死神軍医の最愛 〜ケガレた私の処方箋〜

 昼下がりの中庭に、暖かい風が吹き抜けていた。
 喫茶店の裏手に広がるそこは、医局の敷地内とは思えないほど穏やかな場所だった。
 ソフィアが籠の小窓を開けると、ブランは外に出たいのか、小窓から鼻先を押し出してきた。

「だめですよ、ブラン。ここには猫の体によくない草もありますから」
 
 誤食を防ぐためにも、ブランには中にいてもらうしかない。
 そう言い聞かせると、ブランは不満そうに「ミャ〜ゥ」と鳴いた。
 
「綺麗なお庭ですね、ブラン」
「ンミャァ〜」 

 アーチを彩る薄紅色の薔薇に、鉢植えのラベンダーやマリーゴールド――それらの色や形も、今は壱子の眼鏡のおかげで存分に楽しめる。
 季節の花や緑の中にいるだけで、ソフィアの気分もほっと綻んだ。
 その時だった。

「シャ――ッ!」

 不意に、ブランがなにかを威嚇するように声を上げた。
 大きな犬でも見かけたのだろうか、とソフィアは顔を上げて……ひゅっ、と息が止まりそうになった。

「君は……」

 そこに立っていたのは、先日の夜会でソフィアに刀を向けた、帝国の英雄――鷹宮亜蓮だった。

「ああ、やっぱり! 探していたよ、ソフィア嬢……!」

 可愛い花が咲いているのを見つけた子供のように、嬉々とした様子で近づいてくる亜蓮。
 しかし、ソフィアの目には、獲物を見つけて這い寄る獣のようにしか見えなかった。

「あ、あ、いや……っ!」

 脳裏にこびりついた、憎悪と敵意を向けられたときの記憶が、ソフィアの中で瞬く間に浮かんでは消える。
 穢らわしいと蔑み、容赦なく刀を向けてきた彼が、すぐ目の前にいる。
 それだけで、ソフィアは殺されるのではないかと思うほどの恐怖を覚えた。

「ご、ごめんなさい……! ごめんなさい、ごめんなさいっ、来ないで……っ!」

 謝る必要などない――頭ではそう分かっているのに、口から出るのは謝罪ばかりだった。
 怖い、怖くて足が動かない。
 
「ああ、どうか怯えないでくれ。私はあの時の無礼を謝罪したいんだ」
「……え……?」

 謝罪、という彼の言葉を、ソフィアは上手く飲み込めなかった。
 むしろ、なにをわけの分からないことを言っているのだ、と思った。
 だって、目の前の彼の笑顔からは、謝意の欠片も感じ取れない――今から謝罪しようとしている人間の顔には、どうしても見えないのだ。

「あの時は刀を向けてすまなかった。どうかしていた。ああ、無事でよかった……本当によかった……」

 気味が悪い――と、率直に思った。
 どうして一度憎悪し、斬りつけようとした相手に、ここまで本物の笑顔を向けられるのだ。
 こちらはあの時の恐怖を忘れられずに、こうして怯えているというのに。

(どうして、この人は私に付きまとうの……!?)

 来た道を塞ぐように立たれてしまい、本格的に身の危険を覚えたところで、ソフィアは咄嗟に思い出す。

「い、祈織さん……烏丸中佐が、助けてくださいましたから……。今日も、ここまで、連れてきてくれてっ……!」

 祈織はおそらく、亜蓮の天敵だ。
 存在をそれとなくチラつかせれば、亜蓮も諦めて去ってくれるかもしれない。
 しかし、予想は外れた。
 ピタリと足を止めたかと思うと、亜蓮の喜びの表情は、全くの『無』になった。

「……あの男は危険だ。信用してはいけない」

 激しい表情の落差に、ソフィアはさらに怯える。

「あの男は、君の前では気持ちが悪いほど笑っているが、本性は感情など持ち合わせない冷血漢だぞ!」

 まくし立てる亜蓮の言葉など、ソフィアは少しも聞き取れなかった。
 理性よりも恐怖が勝ってしまって、なにも思考できないのだ。
 けれど、亜蓮は怯えるソフィアのことなどお構いなしに、祈織をただただ悪し様に言い続けた。

「そもそも、烏丸一族自体、得体の知れない一族なんだ。君だって、あの男が一族を滅ぼしたという噂は耳にしたことがあるだろう。酷い目に遭う前に離れるべきだ! ……私のもとに来るといい、ソフィア嬢」
「――!?」

 ソフィアはますます混乱に陥る。
 助けを求めた自分を斬りつけようとした男が、なにを考えて、そんな提案をしているのだ。
 何をどう考えれば、そんな結論になるのか分からない。

「私なら君を死神から守ってあげられる。なに、更木家の小娘のような虐待じみた扱いなどしないさ。私の花嫁として、丁重に迎え入れよう」 

 そんなことを言われても、はいと頷けるわけがない。
 まして、この男の花嫁なんて絶対にありえない。
 発作の度に武器を向けられるかもしれない恐怖と隣り合わせになったら、命がいくつあっても足りない。

