更木男爵家の応接間は、重苦しい沈黙で満ちていた。
磨き上げられた机、壁に飾られた絵画、整然と並ぶ調度品――そのどれもが、来客をもてなすためのもののはずなのに。
今この場に限っては、それら全てが、逃げ場を失わせる檻のように感じられた。
更木男爵の向かいに座る、この男のせいである。
「事前の連絡もなく訪問してしまって、申し訳ありません」
白黒の洋装に身を包んだ男――烏丸祈織は、にこにこと人当たりのいい笑顔で言う。
しかしその奥にあるのは、温情とはほど遠い、底の知れない恐怖のみだ。
「い、いやぁ、とんでもありませんよ、ハハハ……」
顔に愛想笑いを、額と背中に冷や汗を浮かべながら、更木男爵は怯えていた。
「か、烏丸中佐……この度はその、どのようなご用件で――」
胃の痛みに耐えかねた男爵が、なんとか口を開いたその時。
「まあ、烏丸様ではありませんか!」
軽やかな声が、応接間の重い空気を切り裂いた。
振り向けば、華やかな洋風のワンピースに身を包んだ瑠璃子が、愛猫を抱えて立っている。
瑠璃子は無遠慮に客人に近づき、ほんの少し上目で視線を送った。
「る、瑠璃子、やめなさい……か、烏丸中佐の前で……!」
男爵は大人の会話に混ざろうとする娘を止めようとするが、当の本人はどこ吹く風で
「先日は当家使用人のソフィアがとんだご迷惑をおかけしてしまって……あんなに大騒ぎして、周りのお客様を混乱させるなんて、更木家の者として恥ずかしい限りですわ」
と、しおらしく振舞っている。
しかし非常に残念なことに、彼女は礼儀を払う場所を致命的に間違えていた。
「ご迷惑だなんてとんでもない。突然の発作で混乱するのは、よくあることですよ」
祈織は相変わらず柔らかな笑みを崩さない。
大人の余裕を感じさせる口調――しかし男爵には、それが逆に恐ろしかった。
「それより、瑠璃子嬢。鷹宮中尉とは仲直りなさいましたか?」
「え、ええ。あれについては……わたくしの婚約者が、お恥ずかしいことを……」
亜蓮の名前を出されて動じながらも、スカートの端をつまんで、優雅にお辞儀をする瑠璃子。
しかし、彼女の目線が下へ落ちた一瞬――祈織がじろりと瑠璃子を睨んだのを、男爵は見逃さなかった。
「る、瑠璃子……っ」
虎の尾を踏んだのでは、と肝を冷やす男爵。
いい加減、お客様との会話に横槍を入れるのはやめなさい――と娘を諌めようにも、声がかすれて上手く響かない。
祈織はそんな男爵の狼狽ぶりを一瞥して、ふっと口元を緩めた。
「……ふふ。実に社交的で明るいお嬢さんですね、更木男爵?」
――お前の娘はとんだ恥知らずだな?
柔らかな口調の褒め言葉が、今の男爵にはそう聞こえた。
もちろんそれは彼の幻聴ではあるが――祈織の黒い目が全く笑っていないのを見るに、あながち的外れな妄想とも言い切れない。
瑠璃子のあどけなさが、祈織の神経を逆撫でしたのは明らかだった。
「うふふ、ありがとうございます。周囲からもよく言われておりますの」
褒めていない。
明らかに、間違いなく、絶対に、褒めていない。
しかし悲しいかな、瑠璃子は皮肉にまったく気づかないばかりか、むしろ誇らしげに胸を張る始末。
頼むからこれ以上余計なことを言わないでくれ――という男爵の心の叫びは、当然届くはずもない。
「悪いけど、お嬢さん。今は少し席を外してもらえるかな」
祈織は呆れたように瑠璃子から目を背け、軽く手を振った。
「まあ、どうしてですの?」
「大人の話をするからだよ。子供に聞かせるのは、いささか忍びないからね」
子供扱いされたのが不満だったのだろう――瑠璃子はあからさまに表情を曇らせた。
そして、「まあ、つまらないのね」と言い残し、興ざめした様子で部屋を出ていった。
パタン、と扉が閉まり、応接間は再び静寂に包まれる。
「さて、男爵。本題に入りましょうか」
足を組み直し、死神は淡々と言う。
「雛守ソフィアから手を引いてください。そして、今後一切、彼女に接触しないと誓っていただきたい。今、この場で、すぐにです」
「も、申し訳ありませんが、なんのことやら……」
「おや、お心当たりがありませんか?」
祈織は机の上に一枚の書類を置きながら、挙動不審な男爵をじっと見据える。
ぴらりと音を立てたその紙は、しかし鉛のように重かった。
