大人になんて、なりたくなかった。
だって大人になったらさ、ぼくが今こうして、キミに会いたくて、会いたくて、泣き疲れてしまったことも、きっと忘れてしまうんでしょ。
大人になったらさ、もう二度とキミに会えないことを、わからなきゃいけないんだ。
だからぼくは、ずっとこのままでいたかった。
キミがいない未来なんて、そんなものはいらない。
だって、きっと大人になったぼくには、この気持ちはわからない。
忘れちゃうんだ、いちばんたいせつな、キミのこと。
それならもう、僕のことを連れていってよ。
キミが今どこにいるのかも、わからないけれど。
キミがいない、こんな世界で生きるくらいなら、僕は、
***
「町外れにある神社にさ、幽霊が出るらしいよ。肝試しに行かない?」
時刻は午後4時を過ぎた、放課後。
今日の活動場所である図書室にて、黒髪に眼鏡をかけた槙修一は目の前にいる後輩へ言葉をかける。
それを受けて顔を上げた、爽やかな緑の髪をした城本晴樹は、覗き込んでいたスマホの画面から目を離し、彼の顔を見た。
「……き、肝試し?」
「僕たち、オカルト同好会でしょ?たまにはまともな活動しようよ」
ふたりはオカルト同好会に所属している。といってもメンバーは部長の修一と部員の晴樹しかおらず、活動内容もかなり適当だ。専用の部室もないので日によって図書室や屋上、中庭なんかを活動場所にしている。
今日もいつも通りに放課後に集まり各々で時間をつぶしていたところだったが。目の前の修一による突然の提案に、晴樹は思わず物怖じした。
「今までそんなこと、したことねーじゃん。なんでいきなり、き、肝試しなんか……」
「思ったんだけどさ。こうして子供みたいに自由に過ごして、思い立った時に肝試しに行ったりできるのも、あと少しだなって。だから、ちょっと付き合ってよ」
「い、いや、でも、えーっと……」
正直、全然行きたくない。晴樹はしどろもどろに口から音を漏らして、修一の目を見ないように視線を泳がせている。自然に断る文句が浮かんでこず、どんどん居心地が悪くなるのを感じたが──そんな彼の様子を見ながら、修一は少し口角を上げて頬杖を付く。
「……へぇ、幽霊が怖いんだ?」
「っ……!」
図星を突かれた晴樹は、唇を噛んで眉をひそめる。目の前の先輩をじっと睨みつけ、うう、と小さくうめき声を上げた。
晴樹は幽霊や超常現象、その他様々なオカルトなんかにはまるで興味がない。むしろ、人一倍怖がりで臆病な自覚があった。
幽霊が出る神社に肝試し?そんなの、絶対に行きたくない。そんな彼がなぜオカルト同好会に所属しているのか。それには、別の理由がある。
「べ、別に……怖くねーしっ」
「ふーん、そうなんだ。じゃあ行こっか」
「っ、少しだけだからなっ!」
「わかってるよ、怖いんだもんね」
「だからっ!怖くねーって!」
軽く押し問答をしたが、晴樹に拒否権は無いようだ。
でも確かに修一の言葉は正しいのだろう。彼は今高校3年生で、来年にはこの町を出て行ってしまう。後輩の晴樹は、その背中を見送らなければならないのだ。
だとしたら、一度くらい彼の望む「肝試し」に行くのも、悪くないだろう。
修一は読んでいた本を棚に戻し、身支度を整える。先程まで揶揄うように笑みを浮かべていた彼だったが、俯いたほんの一瞬だけ、瞳の奥に哀感が映るのを晴樹は見逃さなかった。
彼は時々、そういう顔をするのだ。まるで心の奥には収まりきらない情景を、ひとりで抱え込んでいるような。
修一に初めて出逢った時から、晴樹はそれが胸につかえている。
***
初夏の空は、眩しいくらいに鮮やかだ。それが少しだけ憎らしく感じるほど、肌に熱を感じていた。
