ある日の午前、更木邸にて。
「この大まぬけ!! なぜソフィアを死神のもとに送った! あれだけは絶対に手放してはならぬと、再三忠告しただろうが!」
応接間から聞こえてきた怒号を、瑠璃子は聞き逃さなかった。
「……父上の声? どういうことだ?」
そして、同じ怒号を耳にしたこの男――鷹宮亜蓮もまた、訝しげに眉をひそめている。
「ですから、先ほどからわたくしが言っているでしょう。ソフィアはもう、この屋敷にはいないって」
使用人部屋をしつこく探し回っている亜蓮へ、瑠璃子はもう何度目かも分からない説明を繰り返した。
「貴方は血毒に侵された吸血鬼もどきに惑わされていただけですわ、亜蓮様」
そう、あれは化け物が見せた悪い夢だったのだ。
先日の夜会で亜蓮が信じられない行動を取ったのは、ソフィアに惑わされ、一時的に正気を失っていたから。
夜会の後で、瑠璃子はそう再解釈した。
「貴方を惑わす悪女は、死神が連れて行ってくれました。私たちの運命を邪魔する者は、もうどこにもいません。あとは、貴方が目を覚ますだけ」
目の前で顔を引きつらせている婚約者に、瑠璃子はしおらしく縋りついた。
「ねえ、亜蓮様。私、死神軍医に脅されましたの。噂に違わぬ冷酷さで、生きた心地がしませんでした」
妖艶な美貌の烏丸中佐に睨まれた時は、まさしく死神を前にしているような薄ら寒さを感じた。
しかも腹立たしいことに、あの男は噂ほど陰気ではなかった。
あの容姿で、あの立ち居振る舞いで、あの階級――滅亡した家柄の出という致命的な欠点さえ、補って余りある。
女たちが放っておかないだろうことくらい、瑠璃子にだって分かった。
「なんということだ……! 退院したと聞いたから、わざわざ謝罪に出向いたというのに、既にやつの魔手にかかっていたなんて!」
おのれ死神め、と奥歯をギリギリ噛みしめる亜蓮。
まったく的外れな反応をする彼に、瑠璃子は腹が立った。
「亜蓮様。いい加減、現実を見てくださいませんこと?」
瑠璃子が呆れながら諫めると、亜蓮はそれが気に入らないとばかりに、整った顔を歪める。
「あの女は、吸血鬼の毒に侵された『ケガレ』ですのよ。吸血鬼と戦う貴方の花嫁には、一番相応しくない相手で――」
「そんなことを、君ごときが決めつけるな!」
瑠璃子の言葉を封じるように、亜蓮は叫ぶ。
「第一、君はか弱い彼女を虐げていた張本人だろう。君こそ、私には一番相応しくない」
瑠璃子は一瞬ぽかんとした。
この人は、何をどう見て『虐げた』と解釈したのだろう。
使用人に身の程を知らしめることは、主人として当然のこと。
むしろ、血毒に侵された『ケガレ』を屋敷に置いて雇ってやっていたのだから、慈悲深いと評されるべきだろう。
「ソフィア嬢は私があの場で救うべきだった……それをあの忌まわしい死神が攫ったのだ! 彼女の身が危うい状況で、君に構っている暇など――」
「あら、案外そうでもないようでしてよ?」
意外なことに、ソフィアは死神から気に入られているようだった。
その証拠に、いつも薄汚れた使用人服で俯いていたあの女は先日、まるで良家の娘のように着飾っていた。
流行りの着物に、髪飾りに、化粧――そんなものを贈られて、浮かれていたのだ。
だから、瑠璃子は滑稽ついでに分からせてやるつもりだった。
お前は所詮、死神の戯れで生かされているだけなのだと――なのに。
「烏丸中佐ったら、私があの子を少しからかっただけで怒りだしたんですもの。きっと、彼もソフィアに惑わされているに違いありません」
そうでなければ、夜会であんなに冷静に振る舞っていた彼が、あそこまで激怒したことに説明がつかない。
「亜蓮様があのケガレを気にかける必要はありませんわ。このまま放っておけば、今に共倒れになることでしょう」
死神軍医ほどの男が、本気であんな女を傍に置き続けるとは思えない。
果たして、大した取り柄もないソフィアは、いつまで死神軍医の心を射止めていられるのだろうか。
必死に媚びを売っているのなら、それはそれで興味をそそられるが。
「共倒れだと!? まさか我が花嫁は、命懸けで死神を屠ろうとしているのか!?」
「は? ……はあああ!?」
どうして、そんな結論が出てくるのだ。
英雄譚に酔いすぎて、とうとう現実と空想の区別もつかなくなったのだろうか。
