きらいだ、夕焼け空なんて。


 時刻は午後9時、晴樹は自室で思考を巡らせていた。
 今日の不可思議な出来事について──単なる「夢」で済ませてしまうには、あまりにも現実味を帯びていたからだ。

 何度考えても、確かに神社を訪れて、確かに修一が死んでしまうところを、見た。
 あまりにも唐突に起こった得体の知れない力によるそれは、まるでなにかの呪いのような。そんな突拍子もないことを考えてしまう程には、受け入れがたい出来事だった。


「結局、断っちゃったな……」


 あの時。修一の死を目の当たりにし、気が付いたら「神社に向かう前」だったことを不思議に思いつつも、晴樹は修一の「神社に行く」という誘いを断った。
 断ったうえで、彼にも「今日は絶対に神社に行くな」と強く念を押した。最初は戸惑い、不服そうだったが、最終的には「なんかふざけてるわけじゃなさそうだし、わかったよ」と納得してくれた。

 単なる夢なのかもしれないが、もしそうだとしてもその夢と同じ状況になってしまうことに少なからず恐怖を感じたのだ。
 神社に行って死んでしまうのなら、行かなければいい。答えは至極単純だった。

 今こうして何事もなく自室にいられることに、安堵の一息を吐く。腰かけていたベッドにそのまま倒れると、重力に逆らわずに落ちてくる瞼に抗えず、意識はだんだんと遠くなり──


「……っ!」


 突然、スマホの振動とコール音で現実へと引き戻される。振動と音を頼りに手探りで探すが、なかなか見当たらない。指先にコツンと当たった感覚がしたが、勢い余ってベッドの上から落ちてしまった。
 床に落ちたスマホを見ると、液晶画面に見知った名前が表示されている。


「修一……?」


 着信画面に表示されていたのは、槙修一の名前だ。途端、晴樹の鼓動は早鐘を打つ。胸騒ぎが止まらない、これが「嫌な予感」という感覚なのだろうか。
 だって普段の彼はこんな風にいきなり電話などしてこない。晴樹が修一と出会って1年以上経つが、こんな時間に向こうから電話がかかってきたことなんて一度もなかった。
 それでもその画面に彼の名前が表示されている以上、どんなに嫌な予感がしても出ないわけにはいかない。


「……も、もしもし」


 スマホに耳を当てて相手の声を聞く。しかし、何も聞こえない。無音が続く。
 いや、よく耳を澄ますと僅かに何か聞こえてくる。


 ゴッ、ガコッ、ゴキッ。ぐちゃっ、ガッ、ドン。


 得体の知れない奇妙な音が響き、咄嗟に耳を離す。これによく似た音を最近どこかで聞いた。
 そうだ、あれは──人間の首の骨が、折れる音だ。


「修一!なぁ、おい!!」


 咄嗟に叫ぶが、返事はない。それどころか、音は止まずに鳴り続けている。
 晴樹は通話を繋げたまま、自室を飛び出した。



***



「はぁっ、はぁ……」


 向かう場所はひとつだった。神社に入るための石段を目の前にして、昼間に見た光景が夢ではないことを確信した。この場所には来たことがないはずなのに、晴樹はこの石段を上ったことがある。


「なんで、なんでなんでっ……!」


 荒い呼吸を整える余裕もないまま、石段を駆け上がる。スマホの奥では未だに不気味な音は鳴り止まない。
 何かが折れる音、砕ける音、飛び散る音、湿った肉を叩きつける音──そのどれもが生々しく、想像してはいけないと脳が警鐘を鳴らしている。
 やがて赤い大きな鳥居をくぐったところで、その音はスマホ越しではなく、この境内に響いていることが明らかになった。


「……な、なんだよ、これ」


 宙に浮いた無数の腕が、肉の塊のようなものを地面に叩きつけている。持ち上げて、叩きつけて、持ち上げて、叩きつけてを繰り返して、その度に周囲の地面にはなにかが飛び散って、転がる。
 一体それがなんなのか、全く理解できなかった。いや、理解したくないと、全身の細胞が叫んでいる。

