人を呪わば夜が明ける?

「いや、いや、」

 喉が上擦る。足が震える。
身体に机がのしかかった状態では、逃げるに逃げられない。
 少女は、ガタガタと揺れる肩を駆使して、身体を2ミリ、3ミリ単位でズラす。
 だが、そんな少女の献身を嘲笑うように、化け物の巨体が2歩、3歩と間を詰める。

「ぉ、母さん、おかあさん、」

 ボロボロ、と大粒の涙が、少女の瞳から転げ落ちる。
 震えた足は、もう使い物にならない。

「たす、けて」

 化け物の単眼が、ひた、と細ばむ。だが、不意にその眼球が、窓の外へと動いた。
 少女がそちらを振り向く前に、パリンッ!と硬質な硝子が弾け飛ぶ音が鼓膜を突いた。

「おっ、はっけーん」

 ガラガラと破片が落下し、騒々しい音を立て散らす。そのどこからか、間延びした声が聞こえた。少女が顔を上げるのと目の前の化け物が横にぶっ飛ぶのは、ほぼ同時だった。
 急激にぶつかった壁が振動し、山積みになっていた椅子が騒音をたてて崩れ落ちる。

「ぁああああああ!?!!」

 反対側の壁まで飛ばされた化け物は、椅子の下敷になって、悲鳴とも呼べない大声を発した。

「ぁ、」
「大丈夫?」

 気がつけば、目の前に少年がしゃがみこんでいた。
 サラサラの茶髪を捲りあげ、白い額が見えている。王子様のごとく膝を立てた、敬うような形をとり、少女の顔を穏やかな笑みを湛えて見つめていた。
 それが、言葉の通じる人間だと理解した瞬間、少女は腕を全力で伸ばして声を張った。

「た、たすけて、!!」
「おけーい!」

 2人の温度差は、グッピーだったら間違いなく死んでいる程にズレていた。少女の緊迫とした表面に、間髪入れず答えた少年は、これからサッカーでもして遊ぼうかなと言わんばかりの楽しげなものだったのだ。

「つーか、その為に来たんだからなにも心配しなくていいよ」

 ふっ、と相好を崩して、人好きのする笑みを更に深めた彼は、椅子の山から這い出てきた化け物へと目をやった。

「お嬢ちゃん。中国雑技団のモノマネできる?」
「で、出来ない、……」
「あれ。ジョークのつもりだったんだけど。笑ってくんないのね」

 どう反応するのが正解なのだろうか。 本気で困惑した顔を浮かべた彼女に視線を戻し、ポンッと頭を撫でる。

「まぁいいや。あ、俺は曲輪ね。覚えて欲、」
「お゛お゛お゛ぉぉ゛ぉぉぉ゛おお゛おお゛お」

 呻き声をあげながら、椅子の山を身体を起こすだけで吹き飛ばすと、化け物がその身体を再びこちらに向けた。

「ギィイイイイイイイ」

 皮のついたままの唇を捲り上げ、不揃いな歯を剥き出した。歯茎が完成していないらしく、真っ赤な血が滲んでいる。
先程ぶっ飛ばされたことによって、頭を打ったのか、顔とも言い難いような顔に青筋を浮かべ、曲輪を睨んだ。

 憤怒の視線を受けても、曲輪は怯むこともしない。むしろ、呆れたような顔を浮かべて肩をすくめる。

「あのね。いま自己紹介してたじゃーん?そういうのはね、」
「ガアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 曲輪の声を再び遮る絶叫。
 彼は煩わしげに耳に指を突っ込んだ。

「はぁ。ね、お嬢ちゃん」

 急に呼ばれて、少女は涙で潤んだ瞳を曲輪に向ける。彼はそれを困った顔で受け止めて、頭を撫でやった。

「何匹か持って来といて良かった。怖がらないでね」

 曲輪は腰を上げた。自然と化け物に背中を向ける形となったが、彼は全く気にした様子は無い。
 背筋粟立つ、緊迫とした空気というのも忘れて、少女はポカンと曲輪の仕草を見守ってしまう。緩慢な動作でポケットをあさる。間を置かず、「おおあった」パッと花の咲いたような笑顔を向ける。

「はい。あげる」

 曲輪が広げた手の中にあったのは、苦無だった。
 忍者が使っていたとされている、両面刃の飛び道具である。少女の記憶知識と異なっているところと言えば、苦無はなにか、禍々しい文字が大量に書かれた布に包まれている点だ。つまるところ、刃がしっかり隠れている。
 少女の「なんやねん」と言わんばかりの困惑の顔に気づいたのだろう。彼は、「あ、そっか。みんな知らないんだ」と呟き、「いっけね」と舌を出しながら少女に手渡した苦無を受け取った。