それとも、単にこの男が馬鹿なのか。
瑠璃子は唖然とする他なかった。
「こうしてはいられない、今すぐにでも彼女を助け出さねば!」
「お、お待ちください、亜蓮様!」
足早に客間を出ようとする亜蓮を、瑠璃子は引き止める。
長年憧れ続けた帝国の英雄と、こんな形で破局してしまうなんて、それこそ瑠璃子にとっては悪夢だ。
しかも、その原因があのソフィアだなんて――家柄も、教養も、立場もなかった、あの女だなんて。
「そうですわ、亜蓮様! 午後から我が家でお茶会を開きますの。ぜひともご学友に、許嫁として紹介させてくださ――」
「冗談じゃない! お前のような粗末な女が許嫁だなんて、反吐が出る!」
なんとか亜蓮の心を繋ぎ止めておきたい瑠璃子だったが、返ってきたのはあまりに屈辱的な言葉だった。
瑠璃子は、自身の頬が引きつるのを感じた。
(粗末? この私が粗末ですって?)
幼い頃から、令嬢として振る舞うよう厳しく躾けられてきた。
仕草も、言葉遣いも、流行も、社交も、何一つ怠ったことはない。
鷹宮家の未来の嫁として恥じぬよう、努力してきたというのに。
それを、こんな形で否定されるなんて。
自分よりもソフィアのほうがいいなんて、そんなの許せるわけがない。
「お前のような女の血を鷹宮家に入れるわけにはいかない。此度の婚約は解消だ」
「はああ!?」
あまりに話が飛躍したものだから、瑠璃子は思わず声を裏返して叫んだ。
「貴方一人のわがままで、勝手に婚約を解消できると思っていまして!?」
「ああ、父上もソフィア嬢を見れば納得するだろう。あの美貌と気品ある立ち振る舞い――お前のような女を傍に置くよりも十倍はマシと考えるはずだ」
「貴方、自分がどれだけめちゃくちゃなことを仰っているか、おわかりでして!?」
冷静だった話し合いが、とうとう怒鳴り合いに発展する。
そこへ、
「なにを言い争っているのだね、騒々しい!」
と、二人のいる客間へ、一人の中年が入ってくる。
鷹宮子爵家の現当主――鷹宮譲治だ。
「父上! 今すぐこの婚約を破棄してください! か弱い女性を虐げる女を嫁にしては、鷹宮家の名誉は地に落ちます!」
亜蓮は父親と顔を合わせるなり、興奮した様子で訴える。
「は? 亜蓮、お前、何を言って……」
「私はソフィア嬢を救いたいのです! 更木家で虐げられた上に、最後は死神のもとで息絶えるなんて……ソフィア嬢があまりに不憫です!」
一人激情する亜蓮だが、当然ながら、そんな支離滅裂な主張が受け入れられるはずもない。
鷹宮子爵も、後ろに隠れるようにして立っている更木男爵も、困惑しきりの様子だった。
「お前は何を馬鹿な――……いや」
なのに。
ふいに、鷹宮子爵が言葉を止めた。
「……そうだな、亜蓮。お前に相応しいのは、雛守ソフィアに違いない。哀れな少女を救い、悪の死神を打倒してこそ、帝国の英雄と言えるだろう」
鷹宮子爵が思わぬ結論を出したのを受けて、瑠璃子は「は……?」と脱力した。
どうして、鷹宮子爵までそんなことを。
鷹宮子爵は一度、息を大きく吐き出し、幼い息子に言い聞かせるような態度で、亜蓮に語りかける。
「いいか、亜蓮。お前がソフィア嬢を斬りつけようとした事実は変わらん。まずはその事実を認め、誠心誠意謝罪するべきだ」
「ええ、当然ですとも。自らの非を認めることも、時には重要ですからね」
「幸い、死神軍医の悪評はすでに巷に浸透している。かたやお前は国の英雄だ。根気強く訴えかければ、ソフィアの心もきっと傾くだろう。なんとしてでも死神の手からソフィアを取り戻せ」
「もちろんです、父上。必ずやソフィア嬢の誤解を解き、救ってみせます!」
至極真面目な顔で言い切る亜蓮に、意味深な笑みをたたえる鷹宮子爵。
予想だにしない展開を前に、瑠璃子は開いた口が塞がらなかった。
「お、お待ちください! それでは我が娘との婚約はどうなるのですか!?」
言葉を失った瑠璃子の代わりに、目を剥いた更木男爵が抗議する。
「そんなことは自分で考えろ。そもそもこれは、貴様がソフィアを手放さなければ済んだ話なのだ」
「そ、そんな……っ」
子爵の冷酷な返答に、青ざめる更木男爵。
瑠璃子は、目の前の現実が信じられなかった。
(どうして、こうなるの……? どうして、ソフィアなんかが……!)
