(――暑い……なに、この息苦しさ……)
祈織の家にやって来て三日目の朝。
ソフィアはそんな不快感と共に、目を覚ました。
カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいるのが見える。
汗でびっしょりになった体で寝返りを打とうとして……体がやけに重たいことに気づく。
どうしたのだろう、と眼鏡をかけて状況を確かめると、その原因が判明した。
「ブラン……?」
ずんぐりむっくり体型のブランが、ソフィアの胸の上で丸くなっている。
身動きした振動で起きてしまったらしく、くぁ、と大口を開けて欠伸をするブラン。
なるほど、苦しかったのはこのせいか……
「……!?」
いや、おかしい。
ソフィアは寝ぼけ眼のブランを二度見した。
つい昨日まで、ブランは骨が浮くほど痩せていたはずだ。
それがどうして、一晩でこんなに丸々としているのか。
「祈織さん! ヌイくん! どうしましょう、ブランがこんなにまん丸になって……!!」
ソフィアは既に起きていた二人におはようと告げるのも忘れて、抱えてきたブランを見せつけた。
「おぉ~三日目でいきなり回復したなぁ。ソフィアのメシすげー」
と、牙を見せながら大欠伸をするヌイ。
「これを回復って言っていいのですか……!?」
今のブランは全身に筋肉と脂肪をたっぷり蓄え、瞳の青色が見えないほどの糸目になっている。
白い毛並みはふっくらと膨らみ、胴体は丸太のよう。
顔も頬もむっちりしていて、屋敷で見ていた『愛らしい美猫』というより、『妙に貫禄のある招き猫』に近い。
一晩でこんなに見た目が変わるなんて、ブランの体は大丈夫なのだろうか。
「んー……でも、多分これが本来のブランなんじゃないかなぁ」
「そ、そうなのですか?」
「うん。無理に見た目を整えられていた時よりも、よっぽど体内の霊力循環が安定してるからね」
祈織がそう言うなら大丈夫だと思いたいが、変化が劇的すぎるとさすがに心配だ。
そんなことを考えていると、ふと、ソフィアの視界に寝間着をまとった祈織の胸元が映る。
結い上げる前の長い黒髪を垂らし、無防備に衿をくつろげている姿は、それだけでとんでもない破壊力があった。
(……意外としっかりした体つき、なのよね……)
先日も思ったことだが、祈織の体つきは思った以上に引き締まっていた。
農耕牛のような逞しさとはまた違う、必要な筋肉が過不足なくついた体。
細い見た目であるにもかかわらず、頼りなさを感じないのは、そのおかげなのかもしれない。
(って、何を考えているの、私は! 祈織さんが目の前にいるのに……)
ソフィアは自分の思考にぎょっとした。
本人が目の前にいるというのに、なんてはしたないことを考えているのだ、と慌てて煩悩を振り払おうとする。
けれど、祈織から完全に目をそらすことはできなかった。
なにより――皮膚から香るあの甘美な匂いが、ソフィアの心をくすぐって離してくれない。
(あ……喉が、渇いて……)
――吸血衝動だ、と頭では分かった。
けれど、いけない、という警鐘のような焦りと不安は、なぜか起きなかった。
(血が、飲みたい)
あの甘くてほろ苦い、美味な血が欲しい。
ああ、でも、彼に怪我はさせたくない。
血を分けてと言えば、きっと彼は快く与えてくれるだろうけれど。
……いや、やっぱりだめだ、彼の性格に甘えるような真似はしたくない。
でも、喉が渇く。
喉が渇く。喉が渇く。喉が渇く。喉が渇く――。
「……ソフィアさん? どうしたの?」
「――!! な、なんでもありませんっ」
我に返ったソフィアは、慌てて目を逸らした。
「……お腹、空いてますよね。ご飯作りますね」
「え? ああ、うん……ありがとう」
ソフィアの態度に違和感を覚えたのか、祈織の返事が少しぎこちない。
ソフィアはあえて、その変化に気づかなかったふりをする。
(なに、今のは……全然、抵抗できなかった)
今までは理性で強く言い聞かせて、吸血を我慢することもできたのに。
今は甘美な香りに引き寄せられ、頭の芯までぼんやりしていた。
強い酒の匂いを嗅いだ時のような、酩酊に近い感覚と言えばいいのだろうか。
(私……このまま彼と一緒にいて、いいの……?)