 すくんだ足がなにか硬いものを踏んだ。修一が使っていたスマホだ、通話中になっている。


「うっ……ウソだろ、こんな、」


 目の前で起こっている光景が、信じられない。
 未だ繰り返される動作に視線が釘付けになる、よく見ればその肉塊からは彼と同じ黒い髪がはみ出していたし、周囲には人間の手足のようなものが、無造作に落ちていて、再び地面に落ちた肉塊を、無数の手が──子供のような小さな手が、高々と宙に持ち上げ、落とす。



 ──こんなの、見てはいけない。人間が見て正気を保てるわけがない、こんな、こんなおぞましい光景は。意味が分からない、どうしてこんなことになっているんだ、どうして、なんで、なにをしたっていうんだ、修一がなにをしたんだよ、なぁ。



 誰の目から見ても、もう絶対に助からないことは明白だった。原形を留めてすらいない、元が人間だったなんて信じられないほどだった。

 なら、どうしたらいい?どうしたら、彼を救える?
 晴樹の持ちうる知識の中には、この状況を打破する方法が存在しなかった。


「そうだ、あの時は……」


 あの時。今日の「夢」を思い出す。あの時は修一が死んだときに、助けを呼ぼうと鳥居をくぐって、山を下りようとしたんだ。そして、気付いた時には「神社に行く前」の時間に戻っていた。

 もしもあれが夢ではなく、もしも本当に、この鳥居をくぐることで時間が巻き戻るとしたら?普段ならそんな漫画やアニメのようなフィクション、絶対に信じないだろう。
 でも今はそんな奇跡にも縋ってしまいたいほどに、冷静さを欠いている自覚があった。


 ──神様でも、悪魔でも、なんだっていい。
 存在するのなら、どうかアイツが死ぬ前に、時間を戻してくれ!


 晴樹は地面を勢いよく蹴り飛ばし、鳥居をくぐって神社を出た。



***



「町外れにある神社にさ、幽霊が出るらしいよ。肝試しに行かない?」


 そして意識は再び、ここに戻ってくる。
 晴樹の鼓動は未だ落ち着かず、大きく肩で息を吸い、吐くを繰り返していた。


「お前、本当になんともないのか……?」

「な、なにが?」


 前のめりになって目の前の顔を覗き込む晴樹の顔は真剣そのもので、修一は突然の反応に戸惑いを隠せない。
 先程までただ普通にいつも通りの時間を過ごしていたのだ、しかし晴樹の顔はまるで信じられないようなものを見たかのように困惑と焦燥で溢れていた。


「ちょっと、大丈夫?顔色悪いよ」

「いや……はは、なんともないなら、いいんだ」


 晴樹は時計を確認する。図書室の時計も自分の腕時計も、時刻は午後4時を指していた。
 やはり時間が戻っている──そのおかげで、修一の命を助けることができたのだ。

 「悪夢」のような体験だった。もうあんな思いは二度とごめんだ、と晴樹は安堵する。これで一安心だ、だって今確かに、彼は生きている。


「で、話聞いてた?町外れの神社に、肝試しに行こうって言ったんだけど」


 修一のこの提案を聞くのも、実質3回目だ。
 今まで経験した2回の死が本当に起こったことで、時間が戻ったことにより「なかったことになっている」のだとしたら、彼が同じことを言うのは当然だ。
 先程は「行かない」ことを選んだが、それでも彼は──死んでしまった。思い出すのも憚られるような、異様で醜悪な方法で。

 なら、どうすればいい?どうすれば、修一は死なない?
 晴樹は思考を巡らせるが、答えなんて出るはずもなかった。


「ねぇ、本当に大丈夫?おなかでも痛いの?」


 考えてもわからない。ただ、時間は戻ったのだから、もう何事もなく時間が過ぎて、修一にはなにも起こらないはずだ。
 だってこれはきっと、彼の命を助けるために神様か悪魔か、そんな不可思議な存在が願いを叶えてくれた結果なのだから。
 そうだ、そうに違いない。晴樹は堂々巡りになりそうだった思考を止め、楽観的に考えることにした。

