夕食を済ませ、洗い物を終えたところで、ソフィアはもう一度確かめるように周囲を見回した。
改めて見ると、祈織の家は驚くほど質素だった。
箪笥や文机などの家具は、本来の役目さえ果たせればよいと言わんばかりに、余計な装飾がない。
調度品ひとつ取っても、小洒落たものは見当たらず、贅を凝らした更木家とはまるで正反対だった。
(まあ、贅沢することに興味がなさそうだものね、祈織さん……)
ソフィアの視線は、夢中で手帳を読み漁る祈織の背後――広い壁一面を埋め尽くす本棚へと移る。
収められているのは、医学書、呪術書、陰陽術の資料、西洋魔術の翻訳書。
かと思えば、大衆文学らしき背表紙や、園芸の本まで混ざっている。
生活道具は最低限なのに、本だけは異様に多い。
その偏り方が、いかにも祈織らしい気がした。
「かぁー、カワイイ女の子が一緒にいてもコレかよ。彼女いない歴二十八年の貫禄ってか。どうよ、ブラン?」
「ミャーウ」
呆れ返るヌイに、ブランも賛同するように返事をする。
けれど、当の祈織はまったく気にしていない。
というより、彼らの批判の声すら耳に届いていないようだった。
(まるで、私のお母さんを見ているみたい……)
ソフィアとしては、母が似た気質だったこともあって、まったく気にならない。
むしろ会話を続けなければならない緊張がないぶん、この沈黙に安心しているくらいだった。
(この安心感も、なんだか久しぶりね……)
思えば、更木家にいた頃は沈黙でさえ恐ろしかった。
誰かが機嫌を損ねているのではないか、次に何を命じられるのか、いつ怒鳴られるのか。
――そんなふうに、常に身構えていた。
けれど、ここにある沈黙は違う。
座布団の上で丸くなるブラン、暇そうに欠伸をして寝転ぶヌイ、手帳に夢中な祈織。
――彼らはソフィアを責めないし、粗探しもしない。
警戒する必要が、まったくないのだ。
「はー……さすがエミリアさん。どの魔法も面白くて飽きないや。……あれ?」
夢中で手帳を見ていた祈織が、ふと何かに気づいたように手を止める。
彼の視線の先にあったのは、ソフィアも先ほど見た、旧き陰陽術を記したメモだった。
瑠璃子の嫌がらせや、ブランのこともあり、ソフィアはその存在をすっかり忘れていた。
「そういえば、聞こうと思っていたんです。祈織さん、そのメモの記号をご存知ですか?」
「え? ああ、うん、もちろん――」
「ご存じも何も、『これ』が答えだぜ」
そう言って、ヌイはひょいと体を起こすと、唐突に祈織の背後に回った。
祈織が嫌な予感でもしたように眉をひそめるが、次の瞬間――ヌイは祈織が着ていた浴衣の衿を、後ろからガバッと開いた。
「えっ、は⁉」
「きゃああぁぁ~っ!?」
完全に不意打ちだった。
ソフィアの視界の中心に、祈織の上半身が容赦なく晒される。
もちろん、そんなものを見慣れていないソフィアは悲鳴を上げ、そばにいたブランで咄嗟に顔を覆い隠した。
抱えられたブランが「フミャアアアア‼」と抗議するように鳴く。
「おーおー、いい反応だなぁ! こりゃ滑稽だぜぇ、ぎゃははははは!」
「馬鹿か、お前は! ソフィアさんの目に毒だろ‼」
祈織もさすがに予想外だったのだろう。
退屈なところへ悪戯大成功、と爆笑するヌイに怒鳴りつけている。
「まー見てみろって、ソフィア。ちょっと見りゃ納得すっからよ」
「納得……?」
恐る恐るブランの毛並みから顔を上げると、祈織がヌイから強制的に上半身を脱がされている真っ最中だった。
まともに見てはいけない、と慌てて視線を逸らしかける。
けれど、その光景の中で――ソフィアの目に、強烈な印象を持って飛び込んでくるものがあった。
「! 祈織さん、その、背中の刺青……!」
祈織の肩甲骨に彫られた刺青。
そこには、メモに記されたものと同じ、旧き陰陽術の記号が刻まれていた。
「だろ? そーいうこった」
「はいはい、もうおしまい!」
祈織は得意げに笑うヌイの拘束をほどくと、顔を真っ赤にしてソフィアへ振り返った。