鷹宮子爵も、亜蓮も、まるで悪しき魔女の呪いにかかってしまったかのようだ。
瑠璃子はそう感じると同時に――腹の奥から黒々とした何かが湧き上がるのを感じた。
(……そうだ。あの女のせいだ。あの女、死神だけでは飽き足らずに、私の亜蓮様も奪うつもりなのね!)
家を抜け出せると分かった途端に意趣返しなんて、生意気なことを。
屋敷に置いてやった恩も忘れて、ソフィアは死神も英雄も狂わせてしまったのだ。
「長居は無用だ。行くぞ、亜蓮」
「はい!」
鷹宮子爵は亜蓮を引き連れて、客間を後にする。
うかうかしてはいられない、と瑠璃子は声を張り上げた。
「ブラン、いらっしゃい! あの女を懲らしめに行きますわよ! ……? ブラン?」
おかしい、いつもなら必ずやってくるはずのブランが、どんなに待っても来ない。
不審に思っているうちに、そういえば、と瑠璃子は気づく。
昨日、死神軍医が去ってから、ブランの鳴き声を一度も聞いていないことに――ようやく気づく。
「嘘、嘘でしょ!? ブラン! どこへ行ったの? 隠れていないで出てきなさいっ!」
瑠璃子はその後、屋敷の使用人も巻き込みながら捜索したが、ブランが姿を現すことはついぞなかった。
「この大まぬけ!! なぜソフィアを死神のもとに送った! あれだけは絶対に手放してはならぬと、再三忠告しただろうが!」
応接間から聞こえてきた怒号を、瑠璃子は聞き逃さなかった。
「……父上の声? どういうことだ?」
そして、同じ怒号を耳にしたこの男――鷹宮亜蓮もまた、訝しげに眉をひそめている。
「ですから、先ほどからわたくしが言っているでしょう。ソフィアはもう、この屋敷にはいないって」
使用人部屋をしつこく探し回っている亜蓮へ、瑠璃子はもう何度目かも分からない説明を繰り返した。
「貴方は血毒に侵された吸血鬼もどきに惑わされていただけですわ、亜蓮様」
そう、あれは化け物が見せた悪い夢だったのだ。
先日の夜会で亜蓮が信じられない行動を取ったのは、ソフィアに惑わされ、一時的に正気を失っていたから。
夜会の後で、瑠璃子はそう再解釈した。
「貴方を惑わす悪女は、死神が連れて行ってくれました。私たちの運命を邪魔する者は、もうどこにもいません。あとは、貴方が目を覚ますだけ」
目の前で顔を引きつらせている婚約者に、瑠璃子はしおらしく縋りついた。
「ねえ、亜蓮様。私、死神軍医に脅されましたの。噂に違わぬ冷酷さで、生きた心地がしませんでした」
妖艶な美貌の烏丸中佐に睨まれた時は、まさしく死神を前にしているような薄ら寒さを感じた。
しかも腹立たしいことに、あの男は噂ほど陰気ではなかった。
あの容姿で、あの立ち居振る舞いで、あの階級――滅亡した家柄の出という致命的な欠点さえ、補って余りある。
女たちが放っておかないだろうことくらい、瑠璃子にだって分かった。
「なんということだ……! 退院したと聞いたから、わざわざ謝罪に出向いたというのに、既にやつの魔手にかかっていたなんて!」
おのれ死神め、と奥歯をギリギリ噛みしめる亜蓮。
まったく的外れな反応をする彼に、瑠璃子は腹が立った。
「亜蓮様。いい加減、現実を見てくださいませんこと?」
