雛守ソフィアは今まさに、殺されようとしていた。
舞踏会の真っ只中という、極めて公的な場での処刑だった。
――嫌だ、怪物として殺されてしまうなんて……!
――死ぬなら、せめて人間のまま……!
髪を掴まれて逃げられないところへ、彼女の命を奪わんと、ひと振りの軍刀が振り下ろされる。
壮絶な喉の渇きと、痛みへの恐怖と、深い絶望に呑まれていたソフィアだったが――それらは唐突に、一陣の猛風によってたちどころに吹き飛ばされた。
「くぁっ……!?」
びゅうっ! と空気を切り裂く音が、彼女を取り巻いていたすべてを攫っていく。
彼女を処刑しようとしていた軍人の気配も。
彼女を取り巻いていた群衆たちの視線や声も。
痛いほど強く掴まれていた髪は解放され、ソフィア以外のすべてが消えたように、静かになった。
ソフィアは恐る恐る目を開け、状況を確かめる。
輝くシャンデリアの光も押しのけて、彼女の視界にいの一番に飛び込んできたのは、白衣をまとった男の後ろ姿だった。
「誰……?」
蚊の鳴くような声だった。
それでも、男はソフィアのか細い声を聞きとって、彼女のほうへ振り返った。
――息を呑むような美しさだった。
木炭で塗り潰したような黒い瞳。
簪でまとめ上げた黒髪。
磨いた象牙のような白い肌。
白と黒ばかりで構成された造形は、きらびやかな会場の中で、ひときわ異彩を放っていた。
ゆえに、ある意味で死に救いを求めていたソフィアは、こう思ったのだった。
ああ、死神が迎えに来たのだ、と――。
*
夜会で『彼』と出会う、一週間前のこと。
奉公先の屋敷の窓掃除をしていたソフィアのところへ、屋敷の使用人が声をかけてきた。
「雛守さん、旦那様がお呼びですよ。作業が終わったら、書斎に来るようにとのことです」
ソフィアは蚊の鳴くような声で返事をし、丁寧ながらも手早く窓掃除を進める。
(……随分変わってしまったわね。この国の景色も)
ソフィアが愛していたのどかな自然や、ゆったりとした人々の往来は、いまや見る影もない。
――石畳の大通りに、西洋式の路面電車。
――軍服の男や、華やかな洋服を纏った華族たちの、忙しない足取り。
長らく鎖国状態にあったこの東雲帝国は、大きな転換期を迎えようとしていた。
当然、それだけ大きな変容には、新たな問題もつきもので。
(……喉が渇いた)
朝からあちこち動き回っていたからだろうか。
ソフィアはふと、喉にひりつくような渇きを覚えた。
もう何度も経験しているから分かる――これは、水を飲んで抑えられる渇き方ではない。
すると、彼女は周囲に人がいないことを確認してから、自身の手に犬歯を突き立て、零れた血を啜った。
(自分のものとはいえ、気休めに血を吸うなんて。本当に吸血鬼みたいになってきたな……)
『吸血鬼』――開国と共に大陸から流入した、生き血を糧とする西洋の鬼。
赤い瞳で人間を惑わせ、鋭い牙で生き血を啜る、化け物。
ソフィアが抱えている病は、吸血鬼がもたらす最悪の呪い――『血毒』だった。
血毒に罹患した患者は、いずれ吸血鬼になってしまう恐怖と、世間からの迫害に怯えながら、日々を過ごすことを強いられる。
――それでも、ソフィアはまだ比較的恵まれているほうだった。
(……だめ、治まらない。薬を……)
ソフィアはお仕着せのポケットにしまっていた小瓶を手に取り、それをじっと見つめる。
――更木家が営む製薬会社から支給されている、血毒の進行を抑えられる唯一の薬だ。
一般市民には手が届かないほど高価なこの薬を、ソフィアは肉体労働と引き換えに入手できている。
それだけで、幸運というものだが――しかし。
(……今飲んでいたら、夜までもたない。我慢しないと)
この薬もそう簡単に製造できるものではないようで、ソフィアの手元にあるのもあと僅かだった。
今の程度の症状で薬を飲んでは、次の支給まで消費し尽くしてしまう。
彼女はそう考えて、小瓶を再びポケットにしまった。
(……眩しい。早く終わらせよう)
栗色の前髪で目を隠し、光を遮りながら窓を拭きあげる。
最近は光を和らげる術を施した眼鏡をかけていても、目が針でつつかれたように痛い。
自分の体が、日増しに太陽を受け入れられなくなっているのが分かる。
(……私、本当に吸血鬼になるのかな。そうなったら、私は誰かを襲ってしまうのかしら……)
怪物になった自分をつい想像して、ソフィアは身震いした。
*
「旦那様、失礼いたします」
窓拭きを終えたソフィアは、更木男爵邸の書斎に入った。
すると、なにやら優雅なバイオリン音楽が流れてくる。
音声伝達を可能にした最新機器――確か、『ラジオ』というのだったか。
