もう何度繰り返したか、正直憶えていなかった。
それでも俺は、絶対にお前を死なせないって決めたから、だからその方法を必死に探したんだ。
といっても、俺ひとりの力じゃなにも出来なかった。そもそもお前が「諦めない」って言ってくれなかったら、俺はとっくに、お前のことを見捨てていたのかもしれない。
今だって、俺は方法を探してお前を助け出すことに夢中で。
お前がどんな気持ちで、ずっと「ひなた」のことを思ってたのか、考えもしなかった。
お前が時折見せていた哀感の正体が、やっとわかったよ。
もう誰も知り得ないはずだったそれを、どうしてだか俺は知ってしまった。
俺には想像もできない、でもお前にとってはそれこそ、世界が変わってしまうくらいの出来事だったんだ。
きっとお前の大切なものは、ずっとずっとお前だけのもので、俺には背負えない。
それでも、俺はさ。
お前と一緒に、明日を生きたいって、そう思うんだよ。
***
「シューイチ、にゃんであんなに泣いてたんだ?」
「お前、鈍感だな。さすがに俺でも『やらかした』って思ったのに」
儀式の方法を見つけ出すまでは順調だった。しかし自分のやり方はあまりにも配慮に欠けていた、と晴樹は反省する。
幸い今回の修一の死因は比較的穏やかだ、瞼を閉じてそっと寝かせておく。
「だってさ、修一はお前のことをずっと大切に思ってて、いなくなったことが今でも悲しいんだよ。それなのに俺は……その気持ちを考えないで『神にする儀式』とか言っちゃったんだぜ。あいつからしたら、なに言ってんだって感じだろ」
「ん~、でもオレがカミサマににゃれば、シューイチはもう死なずに済むんだろ?」
「多分、な。今まで調べてたことをまとめると、修一が死ぬのは神隠しに遭った子供たち……『臣』が関わってるんだ」
文献や資料の情報、この神社の歴史、修一の死因の状況──それらを合わせると、そう考えるのが自然だった。実際に晴樹は、子供の手が修一の体を叩きつけているところもこの目で見ているのだ。
「で、この『名呼ビノ次第』ってのを読んでみたけど……まずこの儀式は『臣の名前を呼んで、神と邂逅させるため』に行うらしい」
「ふ~ん……この神社に、その『臣』ってヤツらがいるのにゃ?」
「そう、らしいけど……多分お前と同じでそいつらも儀式をしてないから、本来の役割を果たしてないのかもな」
「だからって、そのせいでシューイチが死ぬのは意味わかんにゃいけどにゃっ」
「でもきっと、儀式をしてお前が本物の神様になれれば……それも解決すると、思うんだけど」
正直、はっきりとした確証があるわけではない。ここまで色々調べてきても、結局修一が死んでしまう理由はわからないからだ。死因に臣が関わっているとしても、起因がわからない。
今のところは「ひなたが神になれば臣の力も制御できるはず」という仮定で儀式を行う、というのが──晴樹の結論だった。
本来であればその儀式は神社の神主や神職の者が行うべきだと社秘記に書かれていたが、必須条件として「神隠しが起きた瞬間、神域にいた人物」という記載があった。
ひなたの話によれば、自分がまだ人間だったときの最後の記憶が、修一が自分を探す声だったのだという。であれば、修一がその場にいたのは確実だ。
「そういえばさ、ひなた。お前が神隠しに遭ったときのことって、詳しく聞いてないよな」
「う~ん、全部をはっきり憶えてるわけじゃにゃくて……あっちの林に祠があるだろ?あれを開けようとしたら『カミサマになって』って言われたから、オレ、『いいよ』って言ったんだ」
「……え、そんな軽いノリだったのかよ?」
「そうだにゃ。だって、にゃんか困ってるみたいだったから」