7月の上旬、きっとこれからもっと気温が上がって茹だるような暑さがやってくるのだ。そう思うと、ずっと今のままの方がいいのかもしれない、と晴樹は考えた。
「神社はね、僕が通っていた小学校の裏山にあるんだ」
隣を歩く修一も少し暑いのか、制服の襟元をぱたぱたとはためかせている。
「小学校って、第一の方?」
「そう。今は統廃合しちゃったから、廃校になっちゃったけどね」
この町には小学校が2つあったが、今はひとつしかない。第一と第二が統廃合して第二に吸収され、町にひとつの小学校なのに「第二」の名前が付いている。
「多分、歩いて30分くらいかな。そんなに遠くないよ」
「俺、商店街から向こうってあんまり行ったことねーや」
「そうだよね、晴樹の家とは真逆の方だし」
ふたりの通う高校は、駅から歩いて10分くらいのところにある。近くには比較的新しくできた住宅街があり、晴樹は中学の頃に引っ越してきた。修一の家はもっと町の奥、山の麓にあるらしい。
この町は「末守町」といい、決して大きくはない町だ。都心までは電車を使えば1時間ちょっとで行けることだけが魅力かもしれない、と晴樹は思っている。
「商店街を抜けて、図書館を過ぎて、守川橋を渡って川を越えたらすぐだよ」
「あー、川って『春祭り』やってるとこか」
「そうだよ、八重桜並木があるところ」
そういえば、そんなものがあった。春祭りと八重桜並木は結構有名で、その絶景を一目見ようと県外からも人がたくさんやってくる。
もしかしてそれがこの町の最大の魅力なのかもしれないが、あまりにたくさんの観光客で溢れるため晴樹は少々敬遠していた。
「お祭のおかげで春には人がたくさん来るけどさ、それが過ぎたらみんないなくなっちゃうんだから。あんまり成功してないよね、町おこし的には」
閑散とした商店街を歩きながら、修一は零した。この商店街は町の住人の重要なライフラインではあるが、まばらに下ろされたシャッターも目立つ。
実際に晴樹も、買い物は駅ビルか電車に乗って繁華街に行くことが多かった。
「でも、ああいうのは……いいと思う」
そう言って修一が指をさしたのは、和菓子屋の店先にあるのぼりだ。ゆらゆらとはためくそこには「葛アイスキャンディ」と書かれている。
「あー、葛アイス!うまいよな、アレ」
「買っていこうか。これで今日付き合ってもらう借りは返せるでしょ」
「え、奢ってくれんの?」
「先輩だからね、好きなの選びなよ」
葛アイスキャンディは葛粉を使って作られた和風のアイスで、普通のアイスより溶けにくく、もちっとした食感が特徴だ。
末守町では観光客向けに販売を始めたようだが、地元の人間にもそこそこ人気がある。
晴樹達の高校では、放課後の買い食いといえばこの葛アイスだった。
「えーっと、何にしようかな……」
「僕はこれかな、やっぱり」
修一が買う味はいつも「みかん&ゆず」だ。晴樹が知る限り、いつでもそれを食べている。
「お前さ、なんでいつもそれなの?」
「なんでって、初めて食べたときに美味しかったからだよ」
「ふーん。他のは食ったことあんのかよ?」
「え、ないけど」
ないんかい、と晴樹は心の中でツッコミを入れたが、なんだか修一らしいと思う。彼は自分のこだわりにまっすぐで、他人の言葉や流行には流されない。
だからこそなかなか他人と反りが合わず、オカルト同好会の部員を増やす気も更々無いようだった。
「じゃあ、俺はこれにしようかな」
晴樹が選んだのはラムネ味。爽やかな水色にラムネを模した白いつぶつぶが入っているようで、少し汗ばむ今の季節にちょうどいい。