「ごっ、誤解しないでね! 別にエミリアさんは僕の背中見てないし! こういう刺青を入れてるよって僕が教えてたから、彼女も知ってただけで、やましいことは一切してないから……!」
怒濤の弁明だった。
もちろん、その点については、ソフィアも別に疑っていない。
ただ、母の手帳に挟まっていたメモと、祈織の刺青が完全に一致したことに驚いただけだ。
「これは、僕が生まれた烏丸一族の術者たちが使っていた印でね」
祈織はまだ気まずそうにしながらも、ぽつぽつと説明を始める。
「ただ、烏丸一族は二十年以上前に滅んでいる。だから……」
そこで、祈織は少しだけ言葉を濁した。
つまり、現時点でこの刺青を持っているのは、目の前にいる烏丸祈織ただ一人ということだ。
「では、そのメモの意味は……」
他でもない、祈織のことを示すもの。
母が遺した手帳と、祈織を結びつけるための道しるべ。
そう考えるのが自然だった。
「要するに、祈織に見せろってことだったんじゃね? ひょっとして、手帳の中にも暗号が隠されてたりとかしてなぁ?」
ヌイが面白そうに茶化す。
いつもなら、祈織が何かしら言い返すところだ。
だが、今の彼は何も言わなかった。
「ありゃ?」
想定と違う反応に、ヌイも首を傾げる。
祈織はただ、手帳とメモを見つめている。
先ほどまでの気まずさも、照れも、すっと消えていた。
「……なるほど、そういうことか」
祈織がぽつりと呟いた。
その瞬間、手帳を見る彼の目つきは明らかに変わっていた。
先ほどまでの研究者らしい好奇心に満ちた表情ではない。
これは、何か重大な手がかりを掴んだ時の目だ。
(あ、だめ――)
不意に、そう思った。
そう思った時には、もう遅かった。
ソフィアは、自分の心臓がどくん、といやに大きく跳ねるのを感じた。
激しい喉の渇きと同時に、鼻先が甘い匂いを捉える。
ざっくりと浴衣をまとっているだけの祈織から漂う、血の香り。
先日の夜会で初めて口にした、あの甘美な血の匂いだった。
(血が、飲みたい)
ソフィアの視線が、祈織の横顔からほんの少し下――首筋へと滑る。
薄い皮膚の下で脈打つ、温かな血。
そこだけ、ひときわ濃い香りがする。
手から飲まされた血が、あれほど甘かったのなら、首筋に流れる血は、いったいどれほど美味なのだろう。
(だめ……考えちゃ、だめ……!)
理性は必死に警鐘を鳴らしている。
けれど、身体は勝手に動いていた。
ふらり、と足元が揺れる。
覚束ない足取りのまま、ソフィアは祈織へ引き寄せられていった。
「……ソフィアさん⁉ どうし――い……ッ!?」
倒れ込むように傾いた身体を、祈織が反射的に抱き止める。
それとほぼ同時に、ソフィアは彼の首筋へ噛みついていた。
尖った犬歯が、筋肉を覆う薄い皮膚を突き破る。
じわりと溢れた血を、夢中で啜る。
すると、あの甘美な香りが口いっぱいに広がった。
(甘い……美味しい……)
喉の渇きが、たちどころに癒えていく。
熱を持っていた身体が静まり、頭の芯が甘く溶けていくようだった。
――もっと欲しい。
――まだ、離れたくない。
そんな欲望が、理性をゆっくり押し流していく。
「ソフィア、さ……!」
何度か血を飲み下したところで、祈織の手がソフィアの背中を軽く叩いた。
幸福感に浸ったのもつかの間、ソフィアは我に返った。
「⁉ わ、私、今、何を……」
「おー、なんだかえらいモンを見ちまったなァ。けらけらけ!」
ソフィアはヌイの言葉にハッと青ざめ、口を覆い隠す。
そして、祈織の首筋と顔を、何度も見比べる。
首筋に残った、ソフィアの歯列とぴったり一致する噛み跡――そして、彼のくたっと力が抜けた表情。
それまで有頂天だった気分は、ひゅうっと地獄の底まで急落した。
「ごっ、ごめんなさい……! 自分でも、何が起こったか、分から、なくて……っ」
「落ち着いて、ソフィアさん。驚いただけで、怒ってないよ。それに、もし本当に僕が危なければ、ヌイが止めに入ったはずだから」
「ヌイくん、が……?」
ソフィアはヌイが立っている後方へ振り返る。
ヌイは足元をうろちょろしているブランを抱えながら言った。