ひなたの話を聞いて晴樹は驚愕したが、それでもなんとなく理解できてしまった。きっとこの少年は、元来こういう性格なのだ。深く考えずに重要な選択をしてしまう、それも自分のためではなく、他の誰かのために。
「すごいな、お前」
「そうかぁ?普通だにゃ」
でも、裏を返せば──その純粋な正義感のせいで。
修一は今の今までずっと、苦しんでいることになる。それはそれで、残酷だ。
「でも、修一は……お前に『いいよ』って、言って欲しくなかったと思う」
──こんなことは、今更俺が言ったって仕方のないことだけど、それでも。
それをコイツに伝えられるのは、俺しかいないから。
「……そっか。それは、ごめんって言わなきゃにゃあ」
「まぁ、アイツも謝られたいわけじゃないって」
「にゃ……じゃあどうすればいいんだにゃ」
「それは自分で考えろよな」
再び儀式の手順を確認する。どうやらさほど難しいものではなく、晴樹にも準備ができそうだ。
「『境内で行い、地面に結界を張って、祝詞を読んで、臣として迎えられた子供の名前を呼ぶ』……そんなに難しくなさそうだ」
結界は地面に描く模様の図が載っているし、祝詞はカナ表記で記されていた。それこそ、わかりやす過ぎるほどに。
同じ箱に入ってた木札は全部で7枚、それぞれに名前が書いてある。おそらくこれが「臣として迎えられた子供」の名前だ。
「……そもそもさ、これって誰が決めた儀式なんだろうな」
「どういう意味にゃ?」
「神社の仕組みとか、霊力?とか、誰がどう決めてるのかわかんないけどさ。この儀式をすることで、お前という神が完全になったら……きっともう、神隠しは起こらないだろ。だから、過去の神主の誰かが『いつかこの連鎖が終わるように』って考えて用意したものだとしたら……ちゃんとやらないとな、って」
そもそもこの「神隠し」だって、最初は人間が始めた「生贄信仰」がキッカケだ。信仰が神を作り出すのであれば、この儀式が人間によって定義されたものでも役割は果たされるのだろう。
「おしっ!……俺、修一に全部話すわ!最初から全部!」
「タイムリープのことも、オレのこともか?」
「おう。だって、隠し事があるまま修一に儀式をさせるのって、なんかズルじゃん」
「そうだよにゃ、オレも賛成にゃ!」
ひなたとしばらく話しているうちに、随分愛着が湧いてきたと晴樹は思う。明快でまっすぐで、はつらつなお調子者だ。
今なら、修一がどんな風にひなたと関わっていたのか、どんなに大切な友達だったのか、想像がつく。決して修一の気持ちがわかる、なんてことは言えないが。その片鱗だけでも感じ取ることが出来たのでは、と。
すっかり見慣れた、赤い夕焼け空の下。
晴樹はひなたの小さな前足と、グータッチを交わすのであった。
***
「町外れにある神社にさ、幽霊が出るらしいよ。肝試しに行かない?」
この台詞を聞くのもきっと、これが最後だ。
晴樹は意を決して、修一の瞳を見つめる。
「……晴樹?」
「あのな、修一。今から俺、大事な話をするから……聞いてくれるか?」
晴樹の緊張感が伝わってくる。修一は突然の展開に驚くが、彼のこんなに真剣な表情は今まで見たことがない。きっと、冗談や悪戯ではないのだろう。
修一は頷き、晴樹の話を促した。
「実は俺、もう何度も……時間を繰り返してるんだ。これで多分、39回目かな」
「……え?なにを言うかと思えば、マンガの話?」
「そりゃそうだよな、それが当然の反応だと思う。でも、全部話すからさ。だから行こうぜ、八臣神社」
修一が冗談交じりに返しても、晴樹の瞳は揺るがない。それもそうだ、彼はこれまで何度も繰り返して、終わりの見えない時間の中で、それでも必死に解決策を探してきた。