戸惑う彼女の心境などお構いなしに、ブランは「朝食はまだか」と鳴き声を上げて催促しはじめた。
*
コチコチと、柱時計の音だけが流れていた。
朝食の後、ソフィアは気持ちを落ち着けるよう、丁寧にお茶を淹れ、机に向かって本を開いていた。
祈織が好きにしていいと言っていた本棚から借りた、医学書だ。
(……やっぱり、難しい)
文字を追ってはいるものの、内容はほとんど頭に入ってこない。
頭に入ってこなければ集中しようもないので、どうしても今朝のことがちらついてくる。
(まさか、祈織さんのことを見ただけで血が欲しくなるなんて……)
今まで、誰かを見て血が欲しくなることなどなかった。
きっと、祈織の血の味を覚えてしまったからだろう。
あの甘美な血の味を思い出すだけで、口の中に唾が溜まるのが分かる。
(だめ……! あれは発作を止めるために、やむを得ず飲むものだから……!)
抑えが利く限りは、ちゃんと自分で我慢しなくては。
ぶんぶんと首を振って、無理やり思考を追い払った、その時だった。
「あ。それ、僕が昔使ってたやつ」
「ひゃあ!?」
すぐ背後から、祈織がソフィアの手元を覗き込んでいた。
突然耳の近くで声がしたものだから、ソフィアは思わず声を上げてしまった。
「もしかして、医学に興味があるの?」
「は、はいっ! ……少しでも、誰かの役に立つ知識を、と思いまして……」
「へえ。ソフィアさん、優しいんだね」
祈織には自覚がないのだろうけれど、いささか距離が近すぎる。
近すぎて肩が触れそうな上に、呼吸や体温まで感じ取ってしまって、ソフィアは落ち着かなかった。
(平常心、平常心……! 祈織さんはちょっと変わった人だから……!)
この接近に深い意味はないはずだし、一人でそわそわ騒ぐのはみっともない。
現に、祈織の意識は本に向いているはず……と視線を上げたところで
「……っ!」
ぱちっと目が合ってしまった。
どうしてこっちを見ているの!? とソフィアは反射的に目を逸らした。
心臓がバクバクとうるさくて止まらない。
「? ソフィアさん、どうしたの?」
「い、いえ……その……」
緊張して、言葉が上手く出てこない。
そんなソフィアの様子を、祈織は不思議そうに見つめていた。
(ど、どうすればいいの……!?)
真っ黒な瞳も、白い首筋も、突き出た喉仏も、袖をまくった手首に至るまで。
どこもかしこも祈織は綺麗だから、ソフィアはどこへ視線をやっていいのか、皆目分からなかった。
考えてみれば、こんな美形と一つ屋根の下で共同生活だなんて、これほど奇妙な話もない。
血毒の経過観察のためとはいえ、結婚も婚約もしていない若い男女が、一緒に暮らしているなんて。
世間に知られれば、みだりがましいと非難されること請け合いだ。
「うーん、そうだな……やっぱり、基本は陰陽医局式の回復術かな。あれひとつ覚えておくだけで、かなり応用も利くし」
「! そ、そうなんですね! 例えば、どんな応用例が?」
意識をそらす好機とばかりに、ソフィアは食い気味に反応する。
祈織はそれを熱心に学ぼうとしているサインだと思ったらしい。
どこか嬉しそうな様子で医学書の頁をめくりながら、「ほら、ここ」と指で示した。
「疲労回復から捻挫に脱臼、軽い感冒症状まで、手広く使えるって書いてあるでしょ。特殊な知識がなくても習得できるし、日常生活や応急処置でもかなり役に立つよ」
祈織はそう言って、屈めていた腰を上げた。
至近距離にまであった祈織の気配が離れて、ようやく一息つくソフィア。
「興味があるなら、仕組みから教えてあげるよ。ソフィアさん、下手な軍人よりも霊力の扱いに慣れてるみたいだし」
「え? そ、それはさすがに大袈裟では……」
「いやいや、僕の術を一回見ただけで再現したくせに、何言ってるの?」
祈織はからりと笑う。
「今日は午後から陰陽医局に行くし、そこでも面白いものが見られるかもね?」
「! はい、よろしくお願いしますっ!」
元々医療分野に興味があったソフィアにとって、これはまたとない機会だ。
勉強は好きなほうだし、久々に新しい学びを得られるかもしれない――そう思うと、ソフィアは胸が躍るようだった。
