なにもかも、ぼくにとってはつまらなかった。
学校なんてさいあくだ、面白いことなんてひとつもない。クラスメイトはみんなくだらない話しかしてないし、ぼくの方を見てくすくす笑っている。
ぼくはただ自分の席で本を読んでいるだけなのに、一体なにがおかしいのかわからない。きっとあいつらは、賢治なんて読んでない。
だから休み時間はきらいなんだ。まるで世界からぼくひとりだけ、放り出された気分になるから。
でも授業が終われば放課後だ、ぼくはこの時間が待ち遠しい。だってもう、こんなにせまくてたいくつな教室からはおさらばできる。
だれよりもはやく、ランドセルを持って教室を飛び出す。このときだけ、ぼくは疾風になれるのだ。
「はぁ、はっ……」
息を切らしながら走る、でっぱっている木の根っこにつまづきそうになりながら、それでもなんとか転ばなかった。やっぱり、キミに会いたいぼくは、とびきり強いんだ。
神社の前にある石段だって、ひとつ飛ばしでかけ上がっていく。こんなのへっちゃらだ、もう何度も上がっているから、あっという間にてっぺんまで着いた。
「……あれ、まだ来てない」
神社の中には誰もいない。はやく来すぎてしまったのかと、ため息をつく。ランドセルをベンチに置いて歩き出すと、とつぜん後ろから目かくしをされた。
「だーれだ!」
「うわあっ!……その声、ひなたでしょ」
「あたりー!シューイチ、遅かったじゃん!」
振り向くと、ひなたがいた。ランドセルを背負ったままだ、きっとぼくをおどろかすためにわざわざまだ来ていないフリをしていたんだ。
「2年生は、1年生より帰りの会が長いんだよ」
ひなたは、ひとつ年下の1年生だ。でも、ぼくが2年生だということも気にせず話してくれる。それが心地よかった、なんだか本当のなかよしになったみたいで。
ランドセルを置いたひなたは、ぼくの手をつかんで走り出す。
ぼくたちはいつも、放課後にこの神社で遊んでいた。学校のうらにあるのに、ぼくたち以外が遊んでいるところは見たことがない。
きっとみんな、あの石段を上るのがイヤなんだ。でもそれは、ぼくにとっては都合がいい。だって、ここでひなたとふたりきりで遊べるから。
「なーなーシューイチ!オマエさ、『おみくじ』って引いたことある?」
「『おみくじ』って、うらないみたいなやつだよね。ううん、引いたことないよ」
「そこにさ、あるんだよ!窓のとこ!」
神社の中にある小屋に、大きな窓がある。多分ここでお守りとかを売っていたんだけど、今はやってないみたいで窓は閉まっている。
ひなたが指しているのはその窓の下、カウンターになっているところに置いてある赤い箱だ。今までこのお店は閉まっていると思っていたから、あまり気にしていなかった。
「ほんとだ、まだ動いてるのかな?」
「わかんねーけど、1枚100円って書いてあるから買えるんじゃね?」
「100円か……」
学校に行くのに、おさいふは持ってきていない。家に帰れば自分のお金はあるけど、今から行って取ってきたら遊ぶ時間が無くなってしまう。
「オレちょっとランドセルの中見てみる!」
「え、持ってるの?」
「わかんねーけど、いろんなもの入ってるから!」
ひなたは地べたにランドセルを置いて、中身をひっくり返す。教科書やノートは少しだけ入っていて、のこりは勉強には関係のないものだった。
「え、ガチャガチャのカプセルに……クワガタが入ってる」
「あ、そうだ!コイツ教室に迷い込んでたから、逃がそうと思ってたんだった!」
ひなたはご神木のそばでカプセルを開き、クワガタが木に移れるようにそっと傾ける。クワガタは勢いよく飛び立ち、しばらく飛んだあとでしっかりと木につかまった。
「もう迷子になるなよー!」
このクワガタも、つかまったのがひなたでよかったな。例えば、クワガタをそのままポケットに入れてしまうような子につかまっていたら、今ごろぐしゃぐしゃになって死んでいただろう。