もうこの「不思議なこと」は、晴樹の中では「わからないこと」ではない。
神社までの道中、晴樹はひとつずつ丁寧に自分が経験した出来事を話す。修一は自分が「何度も死んでいる」と聞かされても、取り乱すことなく冷静だ。
「とりあえずさ、僕はキミの話が本当だと仮定して聞いてるんだけど。キミ、よくそんなに繰り返したね。途中で諦めようとか思わなかったの?」
「それはさ、修一。お前が『絶対諦めない』って言ったからだよ」
その言葉を聞いた修一は、一瞬だけ逡巡して小さく息を吐く。そして、納得したような仕草で言葉を返した。
「なるほど、キミはタイムリープの中で、僕に相談したんだね」
「あぁ、そうだ。お前が何度も死んで、俺が諦めかけたとき......お前が『自分だったら諦めない』って言ったから、俺はここまで来れたんだ」
「そっか......確かに、キミの言ってることは本当なのかも」
今の晴樹には、修一がなぜ「諦めない」と言ったのかわかる。だからその言葉で彼が自分のことを信じてくれるだろうと、そう思ったのは間違いではなかったようだ。
「あとは、そうだな......あのバス停に今からバスが来ておばあさんが下りてくるんだけど、俺が転ぶの止めるから見てろよ」
晴樹はまるでこれからなにが起こるかすべて知っているかのようにバス停に待機し、宣言通りによろけた老人を支えた。それもそのはずだ、この場面は何度も繰り返して、実際に何が起こるかすべてを把握しているのだから。
「......確かに、タイムリープ設定の話だとよく見る展開だね」
「そ、そうなのか?」
「そうだよ。もしかして、前の時間で話してた内容を話しちゃう、とかも経験してるんじゃない?」
「おぉ!やっぱそれ、あるあるなんだ」
「まぁ、あくまでフィクションの物語で、だけどね。でもどうやら、本当みたいだ」
一連の流れで、修一は完全に晴樹の話を信じたようだった。やはり普通であれば信じがたいような突拍子もない出来事であっても、それを受け入れる柔軟さがあるのはオカルト好きが所以だろうか。
「それで?僕にそれを話すってことは、解決策が見つかったってこと?」
「あぁ、そうだ。でも、まだあくまでも仮説の段階で......正直、実際にやってみないと解決するかわからない」
「なるほどね。で、一体なにが原因でどんな解決策なの?」
話はここからだ、いよいよここから「ひなた」の話が絡んでくる。修一にとっては、簡単には踏み入れて欲しくない話題だ。
でも、逆に言えば──ひなたの話をしなければ、これは絶対に解決できない事象だった。
「......まずは、ごめん。俺はこれから、お前が聞きたくないことを話すと思う」
晴樹はひとつ大きく呼吸をして、再び修一の瞳を強く見据える。
視界に入る青は清々しく、図書館の木々が鮮やかに輝いていた。
***
すべてを話した。晴樹は修一に、このタイムリープに「ひなた」が関わっていることを。
彼は今、中途半端な「神様」として存在していること。猫のひなたとして晴樹に話しかけてきたこと。修一を助けたくて、晴樹の時間を繰り返していることを。
その解決策として、ひなたを「臣」と邂逅させて完全な神とするための儀式をする必要があること。そしてそれが可能なのは、修一だけだということ。
晴樹は今までのタイムリープで得た情報を、修一にすべて話した。
修一は、黙ってそれを聞いていた。混乱するでも、取り乱すでもなく、ただ黙って晴樹の話を聞いていた。
晴樹には、彼の心の内は知れない。しかし時折伏せる瞳は、決して光を失ってはいなかった。
やがてふたりは石段を上り終え、鳥居の前に辿り着く。
呼吸を整えた修一が、意を決したように口を開いた。
