ずるずるっ、と糸の切れた傀儡のように、足が数十本口から生えた魑魅の身体が崩れ落ちていく。それは、地面にその身を横たえる前に、燃え尽きた灰のようにザザラっと風に流れて空間へと消えた。
呆然。
ただ立ち尽くしていたヨタカは、たった今目前で起こった事実を、ただ顎を外さんばかりに開いて噛み砕けないまま享受した。否、それしか出来なかった。
消えた化け物の背後。夜闇を切り裂くように、黒光りする、日本では見慣れない、拳銃の口がこちらを向いていたからだ。
「20人目」
耳に手を当て、──恐らくトランシーバーか何かが繋がっているのだろう──無感動な声で呟く。
異質。
そう表現するのが相応しい。
どこからともなく現れ、平然と化け物を抹消した。それが、筋骨隆々とした勇ましい男ならまだしも、ヨタカの前に経つのは、痩躯を体現したような少年だ。それもヨタカと年齢はほぼ変わらないような。
チャックが沢山着いた、黒いジャンバーに真っ黒のスキニー。胸元まで下げたチャックから、白いタンクトップが見えている。その艶かしいまでの白磁は、夜光を浴びて更にその艶美を極めていた。
「ひとり?」
不意に投げかけられたテノールボイスに、ヨタカは縛りから解けたようにハッとした。
「ひとりか」
何も言わないヨタカに焦れたのかポリポリと頬を掻きながら自己完結させる。
真っ青な髪と同色の瞳が、夜闇の中で煌々として綺麗だった。
「山吹高の生徒だよね。他の子は?」
「あ、」
他の子、というワードに、ハッとしてヨタカは少年を見上げる。
「みんな、みんなあっちに逃げて、僕だけ、ここに」
たどたどしいながらも、どうにか身振り手振りで言葉をつなぐ。
少年はしばらく無表情のままぼうっとしていたが、話を聞くなり納得したように頷く。
「わかった。俺は、その子達を追いかけるから君は、」
「っ待って!」
階段を登りきり、ヨタカの横を通り過ぎながら、指で下を指した少年のうでを、ヨタカが掴む。
「僕も行く、」
「正気? やめとけ。多分、さっきの見ただろ。確実に何人か死んでる。おうち帰んな」
「駄目なんだ、先に行くよう言ったのは、僕だから、」
「大人しくしてて」
少年の碧眼がギロリ、こちらを睨んだ。一瞬怯んだヨタカの手を払い、片手に持っていた拳銃をクルクル指で遊ばせる。
恐らく無意識だろうその仕草に、ヨタカはきっと少年を睨んで言った。
「それに、鉄砲持ってるやつを、友達の所に行かせられるわけないだろ」
少年は盲点だったと言うように、目を瞬きさせる。黙ったまま手に持った拳銃をホルスターに仕舞った。
「人体に影響は無い」
「……拳銃持ってる人のこと、信じられない」
「国籍が違うから。俺は中国」
「……関係ないよね」
ああ言えばこう言うヨタカに、やや苛立った顔をしていた少年は、大きく肩を下げてみせた。
胸ポケットへと手を伸ばし、中から革製の手帳を取り出す。
パカリ、とガラケーのように開かれたそれは、刑事ドラマなんかでは見慣れたものだった。
ヨタカの目が開く。
「梔子硯。警察だ」
警察手帳。思わずゴクリとヨタカの喉がなる。
「俺はあれの対応を任されたの。化け物ハンターってこと。仕事させてくんない?」
気だるげな視線はそのままに、手帳をポケットに突っ込む。ボサと崩れた蒼髪の隙間から、射抜くような眼が覗いた。
眼力だけで足が竦んでしまいそうになる。深い深い深海の蒼を、そのまま眼球にしたような目だ。気を抜くと呑み込まれるような錯覚に陥る。
「お前、なに?」
「えぁ、俺は、かいばら、灰原ヨタカ、」
「そうじゃねぇよ」
意図が分からない問に、ヨタカは小首をかしげるばかりだ。硯と名乗った少年は、深淵の瞳を瞬いて、ふつと煮えた小さな明かりをこちらに向けた。
「お前、当てられてんぞ」
「は?」
ヨタカが、目を見開く。 その目が、さらに見開かれた。直後、口を大きく開けて怒鳴った。
「後ろ!!!!」
バッ、と蒼髪をたなびかせて、硯が背後を振り向く。
瞬きの直後、彼の痩躯がヨタカの後ろへと吹っ飛んだ。
「梔子さん!!」
「っぐ、ぅ、」
廊下の向こう側まで飛ばされ、背中を打ち付けたらしく、喉を晒して、苦しげな呻き声をあげる。額を切ったのか、真っ赤な液体が頬を伝った。
悲鳴をあげてヨタカが駆け寄る。硯が手を伸ばし、グイッ、とやや乱雑にヨタカの腕を引き、背後へと下がらせた。
「だ、大丈夫!? 血が、」
「下がれ、動くな、」
硯が見据える先には、ヨタカの脳裏に焼き付いた、あの女が這いつくばってそこにいた。椅子の下に張り付いて、ニタニタ笑っていた魑魅だ。引きずるほど長い髪の毛と、ぐしゃぐしゃになったワンピース。椅子の下で見た時は分からなかったが、手には大量の血が付着していた。眼球は片方が無いのか、真っ赤にえぐれた表皮が覗き、がらんどうで血塗れの穴がこちらを見ていた。
「ぁ、」
「ひ、ひひひひ、ひ」
ゆらり、と煙が立ち上るように身体を起こす女。それをカクカクと震える膝でもって、見つめる。
硯は依然としてその女の動向を捉えたままだ。
「よぉ。玉木陽子ちゃん」
硯の血の着いた花唇が開いた。耳慣れない言葉を口にすれば、彼の眼光が鋭く細ばまれる。
「ひひ、ひ」
女はせせら笑う。笑う。わらう。笑って、嗤って、直後、ずるんっと表情が消えた。黒目の部分が、限界まで小さくなり、白目に薄い血管が無数に張り付いていた。
女がゴキッと虐的な音を弾けさせ、首を傾げた。寸分の狂いもない、90度に曲がったその異様さと異音に、ヨタカの背筋を、言語化し難い恐怖が駆ける。
「そう、そう、貴方は、うふふ、知ってるわ、知ってる、だって、私、うふふ、私の、恋人から、聞いた、ものね、あなた、あなあな、あなたは、知ってるわ、あああなたのこと、知ってる」
言葉では笑っているのに、その顔は全く動かない。唇だけで笑う様は、不気味以外言いようがない。
(タマキヨウコ?)
ヨタカがその言葉を反芻する。
不意に硯が口を開いた。
「同級生殺して楽しかったか?」
「え」
反射的に硯を見る。硯は何も言わず、女の化け物を凝視しているだけだ。
「ころした、って」
「誰かにそそのかされて、怪具を使って同級生を殺したんだよ。“バスタブで足を滑らせて死ぬ”なんて目立たない呪いでな」
思わず問い返したヨタカに、硯はこちらを見ずに答える。
ヨタカは『玉木陽子』らしい女を見る。
地面をするほど長い髪に、色白なんて言葉では表しきれないほど白い顔。唇は真っ青なのに、目は充血している。そして先程からまったく焦点が合っていない。
これが人間?
ヨタカの喉がきゅ、と細ばまった。
「“怪具”はどこに置いた。誰に渡した」
「うふふふふふふ」
「……お前に怪具を売ったやつはどこだ」
「あたし、あなた嫌いだわぁ、ああああなた、とてもとととととても、きき、たないいい汚いものののの、のの、」
ギョロッと女の顔が揺れる。硯は会話の不明瞭さに、眉間にシワを寄せる。
(ここで、やり合うのは得策じゃない。最悪のパターンは、一般人を巻き込むこと。)
人質に取られでもしたら、と硯はヨタカを横目に見た。
(外傷は見られない。逃げてもらうしかないか)
硯はベルトに手を伸ばす。備え付けられたホルスターの横のシースから、苦無を取り出す。曲輪が持っていた物と同じだった。
「え」
困惑するヨタカに見向きすることなく、硯が地面にそれを突きつける。苦無は、前時と同じように、物理法則を無視して地面に沈んだ。
「っ、」
ヨタカの顔が驚愕に染まる。
「侮るなかれ、人の名を。恐れるなかれ、神の目を」
硯の花唇が揺れた。沈んだ苦無から、文字が溶けだす。それを愕然とした面持ちで見つめていたヨタカは、口を開けて硯を見る。
ギョッ、とした顔になって叫んだ。
「羽うさ、」
「梔子さん!!」
苦無の沈んでいた地面が、鋭く速い何かによって、タイルごと抉り取られた。2人が目を見開くよりも速く、苦無が柄の部分に当たって柄を破壊。そして弾けるようにしてタイルの上を滑った。
それに反応仕切るよりも速く、硯の足が強く引かれた。そのまま引き摺るようにして身体が振り上がると、そのまま窓ガラスに打ち付けられた。
硯の苦汁に満ちた呻き声が、響き渡る。そしてその勢いを殺さないまま、振り払うように地面に叩きつけられた。
「お前っ、!!」
女を振り返ろうとした矢先、鼻頭を掠めて鋭利な生き物が、文字通り目にも止まらぬ速さで通り過ぎた。足元に目をやれば、生き物のように蠢く影がある。
「か、げ」
影だ。ヨタカの足元に伸びた影が、まるで自我を持ったようにうねうねと身をくねらせている。それはやがて、ビィィン、とヨタカの姿を型どっていた形を変え、女の足元へと伸びた。
「ひっ、」
ヨタカが思わず足を引くと、元からそこには無かったように、ヨタカの影が女の所へ真っ直ぐ進み、どぷん、と女の影と重なって溶けた。
ヨタカの足元の影は、無くなっている。
「ぁ、」
「う、ふふふ、ふふふ」
女の地を這うような、耳につく笑い声が、廊下を反響して響いた。
「私、私わたし、あなたああああなたのことは、知らししししししらないわわわわわわわわわわ、?、?だだだだだ誰、かしら?」
ギョロ、と剥きでた眼球が、ヨタカの動きに合わせて左右する。
口調は歌うように、楽しそうに滑るのに、その顔はピクリとも笑っていない。表面と内面で、全く違う人間がいるような面妖さにたじろぐ。
「きみは、」
ヨタカの喉を、ガサガサの声が通り抜けていく。ガクガクと震える足と、揺れる視界で、めいっぱい声を張った。
「君は、なに?」
返事はない。応答も、反応もない。まるでミュートにしたような、不気味な沈黙が、廊下を端から塗りつぶしていく。
影が、静かに揺れた。
「っわ、!!」
突如、足を掴まれた感触があって、視界が下がる。腰がタイル張りの床に打ち付けられて、激痛が身体中に走った。
咄嗟に足に目をやろうとすると、尻餅をついたヨタカの頭上を掠めるようにして、目にも止まらない速さの黒い“何か”が通り過ぎていった。
「さがってろ、ばか!!」
ヨタカの足を掴んで引き摺り倒した硯は、腕に刺さったガラス片を抜き、地面へと放る。
真っ赤な轍が引かれる白磁に、ヨタカは震える身体で、立ち上がる硯を見ることしか出来なかった。
「あはははははは、なかなかかかかなかかかか仲が、わわわわわ悪いのね?、ねね、?、駄目、よよよよよよよよよよよよ?、よよ?仲良くくくくくくくくくくくくくくくしないとととととととととととと」
「生憎、今あったばっかなんで」
女の背後に、煙のように影が立ち上る。うごうご、と蛇のような伸縮を繰り返すそれは、次第にダマのようになって、ブチブチちぎれ始めた。
「うふふふふふふふふふふふふふふ、あなた、ああああああなた、バババババババババ“バグ”ググググググののののののの、ががががガキききよね?、」
(バグ?)