修一は2つのアイスを手に取ると店の奥へと消えていき、すぐに戻ってくる。食べ歩きしやすいように包装のビニールを剥がした状態で晴樹に手渡した。
「お、サンキュ」
「どういたしまして」
ひと口齧れば爽やかな清涼感が口内を駆け巡る。これはかなり当たりだ、と晴樹は思わず得意げに口角を上げた。
そんな様子を見て修一も穏やかに微笑み、アイスを齧る。
***
商店街を抜けた先には大通りがあり、地域の巡回バスが停車するところだった。バスの中から降りてきた老人が、足をもつれさせて転倒してしまう。
「だ、大丈夫ッスか?」
近くを歩いていた晴樹はすぐに駆け寄り、老人に手を貸して荷物を拾って渡した。見たところ怪我もないようで安堵する。
「ありがとうねぇ。助かったよ、優しいんだねぇ」
「いや、ばーちゃんに怪我がなくて、よかったっス」
修一は、片手で葛アイスを持ったまま人助けをした晴樹の一連の行動を、じっと見つめていた。
「晴樹ってさ。人助けとか、自然に出来るよね」
「いや、だって......なんか、気になるじゃん」
「僕はそういうの、あんまりできないからさ。すごいなって思うよ」
修一がこうして彼のことを褒めるのは稀だ。稀なのだが、全くないわけではない。
こういう時にどう反応していいのか、晴樹はいつも思いあぐねてしまう。揶揄われることには慣れているが、褒められることには慣れていない。
うまく言葉にはできないが、心の中をくすぐられるような、息が詰まるような──思わず俯いて表情を隠したくなる、そういう感覚になるのだ。
「あ、ちょっと図書館寄ってもいい?」
今回だってそうして何も言えずに逡巡していたが、気付けば図書館の前まで歩いてきていたようだ。
修一は鞄から本を取り出して「これ返してくるから」と、建物へ入っていった。晴樹は残っていた葛アイスを食べながら、修一の帰りを待つ。
この町立図書館はかなり昔からあるようで、郷土資料館のような役割も兼ね備えているらしい。中学生の頃に何度か訪れた記憶があるものの、最近は全く足を運んでいない。
修一は家から近いこともあって、よく本を借りに来ると言っていた。
図書館の周りは木で覆われていて、程よく日光を遮断している。肌に直接当たる光が少なくなるとこうも体感温度が下がるものなのか。時折吹く風の生温さが心地よく感じて思わず木に寄りかかり、晴樹は瞼を閉じて初夏を感じていた。
先程のことを思い出す。自分は進んで人助けをするような立派な人間ではないと、晴樹は思う。
ただ、見過ごしたときに自分の居心地が悪いから放っておけないだけだ。
だから人のためというよりも自分のために行動をしていて、その結果誰かが助かっているのかもしれない、ただそれだけのことだった。
「お待たせ。あれ、どうしたの?」
「おわァ!あっいや、なんか……夏だな、って」
「ふふ、なにそれ」
物思いに耽っていたところに突然話しかけられ、晴樹の口から情けない声が漏れる。
修一は軽く笑い肩を小突いて促し、ふたりは再び神社までの順路を歩き出した。
図書館から少し歩けば河川敷が広がり、すぐ近くにアーチ状の橋がかかっている。景観を意識しているのか、和風な作りで手すりには赤い塗装がされていた。
「ほら、橋を渡ったらもうすぐだよ」
橋を渡って今は葉に覆われている八重桜並木を横切ると、その先には雑多に生えた草木が茂っていた。
明らかに、ここから先は観光目当ての客人を招き入れていない。そういう独特の雰囲気があり、晴樹は思わず息を飲む。
実際に晴樹自身も数年前にこの町に越してきた身なのだ、余所者である自覚が少なからずある。だが、修一はお構いなしに獣道を歩いて、進んでいく。