ぼくはひなたのこういうところが好きだった。彼は自分の手が届くものを、なんでも助けてしまえる。それは虫だって例外ではないのだ。
***
あのときだって、キミに初めて出会ったときだって、そうだった。
ぼくはあの日、まるで世界の終わりみたいに悲しい気持ちで泣いていた。新しい学年が始まってすぐ、ぼくは同じクラスのヤツに買ってもらったばかりの教科書を隠されたんだ。
必死に探して、見つかったのは校庭の桜の木の下だ。乱暴に置かれて土に汚れてしまっていた。
「ひどいよ……なんで、こんなこと」
土をはたいても、もう新品には戻らない。ただでさえ学校なんて面白くないのに、これからの生活ごと全部汚されてしまったみたいな、そんな気持ちだ。
泣きながらしゃがみ込んでハンカチで必死に教科書を拭いていると、とつぜん後ろから声をかけられた。
「オマエ、なにやってんだ?」
「……なんでもない、ほっといてよ」
知らない子だった、きっと1年生だ。今は誰にも話しかけられたくない、だってきっと、今のぼくはとてもみじめだから。
「泣いてんのか?」
「だからっ、ほっといてってばっ」
さっきより大きな声で言っても、その子はどこかに行くどころかぼくの教科書を一緒にひろいはじめた。パンパンと土をはたいて、ぼくにわたしてくる。
「なーなー!オレと『かっこいいものしりとり』しようぜ!」
「……なにそれ」
「じゃあオレからな!最初は『り』だから、えーっと……『リュウグウノツカイ』!」
「……深海魚の?」
「そう!カッケーだろ?」
「微妙……かも」
「じゃあもっとかっこいい言葉、言ってみろよ!次は『い』だぞ!」
「……『一閃』」
「い、いっせん……?なんだよそれ?」
「光が鋭く走る、って意味だよ。まだ学校では習ってないけど、本に出てきたんだ」
「え、なんかカッケー!すごいな、オマエ!」
「あ、でも......『ん』が付いてるから負けちゃった」
「オマエの方がかっこいいから、勝ちでいーぜ!」
その瞳は、まるで小さな火が燃えているように、キラキラ輝いていて。キミと話をしているうちに、ぼくは自分が泣いていたことなんてすっかり忘れてしまっていたんだ。
***
それからぼくらは一緒に遊ぶようになった。
そして今では、毎日放課後にこの神社で待ち合わせをしている。
ひなたは空になったランドセルをさかさまにしながら、ぶんぶんと振る。まだ入学して3ヶ月しかたっていないのに、中からは小石や消しゴム、小さくなったえんぴつやらが転がり出てきた。
「うーん、やっぱ100円はねーな、10円とか1円とかならあったんだけど」
「ぼくも探してみようかな、ちょっとまってね」
ベンチの上でランドセルを開き、ていねいに中身を出していく。教科書やノートやふでばこ、図書室で借りた本などを出して、中をのぞいてみる。
あいにく、ぼくのランドセルの中はひなたのそれよりも面白みがない。
「あ、またケンジ借りてる!今度はなに読んでんだ?」
「『銀河鉄道の夜』だよ」
「それ、前も借りてなかったか?」
「好きなんだ、この話」
ひなたはぼくみたいに本を読むのが好きなわけじゃないけど、ぼくが読んだ本の話をすると、ちゃんと聞いてくれる。バカにしないで、興味をもってくれるんだ。
まるで、ぼくの好きなものを一緒に好きでいてくれるみたいな、そんな気持ちになる。
「でもさ、それって悲しい話じゃん。結局カムパネルラは死んじゃうんだから」
「そうかもしれないけど、でも、それが全部じゃないんだよ。だって、ふたりは一緒に『ほんとうのさいわいのために生きよう』って約束をしたでしょ」
「それも、オレにはよくわかんねーんだよな。結局それってなんなんだよ?」
「ぼくにもはっきりわかるわけじゃないけど。多分、それが何かを考えることに、意味があるんだと思う」