要領を得ない単語に、ヨタカが伺うように硯を見る。
作り物じみた美しい顔が、まるで彫刻のような非現実的な形になっていることに気がついた。
表情という表情が抜け落ち、まるで面でも付けているような不気味な無表情。
「おい」
硯の声が、反響する。
低い、深い、喉を震わせる音が、ビリビリとした緊迫感を連れて、鼓膜を叩き、女を鋭く睨めつけた。
「それ誰に聞いた?」
にた、と女の唇が歪む。
その瞬間を待っていたように、背後の分離した影に、眼球が浮かび上がった。
「さぁ、忘れ、チャっだぁ」
───風が吹いた。
その瞬間には、目前に眼球があった。
「ぁがっ!!」
体当たりのように、横側から打ち付けられ、すぐ側にあった壁にめり込む。
身体の奥底から響いてくるような鈍痛と同時に、打ち付けた顔全体が焼けたように熱い。その直後、ガっ、と頭を鷲掴まれ、壁に思い切り打ち付けられ、視界がスパークする。
「ヨタカ!!」
硯が駆け寄ろうと振り返ったのがわかる。追うように女の甲高い笑い声が耳を劈く。
硯は、後ろ目のボロボロと焦点の合わない視界で、声のした方を見れば、踊るように揺れる黒髪と、逃げる女の背が見えた。
「っ、待て!!」
硯の足がたたらを踏む。女はその一瞬を逃さず、狂ったように高笑いを響かせ、踊り場の窓ガラスから身を投じ、逃げ果せた。
パリィン、と硬質な音が鼓膜を叩き、遮るものが無くなった月光が、遠慮なく廊下を照らす。
「チッ」
硯が舌を打つ。それは、判断を迷った自分自身に対する苛立ちだ。身を低くして苦無の落ちている場所へと走る。柄の無くなったそれを、ヨタカに群がる影の塊に向けて、思い切り投げつけた。
ドスッと鈍い音を立てて刺さった苦無に、影が怯んだ。その一瞬を狙って踏み込む。手を伸ばして、ヨタカを抱き抱えて離れる。
そのまま走り抜け、廊下の曲がり角まで駆けた。
彼の顔に手を添え、ペチペチ、と軽く叩く。
「起きて、起きて。俺がわかる?」
「くちなしさん、?」
「良かった」
打ち付けた額から血を流したヨタカは、瞼の上を切ったらしく、片目を閉じたまま、ぱち、ぱち、と硯を見上げた。
意識はある。だが身体を打ったからか、動きが鈍い。決して浅い怪我では無いことは確かだ。骨が折れていないことを祈ることしか出来ない自分が歯がゆい。
硯は身を捩って、角から先程の化け物を見た。
影の塊の化け物は、ぶよぶよと生き物のようにその場に上下に浮遊している。バランスボールほどある眼球と、色んなところにつけられた唇。真っ赤なそれらが、ゲラゲラと真夏の蝉のように喚いている。
恐らく、硯たちの場所を分かっていて動かないのだろう。舐めプ、というやつだ。腹立たしい。
(動きは少ない。群れるタイプだな)
硯は思考を巡らせる。
(羽菟は、詠唱が不完全だった。しかも譜のあった床ごとやられてる。2度目の顕現は出来ないな。
でも、一般人庇いながらこの数を相手するのは流石にキツイ)
パッと見ただけでも、ぶよぶよの影の塊は数十体いる。オマケに、その塊のほとんどが、ぶちぶちと自分たちで分離たり、反対に合体したりとその数は計り知れない。だが攻撃は単純だ。その身体を生かした、タックルと高速での移動。それから、ヨタカにやった、腕を生やすこと。腕は、1度生成させてしまえば引っ込めることはないらしい。化け物の中で、腕を引っ込めている奴は居ない。生成のタイミングにさえ気をつけていれば、十分よけられるはずだ。
(……5、いや、2分でいい)
硯の指が、ホルスターの拳銃に触れる。
(30秒でヨタカを離線、2分で全員殺す)
決断とほぼ同時、ヨタカの肩を掴んだ。
「お前は先に外に出ろ。ここにいたら、この怪我だけじゃ済まなくなる、てゆーか死ぬ。お前は確実に死ぬ」
重々しい語調と血走った眼も相まって、その言葉は硯にとっては善意に満ちたアドバイスだったが、ヨタカからしたら鬼子母神も裸足で逃げ出す脅しに相違なかった。
(羽菟が使えないのが痛い)
だが、硯はそれに気づかないまま考える。
羽菟が使えない。ならば今は、自力で逃げもらうしかない。
「よく聞いて、今からお前を外に送る。ちょっと危険かもしれないけど、死ぬより七瀬って割り切れ。他のことは考えるな。いいな?」
他のことは考えるな。そのフレーズを聞いた瞬間、ヨタカの瞳が、大きく見開かれた。
硯はヨタカの変化に気づかないまま、顎に手を当てて思案する。
(どうしようか。何か効果的な方法を、)
ガクッと見ているもの全てが下にさがった。腕が痛い。見れば、ヨタカが俯いた状態で、硯の腕を掴んでいた。骨ばった指の先が、白んでいる。硯の細腕が軋むほどの力だ。
単純に加減のない力に、硯は思わず顔を顰めた。
「おい、痛、」
「待って」
ぎゅ、と持ち上がった深緑の瞳に、硯は背筋がザァッと冷えた。
何が自分をそうさせているのか分からない。ただ、ただ真底から迫り上がるような、粟立つような不気味な感覚。それが、根源も知らずに吹き出てくる。
ヨタカの額からは、まだ血が流れている。真っ赤な血。留まることを知らず、だらだらと流れる真紅は、場馴れしない一般人には刺激が強いはずだ。ショック死なんてものもあるのだから。
なのに、どうして。
「 友達がいる 」
押し出すような声だった。
だが最早内容などは、硯に届いていなかった。
硯の意識は、ただ一点にのみ向けられていたからだ。
真緑の瞳。光の無い、ぼっかりと抜け落ちただけのような、底なしの大穴が、こちらを飲み込もうと開いている。
瞳が、声が、雰囲気が、すべてが、先程までのヨタカとはかけ離れていた。
「 向こうにいるんだ 」
ヨタカの手が、硯の顔を両手で包んだ。
瞬間、ゾワッと速度を上げて湧き上がるような怖気が身体を蝕む。硯の背中に、表面張力が決壊したように冷たい汗が溢れた。
死人が触れたのかと思った。
それほどヨタカの手は冷たかった。
「 助けてあげて 」
目を合わせるな。
かつてない心臓の拍動の最中、チカチカ点滅する役立ずの脳味噌が絞り出した最適解。それは、恐らく一般人に抱くはずのない選択肢だった。
己は拳銃を持っている。対してヨタカは丸腰だ。
ならば、どうして?
どうして、“恐怖”によく似た、“恐怖”よりもずっとおぞ七瀬い感覚がする?