 それなら、今度は「修一が無事でいること」をちゃんと確かめなければならない。一瞬たりとも目を離さず、見守らなければ。


「わ、わりぃ!えっと、肝試しだっけ?」

「そう、たまにはオカルト同好会らしい活動でもしようかなって思うんだけど、どう?」

「……お前が行きたいなら、俺も行くよ」

「え、なんか意外だな。行きたくないって言うと思ったのに。だって、幽霊とか怖いでしょ?」

「いや、まぁ……はは」


 確かに幽霊は怖いが、それよりも「修一が死ぬ方が怖い」と、晴樹は気付く。
 実際、彼の身に何か起こったのかと思ったら、本来なら不気味だと嫌悪するはずの夜の神社に行くことにすら、躊躇いは無かったのだ。

 しかし、思った反応とは違う晴樹を見て、修一は不服そうに唇を尖らせる。


「やっぱなんか変だよ、晴樹」

「い、いや?変じゃないけど」

「何か僕に隠してること、あるでしょ」

「別に、無いって!」


 言えるわけがない、本人に面と向かって「お前が死んで、気が付いたら時間が戻っていた」なんて。そもそもそんなこと信じてくれるわけがないし、ウソにしては趣味が悪すぎる。


「と、とにかく!ほら、神社行くんだろ?」

「……なんか引っかかるなぁ」


 明らかに修一が納得していないことに気付いてはいたが、晴樹には強引に誤魔化すことしかできなかった。

 そうして、三度(みたび)あの八臣神社へ向かうことになる。



***



 神社に向かうまでの道中は、やはり見覚えのある光景ばかりだった。商店街にある和菓子屋で葛アイスを買い、停留所に留まったバスから降りてきた老人が転び、修一が図書館に本を返しに行き、そして、この石段の前に立つ。
 間違いない。やはり時間が戻って再び繰り返しているんだと、晴樹は確信した。
 何故、どうして、と疑問は溢れるが。それよりも今はとにかく、決して同じことを繰り返さないように細心の注意を払って、無事に今日を終わらせることが目標だった。


「段数多そうに見えるけど、大したことないよ」

「100段もない……だろ?」

「あれ、来たことあるの?」

「い、いや、なんとなく、そう思っただけ」

「ふーん、なんとなく、ね」


 修一は学校を出てからずっと、少し面白くなさそうな顔をしている。もちろん晴樹は気付いているが、そんなことよりも今は彼の一挙一動を見逃さずにはいられない、と観察している。修一にはそれがまるで強く睨みつけているように感じて、更に気に食わない要因のひとつなのだが。

 石段を上がって、件の鳥居をくぐる。特になんてことはない、普通の鳥居だ。最初に来た時と何も変わっていなかった。
 でも確かに1度目も2度目も、この鳥居から神社の外に出た瞬間から意識が飛んでいて、図書室で話していた午後4時に時間が戻っていた。であれば何か特別な力があるのではないかと晴樹は疑ったが、考えたところでさっぱりわからない。


「ちょっと、鳥居の真ん中を歩いちゃいけないんだって。くぐり方教えようと思ったんだから、先に行かないでよ」

「あっ、わりぃ……」


 晴樹は神社での礼儀作法を彼に教えてもらう流れだったことを忘れ、何も考えずに境内に入ってしまった。修一は呆れたように溜息を吐く。


「鳥居の真ん中は『神様の通り道』だから、人間である僕らは端っこを通らないといけないんだよ」

「そ、そうなのか」

「そう。だから今、キミは神様に失礼なことをしたの。反省するように」

「すんません……」


 修一はそのまま手水舎へ向かい、晴樹に心身の清め方を教える。晴樹は一度聞いたはずだったがすっかり覚えておらず、言われるがままに手順を踏んだ。
 参拝の流れも同じだ、修一は躊躇いもなく500玉硬貨を賽銭箱に入れ、晴樹はその後に5円玉硬貨を入れた。