もしも「ほんとうのさいわい」が、あのサソリのように別の生き物の犠牲になることなのだとしたら、きっとぼくにはムリだ。たとえばぼくは、ぼくをバカにするクラスメイトのためにこの身を灼くことなんてできない。
でも、そうなりたいとは思ってるんだ。ひなたのように、誰のことでも迷わず助けてあげられるような、そんな人になれたら。
そんなことを考えながらランドセルのポケットをひとつひとつ見ていくと、お母さんからもらったお守りが入っていた。なんとはなしに触ってみると、丸くて固いものが入っている。
取り出してみると、それは100円玉だった。
「あったよ、100円」
「やった!……でもこれ、使っていいヤツか?」
「あとでこっそり自分の入れとくから、大丈夫」
少しだけ悪いことをしているような気持ちになったけど、ぼくはそれよりもひなたと一緒におみくじを引きたい気持ちが強かった。
「ふたりで1枚だけど、引けるよ」
「え?オマエのおみくじ引けって!」
「え、いやだよ……ふたりで引こうよ」
「な、なんだよ、仕方ねーなぁ」
ぼくが駄々をこねれば、ひなたはなんだか照れくさそうに笑う。
「でも、どうしよう。届かないよね」
おみくじの箱は、上の方に100円玉を入れる作りになっている。箱の下についている受け取り口には届くけど、お金を入れるのは難しそうだ。
「ぼくがひなたのこと、肩車してみるとか?」
「あー、たしかにそれなら届くな!」
正直、誰かを肩車したことなんてない。でもひなたは運動神経がいいし、ここには掴まれるカウンターがあったから、たぶん大丈夫だ。
ゆっくりと持ち上げればひなたはどうにか届いたようで、100円玉はカコン、と軽い音で箱に吸い込まれていった。
「うわっ!」
「えっ、ちょっと!大丈夫!?」
「いてて......おー!全然平気!」
降りるときに少しバランスを崩したようだったけど、どうにか無事に目的を達成する。受け取り口に1枚の小さな紙が置いてあり、手を伸ばすと簡単に取れた。
ぼくたちはふたりでそれを覗き込み、紙をそっと開く。
「お!『大吉』じゃん!スゲー!」
大きく書かれた文字は、きっとすべてのおみくじの中で一番運勢がいい大吉だった。
「えっと......『総合運』は『運気はひらけ、よい方向へ進む。迷ったときは己を信じろ』だって」
「『友情運』は?」
「『友情運』は......『よき縁すでにそばにあり、語らい笑い合ううちに、絆は深まる』だってさ」
「えっ、それってオレたちのことじゃん!」
読みながらぼくもそう思ったけど、なんだか照れくさくて言えなかった。でもひなたは、こういうことを素直に言葉にできるんだ。
その度にぼくは、なんだか心がくすぐったくなって、少しだけ苦しくなる。でも、それが心地よくもあった。
「そうだ!このおみくじさ、ふたりのだから......わけるぜ!」
そう言ってひなたは、おみくじをタテに引き裂いてしまった。さすがに驚いて大きな声が出てしまう、まさかおみくじを破くなんて。
「えっ!?ごめん、ダメだったか!?」
「いや......あはははっ!すごいね、キミは。普通やらないよ、こんなこと」
こういう行動を、奇想天外っていうんだろうな。ぼくにはとても思いつかないその行動に、笑うことしかできなかった。
「それって、褒めてんのか?......ほら、こっちの『大』の方、やるよ!」
「ふふ、ありがとう。宝物にするね」
***
楽しい時間はあっという間で、いつの間にか空は真っ赤に染まっている。ぼくたちはベンチに座りながら、町の景色を眺めていた。
「ここから見る夕焼け、キレイだよな」
「そうだね」
キレイなのは本当だった。でも、きらいだ、夕焼け空なんて。
だって夜が来る前に、ひなたとお別れしないといけないから。
「そろそろ帰るか!」
「......うん」
ひなたはランドセルを背負って、ベンチを下りる。鳥居の方へ歩き出し、突然立ち止まった。
「......んん?」
「なに、どうしたの?」