瑠璃子が呆れながら諫めると、亜蓮はそれが気に入らないとばかりに、整った顔を歪める。
「あの女は、吸血鬼の毒に侵された『ケガレ』ですのよ。吸血鬼と戦う貴方の花嫁には、一番相応しくない相手で――」
「そんなことを、君ごときが決めつけるな!」
瑠璃子の言葉を封じるように、亜蓮は叫ぶ。
「第一、君はか弱い彼女を虐げていた張本人だろう。君こそ、私には一番相応しくない」
瑠璃子は一瞬ぽかんとした。
この人は、何をどう見て『虐げた』と解釈したのだろう。
使用人に身の程を知らしめることは、主人として当然のこと。
むしろ、血毒に侵された『ケガレ』を屋敷に置いて雇ってやっていたのだから、慈悲深いと評されるべきだろう。
「ソフィア嬢は私があの場で救うべきだった……それをあの忌まわしい死神が攫ったのだ! 彼女の身が危うい状況で、君に構っている暇など――」
「あら、案外そうでもないようでしてよ?」
意外なことに、ソフィアは死神から気に入られているようだった。
その証拠に、いつも薄汚れた使用人服で俯いていたあの女は先日、まるで良家の娘のように着飾っていた。
流行りの着物に、髪飾りに、化粧――そんなものを贈られて、浮かれていたのだ。
だから、瑠璃子は滑稽ついでに分からせてやるつもりだった。
お前は所詮、死神の戯れで生かされているだけなのだと――なのに。
「烏丸中佐ったら、私があの子を少しからかっただけで怒りだしたんですもの。きっと、彼もソフィアに惑わされているに違いありません」
そうでなければ、夜会であんなに冷静に振る舞っていた彼が、あそこまで激怒したことに説明がつかない。
「亜蓮様があのケガレを気にかける必要はありませんわ。このまま放っておけば、今に共倒れになることでしょう」
死神軍医ほどの男が、本気であんな女を傍に置き続けるとは思えない。
果たして、大した取り柄もないソフィアは、いつまで死神軍医の心を射止めていられるのだろうか。
必死に媚びを売っているのなら、それはそれで興味をそそられるが。
「共倒れだと!? まさか我が花嫁は、命懸けで死神を屠ろうとしているのか!?」
「は? ……はあああ!?」
どうして、そんな結論が出てくるのだ。
英雄譚に酔いすぎて、とうとう現実と空想の区別もつかなくなったのだろうか。
それとも、単にこの男が馬鹿なのか。
瑠璃子は唖然とする他なかった。
「こうしてはいられない、今すぐにでも彼女を助け出さねば!」
「お、お待ちください、亜蓮様!」
足早に客間を出ようとする亜蓮を、瑠璃子は引き止める。
長年憧れ続けた帝国の英雄と、こんな形で破局してしまうなんて、それこそ瑠璃子にとっては悪夢だ。
しかも、その原因があのソフィアだなんて――家柄も、教養も、立場もなかった、あの女だなんて。
「そうですわ、亜蓮様! 午後から我が家でお茶会を開きますの。ぜひともご学友に、許嫁として紹介させてくださ――」
「冗談じゃない! お前のような粗末な女が許嫁だなんて、反吐が出る!」
なんとか亜蓮の心を繋ぎ止めておきたい瑠璃子だったが、返ってきたのはあまりに屈辱的な言葉だった。
瑠璃子は、自身の頬が引きつるのを感じた。
(粗末? この私が粗末ですって?)