「故意による不適切な薬物の処方。加えて、日常的な暴行。過重労働の強制。監禁に近い拘束状態。……陰陽医局の軍医が、虐待痕を見逃すと思いましたか?」
男爵の喉がひくりと鳴った。
呼吸が浅くなり、嫌な汗がこめかみを伝う。
「これらの情報を然るべき場所へ提出すれば、更木製薬の経営がどうなるか……ご想像いただけますよね?」
祈織は小さく笑った。
もちろん男爵も、証拠はあるのか、と強気に返す選択肢は一瞬だけ考えた。
――一瞬だけ考えて、すぐにかき消した。
この男なら、本当に証拠を出してくる、そんな確信があったからだ。
「ご安心ください、男爵。私はソフィアさんを引き取りたいだけなのです。貴方にご承諾さえいただければ、それで結構なのです」
「そ、それ、は……!」
「もしや、男爵。ソフィアさんを手放したくない理由が、おありなのですか?」
男爵は押し黙る。
ソフィアを手放せない明確な理由が、あったからだ。
彼女は――雛守ソフィアは、絶対に手放してはならない人質だから。
しかし、それを口に出すこともできない男爵は、ただ押し黙るしかない。
「……男爵。ここはお互い、穏便に済ませましょう」
祈織は言い聞かせるように――それこそ、今の彼自身にも言い聞かせるように、ゆっくりと言う。
「いくら死神と呼ばれた私と言えど、貴方の愛娘の未来まで潰すのは不本意なのです」
俯いた男爵は気づく――膝の上で組まれた祈織の手から、ミシミシと音が鳴っていることに気づく。
血管が浮き出るほど、力んでいることに気づく。
「できれば、これ以上は粘らないでいただけませんか? ねえ?」
形式は交渉――実際は選択肢も与えられていない脅迫に等しい。
しかし、相手が死神軍医とあっては、男爵も屈服せざるを得なかった。
磨き上げられた机、壁に飾られた絵画、整然と並ぶ調度品――そのどれもが、来客をもてなすためのもののはずなのに。
今この場に限っては、それら全てが、逃げ場を失わせる檻のように感じられた。
更木男爵の向かいに座る、この男のせいである。
「事前の連絡もなく訪問してしまって、申し訳ありません」
白黒の洋装に身を包んだ男――烏丸祈織は、にこにこと人当たりのいい笑顔で言う。
しかしその奥にあるのは、温情とはほど遠い、底の知れない恐怖のみだ。
「い、いやぁ、とんでもありませんよ、ハハハ……」
顔に愛想笑いを、額と背中に冷や汗を浮かべながら、更木男爵は怯えていた。
「か、烏丸中佐……この度はその、どのようなご用件で――」
胃の痛みに耐えかねた男爵が、なんとか口を開いたその時。
「まあ、烏丸様ではありませんか!」
軽やかな声が、応接間の重い空気を切り裂いた。
振り向けば、華やかな洋風のワンピースに身を包んだ瑠璃子が、愛猫を抱えて立っている。
瑠璃子は無遠慮に客人に近づき、ほんの少し上目で視線を送った。
「る、瑠璃子、やめなさい……か、烏丸中佐の前で……!」
男爵は大人の会話に混ざろうとする娘を止めようとするが、当の本人はどこ吹く風で
「先日は当家使用人のソフィアがとんだご迷惑をおかけしてしまって……あんなに大騒ぎして、周りのお客様を混乱させるなんて、更木家の者として恥ずかしい限りですわ」
と、しおらしく振舞っている。
しかし非常に残念なことに、彼女は礼儀を払う場所を致命的に間違えていた。
「ご迷惑だなんてとんでもない。突然の発作で混乱するのは、よくあることですよ」
祈織は相変わらず柔らかな笑みを崩さない。
大人の余裕を感じさせる口調――しかし男爵には、それが逆に恐ろしかった。
「それより、瑠璃子嬢。鷹宮中尉とは仲直りなさいましたか?」
「え、ええ。あれについては……わたくしの婚約者が、お恥ずかしいことを……」
亜蓮の名前を出されて動じながらも、スカートの端をつまんで、優雅にお辞儀をする瑠璃子。
しかし、彼女の目線が下へ落ちた一瞬――祈織がじろりと瑠璃子を睨んだのを、男爵は見逃さなかった。
「る、瑠璃子……っ」
虎の尾を踏んだのでは、と肝を冷やす男爵。
いい加減、お客様との会話に横槍を入れるのはやめなさい――と娘を諌めようにも、声がかすれて上手く響かない。
祈織はそんな男爵の狼狽ぶりを一瞥して、ふっと口元を緩めた。
「……ふふ。実に社交的で明るいお嬢さんですね、更木男爵?」
――お前の娘はとんだ恥知らずだな?