数メートルほど進んだところで、木造校舎の廃小学校が見えてきた。校庭もずいぶん小さく感じるが、それは自分たちがもう小学生ほど子供では無いからだろうか。
「懐かしいなぁ、全然変わってないや」
修一が卒業する前に統廃合が行われたらしく、この小学校は廃校になってから8年が経つ。最低限の管理はされているのかもしれないが、外見はかなり年季が入っているように見える。
よく言えば趣があるが、晴樹にとっては「不気味」以外のなにものでもなかった。
「正門から右側にぐるっと回ると、裏山への抜け道があるんだ」
廃校の雰囲気に気圧されている晴樹と違い、修一は記憶を掘り起こしながら道順を確認する。その言葉に自分が正門の前にいると気付いた晴樹は、学校名が彫られた看板を見つけた。
「あれ?学校の名前、『末杜第一小学校』になってる……漢字、違くね?」
「あぁ、なんか昔は町の名前もこっちの『杜』って漢字だったらしいよ」
「ふーん、知らんかった……」
ふたりは正門の右手を進み、校舎の裏側まで回る。修一の言うとおりにそこには道が存在したが、ほとんど使われていないようで先程通ってきた道よりもさらに草木が自由に生えていた。
「ちょっと上り坂になってるから、気を付けてね」
「お、おう」
晴樹は慣れない山道に苦戦しながら歩くが、その前方を修一はどんどん進んで行く。彼はきっとここに来るのは初めてではないのだろう。それもそうだ、昔からこの近くに住んでいるのだから、来たことがないのは不自然だ。
それなら「神社に幽霊が出る」という噂は昔からあったのだろうか。幼い頃の彼もその噂を信じてこの道を辿り、神社に向かったことがあるのだろうか。
もしもそうだとしたら、どうして今再び訪れようとしているのだろう、と晴樹は考えたが──山道の勾配が思ったよりも急で、とても上りながら疑問を投げかけられるような状況では無かった。
「ほら、見えてきたよ」
修一の言葉を受け顔を上げると、前方に石段が現れる。思わず見上げた晴樹は、その段数に圧倒されてしまった。
「げ、今からコレ上がるのかよ!」
「数えたことないけど、100段もないんじゃないかな。大したことないよ」
「いや、上り坂のあとにコレは、キツイって……」
既に若干息が上がっている晴樹は、開いた口から思わず溜息を零してしまった。それを見た修一は煽るような視線を彼に向け、小さく鼻で笑う。
「無理そうなら、晴樹はここで待っててもいいけど」
「お前こそ、運動得意じゃないだろ……なのに、全然息上がってねーじゃん」
「……まぁ、子供の頃はよく来てたし」
先程のささやかな疑問がひとつ解消される。やはり、初めて来るわけではないらしい。
「じゃあ『幽霊が出る』っていうのも、昔から噂されてたのかよ」
「さぁ……どうだったかな、覚えてないや」
視線を向けず、まるで吐き捨てるようにつぶやく。そんな修一の声に違和感を覚えたが、晴樹がその表情を確かめる前に石段を上がり始めていた。
この場所は、修一にとって「ただの神社」ではないのかもしれない。確証は持てなかったが、晴樹はなんとなく──時折見える哀感が彼の背中から滲んでいるような、そんな気がしたのだ。
***
「はぁっ、はぁ……」
正直、かなりしんどかった。日頃の運動不足がたたっている、と晴樹は実感せざるを得ない。
体感だけでいうと何時間も石段を上がっていたような感覚だったが、腕時計を見ると「4時44分」を表示していた。高校を出たのが4時過ぎだったから、歩いてここまで来たとしたら妥当な時刻だ。
4のゾロ目という縁起の悪い数字を見てしまったからだろうか。大きな鳥居を目の前にして胸騒ぎを覚えるが、この動悸はまだ呼吸が整っていないことによる生理現象だと思うことにした。