「な、なんだい、ソフィア。今から午後の仕事を始めるのだが」
それまでのんびりと音楽を聞いていたらしい更木男爵は、何事もなかったかのようにラジオを消すと、慌てた様子で居住まいを正した。
呼びつけたのはそっちなのに……と思いつつ、ソフィアは丁重にお辞儀をした。
「お忙しいところ申し訳ありません。旦那様がお呼びとのことでしたので、お伺いし……」
ソフィアが言いかけたところで、いきなり彼女の背後にあった書斎の扉が、バァンと音を立てて開く。
驚いて振り返れば、そこには興奮気味に息を切らせている更木家の令嬢・瑠璃子がいた。
「お父様、ご覧になって! また亜蓮様が号外に載ってらっしゃるわ! 中心街に現れた吸血鬼を退治したそうよ」
陰陽学校の帰りに受け取ったのだろう――喜色満面とばかりの輝かしい笑顔で、新聞を掲げる瑠璃子。
すると、男爵もぱっと笑顔になった。
「おお、瑠璃子! もちろんラジオで聞いたとも。素晴らしい活躍ぶりだね」
「本当に立派なお方ですわ。ご活躍もさることながら、この美貌……非の打ち所がありませんわね」
瑠璃子は新聞の一面を大きく飾る写真――鷹宮亜蓮中尉の美貌を見て、うっとり目を細めていた。
鷹宮亜蓮は、吸血鬼などの怪物退治を担う退魔軍の名家・鷹宮家の次期当主。
街に現れる吸血鬼を次々に討ち取り、巷の乙女たちの熱視線を独り占めにしている、若き退魔師だ。
その勇猛果敢な戦いぶりから『帝国の英雄』とも呼ばれている。
(確か、瑠璃子お嬢様とは生まれたときからの許嫁、なのよね……)
使用人たちの噂によれば、更木製薬の品を退魔軍に卸せるよう便宜を図ったのは、鷹宮家の現当主らしい。
おかげで更木製薬は順調に業績を伸ばせたと聞くし、政治的な結束が固いのだろう。
「あら。いたのね、貴方」
瑠璃子がソフィアの存在にようやく気づく。
上機嫌だった瑠璃子は、楽しいおしゃべりに水を差されたわ、と言わんばかりに笑顔を消した。
「なあに? 用がないならさっさと出て行って。いつまでもケガレがいたら、空気が汚れてしまうわ」
「いや、瑠璃子もちょうどいい。実は、お前にも関係のある話をしようとしていたところでな」
奉公人のソフィアと、令嬢の瑠璃子、異なる立場の二人になにを話すというのだろう。
ソフィアは首を傾げ、瑠璃子は眉をひそめた。
舞踏会の真っ只中という、極めて公的な場での処刑だった。
――嫌だ、怪物として殺されてしまうなんて……!
――死ぬなら、せめて人間のまま……!
髪を掴まれて逃げられないところへ、彼女の命を奪わんと、ひと振りの軍刀が振り下ろされる。
壮絶な喉の渇きと、痛みへの恐怖と、深い絶望に呑まれていたソフィアだったが――それらは唐突に、一陣の猛風によってたちどころに吹き飛ばされた。
「くぁっ……!?」
びゅうっ! と空気を切り裂く音が、彼女を取り巻いていたすべてを攫っていく。
彼女を処刑しようとしていた軍人の気配も。
彼女を取り巻いていた群衆たちの視線や声も。
痛いほど強く掴まれていた髪は解放され、ソフィア以外のすべてが消えたように、静かになった。
ソフィアは恐る恐る目を開け、状況を確かめる。
輝くシャンデリアの光も押しのけて、彼女の視界にいの一番に飛び込んできたのは、白衣をまとった男の後ろ姿だった。
「誰……?」
蚊の鳴くような声だった。
それでも、男はソフィアのか細い声を聞きとって、彼女のほうへ振り返った。
――息を呑むような美しさだった。
木炭で塗り潰したような黒い瞳。
簪でまとめ上げた黒髪。
磨いた象牙のような白い肌。
白と黒ばかりで構成された造形は、きらびやかな会場の中で、ひときわ異彩を放っていた。
ゆえに、ある意味で死に救いを求めていたソフィアは、こう思ったのだった。
ああ、死神が迎えに来たのだ、と――。
*
夜会で『彼』と出会う、一週間前のこと。
奉公先の屋敷の窓掃除をしていたソフィアのところへ、屋敷の使用人が声をかけてきた。
「雛守さん、旦那様がお呼びですよ。作業が終わったら、書斎に来るようにとのことです」
ソフィアは蚊の鳴くような声で返事をし、丁寧ながらも手早く窓掃除を進める。
(……随分変わってしまったわね。この国の景色も)
ソフィアが愛していたのどかな自然や、ゆったりとした人々の往来は、いまや見る影もない。
――石畳の大通りに、西洋式の路面電車。
――軍服の男や、華やかな洋服を纏った華族たちの、忙しない足取り。
長らく鎖国状態にあったこの東雲帝国は、大きな転換期を迎えようとしていた。
当然、それだけ大きな変容には、新たな問題もつきもので。
(……喉が渇いた)