もっと、恐怖よりもずっと、煮立つような、湧き出るような、毒を毒と知らず飲み込むような、星のない真夜中の海のような、電灯のない森の奥深くのような、誰もいない病室のような、ずっと潜在的な、動物的な、言葉が現れないような、身の毛がよだつような、それが。
「お願い」
ずるり、と手が滑り落ちるようにして離れた。
知らないうちに、硯はべっしょりと汗をかいていた。気分が悪くなるほどの心臓の拍動による冷や汗だ。硯は、今ほど上着の下が薄着であることを良かったと思うことは無かった。
ザワザワとした感覚が、鳥肌となって身体に痕を残している。
離れた手の持ち主を、未だに愕然とした瞳で見据えた。
「……梔子さん。お願いします」
そこにいるのは、紛れもないヨタカだ。灰原ヨタカただ1人。なんの反応も返さない硯を、伺うように長身の身体を折り、黒髪より少し明るい茶髪が、血で額に張り付いている。怪我をしていることは変わらない。顔色が悪い。貧血だろうか。
何も変わらない。なんてことない。ただの一般人だ。
「…………まか、せて」
だと言うのに、硯の声は、未だかつて無いほど震えていた。知らず止めていた息が、言葉を押し切ると同時にハァッ、と流れていく。酸素不足でチカチカする視界と、額に浮かんだ汗。どちらも、今まで経験したことのないような緊迫感を伴っていた。
影が揺らめく。気がつけば、硯たちを取り囲むようにして、影の塊が浮遊していた。
と。ブーッ、と携帯が震える音がして、2人の間を裂いて通る。
硯は手汗でぐっしょり濡れた手のひらで、辛うじて携帯を掴み、パスワードを外す。そこには、硯が見慣れた名前と、受話器のマークが踊っていた。
「曲輪くん……」
硯はちら、と影の塊を見る。次に、無言のままヨタカを見た。
携帯の画面を叩きつけるようにタップし、ヨタカに向き直る。
そして、バッ、と両手を広げた。恐怖に染まっていたヨタカの目が、点になる。
「ヨタカ。来い」
「どこに、」
「良いから!!」
ヨタカは硯の意図の伺い知れない行動に、半涙目で従う。同じように手を広げ、抱きしめるようにして硯の身体に手を回した。硯もヨタカに手を回したので、2人は抱き合うような形になる。
ヨタカが呆然とした顔で「彼女もいたことないのに……」と呟くのを聞き流し、硯は低い声で言った。
「暴れたら確実に首折る」
「オーマイガー……」
「暴れなくても最悪死ぬ」
「パワハラ上司でももう少しマトモなこと言う」
「じっとしてたら、折るのは腕だけで済む」
「折るという行為を避けるための努力をしようよ」
途端、ヨタカの視界がガクンっとぶれた。ぱちぱち、と数回瞬きを繰り返してようやく、見える景色が普段より上がっていることに気づいた。膝裏と背中に腕の感触があって、足裏に地面の感覚を感じない。
俵担ぎ。その言葉がしっくりくるだろう。ヨタカより格段小さい硯が、平然とした顔でヨタカの身体を米俵が如く担ぎあげている。
怪我をしている部位は触れないような持ち方ではある。そんな気遣い要らねぇよ!とヨタカは強く思った。
「え」
「良い?」
「なにが!?」
硯がヨタカを担いだまま、影の塊の間を器用にすり抜けた。
人をひとり抱えているとは思えない速度で廊下を駆ける。そして、階段まで来ると、まるでその先にも地面があるように、躊躇なく足を踏み込んだ。
「っあ゙」
死ぬ。
五臓六腑が数センチずり上がるような感覚があって、ヨタカの顔から表情が抜けた。来たる衝撃に備えて、目を固く閉ざす。
「死なせないってば」
呆れたような笑いを含んだ声がして、ガンッ、と何かを踏みつける音が響いた。その揺れに目を見開く。
視界いっぱいに、青が映り込んできた。
「ぁ、」
硯の足が、階段の手すりを蹴り、物理法則をまるで無視して跳躍する。先程の踏みつける音はあれか、とぼんやりした頭で考えた。
硯の足が、割れた窓ガラスの縁にかかる。もう片方の足を振り、残っていたガラス片を全壊させた。着地直後、一瞬、グラりと傾いたが、上の柵をガッ、と掴んだので、事なきを得る。
ちなみにこれは、ヨタカがいることを理解しての行動である。般若武人が過ぎる!!とヨタカは歯をギリギリ言わせた。
「なぁ、ヨタカ」
「はぁい」
最早ヨタカは硯の一言動にさえ懐疑するようになっていた。ありえないことが連続すると、人間は学習するのである。
「死んだらごめんな」
「は?」
さっきと言ってること違───
そこまでは思った。というのも、そこからは続かなかったのだ。心の中の言葉さえもせき止められる事態が起こったから、である。
背中と首に手が回され、ぐるん、と世界が回転した。
「え?」
目に映る光景が、早すぎて何が起こっているのか理解出来ない。
唯一わかったのは、自分がマット運動の後転のような格好で、窓の向こう側に投げ出されたということだけだった。
夜風が吹き抜けて、「あ」と思う間に身体を支える手と、背中に押し付けられていたレールの感覚が消えた。
眼界を、逆さまの街が満たす。頭から落ちているからだ。
風が頬を叩く。街の灯りがバチバチと目に突き刺さる。
右手と左手が、右足と左足が、バラバラになって、別の生き物のようにのたうち回る。それはヨタカの意識からは外れた行動で、人は死ぬ時、案外最後まで足掻くのか、と冷めた頭で思った。
(走馬灯って、嘘だっんだ)
逆さまの夜ばかりを映す瞳に、そう思った。
突如、身体全体が、毛玉に抱きしめられたような、柔らかい感覚に包まれる。
「マジで、信頼って言葉便利だわぁ」
ほのかに感じる暖かさに、ぎゅ、と固く瞑った瞼を、そろそろ、と持ち上げた。
「それ言われりゃ全部許しちゃうもん。ねぇ?」
雪の中にいるのかと思った。それほど真っ白い毛に包まれていたからだ。手を動かさなくてもわかるフサフサ感と、その毛の下にある僅かな肉感。まるで、大きな兎───。
ヨタカがバッ、と顔を上げると、目に鋭く尖った槍先があった。
「ぁ」
「うちのエースが振り回しちゃってごめんねぇ。おやすみ」
刃先に僅かな電流が走る。額に触れた瞬間、ヨタカは大きく目を見開いて、次の瞬間、ガクっ、と力のすべてを抜いて持ち上げた頭を、再び落とした。
「ったくもー……有り得ねぇ……」
曲輪は気を失ったヨタカを抱き抱えて、3階の窓からこちらを見下ろす硯を見上げた。
ポケットから携帯を取り出し、“スピーカー”と表示された画面に口を近づけ、目は硯を見つめたまま言った。
「信頼関係にしては無茶するよ。タイミングしくってたらどうするつもりだったわけ?」
「外すわけないって確信してた。曲輪くんなら、ドンピシャでしょ?」
「…………信じらんねー。相当なトラウマだと思うけど」
「死なれるより七瀬」
曲輪が溜め息をつく。だが硯はまったく気にしていない様子だ。
「それよりも、」
「ん?」
「女が逃げた。あれ多分『客』だ」
「は!?逃げた!?」
「仕方なかったの」
硯は一気に大きくなった声量に顔を顰め、顔から携帯を遠ざけた。
「だからそいつを追って」
「お、追えって、どこにいるか分かんの?」
「知らない探して。あの状態じゃ、交通機関使うとかはまず無い。遠くには行けないはずなんだよ。フィジカルだけならだけど」
「それって、かなり無茶苦茶なのでは……?」
「ビルの中の子供は全員助ける。中の奴らは、全員殺す」
硯はこちらにゆったりと向かってくる影の塊を睨みながら、携帯に向かって言う。
「女が逃げたんなら、ビルにいる『怪異』は恐らく増えない。なら俺1人で十分。曲輪くんは女を探すのと、七瀬さんに着いてヨタカと残りの一般人を家まで送って」
「羽菟で、一応何人かは学校まで送ったよ」
「……なんで学校なんだよ」
「家知んないもん。グランドにぽいぽいって」
「…………まぁいいけど」
確かに、1人ひとりを家まで送り届けるのは重労働だろう。明日、朝一番に見つけた住民か職員かから、お灸を据えられるだろうが、自業自得ということにしておこう。
硯は窓に腰掛けて、ブラブラさせていた片足を持ち上げ、上がった膝に肘をついた。嘲るように、影の塊たちがうじゃうじゃ寄ってくる。
「…………じゃあ、そういうことで」
「ぶふ。めっちゃ疲れてんね。はぁーい、りょーかい」
ぶつ、と切れた画面を見つめ、小さく息を吐く。がっくん、と首を後ろへと下げ、喉を晒した。
それを諦念と取ったのか、影の声が、さらに高くなったのが分かる。
「疲れた」
掠れた声が絞りでる。
硯だって無傷ではない。所々に深い切り傷や、打撲痕が残っている。
だが、彼はまるで何も感じていないように平然と歩けた。否、無理していただけかもしれないが。
「2分」
もう一度、掠れた声で呟き、ぐい、と身体を持ち上げた。
ぎょろ、とラピスラズリが動く。
「2分で総滅。1分で捜索。一般人は見つけ次第保護。見つからなければ任務終了。帰る。絶対。帰る。寝る。寝てやる。決めた」
硯の目が見開かれる。と、同時に、窓を蹴り、こちらに向かっていた影の塊たちに向かって飛ぶ。ひらりと髪を翻して、飛び立った階段の1番上に両足をつけて着地した。
突如こちらに向かってきた少年に驚いたらしく、影の塊たちは一瞬下がった。だが、すぐにギャラギャラ笑いながら身を寄せてくる。
「よよよよよよよ弱あぁああああああいぃぃぃぃあよぉおおおおお?ぁ、あ、あ、?、??、」
下を向いて動かない硯に、影のうち、一体がズルンッと腕を生やして飛びかかる。
「アハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!」
大男の笑い声のような、耳障りな笑声を張り上げ、ボコボコッと膨れ上がった拳を振る。
ゴゥッと空を切り裂く音がして、真っ黒い拳が硯に触れた。
「1匹につき1秒じゃ足りないな。どうしよっか」
──はずだった。
拳を奮った影が、砂城に水をかけたように、ボロボロと頭から原型を無くしていく。物を燃やしたあとの黒灰のような、脆い塵となって、ザァアと霧散した。
その向こうには、銀に夜光する鉄の塊。それを持ち平然と立つ、青の塊。
「まずは1」
その言葉に、動きを止めていた影の塊がバッ、と後ろに下がる。その大きな眼球がバチリ、と瞬いた。だが、次第に冷静さを取り戻してきたらしい。かっと目を見開き、地面を振動させる程の喚き声を撒き散らして猛進してくる。
