「どういう状況?」
窓の向こう側を、ひゅんひゅんと風景が過ぎていく。
時計の針が12を優に越している今、この田舎町に歩道を歩く人は少ない。
ぼんやりとサイドガラスをすり抜けていく夜の様子に目をやっていた青髪の青年は、視線はそこに固定したまま、ドライバーに声をかけた。
運転席に据わった、桔梗色の髪の青年がミラー越しに青年を見た。
「“怪異”の目撃情報があった場所に、この辺のガキ共が入り込んでるみたいやな。さすがにパンピー巻き込む訳にはいかんっちゅーはなし」
関西圏の訛りで話ながら、男は助手席に置いていた書類を雑に掴んだ。手を回して、背後の2人へと手渡す。
「“怪異”がいるってことは、」
「無論、“怪具”は確実。もしかしたら、“行商人”もいるかもな。回収されてたら話は別だけど」
青年の横に座った曲輪が、書類を眺めながら呟く。
月光の乏しい明かりでは、文字がぼやける。コンタクト買おうかなぁ、と呟くと、隣に座る青眼が怪訝そうな形に歪んだ。
「あのビルの所有者は、夫婦共々病院に運ばれた時点で重症やった。その後、家族の到着を待たずに死亡。警察は不審死って判断しとる」
「それで? 俺らエリィトの曲輪と硯コンビに泣きついてきたってわけ?」
曲輪は、“硯”と呼んだところで碧眼蒼髪の青年を指した。
エリィト、とネイティブっぽく発音したが、まるっと無視される。
「長いこと捕まらんかった怪異や。ここで叩く。あんま舐めプすんなや」
言い終わると同時に、車が止まった。
曲輪と硯が左右のドアから降りる。
あとを追うように運転席から、桔梗色の髪の男がふらふらと降りてきた。
着崩したスーツと、ジャラジャラのピアスで、どこのホストだと問いたくなる。
「サツが不審死っつー判断を下したなら、俺らの仕事は壊すだけや。その名に恥じることなかれ。仕事の時間やで」
手元のタブレットで何やら操作を始めた青年は、曲輪と硯に手を振る。
だが、一向に歩き出す気配のない彼らを胡乱げに見つめた。
「……おい」
「ねぇ七瀬さん」
硯が何の気なしに呟いた。
彼ら2人の視線は、話題にあった建物を凝視している。
「ここでガキが1人でも死んだら、警察との交渉って破綻すんの?」
硯が、ポケットに手を突っ込んだまま呟く。
細身の身体を覆う、やけにチャックの多い真っ黒なジャンバーの、腕部分に触れて、視線だけを寄越した。
「ま、こちらの信頼の無さには繋がるやろーな」
「えー! 最悪! 自業自得じゃん!!」
「曲輪くんうるさい」
こん、とノックするように低い位置の曲輪の頭を叩いて、硯は歩き出した。
「七瀬これ持ってて!」
液晶画面に視線を落としていた七瀬が、「は?」と顔を上げると、長筒の革袋がこちらに落ちてきていた。
「っと」とナイス反射神経でキャッチし、顔を顰める。
「しゃーっ!行こ!」
パチン、と髪を上げて、デコを出した曲輪が、悪戯っぽく歯を見せた。
「叩き壊す」
「っは、は、はぁ、は、」
手のひらを口に押し付けて、必死で呼吸を浅くする。だが、それを意識すればするほど息が荒くなっていくのが分かる。
ひゅ、ひゅ、と過呼吸のような音をたてて、ヨタカはぎゅうう、と身を小さくした。
視界に入った、椅子の下の女。その存在に気づいた彼らは、悲鳴と泣き声を一緒くたにして、郷土館室から飛び出て逃げた。
1階にあの化け物。郷土館室にあの女。逃げ道は3階の別の部屋以外無い。
ヨタカは、一目散に『会議室』のプレートがかかった部屋に飛び込んだのだ。
「なに、何よ、あれ」
「言ってる場合か!!ドアの前なんかで止めないと!!」
一緒に逃げ込んだ男子生徒1人と女子生徒3人人が、真っ青な顔で叫ぶ。その声に、前までの余裕はない。
ヨタカは、後ろでカタカタと唇を青くして震える高嶺の背中を摩った。
震える真ん丸の瞳が、水っぽくなっている。
「あれ、なんですか、あれ」
「わ、わかんない。でも、とにかくここから逃げないと、」
「っ、待って! 部屋出るんですか?!」
「下に降りなきゃ出られない、」
「窓、窓からは?」
「3階だから、」
「お前ら喋ってないで机寄越せよ!! 入られたらどうすんだよ!!」
高嶺との会話に、発案者の男子生徒は癇癪を起こして叫ぶ。