赤い鳥居は所々が色褪せているが、それでも存在感があって立派だ。呼吸を整えた修一は、鳥居を見上げて晴樹に話しかける。
「注連縄と紙垂がそこそこ新しいでしょ?この神社はまだちゃんと管理されてるってことだよ」
「あー、あの縄とぶら下がってる紙?」
「そう。駅の方に新しい神社があるから、こっちに来る人はほとんどいないと思うけどね」
末守駅のすぐそばに、比較的新しくできたという「花守神社」があることを晴樹は思い出す。確かにそっちの方が立地もいいし、何より長い石段を上がらずに済むのだから、大抵の人は花守神社を参拝するだろう。
じゃあ目の前のこの神社は、何という名前の神社なのだろうか。鳥居に掲げられた扁額は結構掠れてはいるが、どうにか読み取ることができそうだ。
「はち、しん……?」
「八臣神社。それがこの神社の名前だよ」
まるでかみしめているようだ、と晴樹は感じる。今度こそ修一の顔を見れば僅かに眉間にしわを寄せていたが、すぐにそれを振り払うように短く息を吐く。覚悟を決めたようにこぶしを握り締め、今にも足を踏み出しそうだった。
聞くなら今だ。先程からの疑問を、晴樹はそっと投げかける。
「お前、さ。ここで、なにかあった?」
「別に、なにもないよ。ただ……幽霊が出ると思ったら、緊張してきただけ」
晴樹は他人の感情の動きに敏感な方ではないが、それでも今の修一の言葉が嘘であることは明白だった。
彼はポーカーフェイスなように見えて、案外感情の揺れ動きが激しいのだ。悪戯を仕掛けるときの瞳は爛々と光っているし、機嫌が悪い時には唇をツンと尖らせている。
今の彼はまるで──怒られる前の子供のように見える。何か悪いことをして、それを誰にも言えずにずっと心に抱きかかえているような、そんな印象だ。
修一と出逢った時から胸につかえているこの感覚の正体と、何か関係があるのだろうか。まだわからないが、もしそうなのであれば確かめたい。晴樹にとっては、それがこの神社に来た理由になる。
「それじゃ、行こうか」
修一の顔はもうすっかりいつも通りだ。これから曰くのある神社に足を踏み入れるのかと思うと、逆に晴樹の方が緊張してきた。
「鳥居にもくぐり方があるから、僕と同じようにしてね」
「お、おう」
修一は鳥居の向かって左側に立つ。軽く一礼をして、左足から踏み出して、鳥居をくぐった。
「ほら、こんな感じ。左側を通って、左足から歩き出すんだよ。真ん中は通らないでね」
「こ、こうか?」
彼に倣い、同じように鳥居をくぐる。体が強張る晴樹のぎこちない歩みを見て修一は小さく笑った。
そのまま手水舎の方まで進む。小さな穴から水が流れていて涼しげであり、衛生的にも問題はなさそうだ。
修一は正しい手順で心身を清める。晴樹はそれをしっかりと見ていたつもりだったが、途中で柄杓を持つ手が変わったり、口まですすぐのかと驚いてしまったため、何がなんだか全然分からなかった。
「えーと、つまり......?」
「まず右手で柄杓を持って、左手に水をかけて。次は左手に持ち替えて、右手に水をかける。で、もう一度右手に持ち替えて左手に水を溜めて、口をすすぐ。最後に両手で柄杓を持って、持ち手に水をかけるんだよ」
晴樹は言われるがままに一連の動作を行う。戸惑いながらだが、どうにかすべての過程を終了した。
「お、おお......できた!」
「キミ、神社行ったことないの?」
「あるけど、ここまでちゃんとしてなかった......」
「ちゃんと、っていうか基本の挨拶みたいなものだけどね」
修一はそのまま社殿に向かい、賽銭箱の前で晴樹を待ちながら財布を取り出す。小銭入れを覗けば、500円玉硬貨1枚しか入っていなかった。