祈織の家にやって来て三日目の朝。
ソフィアはそんな不快感と共に、目を覚ました。
カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいるのが見える。
汗でびっしょりになった体で寝返りを打とうとして……体がやけに重たいことに気づく。
どうしたのだろう、と眼鏡をかけて状況を確かめると、その原因が判明した。
「ブラン……?」
ずんぐりむっくり体型のブランが、ソフィアの胸の上で丸くなっている。
身動きした振動で起きてしまったらしく、くぁ、と大口を開けて欠伸をするブラン。
なるほど、苦しかったのはこのせいか……
「……!?」
いや、おかしい。
ソフィアは寝ぼけ眼のブランを二度見した。
つい昨日まで、ブランは骨が浮くほど痩せていたはずだ。
それがどうして、一晩でこんなに丸々としているのか。
「祈織さん! ヌイくん! どうしましょう、ブランがこんなにまん丸になって……!!」
ソフィアは既に起きていた二人におはようと告げるのも忘れて、抱えてきたブランを見せつけた。
「おぉ~三日目でいきなり回復したなぁ。ソフィアのメシすげー」
と、牙を見せながら大欠伸をするヌイ。
「これを回復って言っていいのですか……!?」
今のブランは全身に筋肉と脂肪をたっぷり蓄え、瞳の青色が見えないほどの糸目になっている。
白い毛並みはふっくらと膨らみ、胴体は丸太のよう。
顔も頬もむっちりしていて、屋敷で見ていた『愛らしい美猫』というより、『妙に貫禄のある招き猫』に近い。
一晩でこんなに見た目が変わるなんて、ブランの体は大丈夫なのだろうか。
「んー……でも、多分これが本来のブランなんじゃないかなぁ」
「そ、そうなのですか?」
「うん。無理に見た目を整えられていた時よりも、よっぽど体内の霊力循環が安定してるからね」
祈織がそう言うなら大丈夫だと思いたいが、変化が劇的すぎるとさすがに心配だ。
そんなことを考えていると、ふと、ソフィアの視界に寝間着をまとった祈織の胸元が映る。
結い上げる前の長い黒髪を垂らし、無防備に衿をくつろげている姿は、それだけでとんでもない破壊力があった。
(……意外としっかりした体つき、なのよね……)
先日も思ったことだが、祈織の体つきは思った以上に引き締まっていた。
農耕牛のような逞しさとはまた違う、必要な筋肉が過不足なくついた体。
細い見た目であるにもかかわらず、頼りなさを感じないのは、そのおかげなのかもしれない。
(って、何を考えているの、私は! 祈織さんが目の前にいるのに……)
ソフィアは自分の思考にぎょっとした。
本人が目の前にいるというのに、なんてはしたないことを考えているのだ、と慌てて煩悩を振り払おうとする。
けれど、祈織から完全に目をそらすことはできなかった。
なにより――皮膚から香るあの甘美な匂いが、ソフィアの心をくすぐって離してくれない。
(あ……喉が、渇いて……)
――吸血衝動だ、と頭では分かった。
けれど、いけない、という警鐘のような焦りと不安は、なぜか起きなかった。
(血が、飲みたい)
あの甘くてほろ苦い、美味な血が欲しい。
ああ、でも、彼に怪我はさせたくない。
血を分けてと言えば、きっと彼は快く与えてくれるだろうけれど。
……いや、やっぱりだめだ、彼の性格に甘えるような真似はしたくない。
でも、喉が渇く。
喉が渇く。喉が渇く。喉が渇く。喉が渇く――。
「……ソフィアさん? どうしたの?」
「――!! な、なんでもありませんっ」
我に返ったソフィアは、慌てて目を逸らした。
「……お腹、空いてますよね。ご飯作りますね」
「え? ああ、うん……ありがとう」
ソフィアの態度に違和感を覚えたのか、祈織の返事が少しぎこちない。
ソフィアはあえて、その変化に気づかなかったふりをする。
(なに、今のは……全然、抵抗できなかった)
今までは理性で強く言い聞かせて、吸血を我慢することもできたのに。
今は甘美な香りに引き寄せられ、頭の芯までぼんやりしていた。
強い酒の匂いを嗅いだ時のような、酩酊に近い感覚と言えばいいのだろうか。
(私……このまま彼と一緒にいて、いいの……?)
