すっかり意気消沈して、ブランの食事を用意するのがやっとだった。
祈織が買ってきてくれたもので夕食を済ませ、風呂に浸かり、布団に入って、夜が更けて。
……日付が変わりそうになっても、ソフィアは眠れないままだった。
(……また、祈織さんに気を遣わせてしまった)
亜蓮から強引に迫られたソフィアの心情を察してか、祈織からの会話や接触はほとんどないまま、一日が終わろうとしている。
(これ以上、迷惑なんてかけられないのに……)
吸血衝動のことと言い、亜蓮のことと言い、もうたくさんだ。
ソフィア一人では到底抱えきれない問題ばかりが山積している。
せめて、祈織を傷つけないよう、吸血衝動をやり過ごす方法さえ見つかれば……。
(……だめ、また血が欲しく……)
彼のことを考えていたら、また喉が渇いてきた。
ソフィアはそばに置いてあった水差しの水をがぶ飲みするが、もう焼け石に水だった。
『ケガレの分際で』
『その目で見るんじゃないわよ』
『穢れた身の上で』
不意に――瑠璃子や夫人の罵声が、ソフィアの頭を殴りつけてくる。
ソフィアは耳を塞ぎ、それでもまとわりつく声を振り払うように、頭をぶんぶん振った。
(違う、違う、違う! 私は人間……! 吸血鬼じゃない!)
ソフィアは何度も繰り返し自分に言い聞かせる。
これに耐えなければ、祈織を傷つけてしまう。
けれど、必死に否定するソフィアを妨害するように、二人の嗤い声が何度も頭を叩いた。
『卑しいこと。人を惑わせて血を啜るなんて、なんておぞましいのかしら』
『血を吸わずにはいられない人間なんて、そんなの人間じゃない。穢れた怪物だわ』
違う、違う、違う――!
そう思うのに、言葉はもう自分の中で空回りしている。
「もう、やだ……どうして……」
どうして自分が、こんな目に遭うのだ。
もう嫌だ、もう耐えられない。
今すぐ消えてしまいたい。
頭に響く嘲笑も、痛いくらい乱れた拍動も、なにもかも静かになってしまえば楽なのに。
涙が滲んだソフィアの視界に、ふと、裁縫用の糸切り鋏が映り込む。
――アレの先で喉を突けば、この苦しみから解放されるだろうか。
そんな不穏な考えが、頭をよぎる。
(――それが、いいのかもしれない)
怪物になって、誰かを傷つけることになるくらいなら、自分で始末をつけてしまおう。
と、ソフィアは鋏に手を伸ばす。
(大丈夫……少しだけ、苦しいかもしれないけれど)
鋏の先端を喉に向け、息を整える。
けれど、その時――脳裏に母の顔が浮かんだ。
(……ごめんなさい、お母さん。許してください……)
涙がこぼれ、手が震える。
鋏に震えが伝わって、カチカチと小さく音を立てる。
それでも腹を決めて、震えを抑え込むように、手を握りしめ――
「――待って、ソフィアさん!」
鋏の先端を喉に押し込もうとした、その時だった。
ギチリと、とても強い力で、ソフィアの手が抑え込まれた。
「祈織、さ……?」
「落ち着いて。僕の声だけ聞いてくれる?」
ソフィアの肩を片手でさすりながら、祈織は微笑んだ。
彼女を安心させるための、作られた笑顔。
「ほら、血飲もう? 吸血衝動が限界で――」
「っ!? だめっ!!」
ソフィアは近づくなと彼を押し離した。
これ以上血を飲んだら、本当に怪物になってしまう気がして、恐ろしかった。
「祈織さん……私は……私は、生きていて、いいのですか……?」
……絶えず心のどこかで考えていたことを、ぽろっと口にしていた。
一度口に出して勢いがついたのか、ソフィアが心の奥底にしまっていた思いが、次々と堰を切ったように溢れ出た。
「自分でも、分かるんです……貴方の血をずっと求めてる、って……血を飲むのが、たまらなく好きだって……」
私は人間だ、と何度も言い聞かせていたのは、ほとんど怪物に近いものになっている自覚があったからだ。
あの夜の発作はそれほど決定的――否、確定的なものだった。