「よし、これで挨拶は終わったね。それじゃ、幽霊とか……何か面白いもの見つけたら、教えてね」


 そうだ、前の通りだとここから晴樹と修一は別行動をした。もしかすると、その間に何かがあったのかもしれない。
 とにかく今は彼から目を離すわけにはいかないのだ、晴樹は提案をする。


「ちょ、ちょっと待てって!……あれさ、何が書いてあるか見てみようぜ」

「あれって、掲示板のこと?」

「そうそう!俺、この神社のこと全然わかんねーからさ……教えてくれよ」


 苦し紛れに出た言葉だったが、確かに気になることもあった。あの掲示板には晴樹の知らない行事が書いてあった、幼い頃からこの町に住んでいる修一なら何か知っているだろうか。


「教えるもなにも、別に普通の神社だけど」


 ふたりは掲示板の前まで歩く。とりあえず晴樹の狙い通り、別行動は避けられたようだ。


「ほら、これ……『七つ参り』って、知ってるか?」

「あぁ、これか。この町で昔から行われている風習だよ。7歳になったら、神社に行って神様にお礼をするんだ」

「七五三みたいなもんか?」

「まぁ、大体同じかな。七五三も『七つ前は神のうち』だから、無事に7歳まで成長できたことを節目で祝う行事でしょ?」

「『七つ前は神のうち』……?」

「聞いたことない?昔はいろいろ大変で、子供が無事に成長できるかわからなかったんだって。だから、7歳までは神様から預かって育ててた、って認識だったらしい」


 七五三、という行事は知っていたし、晴樹自身も写真を撮って祝った記憶がある。だが、そこまで重たい由来があるとは知らなかった。


「七つ参りも、神社に行って神様にお礼を言う行事だから大体同じだし、僕は七五三と一緒にやったよ」

「あ、お前もやったんだ」

「そりゃ、この町の風習だしね。でもその頃にちょうど花守神社ができたから、そっちでやったけど」


 花守神社ができた頃ということは、徐々にこっちの八臣神社には参拝客が来なくなった頃だろうか。


「じゃあさ、お前もこの神社に来たのって、そんなに多くないの?」

「……そうだね、何回か、だけだよ」


 ぴり、と一瞬空気に緊張の糸が混ざった気配がした。やはり、修一が噓をつくとすぐにわかる。
 うまく言葉にできないが、その声色から痛みのような──鼓膜を刺激する感覚を覚えるのだ。特に昔の話をするときにこの感覚になることが多い、と晴樹は経験則で感じる。

 この神社へ最初に訪れたときに聞いた問いかけに対する「なにもないよ」という返答と今の言葉を踏まえると、おそらく晴樹には言いたくないなにかを隠しているのだろう。
 修一は晴樹に対して隠し事を疑っていたが、晴樹にとっては「それはこっちの台詞だ」と言ってやりたくなるような態度だった。


「じゃあ、僕は向こう見てくるから」

「え、ちょ、待てって!……あ、あっち見てみようぜ」

「あっちって……社務所?開かないと思うけど」

「でも、窓があんじゃん!中がどうなってるか覗けるかも……」

「よくわかんないけど、随分乗り気だね」


 別に、肝試しに乗り気なわけではない。晴樹は修一に単独行動を取らせたくなくて必死なだけだ。でもこの際、それが叶うならどう思われたってよかった。

 社務所の方まで歩けば、年季の入った木造の建物が佇んでいた。大きな屋根に、大きなガラス戸が特徴的な建物だ。その下はカウンターのようになっていて、おそらくここでお守りやお札を売っていたのだろう。
 中はカーテンのようなものが閉まっていて、戸の中央には張り紙が貼ってある。