「怖がらないでね」

 再度念を押すように言ってから、彼は自身の指を苦無の下方の丸い穴に通した。勿論そこも布に覆われている。

「こーやって使うの」

 くるん。
 指を主軸にして、苦無を回す。ペン回しをするように、指先で弄ぶ。そうして苦無を指の上を滑らせると、刃先が下になるように手のひらに握った。流れるような動作で振り上げる。
 カンッ。
 苦無が、金属板を叩くような音をたてて地面に突き刺さった。曲輪は、ゆっくり突き刺した苦無から手を離した。

「…………え、」

 少女の目が大きく見開かれる。
曲輪の苦無は地面に当てられただけだ。決してタイル張りの床に突き刺したわけではない。そうするには、彼の先程の仕草では全く威力が足りないはずだ。
 
 だが、そんな物理法則を無視して、苦無は確かに地面に立っていた。
まるで地面に刺さっているように。ぴくりとも動かず、倒れず。

ぐぷ。

 瞬きの直後、苦無が地面に沈んだ。沼に落ちていくような音をたてて、その身をタイル張りの床に埋めていく。
 少女はあんぐりという表現がしっくりくるほどに口を開け、呆然とその光景を見た。
 苦無が完全に沈むと、禍々しさを放っていた布だけが残される。だが、それは無機物としてあるまじきことに、蛇のように自我を持ってうねうね動いていたのだ。
 少女の顔がみるみる青ざめる。咄嗟に少年の服の裾を掴んだが、少年は何やら長い物を持って化け物の動向を見つめていたので、その行為に気がつくことは無かった。
少年の唇が踊るように動く。

「侮るなかれ、人の名を。恐れるなかれ、神の目を。」

 その声に反応するかのように、急速に布がとぐろを巻いた。気がつけば、床に真っ赤な文字が染み出ている。恐らく現代の日本語では無い文字だ。それが、まるで意志を持った魚のように固い床の上を泳ぐ。
 そこからは劇的だった。気がつけば、その文字は緩やかな輪郭を捉え、確実に形を形成していく。
 少女は、自身の目に見えているものがなんなのか、理解しているはずなのに理解できない現状を、ただ口を開けて見つめた。

羽莵(ハネウサギ)

 そこにいるのは、兎だった。見紛うことなどないような、真っ白な毛並の兎だ。だが、強いて相違点をあげるのならば、ウサギの耳にあたる位置に、その兎は大きな羽を携えていた。
 ルビーのような真っ赤な丸い瞳に、少女の驚愕の顔が映り込んでいる。

「じゃあお嬢ちゃん」

 突然のことに目を白黒させていれば、不意に名前を呼ばれた。
 反射的に振り返る。
 少年が長物を持ち上げた。
 錫杖だ。お坊さんが持つイメージの強いそれを、自分たちとそう変わらない身丈の少年が持っている。しかも、その錫杖の下部分は、槍のように鋭利に尖ってこちらを見ている。その刃先にも、御札のような文字の書かれた布が巻かれてあった。
 と、なんの前触れもなく、その銛の先が少女の額に突きつけられた。

「え、」
「おやすみィ。良い夢を」

 トンッと軽く小突く程度の威力で、少年は手に握っていた其れを少女に突きつける。
 ポカン、とした顔の少女は、しばらく瞳を開けていたが、急に身体が揺れ始め、ガクッと膝を折った。

「最初っからこうすりゃ良かったのか。いやーうっかりうっかり」

 ペロ、と舌を出した少年に、鉄拳を食らわせる相棒は居ない。少年の軽薄な空気を喰うように、沈黙が部屋を満たした。

「羽莵ちゃん。頼んだぜぃ」

 少年の背後で、羽莵と呼ばれた兎が、ぐったりした少女を加え、ひらりと高く舞う。そのまま窓の外へと飛び出した。
 それを視線で追ってから、少年──曲輪は化け物に向き合う。

「はいはい待っててくれてあんがとね。パンピーもう居ねぇから、」

 曲輪は、柘榴色の唇を割って、歯を見せた。

「暴れてくれよ」

 化け物の身体の下方が、ボコボコっと膨らんだ。
 ブチブチブチッと筋肉の繊維がちぎれる音がして、そのぶくぶく膨らんだ巨体から、大きな足が飛び出した。

「おぉ」

 ダンッと生成した不気味なほど太い足を、地面にたたきつけ、二足歩行で立ち上がる。
 1つの眼球のみが浮き上がった顔と、斜めに付けられた唇の中から、動脈を裂いた際の血液で濡れた歯茎が覗いていた。