彼女の運命を、確定させるものだったのだ。
「貴方に怪我なんてさせたくないのに……! それなのに、私は貴方を傷つけなければ、生きていけない! それが、嫌なんです……!」
治療だと思えばいい、と祈織は言ったけれど。
それなら彼はこの先ずっと、ソフィアを治療する度に傷つくということだ。
自分は大切な人を怪我させて、血を啜っていかなければいけない。
しかも、その血はたまらなく美味しい。
ソフィアは板挟みだった。
「お願いです……まだ人間でいるうちに、母のもとへ往かせてください……! 怪物になるくらいなら、いっそ……」
応急処置で飲まされただけならまだしも――自ら血を求めて啜るようになっては、本物の怪物だ。
けれど祈織は
「違う」
と、静かに言った。
「君が血を欲しているのは、怪物だからじゃない。病気だからだ」
「でも……!」
「エミリアさんは」
ソフィアの言葉を遮るように、祈織は言う。
悲痛に泣いている彼女へ届けるように、はっきりと口にする。
「エミリアさんは、君の病を治すために、僕を頼ってきた。その願いを受けて、僕は自分の体に病原体を打ち込んで、血中に抗体を作る実験をしていた。全部、君のための研究だったんだよ」
「え……?」
理解が追いつかなかった。
自分に病原体を打ち込む行為だけでも信じられないのに――それを、当時会ったこともない少女のためにしてきたなんて。
彼自身の知識欲が後押ししていたとしても、正気の沙汰とは思えなかった。
彼は少しだけ距離を詰めると、低く、落ち着いた声で言った。
「ソフィアさん、これは治療だ。吸血鬼どもの捕食行動とは違う。僕の血は、決して君を怪物にしない」
「あ……」
祈織の指先が鋏の先端にクッと押し込まれる。
途端、漂ってくる芳香に、頭の芯が痺れていくのを感じた。
あの蠱惑的な、祈織の血の香り。
「もう時間がない。吸血鬼になりたくなければ、腹を括って」
夜の静寂の中で、その言葉だけがはっきりと響く。
選択を迫る、というよりは、ソフィア自身に選ばせるための言葉だった。
祈織は傷つけた指先を、ソフィアの目の前に差し出した。
「君自身の意志で、生きる覚悟を決めてくれ」
ソフィアの胸の奥で、何かが激しく揺らいでいる。
自分の意志で血を飲むなんて、怖い。
でも――それ以上に。
(……ここで、なにもかも投げ出したら――)
彼岸にいる母を悲しませてしまう。
――母の想いを、祈織の研究を、ソフィアのためになされてきたすべてを、否定してしまう。
「……っ」
ソフィアは震える手を祈織の指先に添え、おそるおそる唇を寄せる。
ほんのひとしずくの血が舌に触れた途端、芳醇な香りがソフィアの中に広がった。
(……ああ、この味……)
ソフィアの中で、バラバラになっていた感情が一つに重なる。
――自分はずっと、この味を求めていたのだ。
彼の血の味を知ってしまった、あの瞬間から。
理性に阻まれてもなお、これが欲しかった。
(もっと、ほしい……)
いけないと分かっているのに、味わう度にもっと味わいたいと思ってしまう。
静かな罪悪感と嫌悪感に苛まれながら、ソフィアは指先から血を吸い続ける。
「大丈夫、もっと飲んでいいよ。飲み続ければ、抗体が効いてくるはずだから」
ソフィアの頭を撫でながら、祈織は穏やかな声で語りかける。
まとわりついた不純物を取り除くように、後ろ暗い気持ちを、一つ一つほどいていく。
しばらく吸い続けて、荒波のような衝動が鎮まったところで、ソフィアは口を離した。
「……はあ……もう、大丈夫です……」
「いい子だ。よく頑張ったね」
祈織がぽんぽんとソフィアの肩を軽く撫でる。
あれだけ躊躇った吸血をした後なのに、不思議と安心している自分がいる。
「……お茶でも飲もうか。少し落ち着いてから寝よう」
こくりと頷きながら、ソフィアは祈織に促される形で立ち上がる。