「えーっと、『八臣神社の御守の授与を希望される方は、花守神社までお問い合わせください』って書いてあるな。中は覗けねーや」

「裏に入口があるんじゃないかな」


 建物の裏手へと歩みを進めた修一に続く。裏には質素な扉がついており、ここが出入口なのだろう。修一は躊躇いもなくドアノブに手をかけるが、固く閉ざされていた。


「やっぱ開かないか。まぁ、まだ管理されてるから閉まってるに決まってるけど」

「お前、なんの躊躇いもなく開けるのな」

「開いちゃったらどうしよう、とは思ったけどね」


 修一は晴樹の突っ込みに対し、茶目っ気のある笑みを浮かべる。
 彼は時々少し幼さが残る仕草をする。それが普段の物怖じしない雰囲気と乖離していて、晴樹は胸の奥の方が少しだけツン、と刺激されたような心地になるのだ。


「あ、晴樹、見て」


 いつの間にか境内に歩みを進めていた修一が声を上げる。その声の方向を見れば、そこには1匹の白猫がいた。
 あの猫は「ひなた」だ、前にもこの神社で見かけた。


「やっぱあいつ、ひなただよな」

「え、本当?確かに白いけど、一瞬見ただけでよくわかったね」

「あっ、いや、ほら……しっぽが見えたから、な?」


 ひなたは白猫だが、しっぽの先端だけほんの少し赤茶色が混ざっている。優雅にしっぽを揺らすその姿を見て、修一も「本当だ」と確信を持ったようだ。


「こんなところまで散歩しに来るの、知らなかったよ」


 ひなたはふたりに気付いたのか、しっぽをピンと上げて近づいてくる。修一の足に頭を摺り寄せ、晴樹の足をくんくんと嗅ぎ、頭をコツン、とぶつけてきた。


「ふふ、よしよし……かわいいね」


 ひなたを撫でるときの修一は、晴樹の知る中で一番穏やかな表情をしている。ひなたも心地がいいのか、ゴロゴロ音が隣にいる晴樹にまで聞こえてくるほどだ。
 修一は手の甲で顎を撫で、その感触を楽しんでいる。


「おやつ食べる?カバンの中にまだあったはず……晴樹、ちょっと探してよ、ポケットに入ってるから」


 晴樹は地面に置いてあるカバンの中を探す。いくつかあるポケットを探れば、小さな巾着の形をしたキーホルダーを発見した。長い紐が付いていて、カバンの取っ手に結び付けてある。
 

「ちょっと、そこじゃなくて側面のポケットだよ。大事なものだからしまっといて」

「わ、わりぃ」


 大事なものということは、紐で結んであるのはやはり失くしたくないからか。晴樹は入っていたポケットの奥へと丁寧に戻す。自分が雑に扱ったせいで無くなってしまったら、修一は悲しむだろう。
 言われたとおりに側面のポケットを調べれば、個包装になった猫用のおやつがいくつか入っていた。


「『ちゅるにゃ~る』と『ねこぷっち』、どっちだ?」

「昼には『にゃ~る』の方をあげたから、今度は『ぷっち』にしようかな」


 晴樹は個包装になったドライフードを渡す。修一曰く少量だがちゃんと「総合栄養食」で、猫に必要な栄養が取れるようになっている。彼なりのこだわりらしい。
 修一は制服のポケットに入れていたウエットティッシュを使って手を拭き、自分の手を皿代わりにして直接おやつを与え始めた。


「ふふ、くすぐったいんだよね、これ」


 手から直接おやつを食べる猫は相当懐いている、と聞いたことがある。ひなたは、晴樹が修一と出逢った時から既に懐いていた。晴樹にとってこれは、見慣れた光景だった。
 ひなたはおなかが空いていたのか、カリカリと音を立ててあっという間に平らげてしまう。
 修一が立ち上がると、猫特有の軽快さで身を翻して歩いていった。