ヨタカ達が逃げ込んだ部屋は、会議室のための部屋だったらしく、長机やパイプ椅子などが積まれて置いてあった。
ヨタカは重たい腰を上げ、山積みの長机を1つ持ち上げる。
クラスメイトは、ヨタカの手元にあった机をやや乱雑に掴んで、ドア前に置いた。
バリケードのようなものを作って、6人で身を寄せあってしゃがみ込む。
全員の顔は真っ青を通り越して白い。むしろ、彼らの方が幽霊に見えた。
「あれ、なんなの? あれ、幽霊?」
「誰か、誰か携帯持ってねぇ?」
「持ってねぇよ、」
「静かにしてよ!! もし来たら、どうするの!」
ヨタカは隣に座る、肩を震わせた高嶺を見た。
どれほど日常生活がしっかりしていても、歳はヨタカよりもひとつ下だ。怖くないわけがない。巻き込んでしまった事実を思うと、ヨタカは恐怖よりも不安が勝ってしまった。
「高嶺く」
ドンッ。
重い音が廊下に響いた。それは、やけに大きく聞こえ、ビリビリと余韻を持って届く。
「き、た」
ガクガクガクと女子生徒が震え出す。口に手を置いたまま、揺れる肩を自分の腕で抱き込む。
しん、と静寂が室内を満たす。
ドクン、ドクンと蠢く心臓の音が、いやに耳につく。聞こえるはずもないのに殴って止めてやろうとさえ思った。そうでもしなければ気づかれる気がした。
「と゛こ゛ぉ゛お゛ぉ゛?」
低く、唸るような地を這うような声が、暗くて湿った廊下に木霊する。
目の前の女子生徒は、耳をこれでもかというほど抑え、ガタガタ身体を震わせた。
「て゛て゛ぉ゛い゛て゛ょぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛」
死にかけの翁のような、媚びた嫗のような、そんな不気味な声が反響して耳に届く。その度、鼓膜を通して、心の臓が舐めあげられるような薄気味悪さと、肺腑が揺さぶられるような恐ろしさが体内に侵食する。
ゴンゴン、と何かを叩きつけるような音が耳朶を打つ。プシュッ、ブシュッと、水が吹き出すような音も。
「ぐおぉぉぉぉぉぉお」
大柄な男の鼾のような声が廊下に轟いた。
先程までの嗄れた声とも少し違う、どこか“人間めいた”声に、全員の顔が白む。
ヨタカは、知っていた。
その音は、かなりの殴打を受けた時、人間が今際の際に発する、身体的な音であることを。
(だれか、しんだ?)
まずい。
恐怖を自覚した途端、ガクガクと身体が震え出す。先程まで唇を軽く噛むだけで耐えられていた体が、まるで自分のものでは無いように恐怖で支配されていく。
足先の感覚がない。服の下に、べっとりと汗をかいているのがわかる。汗をかくような季節でないにも関わらずだ。
ボンッと布団が床に落ちるような音が、階段の方からした。次いで、ズルル、ズルル、と何かを引きずるような音も響く。
しばらくすると、2階からドシャッとものを落とす音がした。
「……降りた?」
「…………2階から音したし、多分」
「………逃げる?」
誰も何も言わない。なにを生産するわけでもない沈黙が落ちる。
この建物から出ることが先決だ。それは満場一致の意見で、他に追随の意見など無いだろう。
「わ、わたしはやだ」
肩を一際震わせていた少女が、怯えた顔を埋めたまま言った。その声はか細く震えている。
「だって、だってあれがまだいるんだよ?無理。朝になったら助けが来るよ。誰かが絶対連絡してるってば。大人しくしてようよ。お願い」
言いながら彼女は、ぎゅううと強い力で服の裾を握りしめた。瞳には可哀想になるほど怯えの色を滲ませている。
「やだ、私動きたくない。」
怖い、こわい、と子供のように首を振る少女を、責めるものはない。否、責めないのは優しさからの行為ではない。今、この場にいる人間の中に、他者の心理状態を推し量る余裕のある人間がいないのだ。
ヨタカは、体操座りして組んだ腕を少しあげて、チラリと全員の顔を盗み見た。
怯え、後悔、混乱、不安。
負の言葉の連想ゲームをすれば、恐らくこの場にいる全員の感情は入っているのだろう。
顔色ひとつで分かってしまうのは、ヨタカが今まで人の色を伺って生きてきた証でもあり、極限状態の彼らは、顔にまで配慮する余裕がないからでもある。
「だれか、」