「きも」

 曲輪の手の中で、バトンのようにくるりと錫杖が回る。
 化け物が2本の足で地面を蹴った。ボンッと有り得ない音がして、タイル張りの床が凹む。

「あ゛ア゛アア゛アアア゛ア゛アア゛ーーーーーーーーーーゾソ゛ソ゛ゾぼほ゛ーーーーーーーーーー!!!!!!!」

 手が、曲輪を潰さんと伸びる。

「分不相応かなぁ」

 ひらり。
 踊るように身体を捻り、化け物の欧撃を躱した。
 メキメキメキッと音がして、振り向けば椅子がアルミのようにくしゃくしゃになっていた。
 巻き上がるホコリを纏う腕は、通常の人間の2、3倍の太さだ。所々青い筋が浮かんでいる。

「やっべー!!バケモンじゃーん!」

 あはっ。
 太い腕が椅子と机を片手づつに持って、曲輪へとぶん投げた。
 曲輪は大きくドアへと踏み込み、跳躍。ドアに備えられた上の窓のレールを掴み、雲梯の用法で身体を持ち上げる。
 小作りな体躯は、少年がその小さな窓から廊下へ逃走するのを安易に許した。

「たいさんたいさぁん〜」

 歌うように、鬼ごっこに興じる子供のように笑って、曲輪は廊下を走り抜ける。

「オッグウウウウエオオオオアアアアアアアアアアアア!!!!!!」

 ビキビキッ、とその胴体の至る位置に青筋が浮かぶ。
 化け物の身体は、その場から地面を蹴って跳躍し、会議室のドアをぶち壊した。
 耳が裂けるような騒音をたてて、ドアだったものが反対側の壁に沈む。
 それをものともせず、化け物は壁を蹴りながら曲輪との距離を縮めてくる。

「ギュアアアアアアアアアア!!!」

 化け物の甘皮まみれの唇がひん曲がった。笑っている。

(まじでキモイな)

 はは、と呆れたように笑った。壁に手をついて、速度をあげる。

「グルアアアぉあああああああああああぁぁぁ!!!!!!!!」

 化け物はたった一つの目を血走らせた。血塗れの身体が更に赤くなる。それは皮膚の色なのか、純粋な血液の色なのか分からない。

「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!!」

 喉をガラガラに枯らしたような声が迸る。化け物は目の前の小さな体躯へ、猿臂を伸ばした。だが、体に触れるというところで、それはカーブを綺麗に曲がって消えた。
 化け物は、その巨体を壁に叩きつけて角を曲がった。

「…………ぉ゛?」

 再び長く続く廊下。

 荒い息を繰り返す化け物に、生物の存在が無かった。ただ窓ガラスが透かした月明かりが、静静とタイル張りの床を照らしているだけである。
 角を曲がったはずの茶髪の少年が居ない。確かに曲がったはずだ。その背中を見た。だが、長く続く廊下に、その気配も背中も無い。ただひとつ、開け放たれた窓から、鼻につく夜の香りを連れて、風が吹き込んでいる。だがそれも、しばらくすれば止んだ。
 完全な静寂。

 ───パリン!!

 それが、一瞬の鋭音によって空気ごと壊された。
 バラバラッと雪崩のようにガラスの破片が降り注ぐ。鋭利なひとつひとつが、月光を浴びて宝石のようにも見えた。

「あっは!!」

 硝子の吹雪の中から、無邪気な子供の声が響いた。
 音源に目を向ける──よりも先に、化け物の眼球と胴体を繋ぐ、僅かな太さの血管を、赤錆色の先端が突き刺した。
 片手で鉄棒をするように身体を捻って室内に飛び込む。曲輪の手には赤く滲んだ錫杖が揺れていた。

「アアアぁあアアアあアあああああああアァぁ!!!!!!!」

 絶叫とも取れる音が、喉から絞り出される。正確に言えば、喉という器官は無いのだが。

「あははははは!!」

 笑い声。邪気の無い、年端もいかない子供のような、あどけない笑い声だ。だが、確かにそれは、嗤うと形容するのがふさわしい笑い方だった。
 子供の無邪気な狂気。純粋なまでに歪んだ、嘲笑にもとれる無邪気な笑声だった。
 眼球を槍で切り払った曲輪は、背中に錫杖を回し、満面の笑みで立つ。そこに先程少女に向けていた温厚さは、無い。

「目ぇ、見えなくなっちゃったねぇ」

 その声で、化け物の奥深くに沈んだ知性が動き、悟った。
 角を曲がった瞬間に、少年は窓の外へと飛び出したのだ。そして、化け物がこちらへと戻ってきた瞬間を狙って、化け物に最も近い窓を突き破って舞い戻った。角を曲がったのは、ほんの一瞬。距離もそう離れてはいなかった。化け物の一瞬の思考の隙を着いた、大胆かつ独創的な行動。曲がった瞬間に思いつき、実行したのだろうか。そうであれば判断が早すぎる。