「……キミになにが起こってたのか、ひなたがどうなってしまったのか、わかったよ。キミ、ひとりで随分頑張ってたんだね」
「いや、俺は……」
晴樹は鼻の奥がツン、と刺激される感覚に流されそうになる。自分が泣いてどうする、まだ解決したわけじゃない。これからちゃんと儀式を行って、自分の仮説が合っているのかどうか確かめなければならない。
感傷を振り払うように小さく首を振り、唇を噛んだ。
「僕が『死ぬ理由』がわからない、って言ったでしょ」
「……そうなんだ、それがどうしてもわからなくて」
「それはね、僕がお参りするときに『ひなたが連れて行ってくれますように』って、願ってるからだよ」
「……え?」
「だって僕は今日、それをお願いしにここに来てるんだから。それなら毎回、そのはずでしょ?」
単純な答えだった、修一が死んでしまうのは──彼自身が毎回、それを願っていたからで。それを聞き届けていたのが、中途半端な力を持った『臣』だったということか。
「だからさ。きっとその『臣』って子たちは……僕をひなたに会わせようとして、連れていこうとしていたのかもね」
そう言って微笑む修一の顔に、風に吹かれた髪がかかった。それをそっとかき分けて、彼は鳥居をくぐる。
晴樹もそれに続き、意を決して足を踏み入れた。
晴樹にとっては何度も見慣れた境内──の、はずだった。
いつもと空気が明らかに違う。空もまだ青さが濃く、聞こえるセミの鳴き声もおそらくヒグラシではない。
そして、視界に飛び込んできたのは。
「あれって、修一か……?」
境内にいたのはひとりの少年だった。黒い髪の少年は、ランドセルを背負ったまま辺りを見回している。
それを視認した瞬間、修一は駆け出していた。本殿裏の雑木林に向かって、まるで疾風のように。
「おい、どうしたんだよ!」
晴樹も慌てて追いかける、修一は立ち止まることなく走り続けた。
「キミは、ひなたが神隠しに遭ったときに……僕が境内にいたって言ったでしょ。あれは、あの日の僕だよ」
それが本当なら──この先の雑木林にいるのは。
「……ひなた!」
小さな祠の前、その少年は立っていた。
晴樹は初めて見る人物だったが、彼が「ひなた」だと一目でわかった。赤茶色の髪は、白猫ひなたのしっぽの先にそっくりだ。
修一が名前を呼ぶと、ひなたはゆっくりと振り返る。その顔は、まるですべてを察しているかのようだった。
「ひさしぶりだな、シューイチ」
「……ひなた、あぁ、本当に、キミなの?」
修一は、言葉が詰まって出てこない。もしももう一度会えたなら、言いたいことが星の数ほどあったはずなのに。その口からは嗚咽と、その瞳からは涙が溢れだして、目の前の少年を見ていることしか出来ない。
「オレはさ、これでいいって思ってたんだよ。だってオレがカミサマになれば、こいつらは『役目』を果たせるんだって。だからさ、全然後悔してない」
「……ううっ、そんな、なんで、なんでキミは、」
「でも、それでもさ。……ごめんな。オマエのこと、泣かせたくなかったな」
ひなたの言葉は優しく、しかし強い意志が込められている。これはきっと、修一への置手紙だ。
「……そうだよっ!ぼくはずっと、キミのことばかり考えてた。ずっとずっと、キミのことを忘れないように、キミが本当にいなくなってしまわないように!……ずっと、待ってたんだよ。キミに、会いたかった」
絞り出すように、修一は言葉を紡ぐ。今まで誰にも言えなかった、彼のいちばん柔らかい心の内だ。
晴樹は静かに聞き入っていた。きっとこれは、自分が巡り合わせた奇跡だ。
「なぁ、シューイチ。オレはもう、人間じゃなくなっちゃったけどさ。……でもな、カミサマって、どこにでもいるんだ!だから、オマエは……もう、大丈夫だよ」