少女が、誰に言うまでもなく呟いた。
「たすけて」
ボトッ。
粘着質な何かが、上窓を通して投げ込まれた。床に当たった衝撃音と粘っこい音が重なって響く。
ばっ、と素早く音源を確認する。
「なに、あれ」
ありありと目に浮かぶ、赤黒い其れ。
ドクン、ドクン、と不気味なまでに規則的に動くそれ。どく、とこちらにまで届く音で動く度に、ぷしゅ、ぶしゅ、と真っ赤な液体を噴き出している。
──心臓だ。
「っひ、!!、」
その悲鳴は、ヨタカの喉奥から溢れ出たものだった。咄嗟に掴んだ高嶺の腕を、無遠慮に跡がつくほど握り締める。
──心臓の表面がボコッと膨れた。
それを理解する間もなく、動脈らしき管の表面を突き破って、ピンポン玉のような球体が薄い膜に包まれて出てきた。
(なんだよ。あれ)
薄い膜が、ドロドロと溶けていく。
球体の中に、虹彩が見えた。
──眼球だ。
理解した瞬間。
ブチブチブチッと繊維が千切れるような音がして、心臓の右心室と左心室辺りから、臓器に収めるには、明らかに大きすぎる腕が2本飛び出した。
1本は女のように細く、その手に指輪をはめている。もう1本は男のように太く、逞しく、筋骨隆々としており、他人からとったものを適当に取り付けたような、継ぎ接ぎで、不気味なそれ。
真っ赤な液体をその身に浴びた、それらは、地面を撫でるように、確かめるように動く。
まるで、この世に生まれ落ちたばかりの胎児のように。
「ぁ、あ、」
ヨタカたちは呆けたまま、動けない。
何が起こるっているのかを、脳が正しく理解していない。麻薬に侵されたように、身体が固まる。
かぱっ。
心臓が開いて、口が開いた。
眼球が、ぐるりと回って、子供達を捉える。
出来たばかりで、薄膜の張り付いた唇が、ぐにゅと三日月に歪んだ。
「みみみみみみみみみみみみみみつーーつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつーーーーけけけけけけけけけけけけーーけーーーーーーーーたたたたたたたたたーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
子供のような、大人のような、図太い声は、先程の化け物と同じものだった。
「いやあああああああああ!!!!!」
耳が割れんばかりに悲鳴をあげて、長机を蹴り飛ばして、我先にと逃げ出す。
ここに来て、何度目の逃走だろうか。どこに逃げればいいのかも分からないまま、がむしゃらに足を動かして、部屋から飛び出す。
「助けて!!!!!」
怒鳴るような絶叫が、ヨタカの髪を引いた。
振り返った先に、さっき可哀想なほど震えていた少女が、長机の下でこちらに手を伸ばしていた。
察するに、先程逃走の際蹴り飛ばした長机の、倒れた先に運悪く居合わせたのだろう。顔にあたったのか、鼻から血が出ている。
「ぁああああああああ」
枯れた声が、ヨタカの耳を劈く。少女は、声の方を向いて、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
「助けて!! お願い行かないで!!」
「ヨタカさん何してるんですか!!!」
いや、いや、とうわ言のように呟く女子生徒の視線は、もうこちらを見ていない。
目の前に迫り来る、化け物と以外形容できない存在しか目に入っていない。
(たすけないと、)
倒れ込むようにして足を出し、その部屋の敷居を踏む。
と、ぐんっと後ろに引っ張られた。
「何してんの!? 逃げるよ!!」
高嶺が腕を乱暴に掴んでいる。その形相は、いつもの穏やかな好青年の面影はない。眉間に寄せた皺と、骨が軋むほどに掴んまれた肩が痛い。
「たすけないと、」
「死にたいんですか!! 早く!!!」
払おうとした手を、高嶺に掴まれて、ほぼ引き摺られるようにして部屋から引き離される。
「あの子が、」
「ヨタカさん!! 早く!!」
ガクンッ、と視界がぶれた。高嶺が見たことない形相でこちらを睨みつけている。血走った目に硬直していれば、無配慮な力加減で腕を引かれた。
ガクガク震える足が、廊下を蹴って、化け物のいる部屋から離れる。
早鐘を打つ心臓が、震える指の先が、揺れる視界が、やけに歪んで見えた。