「おい、日酔ってんなよ。萎えんだろ」

 シャラン、と錫杖の上に着いた装飾同士がぶつかって音を立てる。不敵な笑みを湛え、後ろ手に回した錫杖を頭上に持ち替えた。
 化け物はグググッと身体に力を込める。すると、ボコッと人間の顔が3つ、身体そのものに生えた。
 曲輪は片眉を顰め、舌を出す。

「きっも」

 曲輪の声は低い。喉の奥で話しているような深い声だ。
 化け物の巨体が揺れた。躊躇いなくこちらに踏み込み、彼の身体を横殴りした。
 曲輪は前方へと手を付き、前転の要領で避ける。低い体勢の曲輪に、もう1発化け物の拳がめり込んだ。
 彼の短躯がゴムまりのように吹き飛ぶ。ガンガンッ、と2、3回身体を壁に叩きつけて、呻き声をあげた。

「っで、……あ〜……威力すげぇな。口切れた」

 プッ、と地面に吐きつけた血液は、口内の惨劇を語るには充分過ぎる量だった。化け物は赤い血を見て、それはそれは嬉しそうに、ぶっとい手を打ち鳴らして喜ぶ。その反応を見た曲輪は、口の端の血痕を袖で雑に拭った。

「いーねー。いーよー。派手に暴れてちょーだい?」

 曲輪は芝居がかった仕草で両手を広げる。
 真っ赤な体液が、轍を引いて額から顔の輪郭をなぞった。

「お互い死ぬギリギリまでやろーよ。

ただし、」

 ゆらりと立ち上がり、錫杖を背中に回す。
 にた、と真っ赤な舌が蛇のように滑る。ねとりと自身の唇を舐め、曲輪はどこまでも無邪気に笑った。

 
「逃げんじゃねーぞ」

 
 化け物の跳躍。予備動作はほとんど無い。ほぼ地面を蹴ると同時に打ってきた。
棍棒のような腕がこちらに伸びる。
 曲輪は錫杖を鳴らして受けた。細いそれは、しっかりとその拳を止める。

「意外と耐久性あんのよ。知らんかった?」

 腕が引かれると同時に、横からきた殴打を、ブリッジのような体制で躱す。そのまま腕の力でジャンプし、壁と化け物のサンド状態から抜け出した。錫杖を持った腕を引き、化け物の胴体目掛けて投げつける。ドスッと深い音と血飛沫をあげて、化け物の腕に長い錫杖が突き刺さった。

「ギィィイイイイイアアアアアアアアアアア!!!!!」

 化け物の復活した視線が、錫杖を見た。深深と槍の部分が沈んでいる。
 腕を伸ばし、素早く錫杖を抜いた。

──瞬間。

 ゴッと強い衝撃が顎部分に加わり、顔がガクンと仰け反る。
 ギョロッと視線を下に落とせば、いつの間にか、身体のすぐ側に、足を振り上げた体勢の曲輪がいた。

 移動の気配は感じなかった。投擲の直後、刺さったエモノを抜く際、ほんの僅かではあるが隙が生じる。それを狙って潜り込んだのか。
 化け物はほぼ反射の勢いで地面を蹴って距離をとった。

「“お互い死ぬギリギリまで”、だよぉ」

 曲輪が言った。気付けば、腕に突き刺さった錫杖が、曲輪の手に握られている。彼の手の中で、ひゅんっと錫杖が回った。

 なんだ。

 なんだ、この化け物は。

 機能を放棄したはずの理性が言葉をひねり出す。なんともチープで、安っぽいホラー映画のような言葉だ。だが、恐ろしいほどに“合う”。
 化け物の背中を、つぅっと汗が伝う。それは、既に理性が乖離した当人には分かるはずもない現象だった。

「だから。止まってんじゃねーよ」

 反応が遅れた。ガッと、曲輪の手のひらの何倍もの太さがある腕を掴まれる。本能的恐怖で抵抗までにラグが出来てしまったからだ。曲輪の小作な手の大きさでは、化け物の腕を確実に掴むことは出来ない。

 だと、いうのに。

 理解する。それは脳に至る前の神経系全てが、確実に、着実に捉えている。目の前の、この人間は、“これ”には、腕に触れられた時点で、勝ち目はないと。
 曲輪は、固まったままの腕を基軸に引き寄せた。そしてガッと化け物の顔を躊躇無く踏みつける。化け物の唇から、呻き声があぶれた。

「根性、み、せ、ろ、よ!!!!」

 ぐっと掴んだ腕に力を込める。化け物の様々な色の眼球の中で、瞳孔がギョッと小さくなった。

 ブチブチブチッ!!