「オレは祈織の式神だからなァ。仮にお前の吸血が祈織の命を脅かすくらいのものだったら、オレは今頃お前を締め上げてると思うぜェ。本能的にな」
「こら、ソフィアさんに怖いこと言わないの」
けらけらけ、と笑い声を立てるヌイ。
しかし、それでも、ソフィアは恐怖していた。
あえて自覚しないようにしてきた気持ちを、一気に暴かれたような気がして。
「とにかく、気に病まないでね。今のは治療のために必要な行為だったと思えばいいから」
「でも……血を吸われたんですよ。祈織さん、本当に大丈夫ですか?」
具合を悪くしていないかとソフィアが確認しようとすると、祈織は慌てて顔を背けながら「大丈夫、大丈夫」と笑っていた。
……それを見て、ソフィアが大丈夫だと思えるわけがない。
祈織は、ソフィアを悲しませないために、具合が悪いのを隠そうとしている。
ソフィアの目には、そう見えた。
(……いけない――また、欲しくなってくる)
顔を少し近付けるだけで、また血の甘い香りが漂ってくる。
危機を感じたソフィアは、祈織からさっと離れた。
「つーかよ、祈織。オメー、噛まれたところ治せよ。浴衣が血ですげーことになってんぞ」
「え? うわっ、そうだった!」
「あ、あ、あっ、大変っ……! すぐに治しますっ!」
ソフィアは咄嗟に、祈織が見せてくれた治癒術を思い出した。
(そうだ、あの方法を使えば……!)
ブランの引っかき傷を完全に治したあの術なら、このくらいの傷は癒やせるはずだ。
ソフィアは祈織の首筋に手をかざす。
(巡らせる……霊力の流れが止まったところを、もう一度……)
あの時、祈織に霊力を流し込まれた感覚を辿る。
体内の霊力の流れを促し、体そのものの回復力を促す。
すると、祈織の首筋から流れていた血がぴたりと止まった。
傷口は徐々に塞がり、やがて薄い瘡蓋になっていく。
「はあ、はあ……! ここまで治せば……」
完治までは届かなかった。
けれど、これで血の流出と感染症の危険は防げたはずだ。
ソフィアは胸を撫で下ろす。
「……おい、ソフィア」
その瞬間、ヌイが妙に低い声を出した。
祈織も治した傷跡に触れながら、呆気にとられたような表情を浮かべている。
「ねえ、ソフィアさん。君、『循環回復術』が使えたの?」
「え? じゅんかん、かいふくじゅつ……?」
聞き慣れない言葉に、ソフィアは首を傾げる。
「ヌイ、今のは間違いないよね?」
「おう。オレから見ても、間違いなく陰陽医局式の『循環』だったぜ」
「てことは……エミリアさんから教わった、とか?」
「い、いえ。先ほどの祈織さんの真似をして、術を再現しただけ、です。不完全なのですが……」
祈織はしばらく瞬きを繰り返していたが、やがて
「……嘘でしょ」
と、目を丸くして呟いた。
「おまっ、マジで言ってんの⁉ お前、一回見ただけで祈織の術を再現したってこと⁉」
「ひっ! あ、ご、ごめんなさいっ!」
ヌイの素っ頓狂な声を聞いて、ソフィアは慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません! 祈織さんの技術を盗むような真似をして……でも、緊急だったので……!」
「君、あの一回で『循環回復術』を覚えたの? 手ほどきも受けていないのに……? 普通は何回も練習して、ようやく要領を掴むものなのに……?」
「本当に申し訳ありません……!」
許可も得ずに他人の技術を真似るなど、失礼極まりない。
ことさらに、技術の門外不出を是とするこの国では、冒涜とみなされる行為だ。
そう分かっていたから、今まで人前では絶対にやらないようにしてきたのに。
ソフィアは深く頭を下げ、必死に謝った。
「……ちょっと君、うちで働かない⁉」
「本当にすみ……――え?」
祈織は突然、がしっとソフィアの両手を取った。
「即戦力として優秀すぎる!! ぜひ陰陽医局に来てほしい!」
祈織の黒い瞳が、先ほどとは別の意味で爛々と輝いている。
想像していたものとは違う祈織の反応に、ソフィアはぱちぱちと目を瞬かせた。
「え? で、でも……あれって陰陽学校を卒業していないと、入隊試験すら受けられないのでしょう?」