ひなたの笑顔は天真爛漫だ。ありきたりだけど、まるで太陽のようだと晴樹は感じる。きっとこの笑顔で、かつての修一の心も救ってみせたのだろう。
瞬きをする刹那、彼の体はどんどん薄くなっていく。
縋るように伸ばす修一の手は、空を切って地面に落ちていった。
「……ひなた、ぼくは、キミのこと……ずっとずっと、忘れないよっ」
修一は、声を上げて泣いていた。まるで幼い子供のように、溢れる涙にも構わずに。
晴樹はそれをただ静かに見守っている。修一がどんな気持ちで、どんな想いで涙を流しているのか、その理由がわかるとは言わないが。
それでもきっと、その片鱗だけでも感じ取れるのは。世界でたったひとり、自分だけだと。
何度も時間を繰り返して、ここにたどり着いたことを──晴樹は、心に刻んでいた。
***
気が付けば、神社はいつも通りの空気に戻っていた。夕方の少し冷たい風が流れていく。
修一はゆっくりと立ち上がり、ひとつ大きく息を吐いた。
「……やろう、儀式を」
振り向いたその顔は、強い決意に満ち溢れている。泣き腫らした瞼に、時折鼻をすする音。
彼の覚悟を受け取り、晴樹も強く頷いた。
境内に戻ると、そこにはもう誰もいない。猫のひなたの姿すらなかった。
晴樹は修一に儀式の手順を説明しながら、狛犬の台座に隠された箱を取り出す。
「結局さ、この儀式っていうのは……人間が無責任に『先延ばし』にしてきた結果なわけでしょ」
修一はすっかり気丈に振舞っていた。晴樹はその解釈を聞き、決して否定はできない。
「過去の神主の誰かが『8人目を神として迎える』なんて信仰を作ったから、その通りになったんだ。自分の代で責任を取りたくなかったから『いつか神が来る』なんて設定にしたんだよ」
「確かに、そうかもしれない……でも俺は、それだけじゃないと思う」
いつか誰かがすべてを終わらせるために、この儀式を残したのだとしたら。
「……キミの言いたいこと、大体わかったよ。確かに、どうにかしたくても出来なかった人がいたのかもしれないし」
晴樹と修一は、ふたりで儀式の準備を進めた。地面に結界を描き、祝詞を確認する。名前の書かれた木札には神隠しに遭った年代も書かれていたため、順番通りに並べるのは容易だった。
準備が整い、修一は地面に描かれた結界の中に入る。簡易的な祭具を模したそれは、晴樹が描いたものだ。
「……それじゃ、始めるね」
修一がそう告げた瞬間、まるで呼応するように風が強く吹き、御神木の葉が靡く。
祝詞をゆっくりと読み上げ、続いて子供たちの名前を呼ぶ。
太吉、弥助、宗吉、市松、新太、勇、直。
彼らはかつて神隠しに遭い、今の今まで神の使い──「臣」になれていなかった子供たちだ。
「そして……『ひなた』」
最後に「神」の名前を呼ぶ。
自分には霊感なんてこれっぽっちもない、と思っていた晴樹だったが。
夕に染まる空に、8つの白い光が──溶けるように、消えていくのが見えた気がした。
「これで、キミは……神様に、なれたかな」
同じように空を見上げる修一は、祈りを捧げるように呟く。
ひなたとお別れするときは、いつもこの空だった。
──やっぱりきらいだ、夕焼け空なんて。
***
儀式は無事に終わり、ふたりはベンチに座る。
晴樹にとっては何度も見た景色だったが、今回はいつもより空気が澄んでいるような気がした。
正直まだ、すべてが終わったと決まったわけではない。あの鳥居をくぐって無事に今日を終えて明日を迎えるまでは、仮説が正しかったかどうかわからないのだ。
それでも今は、この余韻に浸っていたかった。
修一も晴樹と同じ気持ちのようで──ただそこに座っている。
「……なぁ、修一。俺さ、お前から『ひなた』を奪ったんじゃないかって、思うんだ」