「なんか今......誰かいたような気がすんだけど、気のせいか?」
雑木林の方を指さして、ひなたは首をかしげる。
「気のせいじゃない?ぼくたちが来てから、誰も来てないでしょ」
「そうだよな......気のせいだろ、多分!」
ぼくたちは神社を出て、山を下りていく。また明日、と約束を交わして、それぞれの家に帰っていった。
──しかし、次の日。ひなたが神社に来ることはなかった。
ぼくは、何時間も、何時間も待った。夜になって、お母さんや先生たちが探しに来るまで、何時間も待っていた。
ひなたがいない、と大人たちに言うと、みんな揃って「そんな子はいない」って言うんだ。そんなのうそだ、と思っても、本当に、ほんとうに、ひなたはこの世界からさっぱり消えてしまっていた。
次の日も、その次の日も、いつまでたっても、ひなたはもうぼくの前に現れなかった。
──あぁ、キミは、一体どこに行ってしまったの?
カムパネルラのように、いなくなってしまったんだ。でも、彼の方が幾分かマシだろう、だって、いなくなってしまったことをみんなに悲しんでもらえる。
でもひなたのことは、誰もおぼえていない。どうしてだか、ぼく以外、誰も。
キミはもう、ぼくの心の中にしかいないの?どうして。
どこに行っちゃったの?ぼくのたったひとりの、友達なのに。
それからぼくは、宮沢賢治を読まなくなった。
だって、ぼくにはもう「ほんとうのさいわい」なんて、見つかりっこないと思ったから。
キミを忘れてしまったこの世界に、さいわいなんてないよ。
ぼくは、ぼくだけは、キミを忘れたくない。
忘れちゃダメだ、絶対に。
だって、ぼくがキミを忘れたら、キミが本当にいなくなってしまう。
──だから僕は、大人になんてなりたくなかった。
でも僕の意思とは正反対に、体はどんどん大きくなって、歳をとってしまう。
このまま大人になって、いつかキミのことを忘れてしまうくらいなら。
それなら、いっそ、もう。
***
僕たちは肝試しをしに、八臣神社を訪れた。
尤もそれは体のいい嘘で、本当はただ、10年前──ひなたが消えてしまったこの日に、もう一度この神社に行こうと、そう思っただけ。
晴樹を誘ったのは、ただのきまぐれだった。別にひとりで行ったってよかった、でもなんとなく、彼なら断らないと思ったから誘ってみただけだ。
どっちにしろ神社に行って何をするわけでもなかったし、ひとりで行っても誰かと行っても、あまり違いはなかったんだ。どうせ、誰もひなたのことを憶えていないんだから。
「ちょっと……なにしてるの、晴樹」
しかし、今日の彼はなんだか様子がおかしい。正確には放課後から突然おかしくなった。
肝試しを提案するや否や、まるで僕を急かすように図書室を飛び出し、神社に向かった。途中で何故かバスを降りるおばあさんが転ぶことが分かっていたような動作で、転ぶ前に受け止めていたりしたし。普段の彼はもっとどんくさくて、反射神経がいい方ではない。
神社に着いてからも、やっぱり変だ。一通りのお参りの作法は知っていたようで、それを済ませると当然のように社務所の窓から中に侵入して、一冊の古い本を取って戻ってきた。
おかしい、彼がこの神社に来るのは初めてのはずなのに。
「なぁ、修一……ちょっとこれ見てくれ」
晴樹は古い本の1ページに定規を差し込み、慎重に開く。どうやら糊付けされている部分を剥がしているようだ。
「……なにこれ?」
「これ、この神社の歴史が書いてある『社秘記』なんだけど、この部分に大事な儀式のやり方が隠してあるんだ。で、暗号みたいなのが書いてあって……」
「ちょっと待って、なんでキミがそんなこと知ってるの?」
「えっと、それは……あ、あとで話す!」
じ、と晴樹の顔を見てみれば、かなり焦っている。まるで僕に指摘されて都合が悪いように見えた。でも、ふざけたり悪戯しているわけではなさそうだ。
「……わかった。で、どれ?」