それでも、彼女はしばらく祈織の手を離せないままだった。
祈織が買ってきてくれたもので夕食を済ませ、風呂に浸かり、布団に入って、夜が更けて。
……日付が変わりそうになっても、ソフィアは眠れないままだった。
(……また、祈織さんに気を遣わせてしまった)
亜蓮から強引に迫られたソフィアの心情を察してか、祈織からの会話や接触はほとんどないまま、一日が終わろうとしている。
(これ以上、迷惑なんてかけられないのに……)
吸血衝動のことと言い、亜蓮のことと言い、もうたくさんだ。
ソフィア一人では到底抱えきれない問題ばかりが山積している。
せめて、祈織を傷つけないよう、吸血衝動をやり過ごす方法さえ見つかれば……。
(……だめ、また血が欲しく……)
彼のことを考えていたら、また喉が渇いてきた。
ソフィアはそばに置いてあった水差しの水をがぶ飲みするが、もう焼け石に水だった。
『ケガレの分際で』
『その目で見るんじゃないわよ』
『穢れた身の上で』
不意に――瑠璃子や夫人の罵声が、ソフィアの頭を殴りつけてくる。
ソフィアは耳を塞ぎ、それでもまとわりつく声を振り払うように、頭をぶんぶん振った。
(違う、違う、違う! 私は人間……! 吸血鬼じゃない!)
ソフィアは何度も繰り返し自分に言い聞かせる。
これに耐えなければ、祈織を傷つけてしまう。
けれど、必死に否定するソフィアを妨害するように、二人の嗤い声が何度も頭を叩いた。
『卑しいこと。人を惑わせて血を啜るなんて、なんておぞましいのかしら』
『血を吸わずにはいられない人間なんて、そんなの人間じゃない。穢れた怪物だわ』
違う、違う、違う――!
そう思うのに、言葉はもう自分の中で空回りしている。
「もう、やだ……どうして……」
どうして自分が、こんな目に遭うのだ。
もう嫌だ、もう耐えられない。
今すぐ消えてしまいたい。
頭に響く嘲笑も、痛いくらい乱れた拍動も、なにもかも静かになってしまえば楽なのに。
涙が滲んだソフィアの視界に、ふと、裁縫用の糸切り鋏が映り込む。
――アレの先で喉を突けば、この苦しみから解放されるだろうか。
そんな不穏な考えが、頭をよぎる。
(――それが、いいのかもしれない)
怪物になって、誰かを傷つけることになるくらいなら、自分で始末をつけてしまおう。
と、ソフィアは鋏に手を伸ばす。
(大丈夫……少しだけ、苦しいかもしれないけれど)
鋏の先端を喉に向け、息を整える。
けれど、その時――脳裏に母の顔が浮かんだ。
(……ごめんなさい、お母さん。許してください……)
涙がこぼれ、手が震える。
鋏に震えが伝わって、カチカチと小さく音を立てる。
それでも腹を決めて、震えを抑え込むように、手を握りしめ――
「――待って、ソフィアさん!」
鋏の先端を喉に押し込もうとした、その時だった。
ギチリと、とても強い力で、ソフィアの手が抑え込まれた。
「祈織、さ……?」
「落ち着いて。僕の声だけ聞いてくれる?」
ソフィアの肩を片手でさすりながら、祈織は微笑んだ。
彼女を安心させるための、作られた笑顔。
「ほら、血飲もう? 吸血衝動が限界で――」
「っ!? だめっ!!」
ソフィアは近づくなと彼を押し離した。
これ以上血を飲んだら、本当に怪物になってしまう気がして、恐ろしかった。
「祈織さん……私は……私は、生きていて、いいのですか……?」
……絶えず心のどこかで考えていたことを、ぽろっと口にしていた。
一度口に出して勢いがついたのか、ソフィアが心の奥底にしまっていた思いが、次々と堰を切ったように溢れ出た。
「自分でも、分かるんです……貴方の血をずっと求めてる、って……血を飲むのが、たまらなく好きだって……」
私は人間だ、と何度も言い聞かせていたのは、ほとんど怪物に近いものになっている自覚があったからだ。
あの夜の発作はそれほど決定的――否、確定的なものだった。
彼女の運命を、確定させるものだったのだ。