朝からあちこち動き回っていたからだろうか。
ソフィアはふと、喉にひりつくような渇きを覚えた。
もう何度も経験しているから分かる――これは、水を飲んで抑えられる渇き方ではない。
すると、彼女は周囲に人がいないことを確認してから、自身の手に犬歯を突き立て、零れた血を啜った。
(自分のものとはいえ、気休めに血を吸うなんて。本当に吸血鬼みたいになってきたな……)
『吸血鬼』――開国と共に大陸から流入した、生き血を糧とする西洋の鬼。
赤い瞳で人間を惑わせ、鋭い牙で生き血を啜る、化け物。
ソフィアが抱えている病は、吸血鬼がもたらす最悪の呪い――『血毒』だった。
血毒に罹患した患者は、いずれ吸血鬼になってしまう恐怖と、世間からの迫害に怯えながら、日々を過ごすことを強いられる。
――それでも、ソフィアはまだ比較的恵まれているほうだった。
(……だめ、治まらない。薬を……)
ソフィアはお仕着せのポケットにしまっていた小瓶を手に取り、それをじっと見つめる。
――更木家が営む製薬会社から支給されている、血毒の進行を抑えられる唯一の薬だ。
一般市民には手が届かないほど高価なこの薬を、ソフィアは肉体労働と引き換えに入手できている。
それだけで、幸運というものだが――しかし。
(……今飲んでいたら、夜までもたない。我慢しないと)
この薬もそう簡単に製造できるものではないようで、ソフィアの手元にあるのもあと僅かだった。
今の程度の症状で薬を飲んでは、次の支給まで消費し尽くしてしまう。
彼女はそう考えて、小瓶を再びポケットにしまった。
(……眩しい。早く終わらせよう)
栗色の前髪で目を隠し、光を遮りながら窓を拭きあげる。
最近は光を和らげる術を施した眼鏡をかけていても、目が針でつつかれたように痛い。
自分の体が、日増しに太陽を受け入れられなくなっているのが分かる。
(……私、本当に吸血鬼になるのかな。そうなったら、私は誰かを襲ってしまうのかしら……)
怪物になった自分をつい想像して、ソフィアは身震いした。
*
「旦那様、失礼いたします」
窓拭きを終えたソフィアは、更木男爵邸の書斎に入った。
すると、なにやら優雅なバイオリン音楽が流れてくる。
音声伝達を可能にした最新機器――確か、『ラジオ』というのだったか。
「な、なんだい、ソフィア。今から午後の仕事を始めるのだが」
それまでのんびりと音楽を聞いていたらしい更木男爵は、何事もなかったかのようにラジオを消すと、慌てた様子で居住まいを正した。
呼びつけたのはそっちなのに……と思いつつ、ソフィアは丁重にお辞儀をした。
「お忙しいところ申し訳ありません。旦那様がお呼びとのことでしたので、お伺いし……」
ソフィアが言いかけたところで、いきなり彼女の背後にあった書斎の扉が、バァンと音を立てて開く。
驚いて振り返れば、そこには興奮気味に息を切らせている更木家の令嬢・瑠璃子がいた。
「お父様、ご覧になって! また亜蓮様が号外に載ってらっしゃるわ! 中心街に現れた吸血鬼を退治したそうよ」
陰陽学校の帰りに受け取ったのだろう――喜色満面とばかりの輝かしい笑顔で、新聞を掲げる瑠璃子。
すると、男爵もぱっと笑顔になった。
「おお、瑠璃子! もちろんラジオで聞いたとも。素晴らしい活躍ぶりだね」
「本当に立派なお方ですわ。ご活躍もさることながら、この美貌……非の打ち所がありませんわね」
瑠璃子は新聞の一面を大きく飾る写真――鷹宮亜蓮中尉の美貌を見て、うっとり目を細めていた。
鷹宮亜蓮は、吸血鬼などの怪物退治を担う退魔軍の名家・鷹宮家の次期当主。
街に現れる吸血鬼を次々に討ち取り、巷の乙女たちの熱視線を独り占めにしている、若き退魔師だ。
その勇猛果敢な戦いぶりから『帝国の英雄』とも呼ばれている。
(確か、瑠璃子お嬢様とは生まれたときからの許嫁、なのよね……)
使用人たちの噂によれば、更木製薬の品を退魔軍に卸せるよう便宜を図ったのは、鷹宮家の現当主らしい。
おかげで更木製薬は順調に業績を伸ばせたと聞くし、政治的な結束が固いのだろう。
「あら。いたのね、貴方」
瑠璃子がソフィアの存在にようやく気づく。
上機嫌だった瑠璃子は、楽しいおしゃべりに水を差されたわ、と言わんばかりに笑顔を消した。
「なあに? 用がないならさっさと出て行って。いつまでもケガレがいたら、空気が汚れてしまうわ」
「いや、瑠璃子もちょうどいい。実は、お前にも関係のある話をしようとしていたところでな」
奉公人のソフィアと、令嬢の瑠璃子、異なる立場の二人になにを話すというのだろう。
ソフィアは首を傾げ、瑠璃子は眉をひそめた。