 腕の筋肉が切れる音。繊維のちぎれる音。そのどちらか、否どちらも。──曲輪は躊躇うことなく、化け物の腕を引きちぎった。

「ああああおおおおおおあおおおおあおああおあああおおおおおおお!!!!!!!!!!!」

 怒りの咆哮が、廊下の壁を叩いて叩いて響く。
 化け物の腕を手に持ったまま、曲輪は口角を釣り上げて笑っていた。

「いつまでも自分が“傷つける側”にいられると思ったら、大間違いなんだよ?自分に不利な状況なら、有利にしちゃえばいいんだから」

 にこ。無邪気な笑顔はそのままに、曲輪がボト、と、もいだ腕を落とす。床の上で、切れ口から赤細い管が何本か伸びている。その異様さといったら、花鳥風月を体現したような花畑の中で、猫の死骸を見つけた時と同じような感じだ。
 化け物は、顔にいくつも血管をむき出している。人間ならば、青筋を立てるという表現がぴったりくる顔だ。
 化け物が、曲輪の身体をドコンッとめり込むほどに強い力で突き飛ばす。両者は後方、前方へひらりと飛び、距離をとった。
 
「天変地異も劇場崩しも、全部やろうと思えば出来んだよ」

 獰猛な色を滲ませて、曲輪がせせら笑う。

「力がありながらそれを振るわないという行為は、英断ではなく怠慢だよ。
才能があるなら使うべきだ」
 
 にた、と真っ赤な唇が歪む。
 
「ただ体格差はどうにもなんないんだよねー俺、それだけは劣るんだよ。まぁ、短所を長所に変えられないなんて、怠惰の極みだと思ってるけど。そこんとこ、ど?お前もそれは同意?自虐が美しいって思想は日本人の象徴だね。日本人は揚げ足を取る。外国人は揚げ足を眺めるって言うじゃん。俺さぁその通りだと思うんだよ。空気で笑われてるってなにぃ?なにそれ知らない。美味しいの?って思うわけ。ほらぁ、日本人って結局は自意識過剰の集まりだからさぁ。なんていうか、結局皆ナルシストだよね。いやそれが悪いわけじゃないけど。変に受け身な体勢腹立たね?そこまで自分好きなら全力で表に出せよって気分。変に自分に酔って甘えてんじゃねーーよって。自虐ってなんの生産性もないっしょ?謙虚が美しいってなに?誰が言ったの?先人?先人が好きだねぇ日本人は。先人って言うなれば時代に置いてかれた人っしょ?てかめっちゃ話逸れたなー喉痛てぇ」

 ペラペラと饒舌に語る少年の頬には、先程の返り血が付着している。

「ほら、時間稼いでやったろ?さっさと腕治せよ。もっかい遊ぼーぜ」

 いつの間にか曲輪の手に渡っていた錫杖の刃先を向け、にた、と舌を浸してせせら笑う。

 楽しんでいる。愉しんでいるのだ。この男は。

「さっき約束したじゃん」

 ひゅんっと空を切って錫杖が回る。数メートル離れているはずの錫杖の刃先が、眼球のギリギリに突きつけられているような感覚がした。ビリビリ、背中を這い上がってくるような、本能的危機感。

「命削ってやろーよ。賭けるもんなしで、楽しめることなんてねーもん」

 ビュンッ。また、錫杖が空を切った。

 その音が鳴り終わるより先、否、それよりも早かったか。
 化け物がその場から跳躍した。だが、向かった先は、曲輪のいる方向では無い。
 真逆だ。
 逃走。
 化け物の極限まで開かれた瞳孔が、本当の狂気に触れた恐怖をありありと浮かびあげていた。

「え〜……ここで逃げるか?普通。ナポレオンも泣いてるね」

 はぁあ、と呆れたように溜息を着くと、曲輪は視線を床に投げた。
 そこには、真っ赤な液体を散らして床に鎮まる腕がある。

「だぁーかぁーらァー」

 苛立ったように語気を強めて、目を開く。両手に持っていた錫杖を、片手に持ち替えた。
 獰猛な笑みを浮かべて、錫杖を掲げる。弓を引くような体制にも見えた。
 しなやかな筋肉がついた腕が、ぶんっと振られる。流れるような手つきで、錫杖を離せば、一直線に槍が化け物の背中目掛けて空を切った。

「逃げんなって、言ったろーっが!!」

 パチン。
 化け物の背中を追うように、空いた方の手の指をクロスさせ、音を鳴らす。

「“千輪菊(センリンギク)”」

 バチバチバチっと視界がいっぺんにスパークする。
 大量のネズミが一斉に鳴き出したような音が夜の廊下に、響く。
 錫杖に、細い糸のような光が奔り、その細身の勢いを更に加速させた。
 電光石火の勢い。まさにその言葉がしっくりくるような速度で、長い廊下を錫杖が進み、ドスッと音をたてて化け物の片腕に突き刺さった。