「仲間意識はあんのね」
硯は階段に背を向けたまま、ふわりと後方へ跳ぶ。階段を1回の飛躍で降りきると、そのまま踊り場を回って、走り出した。
「ドドドドドド止゙ま゙ままままままままままままたまれ゙エエエエエエエエエエ!!!!!」
「やーなこった」
逃げながらの余裕を示すように、ぐるっと走りながら回転し、ピラピラ両手を耳横に着けて振る。煽った後、また速度を落とさず逃げを打つ硯に、影の体にビキッ、と血管が浮き上がったのがわかった。
硯は自分の身体を使いこなし、階段の手摺を片手で掴むと、ひらりと飛び越え2階の踊り場へ跳び下りる。
「アアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」
影はその身体から、2本の腕を出し、爪を突き立てて硯の後を追う。
その一体に倣うようにして、他の影たちも動きを見せた。
「ココココココ殺゙ずススススススウウウウアウウアウウ!!!!!!」
先陣を切った影は、2階の踊り場へ、轟音をたてて両手をつき、着地した。
顔を上げ、身体を捻りに捻って硯の姿を探す。
「ァァあ!!!??」
2階へ飛んだはずが、見当たらない存在に、影は警戒を一気に強くした。
ほんの些細な動きも見逃すまいと爪の鋭く尖った腕をビュン、ビュンと鞭のように使い、自身の周囲に張り巡らせながら、万物を近づけさせない。
警戒体制を張り詰めたまま、2階の廊下を進む。
「お前馬鹿だろ」
頭上。影が、反射的に顔を上げた瞬間。
「脳天ガラ空き」
機銃の発砲音が薄暗い廊下に響き渡り、影の体が無抵抗に、霧散して消えた。
他の影達は、ピクリとも動くことが出来ない。ただ、ある一点を見つめて立ち止まっていた。
「2」
天井からぶら下げられた、ペンダントライト。硯は、コードの部分が鉄の棒になっているタイプのそれに、足を巻き付け、仰け反るような体勢を取っていた。
「オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙!!!」
硯の姿を認めた影が、猿臂を伸ばして飛びかかった。
だが、硯は慌てる様子もない。コードに巻き付けていた片足を伸ばし、くるんと回って身体を起こした。するりと足を巻き付けて回転し、器用にペンダントライトのコードに巻きついてバランスを取る。と、おもむろに足を上げ、思い切り振り下ろした。
ガキン!金具が壊れる音がして、ソケットが真っ逆さまに落ちた。
「ッオ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙ッ!!??」
すぐ側まで迫っていた影に、真っ直ぐ落ちてきた大型の部品が直撃した。呻き声を上げて、地面に押さえつけられる。
「ア゙ア゙ア゙アア゙アッ!!!」
腕を伸ばしてソケットを退け、下敷きになった状態から抜け出す。──否、しようとした。
ふわりと天井から一直線に、広がった真っ青な髪を翻して、骨ばった身体が足を離した。
「どーこ行くのー」
ガッ、と落下の勢いをそのままに持ち上がりかけたソケットを踏みつけて、硯が笑った。
なかなかの高さがある位置から踏まれたことにより、影が口をバックリと開けて喚き散らした。致命傷にこそならねど、痛みはあるはずだ。
「3」
ガチャと金属音を連れて、硯は右手に握った拳銃を影の塊の眼球に押し当て、トリガーを引いた。ガァンッと、重い衝撃音が弾け、影が砂埃のように散る。硯を取り囲むように飛行していた影達が、ピクリとも動かない。否、動けないのだ。
そして、それを待つ硯ではなかった。
「来ないの?」
ゆら、と身体を揺らし、血の着いた頬を袖で乱雑に拭う。
腕を下ろせば、笑った形の唇が顕になった。
「抵抗しないなら死ぬけど。死にたいの?もしかして」
仄暗い深海のような、不気味な笑み。
被虐を享受する立場だったはずだ。ほんの数分前まで。だが今はどうだ。立場がまるで逆転している。
「あ゙ぁぁああああああああ!!!!!!」
影のうち1体が剥き出した眼球を血走らせて、両腕を伸ばし、硯へと飛び付いた。
「どうでもいいけど」
少年の手のひらの中で、黒洞洞としたリボルバーがくるり、と回る。硯の痩躯が揺れ、足がピン、と真上に上がる。そのまま迷わず直進してきた塊に、振り上げた足を叩き込んだ。
メギョ、と軋む音がして、丸い形の影が、ぐにょんと歪む。
「ギィアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
断末魔に顔色1つ変えず、足を離すと同時に、リボルバーの先を影の身体に突きつけ、躊躇いなく引き金を引いた。
ダァン!という破裂音に続いて、黒い塊が消えていく。
硯は、地面に付けていた足を軸に、ぐるん、とターンして背後に向き直った。背中から手を伸ばしていた影の瞳孔が開く。
「うっせぇよ」
ガコッ、と眼球に銃口を突き刺す。背中にある口がガパッと開き、音割れを引き起こす程の大声で喚いた。
「しー」
硯は、人差し指を唇にあて、にっこりと口の端を上げ、微笑む。空間を引き裂くような、派手な機銃の音が響き渡る。
「静かに」
硯がくるりと振り向けば、影がバッ、と離れる。こちらを睨みつけて、ガクガクと身体を震わせていた影が、カッ、と目を見開く。突然、ぐるん!とこちらに背を向け、3階への階段を猛スピードで駆け上がった。それを追うように、その場にいた影が、群れをなして身を翻した。
「あーあ。行っちゃった」
硯は肩を落とす。伏せた海の瞳で、逃げ回る影を見つめる。
に、と真っ赤な唇が、獰猛な笑みの形に歪んだ。
「逃がすかよ」
言うが早いか、硯は地面を蹴り、階段の手摺に飛び乗った。足を乗せると同時に再び手摺を蹴り、飛翔する。そして3階の階段の手摺を掴み、腕を曲げて身体を持ち上げ、3階の手摺へと飛び移った。そのまま手摺の上を駆け抜け、3階の廊下へ移る。
廊下へ飛び降り、顔を上げれば長い廊下を飛行しつつ遁逃する影の群れが見えた。
「見っけ」
硯が歯を見せて笑った。
ゆら、と身体を起こし、胸を反らし、弓を引くような姿勢で、拳銃を持つ。
「どこ行くの?」
瞳は伏せたまま、にたと笑った。
「喧嘩しよーぜ」
ピンと伸ばした銃口が火を噴く。窓ガラスをビリビリ言わせる音が遅れて聞こえる。
打ち出された弾丸は空気抵抗をものともせず、直進。1番後ろを逃げていた小さな影に被弾する。
だが、撃ち込まれたはずの影は、霧散することは無かった。
「ぎゃ、?きききき、ぁああ?」
塊は、痛みこそあれど消えない身体に、困惑したような声をあげる。失敗したのか、とニヤついた顔で硯を振り返り、──凍りついた。
硯は笑っていた。
口の端を釣り上げて、まるでとても愉快な喜劇のように、閉園後のピエロのように、クリスマスを過ぎたサンタのように、楽しそうに、悦楽に浸って、まるで、機械仕掛けの傀儡のように。
腕を曲げ、銃口を上に向けながら、もう片方の手で、指を伸ばした。
「琲」
声が音になるや否や、影の黒い球体から、パァンッという音とともに弾丸が弾き出た。
まるで発弾した直後のような勢いのまま、弾丸は身体を通り、前を逃遁していた影の塊の6匹の身体を、連続で貫通した。煙のように塊は消失する。
「ォ゙ァア゙アアア゙ア゙ア゙!?!!」
唐突に消えた同胞に、一体残された影が、困惑した語調で喃語を叫ぶ。
バッ、と顔を持ち上げて敵の姿を探した。
その瞬間。──視界を、“蒼”が充ちた。
「言ったろ」
気配は、感じなかった。瞬きの隙も与えず、刹那の間に、間合いを詰めてきた。影は動かない。否、動けない。
「ガラ空きなんだよ」
ドッと冷たい塊が、眼球に突きつけられる。押し込むような動きを見せたと思った瞬間には、真白の指が、──曲がった。
影の身体が霧散し、消え去る。雫が落ちるように、銃声の残音を響かせて、廊下が静寂へと落ちた。
「…………疲れた」
リボルバーを見つめ、ホルスターに戻す。しばらくその場に立ったまま、硯は足元を見つめた。
───助けてあげて
ゾゾゾッと背筋が震え上がる。思い出した緑の瞳。がらんどうの瞳孔のあの色が再び脳裏を過ぎる。ただそれだけで、嫌な汗が吹き出てくる。
「……くそ……」
ポリポリと首筋を掻き、身体を起こして歩き出す。ポケットから携帯を取り出して、予め登録された七瀬のボタンをタップした。
「あのさ、今送り届けた人の中に、灰原ヨタカって奴がいるんだけど」
『もしもしぐらい言えや』
冷静なツッコミを食らうが、硯はどうってことは無い。初対面の人からすれば無愛想極まりない七瀬の口調も、威圧感を感じさせる低音も、かれこれ5年ほど付き合いを重ねれば、さして気にならなくなるのだ。
「あいつ、当てられてる」
『まじ?』
「大まじ」
ヨタカが当てられてるのであれば、自分達の対応も自ずと決まってくる。
「あいつから辿れる。マークしといて」
『へーへー……はぁ、現役高校生の個人情報漁んのかぁ……』
そういう七瀬ではあるが、彼にリサーチを任せれば住所から携帯の検索履歴、1日のトイレ使用回数まで把握できる。
「申し訳ないなぁ」と繰り返しながらも楽しんでいるのは自明の理だった。
「それから、」
そこまで言って、硯は言葉を切った。ヨタカに感じた違和。それは、果たして言語化して伝わるのだろうか。彼からは、物怪の類の薄気味悪さは感じられなかった。
『硯さん?』
「……いや、なんでもない」
七瀬が調べるということは、後々彼とは顔を合わせるだろう。その時は、きっと曲輪も同行しているはずだ。
曲輪の頭脳は地球に存在する有象無象の中でも遥かに優れている。それが、彼に宛てがわれた商品だからだ。
彼さえいれば、ヨタカの不審な点を発見できる。その時まで待とう、と硯は意を固めた。
呆然。
ただ立ち尽くしていたヨタカは、たった今目前で起こった事実を、ただ顎を外さんばかりに開いて噛み砕けないまま享受した。否、それしか出来なかった。
消えた化け物の背後。夜闇を切り裂くように、黒光りする、日本では見慣れない、拳銃の口がこちらを向いていたからだ。
「20人目」
耳に手を当て、──恐らくトランシーバーか何かが繋がっているのだろう──無感動な声で呟く。