残念ながら、ソフィアは陰陽学校に通った経験がない。
幼い頃に血毒を発症したことが災いして、どこからも入学を断られてしまった。
ソフィアにある教養といえば、母から教わった礼儀作法にと西洋魔法――それも偏った知識のみだ。
けれど、それでも問題ない、と祈織は言う。
「最近制度が変わって、職員の推薦でも試験を受けられるようになったんだよ」
これは、もしや抜擢というものだろうか。
しかも相手は、陰陽医局副長。
退魔軍が認める、正真正銘の天才だ。
ソフィアの中で、まさしく青天の霹靂に打たれたような衝撃が走る。
「こんな才能、眠らせておくには勿体なさすぎる! 副長の僕の推薦なら確実に通るし、必要な知識も僕が教えてあげるから!」
「えええっ?」
驚きのあまり状況が飲み込めないソフィア。
そこを一気に畳みかけるよう、祈織は必死の形相で続けた。
「陰陽医局は特殊だから、人材が見つからなくて本当に困ってるんだよ! お願い、見学だけでもぜひ!」
身を乗り出して拝み倒す祈織。
その勢いに圧倒されながらも、ソフィアの胸の奥に、小さな光が灯る。
(そこに行けば……私も、誰かの役に立てるのかな)
役立たずと言われ、邪魔者のように扱われ、最後には体よく捨てられた。
そんな自分に向かって、必要だと言ってくれる人が今、目の前にいる。
怖気づいて断るには、あまりにもったいない話だった。
「わっ、わかりました。……祈織さんがそう言ってくださるのであれば、やってみます……」
ソフィアは臆病な気持ちを押しのけるように、ぎゅっと両手を握る。
すると、祈織の顔がぱあっと明るくなった。
「ありがとう! じゃあ、まずは職場見学できるように手筈を整えておくね!」
自分の運命も、とんでもない方向へ転がったものだ。
そう思いながら、ソフィアは少しだけ、胸の高鳴りを覚えていた。
改めて見ると、祈織の家は驚くほど質素だった。
箪笥や文机などの家具は、本来の役目さえ果たせればよいと言わんばかりに、余計な装飾がない。
調度品ひとつ取っても、小洒落たものは見当たらず、贅を凝らした更木家とはまるで正反対だった。
(まあ、贅沢することに興味がなさそうだものね、祈織さん……)
ソフィアの視線は、夢中で手帳を読み漁る祈織の背後――広い壁一面を埋め尽くす本棚へと移る。
収められているのは、医学書、呪術書、陰陽術の資料、西洋魔術の翻訳書。
かと思えば、大衆文学らしき背表紙や、園芸の本まで混ざっている。
生活道具は最低限なのに、本だけは異様に多い。
その偏り方が、いかにも祈織らしい気がした。
「かぁー、カワイイ女の子が一緒にいてもコレかよ。彼女いない歴二十八年の貫禄ってか。どうよ、ブラン?」
「ミャーウ」
呆れ返るヌイに、ブランも賛同するように返事をする。
けれど、当の祈織はまったく気にしていない。
というより、彼らの批判の声すら耳に届いていないようだった。
(まるで、私のお母さんを見ているみたい……)
ソフィアとしては、母が似た気質だったこともあって、まったく気にならない。
むしろ会話を続けなければならない緊張がないぶん、この沈黙に安心しているくらいだった。
(この安心感も、なんだか久しぶりね……)
思えば、更木家にいた頃は沈黙でさえ恐ろしかった。
誰かが機嫌を損ねているのではないか、次に何を命じられるのか、いつ怒鳴られるのか。
――そんなふうに、常に身構えていた。
けれど、ここにある沈黙は違う。
座布団の上で丸くなるブラン、暇そうに欠伸をして寝転ぶヌイ、手帳に夢中な祈織。
――彼らはソフィアを責めないし、粗探しもしない。
警戒する必要が、まったくないのだ。
「はー……さすがエミリアさん。どの魔法も面白くて飽きないや。……あれ?」
夢中で手帳を見ていた祈織が、ふと何かに気づいたように手を止める。
彼の視線の先にあったのは、ソフィアも先ほど見た、旧き陰陽術を記したメモだった。
瑠璃子の嫌がらせや、ブランのこともあり、ソフィアはその存在をすっかり忘れていた。