開かれたページを見ると、確かになにか書いてある。
「これ、なんだけど……」
「『神は逢魔刻には願いに気付かない、死角は足元に』……これがなにかの暗号なの?」
「たぶん、そういうことだと思う」
こういう謎かけには大抵法則性があるはずだ。でも、一見特にそういった類のものは見つからない。その場合、まずは「何かを表している」と思われる文章を抜き出してみる。
カバンの中からノートを取り出し、白紙のページに気になる単語を書き出してみた。
「この『逢魔刻』っていうのは、魔物や悪魔が現れる時間帯のことで、大体午後5時から6時頃を示してるんだ。で、この『死角』っていうのはおそらく『見えにくい場所』とか、あるいは『影』と結び付けられることも多いね。……この『足元』っていう言葉と合わせる意味でも、影だと考えるのが自然かな」
「おぉ、すげぇ」
影は時間帯によって方角や長さが変わる。謎解きにはよく使われる仕掛けだ。
「つまり、この文章を合わせると……『午後5時から6時』に何かの『影』が示しているところが、隠し場所なんじゃない?」
「なるほど……午後5時だとすると、もうすぐじゃねーか!」
「何の影なのかは、この『神』っていう一文が表してると思うんだけど……難しいな、神社は境内全体が神域だから」
普通に考えれば本殿そのものを指しているのかと思ったが、影を生み出すという意味では難しい。社殿全体の影と区別がつかなくなってしまって、謎解きの答えとしては曖昧だ。
境内にあるもので、わかりやすく影が生まれて、神と形容できるもの、といえば。
「……御神木?」
「えっ、あ!『神』って付くからか?」
「そうだね、御神木はそもそも『神の依り代』として祀られているとされてるし」
御神木の影が伸びて、示している場所。目で追ってみれば、そこにあったのは──「狛犬」だ。向かって右側の狛犬だから、阿吽の「うん」の方。
そういえば、ひなたは昔この狛犬を見て「なんか猫に見えるな」と言っていたっけ。
「ほら、これを指してるんじゃない?」
「これって、『狛犬』か?」
「そう。多分この御神木の影、他の時間帯だと角度や長さでこの狛犬には届かないよ」
「なるほど……なんかこの狛犬、猫みたいじゃね?」
ひなたと晴樹は、感性が似ているのかな。晴樹と話していると時折こんな風に、ひなたのことを思い出すときがある。
その度に僕は──まるで、脳みそや心臓、臓器全部を鷲掴みにされたみたいに、苦しくて、息ができないくらいに、苛立たしい。
その瞬間に、自分の中のひなたが薄くなってしまうんじゃないかって。そして、そんな瞬間が多くなれば多くなるほど、僕はひなたのことを──忘れてしまうんじゃないか、って。そんな気がしてならない。
「……なぁ、おい!修一!」
「あ、ごめん……どうしたの?」
「ここ、この下!狛犬の下調べてたんだけどさ……なんか開きそうなんだよ、これ」
「そうなの?じゃあそこになにかあるんじゃない?」
晴樹のそばに、いつの間にか猫の「ひなた」がいる。この神社まで散歩に来るなんて、知らなかったな。
そういえば、この名前だって晴樹が付けたんだ。全くの偶然なんだろうけれど、それにしたって出来すぎている。
でも、そのおかげで僕は──もう一度、彼の名前を口にした。この世界にまた、ひなたの名前を浮かべることが出来たんだ。そのことには、感謝しているつもりだ。
「蹴り飛ばせ!?お前な、無茶言うなって!」
「……そんなこと言ってないけど」
「あっ、いや、ちげーって!そうだよな、開かないか確かめてみるわ」
晴樹はしばらく頭を抱えて、やがて何かを探すように地面を注視し始めた。何故かひなたも近くを歩き、時折「それじゃ小さいって!」などと猫に対してツッコミを入れている、ように見えた。かなり奇怪な行動をしている。
やがて鋭利な石を見つけ、晴樹は狛犬の下部にある石の台座に差し込み、梃子の原理で蓋を開けた。