異質。
そう表現するのが相応しい。
どこからともなく現れ、平然と化け物を抹消した。それが、筋骨隆々とした勇ましい男ならまだしも、ヨタカの前に経つのは、痩躯を体現したような少年だ。それもヨタカと年齢はほぼ変わらないような。
チャックが沢山着いた、黒いジャンバーに真っ黒のスキニー。胸元まで下げたチャックから、白いタンクトップが見えている。その艶かしいまでの白磁は、夜光を浴びて更にその艶美を極めていた。
「ひとり?」
不意に投げかけられたテノールボイスに、ヨタカは縛りから解けたようにハッとした。
「ひとりか」
何も言わないヨタカに焦れたのかポリポリと頬を掻きながら自己完結させる。
真っ青な髪と同色の瞳が、夜闇の中で煌々として綺麗だった。
「山吹高の生徒だよね。他の子は?」
「あ、」
他の子、というワードに、ハッとしてヨタカは少年を見上げる。
「みんな、みんなあっちに逃げて、僕だけ、ここに」
たどたどしいながらも、どうにか身振り手振りで言葉をつなぐ。
少年はしばらく無表情のままぼうっとしていたが、話を聞くなり納得したように頷く。
「わかった。俺は、その子達を追いかけるから君は、」
「っ待って!」
階段を登りきり、ヨタカの横を通り過ぎながら、指で下を指した少年のうでを、ヨタカが掴む。
「僕も行く、」
「正気? やめとけ。多分、さっきの見ただろ。確実に何人か死んでる。おうち帰んな」
「駄目なんだ、先に行くよう言ったのは、僕だから、」
「大人しくしてて」
少年の碧眼がギロリ、こちらを睨んだ。一瞬怯んだヨタカの手を払い、片手に持っていた拳銃をクルクル指で遊ばせる。
恐らく無意識だろうその仕草に、ヨタカはきっと少年を睨んで言った。
「それに、鉄砲持ってるやつを、友達の所に行かせられるわけないだろ」
少年は盲点だったと言うように、目を瞬きさせる。黙ったまま手に持った拳銃をホルスターに仕舞った。
「人体に影響は無い」
「……拳銃持ってる人のこと、信じられない」
「国籍が違うから。俺は中国」
「……関係ないよね」
ああ言えばこう言うヨタカに、やや苛立った顔をしていた少年は、大きく肩を下げてみせた。
胸ポケットへと手を伸ばし、中から革製の手帳を取り出す。
パカリ、とガラケーのように開かれたそれは、刑事ドラマなんかでは見慣れたものだった。
ヨタカの目が開く。
「梔子硯。警察だ」
警察手帳。思わずゴクリとヨタカの喉がなる。
「俺はあれの対応を任されたの。化け物ハンターってこと。仕事させてくんない?」
気だるげな視線はそのままに、手帳をポケットに突っ込む。ボサと崩れた蒼髪の隙間から、射抜くような眼が覗いた。
眼力だけで足が竦んでしまいそうになる。深い深い深海の蒼を、そのまま眼球にしたような目だ。気を抜くと呑み込まれるような錯覚に陥る。
「お前、なに?」
「えぁ、俺は、かいばら、灰原ヨタカ、」
「そうじゃねぇよ」
意図が分からない問に、ヨタカは小首をかしげるばかりだ。硯と名乗った少年は、深淵の瞳を瞬いて、ふつと煮えた小さな明かりをこちらに向けた。
「お前、当てられてんぞ」
「は?」
ヨタカが、目を見開く。 その目が、さらに見開かれた。直後、口を大きく開けて怒鳴った。
「後ろ!!!!」
バッ、と蒼髪をたなびかせて、硯が背後を振り向く。
瞬きの直後、彼の痩躯がヨタカの後ろへと吹っ飛んだ。
「梔子さん!!」
「っぐ、ぅ、」
廊下の向こう側まで飛ばされ、背中を打ち付けたらしく、喉を晒して、苦しげな呻き声をあげる。額を切ったのか、真っ赤な液体が頬を伝った。
悲鳴をあげてヨタカが駆け寄る。硯が手を伸ばし、グイッ、とやや乱雑にヨタカの腕を引き、背後へと下がらせた。
「だ、大丈夫!? 血が、」
「下がれ、動くな、」
硯が見据える先には、ヨタカの脳裏に焼き付いた、あの女が這いつくばってそこにいた。椅子の下に張り付いて、ニタニタ笑っていた魑魅だ。引きずるほど長い髪の毛と、ぐしゃぐしゃになったワンピース。椅子の下で見た時は分からなかったが、手には大量の血が付着していた。眼球は片方が無いのか、真っ赤にえぐれた表皮が覗き、がらんどうで血塗れの穴がこちらを見ていた。
「ぁ、」
「ひ、ひひひひ、ひ」
ゆらり、と煙が立ち上るように身体を起こす女。それをカクカクと震える膝でもって、見つめる。
硯は依然としてその女の動向を捉えたままだ。
「よぉ。玉木陽子ちゃん」
硯の血の着いた花唇が開いた。耳慣れない言葉を口にすれば、彼の眼光が鋭く細ばまれる。
「ひひ、ひ」
女はせせら笑う。笑う。わらう。笑って、嗤って、直後、ずるんっと表情が消えた。黒目の部分が、限界まで小さくなり、白目に薄い血管が無数に張り付いていた。
女がゴキッと虐的な音を弾けさせ、首を傾げた。寸分の狂いもない、90度に曲がったその異様さと異音に、ヨタカの背筋を、言語化し難い恐怖が駆ける。
「そう、そう、貴方は、うふふ、知ってるわ、知ってる、だって、私、うふふ、私の、恋人から、聞いた、ものね、あなた、あなあな、あなたは、知ってるわ、あああなたのこと、知ってる」
言葉では笑っているのに、その顔は全く動かない。唇だけで笑う様は、不気味以外言いようがない。
(タマキヨウコ?)
ヨタカがその言葉を反芻する。
不意に硯が口を開いた。
「同級生殺して楽しかったか?」
「え」
反射的に硯を見る。硯は何も言わず、女の化け物を凝視しているだけだ。
「ころした、って」
「誰かにそそのかされて、怪具を使って同級生を殺したんだよ。“バスタブで足を滑らせて死ぬ”なんて目立たない呪いでな」
思わず問い返したヨタカに、硯はこちらを見ずに答える。
ヨタカは『玉木陽子』らしい女を見る。
地面をするほど長い髪に、色白なんて言葉では表しきれないほど白い顔。唇は真っ青なのに、目は充血している。そして先程からまったく焦点が合っていない。
これが人間?
ヨタカの喉がきゅ、と細ばまった。
「“怪具”はどこに置いた。誰に渡した」
「うふふふふふふ」
「……お前に怪具を売ったやつはどこだ」
「あたし、あなた嫌いだわぁ、ああああなた、とてもとととととても、きき、たないいい汚いものののの、のの、」
ギョロッと女の顔が揺れる。硯は会話の不明瞭さに、眉間にシワを寄せる。
(ここで、やり合うのは得策じゃない。最悪のパターンは、一般人を巻き込むこと。)
人質に取られでもしたら、と硯はヨタカを横目に見た。
(外傷は見られない。逃げてもらうしかないか)
硯はベルトに手を伸ばす。備え付けられたホルスターの横のシースから、苦無を取り出す。曲輪が持っていた物と同じだった。
「え」
困惑するヨタカに見向きすることなく、硯が地面にそれを突きつける。苦無は、前時と同じように、物理法則を無視して地面に沈んだ。
「っ、」
ヨタカの顔が驚愕に染まる。
「侮るなかれ、人の名を。恐れるなかれ、神の目を」
硯の花唇が揺れた。沈んだ苦無から、文字が溶けだす。それを愕然とした面持ちで見つめていたヨタカは、口を開けて硯を見る。
ギョッ、とした顔になって叫んだ。
「羽うさ、」
「梔子さん!!」
苦無の沈んでいた地面が、鋭く速い何かによって、タイルごと抉り取られた。2人が目を見開くよりも速く、苦無が柄の部分に当たって柄を破壊。そして弾けるようにしてタイルの上を滑った。
それに反応仕切るよりも速く、硯の足が強く引かれた。そのまま引き摺るようにして身体が振り上がると、そのまま窓ガラスに打ち付けられた。
硯の苦汁に満ちた呻き声が、響き渡る。そしてその勢いを殺さないまま、振り払うように地面に叩きつけられた。
「お前っ、!!」
女を振り返ろうとした矢先、鼻頭を掠めて鋭利な生き物が、文字通り目にも止まらぬ速さで通り過ぎた。足元に目をやれば、生き物のように蠢く影がある。
「か、げ」
影だ。ヨタカの足元に伸びた影が、まるで自我を持ったようにうねうねと身をくねらせている。それはやがて、ビィィン、とヨタカの姿を型どっていた形を変え、女の足元へと伸びた。
「ひっ、」
ヨタカが思わず足を引くと、元からそこには無かったように、ヨタカの影が女の所へ真っ直ぐ進み、どぷん、と女の影と重なって溶けた。
ヨタカの足元の影は、無くなっている。
「ぁ、」
「う、ふふふ、ふふふ」
女の地を這うような、耳につく笑い声が、廊下を反響して響いた。
「私、私わたし、あなたああああなたのことは、知らししししししらないわわわわわわわわわわ、?、?だだだだだ誰、かしら?」
ギョロ、と剥きでた眼球が、ヨタカの動きに合わせて左右する。
口調は歌うように、楽しそうに滑るのに、その顔はピクリとも笑っていない。表面と内面で、全く違う人間がいるような面妖さにたじろぐ。
「きみは、」
ヨタカの喉を、ガサガサの声が通り抜けていく。ガクガクと震える足と、揺れる視界で、めいっぱい声を張った。
「君は、なに?」
返事はない。応答も、反応もない。まるでミュートにしたような、不気味な沈黙が、廊下を端から塗りつぶしていく。
影が、静かに揺れた。
「っわ、!!」
突如、足を掴まれた感触があって、視界が下がる。腰がタイル張りの床に打ち付けられて、激痛が身体中に走った。
咄嗟に足に目をやろうとすると、尻餅をついたヨタカの頭上を掠めるようにして、目にも止まらない速さの黒い“何か”が通り過ぎていった。
「さがってろ、ばか!!」
ヨタカの足を掴んで引き摺り倒した硯は、腕に刺さったガラス片を抜き、地面へと放る。
真っ赤な轍が引かれる白磁に、ヨタカは震える身体で、立ち上がる硯を見ることしか出来なかった。
「あはははははは、なかなかかかかなかかかか仲が、わわわわわ悪いのね?、ねね、?、駄目、よよよよよよよよよよよよ?、よよ?仲良くくくくくくくくくくくくくくくしないとととととととととととと」
「生憎、今あったばっかなんで」
女の背後に、煙のように影が立ち上る。うごうご、と蛇のような伸縮を繰り返すそれは、次第にダマのようになって、ブチブチちぎれ始めた。
「うふふふふふふふふふふふふふふ、あなた、ああああああなた、バババババババババ“バグ”ググググググののののののの、ががががガキききよね?、」
(バグ?)