「そういえば、聞こうと思っていたんです。祈織さん、そのメモの記号をご存知ですか?」
「え? ああ、うん、もちろん――」
「ご存じも何も、『これ』が答えだぜ」
そう言って、ヌイはひょいと体を起こすと、唐突に祈織の背後に回った。
祈織が嫌な予感でもしたように眉をひそめるが、次の瞬間――ヌイは祈織が着ていた浴衣の衿を、後ろからガバッと開いた。
「えっ、は⁉」
「きゃああぁぁ~っ!?」
完全に不意打ちだった。
ソフィアの視界の中心に、祈織の上半身が容赦なく晒される。
もちろん、そんなものを見慣れていないソフィアは悲鳴を上げ、そばにいたブランで咄嗟に顔を覆い隠した。
抱えられたブランが「フミャアアアア‼」と抗議するように鳴く。
「おーおー、いい反応だなぁ! こりゃ滑稽だぜぇ、ぎゃははははは!」
「馬鹿か、お前は! ソフィアさんの目に毒だろ‼」
祈織もさすがに予想外だったのだろう。
退屈なところへ悪戯大成功、と爆笑するヌイに怒鳴りつけている。
「まー見てみろって、ソフィア。ちょっと見りゃ納得すっからよ」
「納得……?」
恐る恐るブランの毛並みから顔を上げると、祈織がヌイから強制的に上半身を脱がされている真っ最中だった。
まともに見てはいけない、と慌てて視線を逸らしかける。
けれど、その光景の中で――ソフィアの目に、強烈な印象を持って飛び込んでくるものがあった。
「! 祈織さん、その、背中の刺青……!」
祈織の肩甲骨に彫られた刺青。
そこには、メモに記されたものと同じ、旧き陰陽術の記号が刻まれていた。
「だろ? そーいうこった」
「はいはい、もうおしまい!」
祈織は得意げに笑うヌイの拘束をほどくと、顔を真っ赤にしてソフィアへ振り返った。
「ごっ、誤解しないでね! 別にエミリアさんは僕の背中見てないし! こういう刺青を入れてるよって僕が教えてたから、彼女も知ってただけで、やましいことは一切してないから……!」
怒濤の弁明だった。
もちろん、その点については、ソフィアも別に疑っていない。
ただ、母の手帳に挟まっていたメモと、祈織の刺青が完全に一致したことに驚いただけだ。
「これは、僕が生まれた烏丸一族の術者たちが使っていた印でね」
祈織はまだ気まずそうにしながらも、ぽつぽつと説明を始める。
「ただ、烏丸一族は二十年以上前に滅んでいる。だから……」
そこで、祈織は少しだけ言葉を濁した。
つまり、現時点でこの刺青を持っているのは、目の前にいる烏丸祈織ただ一人ということだ。
「では、そのメモの意味は……」
他でもない、祈織のことを示すもの。
母が遺した手帳と、祈織を結びつけるための道しるべ。
そう考えるのが自然だった。
「要するに、祈織に見せろってことだったんじゃね? ひょっとして、手帳の中にも暗号が隠されてたりとかしてなぁ?」
ヌイが面白そうに茶化す。
いつもなら、祈織が何かしら言い返すところだ。
だが、今の彼は何も言わなかった。
「ありゃ?」
想定と違う反応に、ヌイも首を傾げる。
祈織はただ、手帳とメモを見つめている。
先ほどまでの気まずさも、照れも、すっと消えていた。
「……なるほど、そういうことか」
祈織がぽつりと呟いた。
その瞬間、手帳を見る彼の目つきは明らかに変わっていた。
先ほどまでの研究者らしい好奇心に満ちた表情ではない。
これは、何か重大な手がかりを掴んだ時の目だ。
(あ、だめ――)
不意に、そう思った。
そう思った時には、もう遅かった。
ソフィアは、自分の心臓がどくん、といやに大きく跳ねるのを感じた。
激しい喉の渇きと同時に、鼻先が甘い匂いを捉える。
ざっくりと浴衣をまとっているだけの祈織から漂う、血の香り。
先日の夜会で初めて口にした、あの甘美な血の匂いだった。
(血が、飲みたい)
ソフィアの視線が、祈織の横顔からほんの少し下――首筋へと滑る。
薄い皮膚の下で脈打つ、温かな血。
そこだけ、ひときわ濃い香りがする。
手から飲まされた血が、あれほど甘かったのなら、首筋に流れる血は、いったいどれほど美味なのだろう。
(だめ……考えちゃ、だめ……!)