「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッッ!!!!????!!」

 絶叫。
 正しくそう表すのが相応しいだろう。喉の奥から本気で絞り出したような声が、逃げを打っていた化け物から轟いた。

「“昇リ曲(ノボリキョク)”」

 曲輪の指が、パチンと軽い音をたてる。
 化け物のガッと見開かれていた瞳孔が、さらにさらに虹彩を小さくする。
 錫杖の突き刺さった化け物の腕が、内部から破裂した。パァンパン!と爆竹をいくつも打ち鳴らしたような音が、狭い廊下に鳴り響く。

「ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」

 化け物の動きが、完全に停止した。
 曲輪の短躯が地面を蹴る。明らかに人間離れした脚力で、軽々地面から離れると、天井の蛍光灯を掴み、更に飛行時間を伸ばす。ぐるん、と空中で一回転し、痛みに悶える化け物の、ガラ空きの背後を取った。

「おつかれさんふらわぁ」

 着地の衝撃を、そのまま錫杖を突き刺す勢いに使う。
 ドスッ、と深い音をたてて、化け物の中を、銛先が貫通した。
 ボロッ、と、砂で出来た人形のように、化け物の身体が崩れた。
 それは灰のように黒く、焼け跡のような臭いを残して、ザラザラと流れていく。
曲輪は何も言わず、無感情な瞳で、それを眺めていた。

 1分と経たずして、そこに残ったのは、不自然に錫杖を突き出した曲輪と、焼け焦げるような香りだけだった。

「嫌んなるね。この仕事は」

 おえ、と舌を出して、曲輪は溜息を着く。流れてきた髪で、横顔は見えない。

「あ。」

 曲輪は何かを思い出したように呟く。悪戯がバレた子供のように顰めた顔に、更にシワが寄った。

「出元、聞くの忘れてた……」

 
 
 
 
 
 

「ね、ねぇ、」

 ヨタカの数歩後ろを走る少女が、怖々とした声音で聞いた。

「アヤネ、どう、なっちゃうの?」

 誰も答えない。少女自身も、その問への明確な答えなど、期待してもいないだろう。
 分かりきった返答を聞き出すための問は愚問だ。この緊迫した状況下で、そんなことに時間をさく余裕などあるはずがない。

 そう、頭では理解しているのに。

 ヨタカは薄暗い3階の廊下を息を殺して歩きながら、唇を噛んだ。

 少女を置き去りにしてから、ヨタカちは屋上へと繋がる梯子を探して廊下を走っていた。外に出さえすれば、援護も見込めると踏んだのだ。

「ね、ねぇってば」
「うっせぇな!!ちったぁ黙れねぇのかよ!!」

 ぎゅ、と急ブレーキをかけた先頭の少年が、開いた瞳孔と血走った目で、意味の無い問いを繰り返す少女を振り返った。

「一目散に逃げたのお前だろーがっ! 自分だけ心配してます感だして責任逃れすんじゃねーよ!!」
「は!? そ、んなの、してないよ! そもそも、机飛ばしたのはあんたでしょ!? アヤネ、あんたの彼女じゃないの!?」
「今そんなの関係ねぇだろーが!!」

 少年は自身が叫ぶ音程と、毒気に当てられたのか、元々荒んでいた声を、さらに張り上げる。

「てかなんなんだよ! あんなの、いるなんて聞いてねーよ!!」

 少年の瞳で、水面が揺れる。
 恐怖からくる震えが彼の足を動かしていたのだろうか。そうでもしなければ、歩けない。

「お、落ち着いて」
「離せよ!!」

 ヨタカが憤る彼の肩を掴んだ。だが、それは逆効果だったらしい。振り払った手がぶんっと振られ、ヨタカは思わずよろけた。

「っと、とと、」
「よたかさん!!」

 高嶺の悲痛な声が響く。ヨタカは横から奪い取るようにして高嶺に支えられた。
 被害者であるヨタカよりも、高嶺の方がずっと顔色が悪い。

「よたかさん、大丈夫?」
「僕は平気だよ。当たってないし」

 激昂していた少年は、留まることなく怒鳴り散らしている。その勢いに押された少女は、見るのも悲愴な表情で泣き叫んだ。
 地獄絵図にも見えるその状況に、思わずヨタカは眉根を寄せる。