「貴方に怪我なんてさせたくないのに……! それなのに、私は貴方を傷つけなければ、生きていけない! それが、嫌なんです……!」
治療だと思えばいい、と祈織は言ったけれど。
それなら彼はこの先ずっと、ソフィアを治療する度に傷つくということだ。
自分は大切な人を怪我させて、血を啜っていかなければいけない。
しかも、その血はたまらなく美味しい。
ソフィアは板挟みだった。
「お願いです……まだ人間でいるうちに、母のもとへ往かせてください……! 怪物になるくらいなら、いっそ……」
応急処置で飲まされただけならまだしも――自ら血を求めて啜るようになっては、本物の怪物だ。
けれど祈織は
「違う」
と、静かに言った。
「君が血を欲しているのは、怪物だからじゃない。病気だからだ」
「でも……!」
「エミリアさんは」
ソフィアの言葉を遮るように、祈織は言う。
悲痛に泣いている彼女へ届けるように、はっきりと口にする。
「エミリアさんは、君の病を治すために、僕を頼ってきた。その願いを受けて、僕は自分の体に病原体を打ち込んで、血中に抗体を作る実験をしていた。全部、君のための研究だったんだよ」
「え……?」
理解が追いつかなかった。
自分に病原体を打ち込む行為だけでも信じられないのに――それを、当時会ったこともない少女のためにしてきたなんて。
彼自身の知識欲が後押ししていたとしても、正気の沙汰とは思えなかった。
彼は少しだけ距離を詰めると、低く、落ち着いた声で言った。
「ソフィアさん、これは治療だ。吸血鬼どもの捕食行動とは違う。僕の血は、決して君を怪物にしない」
「あ……」
祈織の指先が鋏の先端にクッと押し込まれる。
途端、漂ってくる芳香に、頭の芯が痺れていくのを感じた。
あの蠱惑的な、祈織の血の香り。
「もう時間がない。吸血鬼になりたくなければ、腹を括って」
夜の静寂の中で、その言葉だけがはっきりと響く。
選択を迫る、というよりは、ソフィア自身に選ばせるための言葉だった。
祈織は傷つけた指先を、ソフィアの目の前に差し出した。
「君自身の意志で、生きる覚悟を決めてくれ」
ソフィアの胸の奥で、何かが激しく揺らいでいる。
自分の意志で血を飲むなんて、怖い。
でも――それ以上に。
(……ここで、なにもかも投げ出したら――)
彼岸にいる母を悲しませてしまう。
――母の想いを、祈織の研究を、ソフィアのためになされてきたすべてを、否定してしまう。
「……っ」
ソフィアは震える手を祈織の指先に添え、おそるおそる唇を寄せる。
ほんのひとしずくの血が舌に触れた途端、芳醇な香りがソフィアの中に広がった。
(……ああ、この味……)
ソフィアの中で、バラバラになっていた感情が一つに重なる。
――自分はずっと、この味を求めていたのだ。
彼の血の味を知ってしまった、あの瞬間から。
理性に阻まれてもなお、これが欲しかった。
(もっと、ほしい……)
いけないと分かっているのに、味わう度にもっと味わいたいと思ってしまう。
静かな罪悪感と嫌悪感に苛まれながら、ソフィアは指先から血を吸い続ける。
「大丈夫、もっと飲んでいいよ。飲み続ければ、抗体が効いてくるはずだから」
ソフィアの頭を撫でながら、祈織は穏やかな声で語りかける。
まとわりついた不純物を取り除くように、後ろ暗い気持ちを、一つ一つほどいていく。
しばらく吸い続けて、荒波のような衝動が鎮まったところで、ソフィアは口を離した。
「……はあ……もう、大丈夫です……」
「いい子だ。よく頑張ったね」
祈織がぽんぽんとソフィアの肩を軽く撫でる。
あれだけ躊躇った吸血をした後なのに、不思議と安心している自分がいる。
「……お茶でも飲もうか。少し落ち着いてから寝よう」
こくりと頷きながら、ソフィアは祈織に促される形で立ち上がる。
それでも、彼女はしばらく祈織の手を離せないままだった。

