人を呪わば夜が明ける?

 机の上に散らばったマーカーペンの文字。頭を一ミクロンも使っていないような言葉は、それでも数を増やせば難なく人の心臓を削る。
 ぐしゃぐしゃの雑巾を握った手に皹が出来ていた。

「玉木さん?」

 顔を上げるとクラスの担任の女教師が立っていた。夕褪せた時の光を浴びて、その顔は読み取りづらい。
 顔を上げた体勢のまま玉木は動けなかった。ドクン、ドクンと心臓が激しく脈打つ。じわ、と手にも額にも汗が滲んだ。上履きの中の足先が焼けたようにひりつく。
 彼女は陽子の机を見た。そして品よく色付いた唇を優雅に持ち上げ言った。

「掃除してるの? 偉いわねぇ」

 身体中の血液が下を向いたのがわかった。
 あれだけどくどく悲鳴を上げていた心臓が、ぎゅうと何センチも縮み、呼吸器官がひゅっとすぼまる。視界が端からじわじわと黒く染まり、パノラマのように世界が揺れる。教師の身体が翻ったのだけがわかった。ほどほどにね、なんて悪戯っぽい言葉の主は、なにが見えていたのだろうか。
 グランドからは、楽しそうな中学生の笑い声が聞こえる。
 陽子は、聞き手に握りしめていた雑巾を思い知り振り上げ、無情な油性インキの、『ドブス』の文字に叩きつけた。べちょっ、と水気が広がる音がして、それさえも陽子の容姿を、顔を、行為を、すべてを嘲笑っているような気がして──ぶつん、と切れた。


「っ、あああああ、あああああああああああああああ、!!!」


 心臓を掻きむしるように腕を動かして、髪をぐしゃぐしゃにする。そうして、喉の奥で低く唸るように嗚咽を殺しながら陽子は哭いた。
 椅子の足にすがりついて、あぐあぐ、と死にかけの蟇のような、呻き声とも取れる嗚咽を漏らす。
 なんで、どうして分からないんだ。こんな時間に掃除をするわけが無い。どうして見えないんだ、どうして分からないんだ、お前はこのクラスの担任だろうが。お前が情けないから、あんな馬鹿な奴らが私を攻撃するんだ。なんで、どうして、しね、死ねばいい。みんな、死ねばいいんだ。

「これ、きみの?」

 それは、空からコロリと転がって来たものだった。それほど唐突に陽子の頭上から響いたのだ。
 “その人”は、陽子の机に座っていた。まるで、ずっと前からそうしていたように。確かにそこには、陽子を蝕む言葉しか存在しなかったはずなのに。そんなこと、現実的に考えれば信じられないだろう。せいぜい夢に見て笑う程度。だというのに、それはそこに起きた。

「酷いことするねぇ」

 異常な現象を引き起こした原点の彼は、なんてことないように眉根を寄せる。綺麗な白銀の睫毛が、伏せられて陽子の机を睨んだ。その下の赤瑪瑙が、ぐるん、と回ってこちらを見た。
 少女、いや少年だ。見紛うほどに中性的な容姿をしている。陽子の中学の制服に袖を通し、髪は墨を塗ったように黒い。高速に則った髪色だというのに、そこには何の異質感も感じ取れないというのに、何故か陽子には、彼を“こう”と特定することが出来ない。人を見ている。そこに人はいる。だがそれは、本当に“人”だろうか。未だ嘗て感じたことの無い感覚が、脊椎を這い上がる。彼、否、彼女かもしれない。もしかしたら人ではないのかもしれない。それが、“まるで人間のように”口を開けた。

「君は、何も悪くないのに」

 無造作に投げられた言葉は、麻薬よりもずっと強い何かを持っていた。甘言よりもずっと中毒性のあるそれは、いとも容易く陽子の中の何かどろどろしたものを一掃してしまったのだ。
 堪らず目を見開く彼女に、この世のモノでない美しさを持って、“それ”は囁いた。蠱毒のような、劇薬のような、酷く甘く、辛く、粘着めいた声で。
 ねぇ、と声が響く。

「君ならきっと、物を大切にできるよね」
『ニュースをお伝えします。女子中学生が、昨日の夕方頃、自宅のアパートの浴室で遺体で発見されました。滑って後頭部をバスタブにぶつけたものとみられ、警察は事故と見て調査を急いでいます。続いてのニュースです』