「……おく、じょう」

 攻められて俯いていた少女が呟いた。

「屋上から、逃げれないかな」

 屋上。確かに上にあがれば救助が待てる。下に火が回って、降りられない現状ならなおさら、上に避難するのは正しい選択だろう。幸いここは3階、最上階だ。梯子を探せば望みはある。
 怒鳴っていた少年が、顔をうっすら明るくした。

「じゃあ、梯子を探、」
「待っ、て」

 少年と言い合いをしていた少女が、怖々と呟く。

「もうすぐ明るくなるし、待ってようよ、音たてたくない」
「あ?」

 ぴき、と少年の額に青筋が浮かぶ。
 ヨタカともう1人の少女が青ざめた。

「正気か? 動かねーと死ぬんだよ!!」
「まだアヤネが死んだとは限んないでしょ!!?」
「あー!! もう知らねーよ!! 死にてぇならてめーで勝手に死ねよ!! 俺に迷惑かけんじゃねーよ!!」
「うるさいよ!! 静かにして!!」

 少年の大声にヒステリックに反応して、少女が叫ぶ。
 彼はその声にさらに苛立ったらしい。顔を真っ赤にして、手を振りあげた。
 ぶんっと躊躇いなく振り下ろされる腕に、少女が目を瞑った。

「それは、駄目」

 すんでのところで腕が止まっている。
 淡々とした口調で腕を握っているのは、ヨタカだった。
 緑色の瞳が、じっと諭すように少年を見ている。

「駄目だよ」

 ヨタカの無感動な言葉に、しばらく固まっていた少年は「チッ」と舌を打ち、腕を下げた。

「……屋上に行こう。ひとまず、それで、」

 ぐちゅり。

 ヨタカの言葉を遮ったのは、水をまとったような、粘着質な音だった。
 高嶺も、ヨタカも、残りの3人も、誰1人として動けない。
 “其れ”が何かを知っているからだ。
 “其れ”が現れた時、抵抗の術がないことも、すべてを、知っている。

「をををををををを?」

 階段の踊り場に立っているのは、大きな顔だった。顔面その物が生き物のように、大きな大きな顔。その口からは太い足が5本生えており、それが顔が歩くことを可能にしているらしい。

「い、いや、いや、」

 少女が突如怯え始めた。
 震える指が、“其れ”の口の端を指す。

「あ、ああ、あ、」

 口から生えた、足と足の隙間。そこに、ちらりと覗いている。真っ赤な何か。
 それが分からないほど、愚鈍では無い。

「ごごごごど?も???ごども?????????????」

 大きな顔に対して、小さな瞳がカッと見開かれた。

「ごぉどぉもぉををををををを!!!!!、、!!!!!ぐえば!!?!!くえばばばばば!!!!!!ぐえあはははははははははははははははははははははは!!、、!」

 少女が声にならない悲鳴をあげ、ぐらりと身体を傾けた。まさか、と振り返れば、地面に倒れ込んでいる。恐怖のあまり、気絶したらしい。少年たちがパニックになっているのが、手に振れるようにわかった。

「よたかさん、逃げます、よ、」

 高嶺が震えながら腕を掴んだ。ぐ、と引く手は、先程よりずっと弱い。

「…………高嶺くん。お願いがあるんだけど、いいかな」

 反して、ヨタカは静かに告げた。掴んでいる高嶺の腕を、やんわりと払い、きゅ、と指先を握る。

「よ、」
「彼女を連れて逃げて欲しい。上まで行ってお願い」

 自分の現状が分からないほど、馬鹿ではない。ヨタカ自身にも、痛いほどの死の気配が纏わり着いていると分かっていた。
それでも、頭のどこかは、凪いだ水面のように冷静だった。

「……お願い」

 高嶺の目が、どこまでも暗い色に染まる。やんわりと握っていた手を返し、痛いほどの力で握り締めてくる。

「やめてください。馬鹿なことだ、それは、」

 普段よりずっと言葉遣いが荒い。瞬きの回数が多くなっている。手にも汗が尋常じゃなく溢れている。焦っているのは明白だった。

「ごめんね」

 高嶺に微笑み、後ろの少年を見る。少年は、少女を抱え、逃げの体制をとっていた。良くも悪くも、合理的な人物なのだろう。それは時に非道にも映る。だが、その性質は、今のヨタカにとって、最も必要なものだった。知らなかったクラスメイトの一面を、こんな状況で知れるとは。

「ヨタカさん、逃げますよ。ヨタカさん!!」
「高嶺くん、お願い」

 ドンっとそこそこ強い力で突き飛ばした。元から体格のいい高嶺は、しかし相当焦っていたためか、簡単にふらつく。その瞬間、親に捨てられた子供のような顔を高嶺がするものだから、ヨタカは思わず顔を顰めた。
 突き飛ばされた先にいた少年が、高嶺の腕を強く掴み、引きずるようにして走り出した。