「あ……さっきアイス買った時に、細かいの使っちゃったな」
「え、俺貸そうか?こういうのって5円玉とかの方がいいんだろ?」
「まぁ、語呂合わせ的にはそういうのがいいのかもしれないけどさ。でも神社の維持費とか管理費とか、そういうものの足しになると思ったら……これでもいいかな」
500円玉硬貨が宙を舞い、軽く弧を描きながら賽銭箱へと吸い込まれていった。何の躊躇もなく投げられたそれを見て、晴樹は思わず我が目を疑う。その間に修一は素早く参拝を済ませ、拝殿から離れた。
「ほら、晴樹もやりなよ。『2礼、2拍手、1礼』だよ」
「わ、わかった……やってみる」
正直、500円玉硬貨の後に5円玉硬貨を入れることに引け目を感じないと言ったら嘘になるが。それはそれとして、晴樹にとって500円はこんなところで消費されていい金額ではない。
5円玉硬貨をゆっくりと賽銭箱に投げ入れ、見よう見まねで参拝を済ませた。
「よし、これで挨拶は終わったね」
その一言で晴樹は思い出す。そうだ、自分たちは肝試しをしに来たのであって、神社に参拝しに来たわけではないのだ。
それでもこうして神社に対する礼儀を欠かないのは、修一が生粋のオカルト好きだからなのだろうか。
「それじゃ、幽霊とか……何か面白いもの見つけたら、教えてね」
そう言い放つと、修一はひとり軽快に歩いて行ってしまう。どうやらここから先は自由行動のようだ。
突然放り出された晴樹は、手持無沙汰になった左手で後ろ頭をポリポリと掻いた。
***
改めて境内を見渡せば、八臣神社はこじんまりとした質素な神社だった。社殿の他にはご神木と小さな社務所、その近くには掲示板のようなものがある。あとは先程使った手水舎くらいか。社殿の裏には雑木林があり、ご神木側からは町の様子を一望できるような作りになっていた。
神社の敷地内だからなんとなく空気が澄んでいるような気がするが、正直そういう感覚はさっぱりわからないと晴樹は顔をしかめる。
「うーん、どうすっかな……」
スマホの画面を確認すると、圏外の表示が出ている。結構山の上にいるのだろう、仕方がない。
修一とは違い、幽霊なんかには絶対に遭遇したくない晴樹だったが、スマホも使えないのなら適当に散策をして時間をつぶすしかなさそうだ。
こういう時に人間は自然と文字がある方に足を運んでしまうようで、気が付けば掲示板の前まで来ていた。何とはなしに掲示物を見れば、その多くが町の中心地にある花守神社に関するものだった。
「えーっと、『七つ参りのご案内』……?」
七つ参り、聞きなじみのない言葉だ。掲示物を読むと、どうやら「7歳を迎えたら神に成長を感謝するために神社でお参りをする」というものらしい。おそらく、七五三と同じような行事だろう。
あとは「厄年について」の掲示と、もう1枚お知らせのようなものが貼ってある。
「『八臣神社の御朱印・御祈祷等は、現在花守神社にて行っております』か。この神社、本当にほとんど使われてねーんだな」
もしかすると、花守神社の神主がこの神社の管理も行っているのか。今の八臣神社は神主どころか、晴樹達以外に参拝客は見当たらない。
ご神木の隣に置かれたベンチに腰掛けて町を見下ろしてみる。太陽が少し西へ傾いてきた境内に、ヒグラシの鳴き声がささやかに響いていた。それがどこか幻想的で、少しだけ物悲しさを覚える。
まるで、この場所だけ時間が止まっているような──不思議と、そんな郷愁に駆られていた。
「それ」は、突然やってきた。
晴樹の背後から物音がする。思わず振り返れば、境内には誰もいない。誰かの足音のような、それも歩幅の小さい子供のような。そんな音が聞こえた気がしたが、痕跡は見当たらない。