晴樹がひなたのことを知ったのは不可抗力であり、決して意図して踏み込んだことではない。それでも晴樹は、修一の心の内に無許可で触れてしまったことに、罪悪感を感じていた。
「なにを言うのかと思えば。キミ、そんなこと考えてたの?」
「だって、そうだろ。お前にとって、すごく大切な友達なんだから」
修一は、いつものような悪戯な笑顔を晴樹に向ける。
「確かに、ひなたは僕にとって……なによりも大切で、絶対に忘れない存在だよ。誰にも知られたくなかったし、触れられたくなかった。……でも、でもさ」
晴樹の手を取り強く握りしめて、修一は言葉を続けた。
「『ひなた』のことを、一緒に憶えていてくれるのが……晴樹、キミでよかったって思うんだ」
修一はそのまま、晴樹の手を引いて駆け出す。鳥居に向かって、まっすぐと。
「ちょ、おい!そんないきなりっ……」
「ほら、行こうよ!このまま僕が鳥居をくぐれば、キミはもう時間を繰り返さずに済むんでしょ?」
晴樹が唖然としている間にふたりは──無事に鳥居の向こう側へと、辿り着いていた。
修一が死ぬことも、晴樹の時間が戻ることも、ない。
ふたりの手はぎゅっと強く繋がれたまま、きっと明日へ続いていく。
***
あれから、1週間が過ぎた。
修一はいつものように、昼休みに中庭を訪れる。
あの日からひなたの姿は見ていないが、それでも習慣を変える気にはなれなかった。
久しぶりに、宮沢賢治を読んだ。もう二度と読めないと思っていた「銀河鉄道の夜」を。
どうしても彼を思い出してしまうから、避けていた物語だ。
──やっぱりキミはカムパネルラだったじゃないか、ひなた。
しばらくすると、晴樹も中庭へやってくる。これも、いつもの光景だ。
「なに読んでんだ?」
「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だよ。読んだことある?」
「あー、なんとなく知ってるけど、ちゃんと読んだことはないかも」
「この話はね、悲しいけれど……でもそれだけじゃなくて、」
ふたりが話をしていると、植込みのあたりから何かが顔を出す。
やがて姿を表したのは──白猫のひなただった。
「……ひなた!」
修一が名前を呼ぶと、ひなたはしっぽをピンと立てながら、いつもの調子で近づいてきた。もう晴樹には、ひなたの声は聞こえないようだ。
「キミはさ、ずっと……僕のそばにいてくれたんだね」
神様はどこにでもいるらしい。例えば、猫のように。
修一が撫でれば、ひなたは嬉しそうに喉を鳴らしていた。
「……修一、ちょっと向こう見ろって」
晴樹の声に、修一はその指が示す方向を見る。そこにいたのは──7匹の子猫たちだった。
「え、あれって……もしかして、ひなたの『臣』たち?」
ひなたは嬉しそうに「にゃあ」とひと鳴きする。どうやら、肯定のようだ。
「……子猫用のおやつ、用意しないとな」
晴樹と修一は、ふたりで顔を見合わせて笑った。
***
大人になんて、なりたくなかった。
だって大人になったらさ、僕はキミのことを、忘れてしまうと思ったから。
だんだんキミが薄くなって、ついには消えてしまうのが怖かった。
でも、そうじゃなかったんだ。
たとえ二度と会えなくても、キミがいたことを僕はずっと憶えてる。
それにね、どうやら僕だけじゃなくて──晴樹も憶えていてくれるみたい。
キミも知ってるでしょ、晴樹ってああ見えて、結構かっこいいところあるんだから。
だからさ、ひなた。僕は明日も、生きていくよ。
僕とキミとあの日のぼくを、諦めないでいてくれた、晴樹と一緒に。
今なら少しだけ──「ほんとうのさいわい」が、わかる気がするんだ。