「……おー!やっぱここっぽいな!」
晴樹は物怖じもせずに台座の中の空間に手を入れ、何かを取り出す。それは、A5サイズくらいの黒い漆塗りの箱だ。
「見つかった?」
「あぁ、多分……ここに隠してある」
晴樹は相変わらず真剣そうだ。やっていることは正直異常にしか見えないけど、あの謎解きだって実際に何かが隠されていた。
箱を開く動作にも力が入っているし、きっと晴樹にとっては重要なことなんだろう。ひなたも興味があるようで、晴樹のそばでおとなしく座っていた。
「えっと……『名呼ビノ次第』?あと、これは……木札だ」
「なにそれ」
「こっちの紙には儀式のやり方が書いてあって……この木札は、それに使うんだと思う」
「で、それはなんのための儀式なの?」
正直、晴樹がどうしてこんなことをしているのか、さっぱりわからない。突然神社の中を漁りだして、儀式だなんだの言って、僕にはわからない話をしている。
さっきは「あとで話す」と言っていたから、協力したんだ。そろそろ教えてくれたっていい。
「あー、えっと……あのさ、信じられないかもしれないんだけど」
「キミ、もうだいぶ突拍子もないことしてるからさ。なに言っても驚かないよ」
「……わかった、話す」
晴樹は一度箱の中身を戻し、それを持って立ち上がる。きっと短い話ではないのだろう、場所を移動するようだ。ベンチに向かって歩きながら、彼は真剣な目を僕に向ける。
「あのな、この儀式は……『ひなたを神にする』ための、儀式なんだ」
「……ひなた?猫のひなたを神にする儀式?」
ひなたは、僕らのあとをついてくる。まるで話を聞いているみたいな仕草だ。
晴樹が知っているのは、猫のひなただけだ。だから、彼の口から出てくるひなたは、それ以外にはあり得ない。
しかし、何故か晴樹は首を横に振る。そんなわけないのに。
「あのな、『ひなた』っていうのは……修一、お前の友達の『ひなた』のことだよ」
そんなわけない、だってひなたのことは、僕しか憶えてないんだから。
晴樹が知ってるわけがない、だってキミはあのとき、この町にはいなかった。それに、僕がひなたと遊んでいたことだって、そんな名前の友達がいたことだって、キミには話してない。
僕が簡単に、ひなたの話をするわけがない、だって、だって彼は、僕にとって、誰にも触れられたくない大切な存在だから。
確かに、晴樹のことは気に入ってるよ、それは本当だ。キミは今の僕にとって大切な友達であることに変わりはない。だから今、ここにいるんだ。キミだったらこの場所に一緒に来ても、いいと思ったから。
でも、でもさ。だからって、キミが「ひなた」の話をするのは、違うじゃんか。僕にとって一番、いちばん大切なんだ、僕しか憶えてない、そんな彼のことを。
「……どうして、キミが『ひなた』を知ってるの?」
「どうして、って……えっと、その、いろいろあって」
「『いろいろ』ってなに?ねぇ、もう僕しか憶えていないはずなんだよ、それなのにどうしてキミが『ひなた』を知り得るの?」
「それも、ひとつずつ話すから……」
「そもそも『ひなたを神にする』って、どういう意味?ねぇ、キミはひなたのなにを知ってるの?ひなたがどうしていなくなったか、どうしてあの日神社に来なかったのか、知ってるって言うの?」
「……あの日、ひなたは『来なかった』んじゃない。お前より早く神社に来てて……そして『神隠し』に遭ったんだ」
「……は?」
ひなたが「神隠し」に遭った。
それは僕がこの町の歴史を調べて、勝手にこじつけた「妄想」だ。そのはずだった、だって、そうじゃないと、彼が消えてしまった理由がわからないから。
でも、目の前の晴樹はそんなこと知らない、知らないはずだ。
「で、そのとき……修一、お前が境内にいた。だからお前は……ひなたが神として迎えられる瞬間に、唯一『神域』にいた存在だ」
なにを言ってるのか、さっぱりわからない。神?迎えられる?神域?