「な、なんだよ……」
この神社には、幽霊が出るという噂があるらしい。修一はそう言っていたが、詳しい話は聞いていなかった。
聞くのが怖かったというのもあるが、なによりも晴樹は彼が行きたいのならそれに付き合おうという心持ちだったため、噂話自体に興味があるわけではなかったのだ。
だからこういう風に、自分が不可思議な体験をするのは想定外だった。
注意深く視線を動かしても、足音は聞こえない。ヒグラシの鳴き声と、やけにうるさい自分の心臓の音だけが聞こえる。それを落ち着かせようとしているのか、無意識に胸に手を当てていた。
タッタッタッタッタッ。
再び足音が聞こえて思わずその方向を見やるが、そこには誰もいない。視線の先では雑木林の枝葉が風に揺られてサワサワと音を立てている。
「……そういえば、修一どこだ?」
彼の姿は境内には見当たらず、先程姿を消してから一度も見ていない。考えられる選択肢としては、雑木林にいる以外になかった。
この足音は、きっと彼の悪戯に違いない。晴樹の怯える姿を見て、こっそり笑っているのだ。そう思いたかったが、晴樹にはそうではないという確信があった。
修一は、テレビの企画や動画配信などでやっている「心霊スポットで行うドッキリ」が大嫌いなのだ。そんな彼が、自らこんな悪戯を仕掛けるわけがない。
だとしたらあの足音は、修一のいる雑木林の方に向かっているのではないか。
「っ……!」
気が付けば体が動き出し、草木を分けて彼の姿を探す。雑木林は思っていたよりも奥行きがあり、日の光が遮られて鬱蒼としていた。
晴樹は焦って周りを見渡すが、一層強く聞こえるヒグラシの鳴き声が響くばかりだ。
もしもあの足音が本当に幽霊のものだとして、もしも修一がそれに遭遇したからといって、きっとなにがあるわけでもないのだろう。そもそも、すべて自分の気のせいだったのかもしれない。
晴樹は徐々に自分が冷静になっていくのを感じ、境内に戻ろうと踵を返した。
その時、木々の間にひっそりと建つ小さな祠の存在に気が付いた。随分と古びたその祠は、何故か足元に近い場所にある。自分の視界よりもずっと低い場所に建てられていたのだ。
例えるなら、幼い子供にとってはちょうどいい高さにあるような、そんな位置に佇んでいた。
小さな扉が付いていて、外からは中が見えない。きっとこういうものには触らない方がいい、と理解はしていたが──気が付けばしゃがんでそっと手を伸ばし、小さな取っ手に手をかけていた。
「……そりゃ、開かねーよな」
祠は開くことなく、固く閉ざされている。晴樹は我に返ったように雑木林を後にして、境内に戻った。
「あれ、そっちにいたの?」
「修一、お前……だ、大丈夫かよ?」
「大丈夫って、何が?」
「い、いや、えーっと……」
もしかして幽霊の足音が聞こえたかもしれなくて、それがお前の方に行ったからなにかあったら心配で、だなんて。晴樹にはとても言えなかった。そのどれもに何一つ確証がないうえに、幽霊なんているのかどうかもわからない。
ただ先程は何故だかとてつもない焦燥感に駆られてしまっただけで、それもすべて気のせいだったのだ。
「それよりさ、ほら」
修一が促した方を見れば、先程まで晴樹が座っていた石のベンチに白い猫が丸まっていた。
「あれ……コイツ、もしかして『ひなた』か?」
「多分そうだよね。こんなところまで散歩しに来るの、知らなかったよ」
ふたりが通う高校の中庭でいつもひなたぼっこをしている白猫。目の前の猫はそのひなたにそっくりだった。
猫の縄張り範囲は広くても2㎞くらいだと聞くが、この場所は高校からそのくらい離れているということか。