「ヨタカさん!!よたかさん!!」

 高嶺の声が響く。

「貴方は、貴方は、────!!」

 その先の声は、背後から思い切り殴られたことで聞こえなかった。
 ヨタカの顔面が真横に叩きつけられる。その直後、気がつけば階段を登りきっていた化け物の足が振り抜かれた。
 踏み潰すように蹴られた。それを理解した時には、既に鼻から真っ赤な液体が伝っていた。

「っぐ、」

 親指で拭った直後。顔にまた重圧がかかった。激痛が遅れてやってくる。
 ヨタカの細い身体は、化け物から随分離れた所まで、あっさり吹き飛ばされた。
 鼻梁に触れた時、違和を感じた。嫌な予感がして、そろぉとおっかなびっくりな仕草でそこを触る。

「ひ」

 鼻が、“く”の字に曲がっている。
 折れた。鼻の骨がしっかり折れている。
 ボタボタと止まらない血液に、頭がパニックになった。

ゆらり

 前方で化け物の身体が傾いた。

「ぐ、れる、?ぐぐぐく、ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ」

 唸るような声を響かせ、化け物がこちらへと踏み込んできた。
 それを脳が理解するよりも先に、化け物の巨体が、ヨタカの身体をさらに吹き飛ばす。
 鼻が痛い。痛い。涙が出る。それさえも恐怖を煽る。

「っ、」

 起き上がろうとついた手に、焼け焦げるような痛みが走った。
 そろそろ、とそちらを見れば、手首が真逆の方向に曲がっている。

「ぃ、」

 あまりにもグロテスクなそれに、悲鳴をあげ、顔を逸らす。
 すると、鼻先。もはや触れるような距離に、大きな大きな顔があった。

「あ」

 口が生えた足が、バタバタバタバタと囃し立てる。
 身体にそぐわない大きさの目が、にこぉ、と嘲笑うように笑う。

「あ」

死ぬ。

 それを、身体で理解した。

 ──────死ぬのは、嫌だ。

 ──────死にたくない。

 
 
 
 
 
 

 目がチカチカする。


 視界がスパークして、弾ける。


 音がする。


 目が焼ける。


 音がする。


 声が出た。


 音がする。

 
 
 


 じゅくじゅくと、“口”が、開いて、

 
 
 
 
 
 
 
「を??????」

 今にも大口を開けて、ヨタカを飲み込もうとしていた化け物の動きが止まる。
 目の前の少年が、動かない。
 恐怖のあまり気絶したのだろうか。そうも思ったが、それにしても動かない。
 まるで、死んでいるようだとさえ。

 ゆら。

 ヨタカが、顔を上げた。
 ああ、生きていた。
 化け物はニタリとほくそ笑む。生きたいと泣き叫ぶ餓鬼をぱくりと飲み込む。それが楽しくてたまらないのだ。化け物は、ゆるゆると持ち上がる顔が、瞳が、恐怖に染まるのを待った。

 パチリ。

 瞼に覆われた瞳が、開く。

 ────ゾワッ

 化け物の動きが止まった。否、化け物は動けなかった。
 まるで、幾多の鎖に身体を絡め取られたように、蜘蛛の巣に捕らわれた蝶のように、地球上すべての重力が、自分にのしかかっているかのように。
 その緑の瞳が、こちらを見ている。たったそれだけの事実に、化け物は動けなかった。

 何故。
 
 ────恐怖で、だ。

 
「、ぉ」

 
 押し出すようにまろびでた声は、もはや声として機能していない。そよ風にさえ押されるような、小さな音だった。

 ゆら

 ヨタカの身体が揺れる。ついていた手が、ゆっくりと動いた。
 化け物は飛び退き、ヨタカから距離をとる。地面に足をつけて、はっとした。距離をとったのは、ほぼ反射だったからだ。
意識の外の本能が、危険を告げている。
 ヨタカが立ち上がる。平然と手をついたその仕草に、化け物が目を剥いた。

 手首が、治っている。否、手首だけでない。折れていたはずの鼻も、治っている。
 どうして。なぜ。
 まるで、傷などハナからなかったように、元からそうだったとでも言うように、平然と、いつの間にか。

 ヨタカの顔が、上がる。

───眼が、化け物を見た。

 
「っぃ゛アアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!」
 

 恐怖を振り切るように、もはやそれをバネにするように、ヨタカへと化け物が飛びかかった。
 ありえないことにも、化け物の額に汗が滲んでいる。
 それに気づけた人物は、この場にはいなかったが。

 ヨタカが、腕を持ち上げた。かすり傷ひとつない、綺麗な腕を。
 パァンッ!と、硬質な破裂音が、夜闇を裂いた。