幼い頃から、令嬢として振る舞うよう厳しく躾けられてきた。
仕草も、言葉遣いも、流行も、社交も、何一つ怠ったことはない。
鷹宮家の未来の嫁として恥じぬよう、努力してきたというのに。
それを、こんな形で否定されるなんて。
自分よりもソフィアのほうがいいなんて、そんなの許せるわけがない。
「お前のような女の血を鷹宮家に入れるわけにはいかない。此度の婚約は解消だ」
「はああ!?」
あまりに話が飛躍したものだから、瑠璃子は思わず声を裏返して叫んだ。
「貴方一人のわがままで、勝手に婚約を解消できると思っていまして!?」
「ああ、父上もソフィア嬢を見れば納得するだろう。あの美貌と気品ある立ち振る舞い――お前のような女を傍に置くよりも十倍はマシと考えるはずだ」
「貴方、自分がどれだけめちゃくちゃなことを仰っているか、おわかりでして!?」
冷静だった話し合いが、とうとう怒鳴り合いに発展する。
そこへ、
「なにを言い争っているのだね、騒々しい!」
と、二人のいる客間へ、一人の中年が入ってくる。
鷹宮子爵家の現当主――鷹宮譲治だ。
「父上! 今すぐこの婚約を破棄してください! か弱い女性を虐げる女を嫁にしては、鷹宮家の名誉は地に落ちます!」
亜蓮は父親と顔を合わせるなり、興奮した様子で訴える。
「は? 亜蓮、お前、何を言って……」
「私はソフィア嬢を救いたいのです! 更木家で虐げられた上に、最後は死神のもとで息絶えるなんて……ソフィア嬢があまりに不憫です!」
一人激情する亜蓮だが、当然ながら、そんな支離滅裂な主張が受け入れられるはずもない。
鷹宮子爵も、後ろに隠れるようにして立っている更木男爵も、困惑しきりの様子だった。
「お前は何を馬鹿な――……いや」
なのに。
ふいに、鷹宮子爵が言葉を止めた。
「……そうだな、亜蓮。お前に相応しいのは、雛守ソフィアに違いない。哀れな少女を救い、悪の死神を打倒してこそ、帝国の英雄と言えるだろう」
鷹宮子爵が思わぬ結論を出したのを受けて、瑠璃子は「は……?」と脱力した。
どうして、鷹宮子爵までそんなことを。
鷹宮子爵は一度、息を大きく吐き出し、幼い息子に言い聞かせるような態度で、亜蓮に語りかける。
「いいか、亜蓮。お前がソフィア嬢を斬りつけようとした事実は変わらん。まずはその事実を認め、誠心誠意謝罪するべきだ」
「ええ、当然ですとも。自らの非を認めることも、時には重要ですからね」
「幸い、死神軍医の悪評はすでに巷に浸透している。かたやお前は国の英雄だ。根気強く訴えかければ、ソフィアの心もきっと傾くだろう。なんとしてでも死神の手からソフィアを取り戻せ」
「もちろんです、父上。必ずやソフィア嬢の誤解を解き、救ってみせます!」
至極真面目な顔で言い切る亜蓮に、意味深な笑みをたたえる鷹宮子爵。
予想だにしない展開を前に、瑠璃子は開いた口が塞がらなかった。
「お、お待ちください! それでは我が娘との婚約はどうなるのですか!?」
言葉を失った瑠璃子の代わりに、目を剥いた更木男爵が抗議する。
「そんなことは自分で考えろ。そもそもこれは、貴様がソフィアを手放さなければ済んだ話なのだ」
「そ、そんな……っ」
子爵の冷酷な返答に、青ざめる更木男爵。
瑠璃子は、目の前の現実が信じられなかった。
(どうして、こうなるの……? どうして、ソフィアなんかが……!)
鷹宮子爵も、亜蓮も、まるで悪しき魔女の呪いにかかってしまったかのようだ。
瑠璃子はそう感じると同時に――腹の奥から黒々とした何かが湧き上がるのを感じた。
(……そうだ。あの女のせいだ。あの女、死神だけでは飽き足らずに、私の亜蓮様も奪うつもりなのね!)
家を抜け出せると分かった途端に意趣返しなんて、生意気なことを。
屋敷に置いてやった恩も忘れて、ソフィアは死神も英雄も狂わせてしまったのだ。
「長居は無用だ。行くぞ、亜蓮」
「はい!」
鷹宮子爵は亜蓮を引き連れて、客間を後にする。
うかうかしてはいられない、と瑠璃子は声を張り上げた。
「ブラン、いらっしゃい! あの女を懲らしめに行きますわよ! ……? ブラン?」
おかしい、いつもなら必ずやってくるはずのブランが、どんなに待っても来ない。
不審に思っているうちに、そういえば、と瑠璃子は気づく。
昨日、死神軍医が去ってから、ブランの鳴き声を一度も聞いていないことに――ようやく気づく。
「嘘、嘘でしょ!? ブラン! どこへ行ったの? 隠れていないで出てきなさいっ!」
瑠璃子はその後、屋敷の使用人も巻き込みながら捜索したが、ブランが姿を現すことはついぞなかった。