「さあ、そんな日陰にいないで。こっちにおいで」

 亜蓮がさらに近づこうとしたところで、ブランが籠の中で「フミャアアアッ!!」と声を上げる。
 まずい、このままではブランが飛び出しかねない――とソフィアがブランを止めようとしたところで、

「落ち着け、ブラン」

 と、それよりもほんの一瞬先に、少年の声が割り込んだ。

「よおよお。誰かと思えば、女ったらしの亜蓮くんじゃねえか」
「え? ……うわあっ!?」

 背後にいつの間にか立っていた、ニヤニヤ顔のヌイを見て、亜蓮は声を上げた。
 驚いて飛び退いた亜蓮を、ヌイがさらにおちょくる。

「オメー、かわい子ちゃんには本当に見境ねーよなぁ~。発情期もほどほどにしとけよぉ? けらけらけ!」
「なっ、無礼な!」
「無礼はこっちの台詞だ、中尉」

 つかつかと速歩(はやあし)気味の足音が一つ、近づいてくる――苛立たしげな、祈織の足音だった。

「謹慎期間中にここを訪ねるとは、いい度胸だな。次は停職処分になりたいのか?」

 相変わらず、普段の様子からはかけ離れた、とんでもない迫力だった。
 けれど、亜蓮もやはり軍人と言うべきか、この程度の威圧では怯まない。

「はっ、滅亡した一族の死に損ないが、なにを偉そうに」
「!」
 
 ソフィアには、ほんの一瞬だけ祈織の肩がピクリと動いたように見えた。
 それを見て、勝ち誇ったように口角を吊り上げる亜蓮。
 
「烏丸一族は式神召喚の儀に失敗し、一夜にして滅んだと聞く。その時に喚び出され、一族を皆殺しにしたのが――貴様の連れているその鬼ではないのか?」
 
 亜蓮の視線は、ヌイへと向けられる。
 ソフィアは思わず息を呑んだ。
 それまで軽口を叩いていたヌイも、その言葉にはさすがに笑みを引っ込めている。
 しばし沈黙が流れた――かと思いきや。

「はあぁ――……」
 
 と、祈織の長い長いため息が、それを破った。

「何を言い出すかと思えば……ここで二十年前の出来事を引っ張り出してくるとか、正気かよ。なんでそこで、僕の式神が関わってるなんて断定できるのかな」
「シラを切るつもりか、死神」
 
 厳しい口調で追及を続ける亜蓮。
 しかし、祈織は肩をすくめて、
 
「シラを切るも何も、分からないんだよ。僕、子供の頃の記憶がないんだもの」

 と、言い放った。 
 躊躇も、勿体ぶる様子もない、あまりにも平然とした――まるで、昨日の天気を話すような口調だった。
 想定外の反応だったのか、自信に満ちていた亜蓮の表情はあっけなく崩れる。

「事故があったことは事実として知ってる。でも、その場に僕がいたかどうかは分からない。全部、後から知った話でしかないんだ」
「口ではどうとでも言えよう。記憶喪失のフリなど、罪を犯した者の常套手段だ」
「確かに、それもそうだね」
 
 またもあっさりと返答する祈織に、今度はソフィアの方が目を見開いた。
 しかし祈織はそのまま一歩踏み出し、静かに、低い声で言った。
 
「けれど中尉。そんなこと、今はどうでもいいだろう?」
「……なんだと? 貴様、自らの責任から逃れるつもりか」
「違う。現状を直視しろって言ってんだよ。雛守ソフィアに対して接触禁止を言い渡されたこと――忘れたとは言わないよな?」

 ここで、祈織は明確に凄んだ。
 一歩、また一歩と距離を詰め、
 
「発作で苦しんでる彼女を斬りつけようとしたお前が、どの面下げて『守る』なんて(のたま)ってんだ?」

 最後は亜蓮も反応できないほどの速さで、彼に詰め寄っていた。
 光を一切映さない、黒々とした瞳に、至近距離で睨みつけられ――亜蓮は目に見えて狼狽していた。

「上官命令だ、今すぐ消え失せろ。今後一切、雛守ソフィアの視界に入るな」 
「っし、死神ふぜいが――」
「失せろッ!!」

 短く、鋭く、そして重く、祈織の怒号が中庭に響き渡る。
 それに驚いた職員たちが、次々に窓から顔を出し始める。

「……っ、いいだろう。今日のところは退こう」
 
 亜蓮は悔しげに奥歯を噛み締めながらも、真っ直ぐ祈織を睨み返した。
 
「だが、私は諦めない。ソフィア嬢はこの私が救い出す。――待っていてくれ、ソフィア嬢。私が必ず、君を『正しい場所』へ連れ戻してみせるから」

 ソフィアはその言葉に怖気立った。
 踵を返した亜蓮が完全に視界から消えたところで――ソフィアは脱力した。
 張り詰めていた全身の筋肉から、どうっと何かが抜けていくのが分かる。
 彼女の疲労を察して、祈織は静かに声をかけた。

「今日はもう帰ろう。車を取ってくるから、店の中でもう少しだけ待ってて」
「は、い……」 

 ソフィアにそっと寄り添うように、ブランが籠の中から「ミィ……」と鳴いていた。