理性は必死に警鐘を鳴らしている。
けれど、身体は勝手に動いていた。
ふらり、と足元が揺れる。
覚束ない足取りのまま、ソフィアは祈織へ引き寄せられていった。
「……ソフィアさん⁉ どうし――い……ッ!?」
倒れ込むように傾いた身体を、祈織が反射的に抱き止める。
それとほぼ同時に、ソフィアは彼の首筋へ噛みついていた。
尖った犬歯が、筋肉を覆う薄い皮膚を突き破る。
じわりと溢れた血を、夢中で啜る。
すると、あの甘美な香りが口いっぱいに広がった。
(甘い……美味しい……)
喉の渇きが、たちどころに癒えていく。
熱を持っていた身体が静まり、頭の芯が甘く溶けていくようだった。
――もっと欲しい。
――まだ、離れたくない。
そんな欲望が、理性をゆっくり押し流していく。
「ソフィア、さ……!」
何度か血を飲み下したところで、祈織の手がソフィアの背中を軽く叩いた。
幸福感に浸ったのもつかの間、ソフィアは我に返った。
「⁉ わ、私、今、何を……」
「おー、なんだかえらいモンを見ちまったなァ。けらけらけ!」
ソフィアはヌイの言葉にハッと青ざめ、口を覆い隠す。
そして、祈織の首筋と顔を、何度も見比べる。
首筋に残った、ソフィアの歯列とぴったり一致する噛み跡――そして、彼のくたっと力が抜けた表情。
それまで有頂天だった気分は、ひゅうっと地獄の底まで急落した。
「ごっ、ごめんなさい……! 自分でも、何が起こったか、分から、なくて……っ」
「落ち着いて、ソフィアさん。驚いただけで、怒ってないよ。それに、もし本当に僕が危なければ、ヌイが止めに入ったはずだから」
「ヌイくん、が……?」
ソフィアはヌイが立っている後方へ振り返る。
ヌイは足元をうろちょろしているブランを抱えながら言った。
「オレは祈織の式神だからなァ。仮にお前の吸血が祈織の命を脅かすくらいのものだったら、オレは今頃お前を締め上げてると思うぜェ。本能的にな」
「こら、ソフィアさんに怖いこと言わないの」
けらけらけ、と笑い声を立てるヌイ。
しかし、それでも、ソフィアは恐怖していた。
あえて自覚しないようにしてきた気持ちを、一気に暴かれたような気がして。
「とにかく、気に病まないでね。今のは治療のために必要な行為だったと思えばいいから」
「でも……血を吸われたんですよ。祈織さん、本当に大丈夫ですか?」
具合を悪くしていないかとソフィアが確認しようとすると、祈織は慌てて顔を背けながら「大丈夫、大丈夫」と笑っていた。
……それを見て、ソフィアが大丈夫だと思えるわけがない。
祈織は、ソフィアを悲しませないために、具合が悪いのを隠そうとしている。
ソフィアの目には、そう見えた。
(……いけない――また、欲しくなってくる)
顔を少し近付けるだけで、また血の甘い香りが漂ってくる。
危機を感じたソフィアは、祈織からさっと離れた。
「つーかよ、祈織。オメー、噛まれたところ治せよ。浴衣が血ですげーことになってんぞ」
「え? うわっ、そうだった!」
「あ、あ、あっ、大変っ……! すぐに治しますっ!」
ソフィアは咄嗟に、祈織が見せてくれた治癒術を思い出した。
(そうだ、あの方法を使えば……!)