要領を得ない単語に、ヨタカが伺うように硯を見る。
作り物じみた美しい顔が、まるで彫刻のような非現実的な形になっていることに気がついた。
表情という表情が抜け落ち、まるで面でも付けているような不気味な無表情。
「おい」
硯の声が、反響する。
低い、深い、喉を震わせる音が、ビリビリとした緊迫感を連れて、鼓膜を叩き、女を鋭く睨めつけた。
「それ誰に聞いた?」
にた、と女の唇が歪む。
その瞬間を待っていたように、背後の分離した影に、眼球が浮かび上がった。
「さぁ、忘れ、チャっだぁ」
───風が吹いた。
その瞬間には、目前に眼球があった。
「ぁがっ!!」
体当たりのように、横側から打ち付けられ、すぐ側にあった壁にめり込む。
身体の奥底から響いてくるような鈍痛と同時に、打ち付けた顔全体が焼けたように熱い。その直後、ガっ、と頭を鷲掴まれ、壁に思い切り打ち付けられ、視界がスパークする。
「ヨタカ!!」
硯が駆け寄ろうと振り返ったのがわかる。追うように女の甲高い笑い声が耳を劈く。
硯は、後ろ目のボロボロと焦点の合わない視界で、声のした方を見れば、踊るように揺れる黒髪と、逃げる女の背が見えた。
「っ、待て!!」
硯の足がたたらを踏む。女はその一瞬を逃さず、狂ったように高笑いを響かせ、踊り場の窓ガラスから身を投じ、逃げ果せた。
パリィン、と硬質な音が鼓膜を叩き、遮るものが無くなった月光が、遠慮なく廊下を照らす。
「チッ」
硯が舌を打つ。それは、判断を迷った自分自身に対する苛立ちだ。身を低くして苦無の落ちている場所へと走る。柄の無くなったそれを、ヨタカに群がる影の塊に向けて、思い切り投げつけた。
ドスッと鈍い音を立てて刺さった苦無に、影が怯んだ。その一瞬を狙って踏み込む。手を伸ばして、ヨタカを抱き抱えて離れる。
そのまま走り抜け、廊下の曲がり角まで駆けた。
彼の顔に手を添え、ペチペチ、と軽く叩く。
「起きて、起きて。俺がわかる?」
「くちなしさん、?」
「良かった」
打ち付けた額から血を流したヨタカは、瞼の上を切ったらしく、片目を閉じたまま、ぱち、ぱち、と硯を見上げた。
意識はある。だが身体を打ったからか、動きが鈍い。決して浅い怪我では無いことは確かだ。骨が折れていないことを祈ることしか出来ない自分が歯がゆい。
硯は身を捩って、角から先程の化け物を見た。
影の塊の化け物は、ぶよぶよと生き物のようにその場に上下に浮遊している。バランスボールほどある眼球と、色んなところにつけられた唇。真っ赤なそれらが、ゲラゲラと真夏の蝉のように喚いている。
恐らく、硯たちの場所を分かっていて動かないのだろう。舐めプ、というやつだ。腹立たしい。
(動きは少ない。群れるタイプだな)
硯は思考を巡らせる。
(羽菟は、詠唱が不完全だった。しかも譜のあった床ごとやられてる。2度目の顕現は出来ないな。
でも、一般人庇いながらこの数を相手するのは流石にキツイ)
パッと見ただけでも、ぶよぶよの影の塊は数十体いる。オマケに、その塊のほとんどが、ぶちぶちと自分たちで分離たり、反対に合体したりとその数は計り知れない。だが攻撃は単純だ。その身体を生かした、タックルと高速での移動。それから、ヨタカにやった、腕を生やすこと。腕は、1度生成させてしまえば引っ込めることはないらしい。化け物の中で、腕を引っ込めている奴は居ない。生成のタイミングにさえ気をつけていれば、十分よけられるはずだ。
(……5、いや、2分でいい)
硯の指が、ホルスターの拳銃に触れる。
(30秒でヨタカを離線、2分で全員殺す)
決断とほぼ同時、ヨタカの肩を掴んだ。
「お前は先に外に出ろ。ここにいたら、この怪我だけじゃ済まなくなる、てゆーか死ぬ。お前は確実に死ぬ」
重々しい語調と血走った眼も相まって、その言葉は硯にとっては善意に満ちたアドバイスだったが、ヨタカからしたら鬼子母神も裸足で逃げ出す脅しに相違なかった。
(羽菟が使えないのが痛い)
だが、硯はそれに気づかないまま考える。
羽菟が使えない。ならば今は、自力で逃げもらうしかない。
「よく聞いて、今からお前を外に送る。ちょっと危険かもしれないけど、死ぬより七瀬って割り切れ。他のことは考えるな。いいな?」
他のことは考えるな。そのフレーズを聞いた瞬間、ヨタカの瞳が、大きく見開かれた。
硯はヨタカの変化に気づかないまま、顎に手を当てて思案する。
(どうしようか。何か効果的な方法を、)
ガクッと見ているもの全てが下にさがった。腕が痛い。見れば、ヨタカが俯いた状態で、硯の腕を掴んでいた。骨ばった指の先が、白んでいる。硯の細腕が軋むほどの力だ。
単純に加減のない力に、硯は思わず顔を顰めた。
「おい、痛、」
「待って」
ぎゅ、と持ち上がった深緑の瞳に、硯は背筋がザァッと冷えた。
何が自分をそうさせているのか分からない。ただ、ただ真底から迫り上がるような、粟立つような不気味な感覚。それが、根源も知らずに吹き出てくる。
ヨタカの額からは、まだ血が流れている。真っ赤な血。留まることを知らず、だらだらと流れる真紅は、場馴れしない一般人には刺激が強いはずだ。ショック死なんてものもあるのだから。
なのに、どうして。
「 友達がいる 」
押し出すような声だった。
だが最早内容などは、硯に届いていなかった。
硯の意識は、ただ一点にのみ向けられていたからだ。
真緑の瞳。光の無い、ぼっかりと抜け落ちただけのような、底なしの大穴が、こちらを飲み込もうと開いている。
瞳が、声が、雰囲気が、すべてが、先程までのヨタカとはかけ離れていた。
「 向こうにいるんだ 」
ヨタカの手が、硯の顔を両手で包んだ。
瞬間、ゾワッと速度を上げて湧き上がるような怖気が身体を蝕む。硯の背中に、表面張力が決壊したように冷たい汗が溢れた。
死人が触れたのかと思った。
それほどヨタカの手は冷たかった。
「 助けてあげて 」
目を合わせるな。
かつてない心臓の拍動の最中、チカチカ点滅する役立ずの脳味噌が絞り出した最適解。それは、恐らく一般人に抱くはずのない選択肢だった。
己は拳銃を持っている。対してヨタカは丸腰だ。
ならば、どうして?
どうして、“恐怖”によく似た、“恐怖”よりもずっとおぞ七瀬い感覚がする?
