死神軍医の最愛 〜ケガレた私の処方箋〜

(早く、車に戻らないと……!)

 ソフィアは封筒を胸に抱え込みながら、急いで階段を駆け下りた。
 夫人はまだお茶会に行っているし、瑠璃子は陰陽学校にいるはず。
 祈織が男爵の相手をしてくれているうちに、早く戻らなければ。
 一階まで降り、玄関まであと少し、というところまで差し掛かった……その時だった。

「そんなに急いでどこへ行くの?」

 可愛らしい少女の声が、ソフィアの胸をぐさりと突き刺す。
 視界の先、屋敷の裏手へと続く扉の前に……白い猫を抱えた少女が立ち塞がった。

「お、嬢様……今日は、学校に行かれていたはずじゃ……」
「おあいにく様、今日は休校日なの」

 可憐な顔に邪悪な笑みを浮かべて、瑠璃子がソフィアに近づいてくる。
 けれど、ソフィアは動けなかった――足が震えて、まったく動かなかった。
 瑠璃子はゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

「死神軍医に解剖されちゃったかと思ってたけど、まだ生かされていたのね。こそこそ忍び込んで、まるでネズミみたい」

 くすくす笑う瑠璃子は、実に楽しそうだった。
 ソフィアの怯える様子が面白くてたまらないのだろう。

「どうしたの? 死神軍医に命乞いをしようと、うちから何かを持ち出そうとしたとか?」

 瑠璃子の視線は、ソフィアに抱えられた封筒へ向けられる。
 思わず動揺してしまうソフィア。

「誤解、です……烏丸中佐は、そんな酷いことをする人では……」
「あら、優しくされていい気になっちゃった? 穢れた身の上であることも忘れて、すっかり舞い上がってるのね」

 上品な口調のまま吐き出される毒に、ソフィアは身をすくませる。

「滑稽だわ。あっさり手懐けられて、向こうもさぞ愉快でしょうね」
「でも……っ!」
「そんなことより――その袋の中身はなあに?」

 瑠璃子はソフィアの手元に視線を戻し、不意をつくように封筒を取り上げようとした。

「!? だめっ、これだけは……!」

 身を挺して抵抗するソフィア。
 すると、瑠璃子から笑みが消える。
 
「口応えしないで、このコソ泥!」

 ぐいっ! と強い力で、白髪を引っ張られる。
 反射的に力が緩んでしまい、ソフィアの手から封筒がこぼれ落ちる。
 パサッと音を立てて落ちた封筒を慌てて回収するも、魔石の指輪だけがぽろっと転がり出る。
 あっ、と手を伸ばすソフィアだが、「フミャアア!」と鳴き声を上げたブランが、その手を引っ掻いた。

「いた……っ!」 
「あら? 見たことない指輪ね。こんなもの、うちにあったかしら?」

 瑠璃子の手が、転がった指輪を拾い上げる。
 そして、なんの躊躇もなく、それを自分の指にはめる。
 大事な形見が彼女の指に通されたのを見て、ソフィアは何かを考える間もなく、

「――返してくださいっ!!」

 と、反射的に叫んでいた。
 大きな声に驚いた瑠璃子の手を掴み、ソフィアは指輪を奪還しようとする。
 そのまま二人で揉み合いになったかと思うと、

「きゃああっ!」

 と、瑠璃子が唐突に大きな悲鳴を上げて、自ら転んだ。

「瑠璃子!? 大丈夫!?」
「っ!?」

 そこへちょうど、出かけていた夫人が帰ってきて、ソフィアはしまった、と思った。
 瑠璃子は床に座り込んだまま、涙を浮かべていた。
 あたかも、ソフィアに強い力で突き飛ばされたかのように。

「お母様ぁ! ソフィアが私の宝物を盗もうとしたのよ!」

 わあっ、と泣きつく瑠璃子を、夫人が慌てて抱き寄せる。
 そして次の瞬間、夫人は鋭い目でソフィアを睨みつけた。

「お前……! 養ってやったというのに、瑠璃子になんてことを……!」
「あ、ち、ちが……っ!」

 釈明しようとするも、上手く言葉が出てこない。
 ソフィアの中で、過去の記憶が再生されていた。
 瑠璃子が嘘の被害を訴え、夫人が庇い――最後は決まって、仕置き部屋に連れて行かれ、他の使用人から杖で叩かれた。
 何度も、何度も、何度も。
 そうして蓄積されてきた恐怖が、ソフィアの言葉を遮ってしまう。

「どうしたんだ、瑠璃子!?」
「ソフィアさん、無事!?」

 さらにそこへ、男爵と祈織も駆けつけてきた。
 瑠璃子は待ち詫びていたとばかりに声を張り上げる。
 
「お父様ぁ! 烏丸様ぁ! 私はただ、ソフィアが宝物をこっそり持ち出そうとしたのを止めただけなの!」

 夫人に抱きつきながら、悲劇の令嬢を演じる瑠璃子。
 祈織は一瞬だけ呆気にとられたように目を見開いた。
 けれど、すぐにその表情を消し、床に座り込んだままの瑠璃子をじっと見下ろした。

「ねえ、烏丸様。これで分かったでしょう? ソフィアはこういう子なの! 自分が悪いことをしているのに反省もしないで、私が悪いように仕立て上げるの」
 
 彼の真っ黒な瞳は、なにを考えているのか一切分からない――それだけに、祈織も瑠璃子の言葉を信じていたらどうしよう、とソフィアは怯えた。
 そんな愚かな人物ではない、となんとなく分かってはいても、不安が拭えなかった。

「騙されないで! ソフィアは気弱な演技をしているだけよ! あの赤い瞳で、貴方を惑わせようとしているの!」

 沈黙を続ける祈織にもうひと押しするよう、瑠璃子はさらに畳みかける。
 すると祈織は「……ふーん」と特になんの感情もこもっていない返事をした。

「君の宝物とやらは、君がはめているその指輪のことかな?」
「ええ、そうよ。私の誕生日にお父様から買ってもらった、大切なものなの。そうよね、お父様?」

 ありもしない事実を、まことしやかに主張する瑠璃子。
 娘が可愛い男爵は、瑠璃子の言葉一つで口裏合わせもするだろう。
 しかし、ここで――ソフィアにとっては意外なことが起きた。

「……更木男爵。ご息女はああ言ってますが、本当ですか?」
「う……っ」

 普段なら間違いなく頷いているはずの男爵が、なぜか言い淀んだのだ。
 この異変には、ソフィアのみならず、瑠璃子や夫人も反応した。

「お父様……? どうして頷いてくださらないの?」
「そうよ! 瑠璃子が嘘をついていると言うの?」

 早く調子を合わせろと促してくる妻と娘に、しかして男爵は冷や汗をかいて唸るのみだ。
 祈織はどっちつかずの男爵を一瞥すると、視線をソフィアへと向けた。