柔らかな口調の褒め言葉が、今の男爵にはそう聞こえた。
もちろんそれは彼の幻聴ではあるが――祈織の黒い目が全く笑っていないのを見るに、あながち的外れな妄想とも言い切れない。
瑠璃子のあどけなさが、祈織の神経を逆撫でしたのは明らかだった。
「うふふ、ありがとうございます。周囲からもよく言われておりますの」
褒めていない。
明らかに、間違いなく、絶対に、褒めていない。
しかし悲しいかな、瑠璃子は皮肉にまったく気づかないばかりか、むしろ誇らしげに胸を張る始末。
頼むからこれ以上余計なことを言わないでくれ――という男爵の心の叫びは、当然届くはずもない。
「悪いけど、お嬢さん。今は少し席を外してもらえるかな」
祈織は呆れたように瑠璃子から目を背け、軽く手を振った。
「まあ、どうしてですの?」
「大人の話をするからだよ。子供に聞かせるのは、いささか忍びないからね」
子供扱いされたのが不満だったのだろう――瑠璃子はあからさまに表情を曇らせた。
そして、「まあ、つまらないのね」と言い残し、興ざめした様子で部屋を出ていった。
パタン、と扉が閉まり、応接間は再び静寂に包まれる。
「さて、男爵。本題に入りましょうか」
足を組み直し、死神は淡々と言う。
「雛守ソフィアから手を引いてください。そして、今後一切、彼女に接触しないと誓っていただきたい。今、この場で、すぐにです」
「も、申し訳ありませんが、なんのことやら……」
「おや、お心当たりがありませんか?」
祈織は机の上に一枚の書類を置きながら、挙動不審な男爵をじっと見据える。
ぴらりと音を立てたその紙は、しかし鉛のように重かった。
「故意による不適切な薬物の処方。加えて、日常的な暴行。過重労働の強制。監禁に近い拘束状態。……陰陽医局の軍医が、虐待痕を見逃すと思いましたか?」
男爵の喉がひくりと鳴った。
呼吸が浅くなり、嫌な汗がこめかみを伝う。
「これらの情報を然るべき場所へ提出すれば、更木製薬の経営がどうなるか……ご想像いただけますよね?」
祈織は小さく笑った。
もちろん男爵も、証拠はあるのか、と強気に返す選択肢は一瞬だけ考えた。
――一瞬だけ考えて、すぐにかき消した。
この男なら、本当に証拠を出してくる、そんな確信があったからだ。
「ご安心ください、男爵。私はソフィアさんを引き取りたいだけなのです。貴方にご承諾さえいただければ、それで結構なのです」
「そ、それ、は……!」
「もしや、男爵。ソフィアさんを手放したくない理由が、おありなのですか?」
男爵は押し黙る。
ソフィアを手放せない明確な理由が、あったからだ。
彼女は――雛守ソフィアは、絶対に手放してはならない人質だから。
しかし、それを口に出すこともできない男爵は、ただ押し黙るしかない。
「……男爵。ここはお互い、穏便に済ませましょう」
祈織は言い聞かせるように――それこそ、今の彼自身にも言い聞かせるように、ゆっくりと言う。
「いくら死神と呼ばれた私と言えど、貴方の愛娘の未来まで潰すのは不本意なのです」
俯いた男爵は気づく――膝の上で組まれた祈織の手から、ミシミシと音が鳴っていることに気づく。
血管が浮き出るほど、力んでいることに気づく。
「できれば、これ以上は粘らないでいただけませんか? ねえ?」
形式は交渉――実際は選択肢も与えられていない脅迫に等しい。
しかし、相手が死神軍医とあっては、男爵も屈服せざるを得なかった。