窓の向こう側を、ひゅんひゅんと風景が過ぎていく。
時計の針が12を優に越している今、この田舎町に歩道を歩く人は少ない。
ぼんやりとサイドガラスをすり抜けていく夜の様子に目をやっていた青髪の青年は、視線はそこに固定したまま、ドライバーに声をかけた。
運転席に据わった、桔梗色の髪の青年がミラー越しに青年を見た。
「“怪異”の目撃情報があった場所に、この辺のガキ共が入り込んでるみたいやな。さすがにパンピー巻き込む訳にはいかんっちゅーはなし」
関西圏の訛りで話ながら、男は助手席に置いていた書類を雑に掴んだ。手を回して、背後の2人へと手渡す。
「“怪異”がいるってことは、」
「無論、“怪具”は確実。もしかしたら、“行商人”もいるかもな。回収されてたら話は別だけど」
青年の横に座った曲輪が、書類を眺めながら呟く。
月光の乏しい明かりでは、文字がぼやける。コンタクト買おうかなぁ、と呟くと、隣に座る青眼が怪訝そうな形に歪んだ。
「あのビルの所有者は、夫婦共々病院に運ばれた時点で重症やった。その後、家族の到着を待たずに死亡。警察は不審死って判断しとる」
「それで? 俺らエリィトの曲輪と硯コンビに泣きついてきたってわけ?」
曲輪は、“硯”と呼んだところで碧眼蒼髪の青年を指した。
エリィト、とネイティブっぽく発音したが、まるっと無視される。
「長いこと捕まらんかった怪異や。ここで叩く。あんま舐めプすんなや」
言い終わると同時に、車が止まった。
曲輪と硯が左右のドアから降りる。
あとを追うように運転席から、桔梗色の髪の男がふらふらと降りてきた。
着崩したスーツと、ジャラジャラのピアスで、どこのホストだと問いたくなる。
「サツが不審死っつー判断を下したなら、俺らの仕事は壊すだけや。その名に恥じることなかれ。仕事の時間やで」
手元のタブレットで何やら操作を始めた青年は、曲輪と硯に手を振る。
だが、一向に歩き出す気配のない彼らを胡乱げに見つめた。
「……おい」
「ねぇ七瀬さん」
硯が何の気なしに呟いた。
彼ら2人の視線は、話題にあった建物を凝視している。
「ここでガキが1人でも死んだら、警察との交渉って破綻すんの?」
硯が、ポケットに手を突っ込んだまま呟く。
細身の身体を覆う、やけにチャックの多い真っ黒なジャンバーの、腕部分に触れて、視線だけを寄越した。
「ま、こちらの信頼の無さには繋がるやろーな」
「えー! 最悪! 自業自得じゃん!!」
「曲輪くんうるさい」
こん、とノックするように低い位置の曲輪の頭を叩いて、硯は歩き出した。
「七瀬これ持ってて!」
液晶画面に視線を落としていた七瀬が、「は?」と顔を上げると、長筒の革袋がこちらに落ちてきていた。
「っと」とナイス反射神経でキャッチし、顔を顰める。
「しゃーっ!行こ!」
パチン、と髪を上げて、デコを出した曲輪が、悪戯っぽく歯を見せた。
「叩き壊す」
「っは、は、はぁ、は、」
手のひらを口に押し付けて、必死で呼吸を浅くする。だが、それを意識すればするほど息が荒くなっていくのが分かる。
ひゅ、ひゅ、と過呼吸のような音をたてて、ヨタカはぎゅうう、と身を小さくした。
視界に入った、椅子の下の女。その存在に気づいた彼らは、悲鳴と泣き声を一緒くたにして、郷土館室から飛び出て逃げた。
1階にあの化け物。郷土館室にあの女。逃げ道は3階の別の部屋以外無い。
ヨタカは、一目散に『会議室』のプレートがかかった部屋に飛び込んだのだ。
「なに、何よ、あれ」
「言ってる場合か!!ドアの前なんかで止めないと!!」
一緒に逃げ込んだ男子生徒1人と女子生徒3人人が、真っ青な顔で叫ぶ。その声に、前までの余裕はない。
ヨタカは、後ろでカタカタと唇を青くして震える高嶺の背中を摩った。
震える真ん丸の瞳が、水っぽくなっている。
「あれ、なんですか、あれ」
「わ、わかんない。でも、とにかくここから逃げないと、」
「っ、待って! 部屋出るんですか?!」
「下に降りなきゃ出られない、」
「窓、窓からは?」
「3階だから、」
「お前ら喋ってないで机寄越せよ!! 入られたらどうすんだよ!!」
高嶺との会話に、発案者の男子生徒は癇癪を起こして叫ぶ。