気付けば先程よりも太陽が沈んでいて、あと少しで夜の気配が近づいてくるだろう。腕時計を見れば5時半を過ぎている。
晴樹は時計を見ながら、修一に話しかける。
「もうこんな時間か……」
「幽霊、いなかったね」
「えっ、あ、そう……だ、な」
「そろそろ、帰」
修一の言葉が、突然途切れる。それはまるで突然停止ボタンを押した動画のように、前触れもなく消えたのだ。違和感を覚えて、彼のいる境内の方を向く。
そこに、修一はいなかった。彼の荷物は、すぐそばのベンチの下にある。しかし、いない。
いや、寸刻遅れて気が付いた。地面に不自然な影があるのだ。咄嗟に、視線を上に向ける。
「え……?」
一瞬、理解ができなかった。いや、しっかりと視界に入れても、意味が分からない。なんだ、なんなんだ、これは。
晴樹の目の前にあったのは──逆さまになって宙づりになっている、修一だった。
「は、晴樹、」
戸惑いの表情を浮かべる修一は、縋るように晴樹の名前を呼んだ。それを聞いた瞬間、宙に浮かぶ彼へと必死に手を伸ばす。訳も分からず、ただ、必死に。
晴樹の手は、届かなかった。それよりも、修一の体が地面に叩きつけられる方が先だった。
地上3m程の高さから逆さまに落下し、頭部が叩きつけられる鈍い音の後に、ぐにゃりと曲がった首から乾いた音が鳴る。
ゴキッ。
人間の首が折れる音は、想像よりもずっと小さかった。
──ダメだ、ダメだダメだダメだこんなのは、絶対にダメだ。こんなこと、あっていいはずがない。ダメだ、そんなの、ダメだろ。俺たちはただ普通にいつも通り過ごしていて、ただ、ちょっとした好奇心で肝試しに来ただけだった。それなのに、こんな、こんなことって、ありえないだろ、なぁ!
晴樹の鼓動は早鐘を打っていた。
信じられない、こんなこと、あっていいはずがない。
地面に横たわった修一に触れる。首は完全に折れ曲がっており、口からは血を流して、瞼は見開かれていた。
完全に、心臓が止まっている。晴樹にはもう、どうすることもできない。
「ダメだって、なぁ、そんな、そんな……」
人間は本当に動揺しているときに冷静な判断などできないものだと、晴樹は身をもって知る。早く誰かを呼んで、助けてもらわないと、早く。
唇を嚙みしめ、こぶしを握り、荒い呼吸のまま、踵を返して神社の出口を目指す。
早く、鳥居をくぐって、町に下りて、助けを呼ばないと。
もつれる足にも構わず、晴樹は走った。
「修一……!イヤだ、死ぬなって……!!」
鳥居の真ん中に、ひなたがいる。
その白い体と金色の瞳が、夕焼けの赤に染まって──
***
「町外れにある神社にさ、幽霊が出るらしいよ。肝試しに行かない?」
「……え?」
一体、何が起こったんだ。目の前には、何事もなかったかのように修一がいる。
晴樹は確かに、修一の死を目の当たりにして、助けを呼ぼうと必死に鳥居をくぐったはずだ。そこまでは覚えているが、今目の前には生きている彼がいる。
「おっ、お前、大丈夫なのかよ!?」
「え、ちょ、ちょっと……何が?」
晴樹は思わず、修一の体をあちこち触る。頭、顔、肩……そして、首。修一は顔をしかめて一連の動作を受け入れていたが、2周目に突入しそうなところでその手を静止した。
「いきなりなんなの……意味わかんないんだけど」
「おあァ、あぁ……よ、よかった」
自分でも情けない声が漏れてしまった、と思う。それでも、ただの「夢」だったのなら、一安心だ。
「で、話聞いてた?」
「え、話って?」
「だから、肝試しに行こうって言ったじゃん」
時刻は午後4時。
城本晴樹はこれから、幾度もこの台詞を聞くことになる。
