝間着の衿を緩め、「……ン」と首筋を見せた。
恥ずかしそうに口元を隠している彼の姿からは、羞恥と僅かばかりの期待が伺えた。
(……なに、これ)
なぜこんな奇妙な状況で、自分はドキドキしているのだ。
変にもほどがある。
ソフィアは思い切って、首筋にカプッと噛みついた。
「ぐ……っ! ンンン……!」
傷口から血を吸い上げると、祈織がなんとも悩ましい声を出す。
なんだか恥ずかしいことをしている気がしてくるが、もう引き返すことはできない。
ひと口啜る程度の量を、時間をかけて吸い上げ、ゆっくり味わいながら飲み込む。
「止血、しますね」
口を離したソフィアはすかさず術を使い、噛み痕から流れ出た血を止めた。
力が抜けて、くたっと気だるそうな祈織を見ていると、不思議と惹かれるものがあった。
(……私、本当に何を考えてるんだろう)
自分は清純だと無意識に信じていたが、実はそこそこに不純だったのでは……と思い始めるソフィア。
いやしかし、祈織の仕草や声が妙に妖艶で、心を揺さぶってくるから、というのも間違いなくある。
この奇妙な胸の鼓動は、祈織がそうさせたのだ。
……そう思いたい。
「あの、ソフィアさん」
「! は、はい! どうかしましたか?」
気だるげな表情の祈織を見て、具合を悪くしたのだろうかと不安になるソフィア。
しかし、祈織は心配するソフィアから目を背けて、
「ごめん、今、本当にキモい顔してるから、そんなに見ないで……っ」
と、口元を覆い隠す。
どうやら、考え事をしているうちに、祈織を凝視してしまっていたらしい。
恥じらっている様子の彼を見ていると、ふっとなにかがソフィアの脳裏をかすめた。
(あれ、前にもこんなことがあったような……)
よくよく記憶をまさぐって、ソフィアはあっ、と思い出した。
そうだ――初めて彼に噛みついてしまったとき。
あの時も、彼はソフィアに見つめられて、慌てて顔を隠していた。
体調不良を誤魔化そうとしている、とその時のソフィアは思ったのだが、実はそうではなく――
「まさか、祈織さん……あの時、照れていたんですか……!?」
「ぐっふ……! ……はい、そうです……ドン引きされるのが嫌で黙ってました……」
痛いところを突かれたとばかりに呻く祈織。
間違いない――祈織はあの時、実は歓喜していて、それをソフィアに悟られないよう、必死に隠していたのだ。
それに気づいた途端、ソフィアの中で、言いようのない感情がきゅうんと込み上げてきた。
「ひ、引いてません! 大丈夫ですよ!」
「ううう、本当にごめん……まさか、こんな形で裏目に出るとは……」
「いえっ、あの、むしろ謝らなきゃいけないのは私で……!」
本当に、彼に申し訳ないことをさせてしまった。
予想外の事実があったとはいえ、深刻に考えすぎていた。
ソフィアが過敏になって落ちこみまくったせいで、祈織は言いたくなかったであろう性癖を暴露するはめになったのだ。
「ほ、本当にごめんなさい……! 今度からは、ちゃんと我慢しないで『欲しい』って言いますっ!」
「ぶっ!? ちょ、その言い方もどうなの……!? というか、ちょっと一旦離れよう!?」
「えっ? ……あああっ、すみません、すみません!」
祈織に促されて、ソフィアは慌てて彼から離れる。
吸血のときの体勢のまま、体がぴったりとくっついていたのを忘れていた。
「でも、私がうっかり飲みすぎたりして、祈織さんが貧血にならないか、やっぱり心配です……」
「んー、確かにそれは一理あるな……対策はいくつあってもいいし、追々考えようか」
祈織はそう言って、顔にかかった髪を払い除けながら、月を見上げた。
相変わらず、綺麗な顔立ちだ――夜闇の中で見ているせいか、今の彼はいつにも増して艶やかに見える。
巷の人々の『陰の美しさ』という評も、今の彼を見れば殊更腑に落ちた。
「……そういえば、紅茶がなくなっちゃったんだけど、さ」
祈織の言葉を聞いて、ソフィアは彼の手元に視線を落とす。
確かに、祈織はいつの間にか、中身を全部飲み干していた。
「なんか僕、もう一杯欲しいかも」
「……でしたら、二杯目は別の茶葉でお淹れしましょうか?」
「うん、それがいいな。……ねえ」
ソフィアがその場を立とうとしたところで、祈織が言う。
「紅茶を淹れてるところ、僕も見ていていい? どうやって淹れてるのか、知りたいな」
「……ええ。もちろん、いいですよ」
「ふふ。今夜は夜更かし確定だね」
夜風に促されるように、二人で台所へ向かう。
穏やかな月に見守られるこの時間を、もう少しだけ続けていたかった。