ヨタカ達が逃げ込んだ部屋は、会議室のための部屋だったらしく、長机やパイプ椅子などが積まれて置いてあった。
ヨタカは重たい腰を上げ、山積みの長机を1つ持ち上げる。
クラスメイトは、ヨタカの手元にあった机をやや乱雑に掴んで、ドア前に置いた。
バリケードのようなものを作って、6人で身を寄せあってしゃがみ込む。
全員の顔は真っ青を通り越して白い。むしろ、彼らの方が幽霊に見えた。
「あれ、なんなの? あれ、幽霊?」
「誰か、誰か携帯持ってねぇ?」
「持ってねぇよ、」
「静かにしてよ!! もし来たら、どうするの!」
ヨタカは隣に座る、肩を震わせた高嶺を見た。
どれほど日常生活がしっかりしていても、歳はヨタカよりもひとつ下だ。怖くないわけがない。巻き込んでしまった事実を思うと、ヨタカは恐怖よりも不安が勝ってしまった。
「高嶺く」
ドンッ。
重い音が廊下に響いた。それは、やけに大きく聞こえ、ビリビリと余韻を持って届く。
「き、た」
ガクガクガクと女子生徒が震え出す。口に手を置いたまま、揺れる肩を自分の腕で抱き込む。
しん、と静寂が室内を満たす。
ドクン、ドクンと蠢く心臓の音が、いやに耳につく。聞こえるはずもないのに殴って止めてやろうとさえ思った。そうでもしなければ気づかれる気がした。
「と゛こ゛ぉ゛お゛ぉ゛?」
低く、唸るような地を這うような声が、暗くて湿った廊下に木霊する。
目の前の女子生徒は、耳をこれでもかというほど抑え、ガタガタ身体を震わせた。
「て゛て゛ぉ゛い゛て゛ょぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛」
死にかけの翁のような、媚びた嫗のような、そんな不気味な声が反響して耳に届く。その度、鼓膜を通して、心の臓が舐めあげられるような薄気味悪さと、肺腑が揺さぶられるような恐ろしさが体内に侵食する。
ゴンゴン、と何かを叩きつけるような音が耳朶を打つ。プシュッ、ブシュッと、水が吹き出すような音も。
「ぐおぉぉぉぉぉぉお」
大柄な男の鼾のような声が廊下に轟いた。
先程までの嗄れた声とも少し違う、どこか“人間めいた”声に、全員の顔が白む。
ヨタカは、知っていた。
その音は、かなりの殴打を受けた時、人間が今際の際に発する、身体的な音であることを。
(だれか、しんだ?)
まずい。
恐怖を自覚した途端、ガクガクと身体が震え出す。先程まで唇を軽く噛むだけで耐えられていた体が、まるで自分のものでは無いように恐怖で支配されていく。
足先の感覚がない。服の下に、べっとりと汗をかいているのがわかる。汗をかくような季節でないにも関わらずだ。
ボンッと布団が床に落ちるような音が、階段の方からした。次いで、ズルル、ズルル、と何かを引きずるような音も響く。
しばらくすると、2階からドシャッとものを落とす音がした。
「……降りた?」
「…………2階から音したし、多分」
「………逃げる?」
誰も何も言わない。なにを生産するわけでもない沈黙が落ちる。
この建物から出ることが先決だ。それは満場一致の意見で、他に追随の意見など無いだろう。
「わ、わたしはやだ」
肩を一際震わせていた少女が、怯えた顔を埋めたまま言った。その声はか細く震えている。
「だって、だってあれがまだいるんだよ?無理。朝になったら助けが来るよ。誰かが絶対連絡してるってば。大人しくしてようよ。お願い」
言いながら彼女は、ぎゅううと強い力で服の裾を握りしめた。瞳には可哀想になるほど怯えの色を滲ませている。
「やだ、私動きたくない。」
怖い、こわい、と子供のように首を振る少女を、責めるものはない。否、責めないのは優しさからの行為ではない。今、この場にいる人間の中に、他者の心理状態を推し量る余裕のある人間がいないのだ。
ヨタカは、体操座りして組んだ腕を少しあげて、チラリと全員の顔を盗み見た。
怯え、後悔、混乱、不安。
負の言葉の連想ゲームをすれば、恐らくこの場にいる全員の感情は入っているのだろう。
顔色ひとつで分かってしまうのは、ヨタカが今まで人の色を伺って生きてきた証でもあり、極限状態の彼らは、顔にまで配慮する余裕がないからでもある。
「だれか、」
少女が、誰に言うまでもなく呟いた。