ブランの引っかき傷を完全に治したあの術なら、このくらいの傷は癒やせるはずだ。
ソフィアは祈織の首筋に手をかざす。
(巡らせる……霊力の流れが止まったところを、もう一度……)
あの時、祈織に霊力を流し込まれた感覚を辿る。
体内の霊力の流れを促し、体そのものの回復力を促す。
すると、祈織の首筋から流れていた血がぴたりと止まった。
傷口は徐々に塞がり、やがて薄い瘡蓋になっていく。
「はあ、はあ……! ここまで治せば……」
完治までは届かなかった。
けれど、これで血の流出と感染症の危険は防げたはずだ。
ソフィアは胸を撫で下ろす。
「……おい、ソフィア」
その瞬間、ヌイが妙に低い声を出した。
祈織も治した傷跡に触れながら、呆気にとられたような表情を浮かべている。
「ねえ、ソフィアさん。君、『循環回復術』が使えたの?」
「え? じゅんかん、かいふくじゅつ……?」
聞き慣れない言葉に、ソフィアは首を傾げる。
「ヌイ、今のは間違いないよね?」
「おう。オレから見ても、間違いなく陰陽医局式の『循環』だったぜ」
「てことは……エミリアさんから教わった、とか?」
「い、いえ。先ほどの祈織さんの真似をして、術を再現しただけ、です。不完全なのですが……」
祈織はしばらく瞬きを繰り返していたが、やがて
「……嘘でしょ」
と、目を丸くして呟いた。
「おまっ、マジで言ってんの⁉ お前、一回見ただけで祈織の術を再現したってこと⁉」
「ひっ! あ、ご、ごめんなさいっ!」
ヌイの素っ頓狂な声を聞いて、ソフィアは慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません! 祈織さんの技術を盗むような真似をして……でも、緊急だったので……!」
「君、あの一回で『循環回復術』を覚えたの? 手ほどきも受けていないのに……? 普通は何回も練習して、ようやく要領を掴むものなのに……?」
「本当に申し訳ありません……!」
許可も得ずに他人の技術を真似るなど、失礼極まりない。
ことさらに、技術の門外不出を是とするこの国では、冒涜とみなされる行為だ。
そう分かっていたから、今まで人前では絶対にやらないようにしてきたのに。
ソフィアは深く頭を下げ、必死に謝った。
「……ちょっと君、うちで働かない⁉」
「本当にすみ……――え?」
祈織は突然、がしっとソフィアの両手を取った。
「即戦力として優秀すぎる!! ぜひ陰陽医局に来てほしい!」
祈織の黒い瞳が、先ほどとは別の意味で爛々と輝いている。
想像していたものとは違う祈織の反応に、ソフィアはぱちぱちと目を瞬かせた。
「え? で、でも……あれって陰陽学校を卒業していないと、入隊試験すら受けられないのでしょう?」
残念ながら、ソフィアは陰陽学校に通った経験がない。
幼い頃に血毒を発症したことが災いして、どこからも入学を断られてしまった。
ソフィアにある教養といえば、母から教わった礼儀作法にと西洋魔法――それも偏った知識のみだ。
けれど、それでも問題ない、と祈織は言う。
「最近制度が変わって、職員の推薦でも試験を受けられるようになったんだよ」
これは、もしや抜擢というものだろうか。
しかも相手は、陰陽医局副長。
退魔軍が認める、正真正銘の天才だ。
ソフィアの中で、まさしく青天の霹靂に打たれたような衝撃が走る。
「こんな才能、眠らせておくには勿体なさすぎる! 副長の僕の推薦なら確実に通るし、必要な知識も僕が教えてあげるから!」
「えええっ?」
驚きのあまり状況が飲み込めないソフィア。
そこを一気に畳みかけるよう、祈織は必死の形相で続けた。
「陰陽医局は特殊だから、人材が見つからなくて本当に困ってるんだよ! お願い、見学だけでもぜひ!」
身を乗り出して拝み倒す祈織。
その勢いに圧倒されながらも、ソフィアの胸の奥に、小さな光が灯る。
(そこに行けば……私も、誰かの役に立てるのかな)
役立たずと言われ、邪魔者のように扱われ、最後には体よく捨てられた。
そんな自分に向かって、必要だと言ってくれる人が今、目の前にいる。
怖気づいて断るには、あまりにもったいない話だった。
「わっ、わかりました。……祈織さんがそう言ってくださるのであれば、やってみます……」
ソフィアは臆病な気持ちを押しのけるように、ぎゅっと両手を握る。
すると、祈織の顔がぱあっと明るくなった。
「ありがとう! じゃあ、まずは職場見学できるように手筈を整えておくね!」
自分の運命も、とんでもない方向へ転がったものだ。
そう思いながら、ソフィアは少しだけ、胸の高鳴りを覚えていた。