晴樹がなにを言ってるのか、僕にはさっぱりわからない。
「今のひなたはまだ儀式をやってないから、神として中途半端な存在になってるんだ。だから、修一……『ひなたを神にする儀式』は、お前にしか出来ない」
ふざけてる、そんなの、そんな、だって。
キミの言っていることがもしも本当だったら、ひなたは、ぼくの大切な友達は──あの日突然消えて、神様として迎えられたっていうの?
儀式をして、本当の神様にすることは、神域にいた僕にしかできない?
だって、だって僕はひなたに「神様」になんてなって欲しくない、どうしてひなたがそんなものにならなきゃいけないの。どうして?
ひなたはただの人間で、ぼくのたったひとりのともだちで、なによりもたいせつだった、それなのに。どうして、どうしてかみさまになんか、ならなきゃいけないの?
いやだ、ぼくは、ひなたをかみさまになんて、したくない、そんなの絶対にいやだ。
「……キミが、どこでひなたのことを知ったのかしらないけど、さ。僕がそんなこと、すると思う?」
「え、だ、だって」
「だって、なに?そんな風に、簡単に……ひなたの話を、しないで!」
晴樹がふざけているわけではないことは理解していた。きっとちゃんと、根拠のある話をしている。もしかしたら、僕の知らないところでたくさん調べて、悩んで、辿り着いた結論なのかもしれない。
でも、だとしても僕は、許せなかった。まるで僕の心の中に土足で入り込んで、ひなたを連れていこうとしているみたいな、そんな感情が溢れて止まらない。
自分でも冷静ではないと、自覚はある。それでもこれは抑え込めるような衝動ではなかった。まるで堰を切って溢れ出る水のように、どこまでも流れていく。
「キミに、僕のっ……ひなたの、なにがわかるの!?僕がどんな気持ちで、彼のことを想ってるかも知らないでっ、勝手なこと言わないでよ!」
晴樹は、驚いたように僕を見ている。それもそうだ、今までこんな風に声を荒げたことなんてなかった。こんな風に感情むき出しで、涙が溢れるのにも構わずにキミを睨みつけたことなんて、ない。
「ひなたはっ、ひなたは……ぼくにとって、」
言葉が詰まって出てこない、涙で前が見えない、嗚咽が喉に痞えて、息ができない、あれ、おかしい、ほんとうに、いきができない。
まるで首を絞められているように、気道が塞がっている。脳に酸素がいかないようで、視界は暗く、暗転していく。体勢を崩して倒れこめば、心配した晴樹がこっちに向かってくる足音が聞こえてきた。
──あぁ、そっか、やっと連れて行ってくれるのか。
このまま死んだら、きっと会えるよね、ひなた。
人間って、おわりの瞬間はこんな風に、ほっとした気持ちになるんだな。
やっと僕にも、南十字星行きの切符が手に入ったみたいだ。