もっと、恐怖よりもずっと、煮立つような、湧き出るような、毒を毒と知らず飲み込むような、星のない真夜中の海のような、電灯のない森の奥深くのような、誰もいない病室のような、ずっと潜在的な、動物的な、言葉が現れないような、身の毛がよだつような、それが。
「お願い」
ずるり、と手が滑り落ちるようにして離れた。
知らないうちに、硯はべっしょりと汗をかいていた。気分が悪くなるほどの心臓の拍動による冷や汗だ。硯は、今ほど上着の下が薄着であることを良かったと思うことは無かった。
ザワザワとした感覚が、鳥肌となって身体に痕を残している。
離れた手の持ち主を、未だに愕然とした瞳で見据えた。
「……梔子さん。お願いします」
そこにいるのは、紛れもないヨタカだ。灰原ヨタカただ1人。なんの反応も返さない硯を、伺うように長身の身体を折り、黒髪より少し明るい茶髪が、血で額に張り付いている。怪我をしていることは変わらない。顔色が悪い。貧血だろうか。
何も変わらない。なんてことない。ただの一般人だ。
「…………まか、せて」
だと言うのに、硯の声は、未だかつて無いほど震えていた。知らず止めていた息が、言葉を押し切ると同時にハァッ、と流れていく。酸素不足でチカチカする視界と、額に浮かんだ汗。どちらも、今まで経験したことのないような緊迫感を伴っていた。
影が揺らめく。気がつけば、硯たちを取り囲むようにして、影の塊が浮遊していた。
と。ブーッ、と携帯が震える音がして、2人の間を裂いて通る。
硯は手汗でぐっしょり濡れた手のひらで、辛うじて携帯を掴み、パスワードを外す。そこには、硯が見慣れた名前と、受話器のマークが踊っていた。
「曲輪くん……」
硯はちら、と影の塊を見る。次に、無言のままヨタカを見た。
携帯の画面を叩きつけるようにタップし、ヨタカに向き直る。
そして、バッ、と両手を広げた。恐怖に染まっていたヨタカの目が、点になる。
「ヨタカ。来い」
「どこに、」
「良いから!!」
ヨタカは硯の意図の伺い知れない行動に、半涙目で従う。同じように手を広げ、抱きしめるようにして硯の身体に手を回した。硯もヨタカに手を回したので、2人は抱き合うような形になる。
ヨタカが呆然とした顔で「彼女もいたことないのに……」と呟くのを聞き流し、硯は低い声で言った。
「暴れたら確実に首折る」
「オーマイガー……」
「暴れなくても最悪死ぬ」
「パワハラ上司でももう少しマトモなこと言う」
「じっとしてたら、折るのは腕だけで済む」
「折るという行為を避けるための努力をしようよ」
途端、ヨタカの視界がガクンっとぶれた。ぱちぱち、と数回瞬きを繰り返してようやく、見える景色が普段より上がっていることに気づいた。膝裏と背中に腕の感触があって、足裏に地面の感覚を感じない。
俵担ぎ。その言葉がしっくりくるだろう。ヨタカより格段小さい硯が、平然とした顔でヨタカの身体を米俵が如く担ぎあげている。
怪我をしている部位は触れないような持ち方ではある。そんな気遣い要らねぇよ!とヨタカは強く思った。
「え」
「良い?」
「なにが!?」
硯がヨタカを担いだまま、影の塊の間を器用にすり抜けた。
人をひとり抱えているとは思えない速度で廊下を駆ける。そして、階段まで来ると、まるでその先にも地面があるように、躊躇なく足を踏み込んだ。
「っあ゙」
死ぬ。
五臓六腑が数センチずり上がるような感覚があって、ヨタカの顔から表情が抜けた。来たる衝撃に備えて、目を固く閉ざす。
「死なせないってば」
呆れたような笑いを含んだ声がして、ガンッ、と何かを踏みつける音が響いた。その揺れに目を見開く。
視界いっぱいに、青が映り込んできた。
「ぁ、」
硯の足が、階段の手すりを蹴り、物理法則をまるで無視して跳躍する。先程の踏みつける音はあれか、とぼんやりした頭で考えた。
硯の足が、割れた窓ガラスの縁にかかる。もう片方の足を振り、残っていたガラス片を全壊させた。着地直後、一瞬、グラりと傾いたが、上の柵をガッ、と掴んだので、事なきを得る。
ちなみにこれは、ヨタカがいることを理解しての行動である。般若武人が過ぎる!!とヨタカは歯をギリギリ言わせた。
「なぁ、ヨタカ」
「はぁい」
最早ヨタカは硯の一言動にさえ懐疑するようになっていた。ありえないことが連続すると、人間は学習するのである。
「死んだらごめんな」
「は?」
さっきと言ってること違───
そこまでは思った。というのも、そこからは続かなかったのだ。心の中の言葉さえもせき止められる事態が起こったから、である。
背中と首に手が回され、ぐるん、と世界が回転した。
「え?」
目に映る光景が、早すぎて何が起こっているのか理解出来ない。
唯一わかったのは、自分がマット運動の後転のような格好で、窓の向こう側に投げ出されたということだけだった。
夜風が吹き抜けて、「あ」と思う間に身体を支える手と、背中に押し付けられていたレールの感覚が消えた。
眼界を、逆さまの街が満たす。頭から落ちているからだ。
風が頬を叩く。街の灯りがバチバチと目に突き刺さる。
右手と左手が、右足と左足が、バラバラになって、別の生き物のようにのたうち回る。それはヨタカの意識からは外れた行動で、人は死ぬ時、案外最後まで足掻くのか、と冷めた頭で思った。
(走馬灯って、嘘だっんだ)
逆さまの夜ばかりを映す瞳に、そう思った。
突如、身体全体が、毛玉に抱きしめられたような、柔らかい感覚に包まれる。
「マジで、信頼って言葉便利だわぁ」
ほのかに感じる暖かさに、ぎゅ、と固く瞑った瞼を、そろそろ、と持ち上げた。
「それ言われりゃ全部許しちゃうもん。ねぇ?」
雪の中にいるのかと思った。それほど真っ白い毛に包まれていたからだ。手を動かさなくてもわかるフサフサ感と、その毛の下にある僅かな肉感。まるで、大きな兎───。
ヨタカがバッ、と顔を上げると、目に鋭く尖った槍先があった。
「ぁ」
「うちのエースが振り回しちゃってごめんねぇ。おやすみ」
刃先に僅かな電流が走る。額に触れた瞬間、ヨタカは大きく目を見開いて、次の瞬間、ガクっ、と力のすべてを抜いて持ち上げた頭を、再び落とした。
「ったくもー……有り得ねぇ……」
曲輪は気を失ったヨタカを抱き抱えて、3階の窓からこちらを見下ろす硯を見上げた。
ポケットから携帯を取り出し、“スピーカー”と表示された画面に口を近づけ、目は硯を見つめたまま言った。
「信頼関係にしては無茶するよ。タイミングしくってたらどうするつもりだったわけ?」
「外すわけないって確信してた。曲輪くんなら、ドンピシャでしょ?」
「…………信じらんねー。相当なトラウマだと思うけど」
「死なれるより七瀬」
曲輪が溜め息をつく。だが硯はまったく気にしていない様子だ。
「それよりも、」
「ん?」
「女が逃げた。あれ多分『客』だ」
「は!?逃げた!?」
「仕方なかったの」
硯は一気に大きくなった声量に顔を顰め、顔から携帯を遠ざけた。
「だからそいつを追って」
「お、追えって、どこにいるか分かんの?」
「知らない探して。あの状態じゃ、交通機関使うとかはまず無い。遠くには行けないはずなんだよ。フィジカルだけならだけど」
「それって、かなり無茶苦茶なのでは……?」
「ビルの中の子供は全員助ける。中の奴らは、全員殺す」
硯はこちらにゆったりと向かってくる影の塊を睨みながら、携帯に向かって言う。
「女が逃げたんなら、ビルにいる『怪異』は恐らく増えない。なら俺1人で十分。曲輪くんは女を探すのと、七瀬さんに着いてヨタカと残りの一般人を家まで送って」
「羽菟で、一応何人かは学校まで送ったよ」
「……なんで学校なんだよ」
「家知んないもん。グランドにぽいぽいって」
「…………まぁいいけど」
確かに、1人ひとりを家まで送り届けるのは重労働だろう。明日、朝一番に見つけた住民か職員かから、お灸を据えられるだろうが、自業自得ということにしておこう。
硯は窓に腰掛けて、ブラブラさせていた片足を持ち上げ、上がった膝に肘をついた。嘲るように、影の塊たちがうじゃうじゃ寄ってくる。
「…………じゃあ、そういうことで」
「ぶふ。めっちゃ疲れてんね。はぁーい、りょーかい」
ぶつ、と切れた画面を見つめ、小さく息を吐く。がっくん、と首を後ろへと下げ、喉を晒した。
それを諦念と取ったのか、影の声が、さらに高くなったのが分かる。
「疲れた」
掠れた声が絞りでる。
硯だって無傷ではない。所々に深い切り傷や、打撲痕が残っている。
だが、彼はまるで何も感じていないように平然と歩けた。否、無理していただけかもしれないが。
「2分」
もう一度、掠れた声で呟き、ぐい、と身体を持ち上げた。
ぎょろ、とラピスラズリが動く。
「2分で総滅。1分で捜索。一般人は見つけ次第保護。見つからなければ任務終了。帰る。絶対。帰る。寝る。寝てやる。決めた」
硯の目が見開かれる。と、同時に、窓を蹴り、こちらに向かっていた影の塊たちに向かって飛ぶ。ひらりと髪を翻して、飛び立った階段の1番上に両足をつけて着地した。
突如こちらに向かってきた少年に驚いたらしく、影の塊たちは一瞬下がった。だが、すぐにギャラギャラ笑いながら身を寄せてくる。
「よよよよよよよ弱あぁああああああいぃぃぃぃあよぉおおおおお?ぁ、あ、あ、?、??、」
下を向いて動かない硯に、影のうち、一体がズルンッと腕を生やして飛びかかる。
「アハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!」
大男の笑い声のような、耳障りな笑声を張り上げ、ボコボコッと膨れ上がった拳を振る。
ゴゥッと空を切り裂く音がして、真っ黒い拳が硯に触れた。
「1匹につき1秒じゃ足りないな。どうしよっか」
──はずだった。
拳を奮った影が、砂城に水をかけたように、ボロボロと頭から原型を無くしていく。物を燃やしたあとの黒灰のような、脆い塵となって、ザァアと霧散した。
その向こうには、銀に夜光する鉄の塊。それを持ち平然と立つ、青の塊。