「さ、幽霊はいなかったけど……そろそろ帰ろうか」


 修一がふと放った言葉は、途切れることなく正常に届いた。
 前回はこのタイミングで異常が起こったのだ。今度はどうやら大丈夫そうだと、晴樹は安堵する。


「そうだな……もうそろそろ日が暮れるだろうし」

「暗くなったほうが、幽霊は出やすいかもしれないけどね」

「でも危ないだろ、あんな石段下りなきゃないんだから」

「それもそうだね、仕方ないか」


 修一は晴樹に背を向け、境内から鳥居へ向かう。
 1歩、2歩と歩みを進め、晴樹もその後を追おうと歩き出した──その、瞬間。


「げほッ、」


 突然、修一が咳をする。


「ごほっ、がッ……ぐ、げほっ、えっ、ぐあッ……!」


 一度ではない。何度も、なんども咳き込み、それはだんだんと水泡音を含んで大きくなっていく。
 まるで喉の奥から何かを吐き出しているような、そんな不快な音が境内に響いて、晴樹の内耳を揺らす。


「お、おい……!どうした!?」


 慌てて駆け寄れば、修一は大きく体を曲げ、地面に向かって吐瀉物を散らす。
 それは、真っ赤に染まっていた。半固体のようなドロドロとしたモノも混ざっていて、修一は自分が吐いたそれの上に崩れるように座り込み、ゆっくりと顔を上げる。


 「……は、るき」


 彼の口、目、鼻、そのすべてから大量の赤い液体がドロドロと流れている。呻くように発したその名前はかろうじて音を保っていたが、それもすぐに苦しそうな吐瀉音に変わっていく。
 ごぽごぽ、と喉の奥から何かが迫り上がる音が鳴り、修一は大量の液体を吐き出した。周囲に広がるのは、鼻腔の奥まで侵入してくる鉄臭い刺激臭だ。

 修一はそのまま崩れ落ち、ピクリとも動かなかった。



「う、うわああああッ……!!」



 ──おかしい、こんな意味が分からない死に方、おかしいだろ、だってなんの兆しもなかった、さっきまでこんなことが起こる予兆なんてひとつも無かっただろ、なのに、どうして!今度こそ、修一から目を離さずに、何も起こらないようにずっと見てたはずだ、それなのに、届かない、目の前にいたのに、俺はまた、お前を助けられなかった、どうして、なんでなんでなんで!!



「うッ、うええぇ……」


 あまりの光景に耐えきれず喉の奥から嗚咽を漏らせば、そのまま地面に吐瀉物が飛び散る。晴樹のそれは、至って正常な形状をしていた。


「はぁっ、はぁ……うう、なんで、なんで」


 口の中に広がる饐えた感覚と、眼孔を濡らす涙の感触。それが今の晴樹の理性を繋ぎとめる命綱のように思えた。
 それがなければもう、とっくにおかしくなっていたかもしれない。


 まただ、また駄目だった。修一は、晴樹の目の前で、死んでしまった。これで3回目だ。
 晴樹はすくんでしまった足をどうにか動かし、力なく立ち上がる。


「……また、戻らないと、」


 吸い込まれるように、鳥居へと向かう。これでは意味がないからだ、彼が死んでしまっては、時間が戻った意味がない。

 ならばもう一度、戻らなければ。
 きっとまた、この鳥居をくぐれば──今日の午後4時に戻れるはずだ。

 鳥居をくぐる瞬間、後ろ髪を引かれたように振り返る。そこにはやはり修一が崩れ落ちていた。
 そのそばに、ひなたが近づいてきている。


「ごめんな、お前も……悲しいよな」


 ひなたは声に反応したのか、まっすぐと晴樹の瞳を見据えていた。
 その視線を背に、晴樹は三度、鳥居をくぐった。



***



「町外れにある神社にさ、幽霊が出るらしいよ。肝試しに行かない?」



 時刻は再び、午後4時。
 晴樹はまるで「悪夢」のような、信じがたい現状を受け入れる他なかったのだ。

 未だ、呼吸は荒いままだった。