戸惑う彼女の心境などお構いなしに、ブランは「朝食はまだか」と鳴き声を上げて催促しはじめた。
*
コチコチと、柱時計の音だけが流れていた。
朝食の後、ソフィアは気持ちを落ち着けるよう、丁寧にお茶を淹れ、机に向かって本を開いていた。
祈織が好きにしていいと言っていた本棚から借りた、医学書だ。
(……やっぱり、難しい)
文字を追ってはいるものの、内容はほとんど頭に入ってこない。
頭に入ってこなければ集中しようもないので、どうしても今朝のことがちらついてくる。
(まさか、祈織さんのことを見ただけで血が欲しくなるなんて……)
今まで、誰かを見て血が欲しくなることなどなかった。
きっと、祈織の血の味を覚えてしまったからだろう。
あの甘美な血の味を思い出すだけで、口の中に唾が溜まるのが分かる。
(だめ……! あれは発作を止めるために、やむを得ず飲むものだから……!)
抑えが利く限りは、ちゃんと自分で我慢しなくては。
ぶんぶんと首を振って、無理やり思考を追い払った、その時だった。
「あ。それ、僕が昔使ってたやつ」
「ひゃあ!?」
すぐ背後から、祈織がソフィアの手元を覗き込んでいた。
突然耳の近くで声がしたものだから、ソフィアは思わず声を上げてしまった。
「もしかして、医学に興味があるの?」
「は、はいっ! ……少しでも、誰かの役に立つ知識を、と思いまして……」
「へえ。ソフィアさん、優しいんだね」
祈織には自覚がないのだろうけれど、いささか距離が近すぎる。
近すぎて肩が触れそうな上に、呼吸や体温まで感じ取ってしまって、ソフィアは落ち着かなかった。
(平常心、平常心……! 祈織さんはちょっと変わった人だから……!)
この接近に深い意味はないはずだし、一人でそわそわ騒ぐのはみっともない。
現に、祈織の意識は本に向いているはず……と視線を上げたところで
「……っ!」
ぱちっと目が合ってしまった。
どうしてこっちを見ているの!? とソフィアは反射的に目を逸らした。
心臓がバクバクとうるさくて止まらない。
「? ソフィアさん、どうしたの?」
「い、いえ……その……」
緊張して、言葉が上手く出てこない。
そんなソフィアの様子を、祈織は不思議そうに見つめていた。
(ど、どうすればいいの……!?)
真っ黒な瞳も、白い首筋も、突き出た喉仏も、袖をまくった手首に至るまで。
どこもかしこも祈織は綺麗だから、ソフィアはどこへ視線をやっていいのか、皆目分からなかった。
考えてみれば、こんな美形と一つ屋根の下で共同生活だなんて、これほど奇妙な話もない。
血毒の経過観察のためとはいえ、結婚も婚約もしていない若い男女が、一緒に暮らしているなんて。
世間に知られれば、みだりがましいと非難されること請け合いだ。
「うーん、そうだな……やっぱり、基本は陰陽医局式の回復術かな。あれひとつ覚えておくだけで、かなり応用も利くし」
「! そ、そうなんですね! 例えば、どんな応用例が?」
意識をそらす好機とばかりに、ソフィアは食い気味に反応する。
祈織はそれを熱心に学ぼうとしているサインだと思ったらしい。
どこか嬉しそうな様子で医学書の頁をめくりながら、「ほら、ここ」と指で示した。
「疲労回復から捻挫に脱臼、軽い感冒症状まで、手広く使えるって書いてあるでしょ。特殊な知識がなくても習得できるし、日常生活や応急処置でもかなり役に立つよ」
祈織はそう言って、屈めていた腰を上げた。
至近距離にまであった祈織の気配が離れて、ようやく一息つくソフィア。
「興味があるなら、仕組みから教えてあげるよ。ソフィアさん、下手な軍人よりも霊力の扱いに慣れてるみたいだし」
「え? そ、それはさすがに大袈裟では……」
「いやいや、僕の術を一回見ただけで再現したくせに、何言ってるの?」
祈織はからりと笑う。
「今日は午後から陰陽医局に行くし、そこでも面白いものが見られるかもね?」
「! はい、よろしくお願いしますっ!」
元々医療分野に興味があったソフィアにとって、これはまたとない機会だ。
勉強は好きなほうだし、久々に新しい学びを得られるかもしれない――そう思うと、ソフィアは胸が躍るようだった。