「まずは1」
その言葉に、動きを止めていた影の塊がバッ、と後ろに下がる。その大きな眼球がバチリ、と瞬いた。だが、次第に冷静さを取り戻してきたらしい。かっと目を見開き、地面を振動させる程の喚き声を撒き散らして猛進してくる。
「仲間意識はあんのね」
硯は階段に背を向けたまま、ふわりと後方へ跳ぶ。階段を1回の飛躍で降りきると、そのまま踊り場を回って、走り出した。
「ドドドドドド止゙ま゙ままままままままままままたまれ゙エエエエエエエエエエ!!!!!」
「やーなこった」
逃げながらの余裕を示すように、ぐるっと走りながら回転し、ピラピラ両手を耳横に着けて振る。煽った後、また速度を落とさず逃げを打つ硯に、影の体にビキッ、と血管が浮き上がったのがわかった。
硯は自分の身体を使いこなし、階段の手摺を片手で掴むと、ひらりと飛び越え2階の踊り場へ跳び下りる。
「アアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」
影はその身体から、2本の腕を出し、爪を突き立てて硯の後を追う。
その一体に倣うようにして、他の影たちも動きを見せた。
「ココココココ殺゙ずススススススウウウウアウウアウウ!!!!!!」
先陣を切った影は、2階の踊り場へ、轟音をたてて両手をつき、着地した。
顔を上げ、身体を捻りに捻って硯の姿を探す。
「ァァあ!!!??」
2階へ飛んだはずが、見当たらない存在に、影は警戒を一気に強くした。
ほんの些細な動きも見逃すまいと爪の鋭く尖った腕をビュン、ビュンと鞭のように使い、自身の周囲に張り巡らせながら、万物を近づけさせない。
警戒体制を張り詰めたまま、2階の廊下を進む。
「お前馬鹿だろ」
頭上。影が、反射的に顔を上げた瞬間。
「脳天ガラ空き」
機銃の発砲音が薄暗い廊下に響き渡り、影の体が無抵抗に、霧散して消えた。
他の影達は、ピクリとも動くことが出来ない。ただ、ある一点を見つめて立ち止まっていた。
「2」
天井からぶら下げられた、ペンダントライト。硯は、コードの部分が鉄の棒になっているタイプのそれに、足を巻き付け、仰け反るような体勢を取っていた。
「オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙!!!」
硯の姿を認めた影が、猿臂を伸ばして飛びかかった。
だが、硯は慌てる様子もない。コードに巻き付けていた片足を伸ばし、くるんと回って身体を起こした。するりと足を巻き付けて回転し、器用にペンダントライトのコードに巻きついてバランスを取る。と、おもむろに足を上げ、思い切り振り下ろした。
ガキン!金具が壊れる音がして、ソケットが真っ逆さまに落ちた。
「ッオ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙ッ!!??」
すぐ側まで迫っていた影に、真っ直ぐ落ちてきた大型の部品が直撃した。呻き声を上げて、地面に押さえつけられる。
「ア゙ア゙ア゙アア゙アッ!!!」
腕を伸ばしてソケットを退け、下敷きになった状態から抜け出す。──否、しようとした。
ふわりと天井から一直線に、広がった真っ青な髪を翻して、骨ばった身体が足を離した。
「どーこ行くのー」
ガッ、と落下の勢いをそのままに持ち上がりかけたソケットを踏みつけて、硯が笑った。
なかなかの高さがある位置から踏まれたことにより、影が口をバックリと開けて喚き散らした。致命傷にこそならねど、痛みはあるはずだ。
「3」
ガチャと金属音を連れて、硯は右手に握った拳銃を影の塊の眼球に押し当て、トリガーを引いた。ガァンッと、重い衝撃音が弾け、影が砂埃のように散る。硯を取り囲むように飛行していた影達が、ピクリとも動かない。否、動けないのだ。
そして、それを待つ硯ではなかった。
「来ないの?」
ゆら、と身体を揺らし、血の着いた頬を袖で乱雑に拭う。
腕を下ろせば、笑った形の唇が顕になった。
「抵抗しないなら死ぬけど。死にたいの?もしかして」
仄暗い深海のような、不気味な笑み。
被虐を享受する立場だったはずだ。ほんの数分前まで。だが今はどうだ。立場がまるで逆転している。
「あ゙ぁぁああああああああ!!!!!!」
影のうち1体が剥き出した眼球を血走らせて、両腕を伸ばし、硯へと飛び付いた。
「どうでもいいけど」
少年の手のひらの中で、黒洞洞としたリボルバーがくるり、と回る。硯の痩躯が揺れ、足がピン、と真上に上がる。そのまま迷わず直進してきた塊に、振り上げた足を叩き込んだ。
メギョ、と軋む音がして、丸い形の影が、ぐにょんと歪む。
「ギィアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
断末魔に顔色1つ変えず、足を離すと同時に、リボルバーの先を影の身体に突きつけ、躊躇いなく引き金を引いた。
ダァン!という破裂音に続いて、黒い塊が消えていく。
硯は、地面に付けていた足を軸に、ぐるん、とターンして背後に向き直った。背中から手を伸ばしていた影の瞳孔が開く。
「うっせぇよ」
ガコッ、と眼球に銃口を突き刺す。背中にある口がガパッと開き、音割れを引き起こす程の大声で喚いた。
「しー」
硯は、人差し指を唇にあて、にっこりと口の端を上げ、微笑む。空間を引き裂くような、派手な機銃の音が響き渡る。
「静かに」
硯がくるりと振り向けば、影がバッ、と離れる。こちらを睨みつけて、ガクガクと身体を震わせていた影が、カッ、と目を見開く。突然、ぐるん!とこちらに背を向け、3階への階段を猛スピードで駆け上がった。それを追うように、その場にいた影が、群れをなして身を翻した。
「あーあ。行っちゃった」
硯は肩を落とす。伏せた海の瞳で、逃げ回る影を見つめる。
に、と真っ赤な唇が、獰猛な笑みの形に歪んだ。
「逃がすかよ」
言うが早いか、硯は地面を蹴り、階段の手摺に飛び乗った。足を乗せると同時に再び手摺を蹴り、飛翔する。そして3階の階段の手摺を掴み、腕を曲げて身体を持ち上げ、3階の手摺へと飛び移った。そのまま手摺の上を駆け抜け、3階の廊下へ移る。
廊下へ飛び降り、顔を上げれば長い廊下を飛行しつつ遁逃する影の群れが見えた。
「見っけ」
硯が歯を見せて笑った。
ゆら、と身体を起こし、胸を反らし、弓を引くような姿勢で、拳銃を持つ。
「どこ行くの?」
瞳は伏せたまま、にたと笑った。
「喧嘩しよーぜ」
ピンと伸ばした銃口が火を噴く。窓ガラスをビリビリ言わせる音が遅れて聞こえる。
打ち出された弾丸は空気抵抗をものともせず、直進。1番後ろを逃げていた小さな影に被弾する。
だが、撃ち込まれたはずの影は、霧散することは無かった。
「ぎゃ、?きききき、ぁああ?」
塊は、痛みこそあれど消えない身体に、困惑したような声をあげる。失敗したのか、とニヤついた顔で硯を振り返り、──凍りついた。
硯は笑っていた。
口の端を釣り上げて、まるでとても愉快な喜劇のように、閉園後のピエロのように、クリスマスを過ぎたサンタのように、楽しそうに、悦楽に浸って、まるで、機械仕掛けの傀儡のように。
腕を曲げ、銃口を上に向けながら、もう片方の手で、指を伸ばした。
「琲」
声が音になるや否や、影の黒い球体から、パァンッという音とともに弾丸が弾き出た。
まるで発弾した直後のような勢いのまま、弾丸は身体を通り、前を逃遁していた影の塊の6匹の身体を、連続で貫通した。煙のように塊は消失する。
「ォ゙ァア゙アアア゙ア゙ア゙!?!!」
唐突に消えた同胞に、一体残された影が、困惑した語調で喃語を叫ぶ。
バッ、と顔を持ち上げて敵の姿を探した。
その瞬間。──視界を、“蒼”が充ちた。
「言ったろ」
気配は、感じなかった。瞬きの隙も与えず、刹那の間に、間合いを詰めてきた。影は動かない。否、動けない。
「ガラ空きなんだよ」
ドッと冷たい塊が、眼球に突きつけられる。押し込むような動きを見せたと思った瞬間には、真白の指が、──曲がった。
影の身体が霧散し、消え去る。雫が落ちるように、銃声の残音を響かせて、廊下が静寂へと落ちた。
「…………疲れた」
リボルバーを見つめ、ホルスターに戻す。しばらくその場に立ったまま、硯は足元を見つめた。
───助けてあげて
ゾゾゾッと背筋が震え上がる。思い出した緑の瞳。がらんどうの瞳孔のあの色が再び脳裏を過ぎる。ただそれだけで、嫌な汗が吹き出てくる。
「……くそ……」
ポリポリと首筋を掻き、身体を起こして歩き出す。ポケットから携帯を取り出して、予め登録された七瀬のボタンをタップした。
「あのさ、今送り届けた人の中に、灰原ヨタカって奴がいるんだけど」
『もしもしぐらい言えや』
冷静なツッコミを食らうが、硯はどうってことは無い。初対面の人からすれば無愛想極まりない七瀬の口調も、威圧感を感じさせる低音も、かれこれ5年ほど付き合いを重ねれば、さして気にならなくなるのだ。
「あいつ、当てられてる」
『まじ?』
「大まじ」
ヨタカが当てられてるのであれば、自分達の対応も自ずと決まってくる。
「あいつから辿れる。マークしといて」
『へーへー……はぁ、現役高校生の個人情報漁んのかぁ……』
そういう七瀬ではあるが、彼にリサーチを任せれば住所から携帯の検索履歴、1日のトイレ使用回数まで把握できる。
「申し訳ないなぁ」と繰り返しながらも楽しんでいるのは自明の理だった。
「それから、」
そこまで言って、硯は言葉を切った。ヨタカに感じた違和。それは、果たして言語化して伝わるのだろうか。彼からは、物怪の類の薄気味悪さは感じられなかった。
『硯さん?』
「……いや、なんでもない」
七瀬が調べるということは、後々彼とは顔を合わせるだろう。その時は、きっと曲輪も同行しているはずだ。
曲輪の頭脳は地球に存在する有象無象の中でも遥かに優れている。それが、彼に宛てがわれた商品だからだ。
彼さえいれば、ヨタカの不審な点を発見できる。その時まで待とう、と硯は意を固めた。