「たすけて」
ボトッ。
粘着質な何かが、上窓を通して投げ込まれた。床に当たった衝撃音と粘っこい音が重なって響く。
ばっ、と素早く音源を確認する。
「なに、あれ」
ありありと目に浮かぶ、赤黒い其れ。
ドクン、ドクン、と不気味なまでに規則的に動くそれ。どく、とこちらにまで届く音で動く度に、ぷしゅ、ぶしゅ、と真っ赤な液体を噴き出している。
──心臓だ。
「っひ、!!、」
その悲鳴は、ヨタカの喉奥から溢れ出たものだった。咄嗟に掴んだ高嶺の腕を、無遠慮に跡がつくほど握り締める。
──心臓の表面がボコッと膨れた。
それを理解する間もなく、動脈らしき管の表面を突き破って、ピンポン玉のような球体が薄い膜に包まれて出てきた。
(なんだよ。あれ)
薄い膜が、ドロドロと溶けていく。
球体の中に、虹彩が見えた。
──眼球だ。
理解した瞬間。
ブチブチブチッと繊維が千切れるような音がして、心臓の右心室と左心室辺りから、臓器に収めるには、明らかに大きすぎる腕が2本飛び出した。
1本は女のように細く、その手に指輪をはめている。もう1本は男のように太く、逞しく、筋骨隆々としており、他人からとったものを適当に取り付けたような、継ぎ接ぎで、不気味なそれ。
真っ赤な液体をその身に浴びた、それらは、地面を撫でるように、確かめるように動く。
まるで、この世に生まれ落ちたばかりの胎児のように。
「ぁ、あ、」
ヨタカたちは呆けたまま、動けない。
何が起こるっているのかを、脳が正しく理解していない。麻薬に侵されたように、身体が固まる。
かぱっ。
心臓が開いて、口が開いた。
眼球が、ぐるりと回って、子供達を捉える。
出来たばかりで、薄膜の張り付いた唇が、ぐにゅと三日月に歪んだ。
「みみみみみみみみみみみみみみつーーつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつつーーーーけけけけけけけけけけけけーーけーーーーーーーーたたたたたたたたたーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
子供のような、大人のような、図太い声は、先程の化け物と同じものだった。
「いやあああああああああ!!!!!」
耳が割れんばかりに悲鳴をあげて、長机を蹴り飛ばして、我先にと逃げ出す。
ここに来て、何度目の逃走だろうか。どこに逃げればいいのかも分からないまま、がむしゃらに足を動かして、部屋から飛び出す。
「助けて!!!!!」
怒鳴るような絶叫が、ヨタカの髪を引いた。
振り返った先に、さっき可哀想なほど震えていた少女が、長机の下でこちらに手を伸ばしていた。
察するに、先程逃走の際蹴り飛ばした長机の、倒れた先に運悪く居合わせたのだろう。顔にあたったのか、鼻から血が出ている。
「ぁああああああああ」
枯れた声が、ヨタカの耳を劈く。少女は、声の方を向いて、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
「助けて!! お願い行かないで!!」
「ヨタカさん何してるんですか!!!」
いや、いや、とうわ言のように呟く女子生徒の視線は、もうこちらを見ていない。
目の前に迫り来る、化け物と以外形容できない存在しか目に入っていない。
(たすけないと、)
倒れ込むようにして足を出し、その部屋の敷居を踏む。
と、ぐんっと後ろに引っ張られた。
「何してんの!? 逃げるよ!!」
高嶺が腕を乱暴に掴んでいる。その形相は、いつもの穏やかな好青年の面影はない。眉間に寄せた皺と、骨が軋むほどに掴んまれた肩が痛い。
「たすけないと、」
「死にたいんですか!! 早く!!!」
払おうとした手を、高嶺に掴まれて、ほぼ引き摺られるようにして部屋から引き離される。
「あの子が、」
「ヨタカさん!! 早く!!」
ガクンッ、と視界がぶれた。高嶺が見たことない形相でこちらを睨みつけている。血走った目に硬直していれば、無配慮な力加減で腕を引かれた。
ガクガク震える足が、廊下を蹴って、化け物のいる部屋から離れる。
早鐘を打つ心臓が、震える指の先が、揺れる視界が、やけに歪んで見えた。
