困った時は助け合い。
子供の頃から母親に言い聞かされてきた言葉。そうすれば、何も出来ないあなたのこともきっと誰かが救ってくれると言われた。
本当にそうだろうか?
そう思いながらも、オレはいつも親の言うことには逆らえなかった。
成績が上がらないと、父も母もオレに失望したように目を合わせてくれなくなる。助け合いだの優しさだのを解かれながら、結局は形で現れるもので結果を出せないとすぐにそんな態度をとる。
そのことに子どもながらに気がついていた。
「じゅんー!今日帰ったらあつまってゲームしようぜー!」
「おう!やろうやろう!」
学校のみんなは、本当のオレのことを何も知らない。
校内で集まるとき、放課後に遊んでいるとき、そんな時はみんな自分のことを呼んでくれる。だけど自分は所詮、大勢の中の一人でしかない。
オレは誰かにとっての特別な存在でありたかった。
みんなの前ではいつも笑って、悩みなんてないように取り繕って、どこにでもいる自分の価値のなさを思い悩んでは、布団の中でひとりぼっちで泣く。
さみしかった。ありのままの自分を見せて、それでも受け入れてくれる誰かとずっと一緒にいたかった。
オレはそんな虚しい子供だった。
学校からの帰り道は好きだった。
高い建物もほぼない住宅街は、夕方になると町のすべてが燃えるようなオレンジ色に染まる。
友達はみんなオレの家とは反対側に住んでいて、こちらの方に帰ってくるときはいつもひとりだった。おかげで、オレは家へ帰るまでのその時間だけは誰かのために作った『織原準』ではなく、本当の自分でいられた。
その日の帰り道もオレはひとりだった。
今日は放課後の予定も何も無くて、真っ直ぐ家に帰るしかなくて、重い足取りで家への帰り道を歩く。
永遠に家に着くことはなくて、この道がずっと続けばいいのに、とさえ思う。
(……もうすぐついちゃう)
とぼとぼと歩くうちに、自分の家が見えてくる。
うちの中にはおそらく母親がいる。最近はうちに帰ると、買い込んだ教材をやれとばかり言われる。今の時期からきちんと勉強をしていないといい学校にいけないから、と。そのために友達と遊ぶことすら週の回数を制限されている。
オレにとってはそんなことどうでもよかった。
別にいい学校なんて行けなくていい。普通になんの問題もなく過ごせればいいと、そう思っていたのに。
まだ時間は早い。
家へ帰りたくなくて、なんとなくそのまま自分の家を通り越していって、その先のほうまで歩いていく。
自分の家から先は未知の場所だ。近いのに初めて行く場所に踏み込んで、オレは心が浮き立つのを抑えられなかった。
(……ん?)
たまたま視界に入った、キラキラと輝くプリズム。
花がたくさん咲いている目の前の家の方から見えたそれが気になって、こっそりとその家の庭を覗き込む。
すると、庭先の花々に囲まれながら、ホースで水を撒いている少年がひとり。
(……すごい)
その今までに見たことのない幻想的な光景は、まるで自分の近所とは思えなくて、オレは目を離せなくなってしまう。
慈しむように花壇を見つめる線の細い少年。それが見覚えのある顔だったので驚く。
(……うちのクラスの子じゃなかったっけ、たしか……かしもとくん)
確か自分の近くの席で、輪に入れずいつもひとりでいる子ではないだろうか。
他のみんなは自然に多く人のいるグループに集まってくるのに、その子だけはいつもひとりで本を読んでいる。時折ちらちらとこちらを見ているが、声を掛けてきたことは一度もない。
(……うちの、ちかくにすんでたんだ)
教室にいる時の表情とはまるで別人だ。
オレはしばらくの間、ぼんやりとその姿に見惚れていた。
その次の日。
みんなと集まって遊ぶ日だったが、オレは断っていつもの帰り道を少し早めに歩いていく。
すると、思っていた通り先を歩く彼の姿があった。
(あの子だ)
同じ方角なら、きっと同じ道を通って帰っていると思った。
少し後ろを歩いて、胸を高鳴らせながら家の方へと向かっていく彼のことを目で追う。
だけど様子がおかしい事に気がつく。
ふらふらと、前を歩くランドセル姿。鉢植えを抱えているが、まさか前がよく見えないのではないだろうか。
オレは慌てて彼の前へ回り込んで、彼が抱えていた朝顔の鉢植えを取り上げる。
「あぶないよ」
「……」
突然自分の持っていた鉢植えを取り上げたオレのことを、彼は驚いた様子で見ている。
「こまったときはたすけあいって、オレのかあさんがいってるんだ」
「……?あり、がとう……」
「ね、きみ、オレのいえのそばにすんでるこだよね?かえりにいつもみるよ」
いつも見る、と言うのは嘘だ。
もしかしたらこの道を通って帰るかもしれないという憶測でついてきていただけだ。
彼は何が起こったのかよく分かっていないという顔でオレの事を見ている。そんな彼を誘導するように、オレはその前を歩き始める。
「オレ、じゅんだよ。おりはらじゅん」
「あ……ぅ、そうなん、だ」
「きみはたしか、かしもとくんだっけ?」
「う、うん、かしもと、かしもとほだか」
よく分かっていないまま、彼はオレの後ろをついてくる。
感じを見るに、きっと人見知りなのだろう。作りものの笑顔で輪に入っていくオレとは対照的だ。
もっと、彼のことを知りたい。彼に自分のことを覚えてもらいたい。
「ねぇね、ほだかくん、これからいっしょにかえろ!オレのうち、ほかのこのいえとすこしとおくて」
「……いい、の?」
「オレもさみしかったんだ!これからはいっしょにかえれば、さみしくないね!」
はじめて、人にさみしかったと言った。
きっとこの時の穂高は余裕がなくて分かっていなかったと思うけれど、それはオレが初めて人に話した本音だった。
それからオレたちはいつも一緒に帰った。
オレは穂高に色々な話をした。どんな話でも、穂高は楽しそうに聞いていてくれる。
オレを慕って、まっすぐにオレだけのことを見てくれている。
それはオレにとってなによりの幸せで。
オレは、その時からずっと穂高のことが好きだった。
学年が上がってからは、一緒に帰りながらそのまま日が暮れるまで遊んだ。
だけどそんないい事ばかりではなくて。
毎日のように遅くまで穂高と遊んでいるオレのことを、両親はよく思わなかった。
「また樫本くんと遊んでいたの?」
「…………」
「ちゃんと勉強もしなさい」
母はやっと見つけたオレの幸せを、そんなふうにしか見ていない。自主的に勉強をしなくなってからは、父とはほぼ口を聞かなくなった。
成績の良さなんてどうだっていい。オレには穂高さえいれば良かったのに。
そんな頃のことだ。
あまり自分から話をしなかった穂高だが、オレに花を見せてやりたいということは毎日のように語ってくれていた。
オレにとっても花の世話をしていた穂高を偶然見かけたことが彼に出会えたきっかけなので、花の世話をしている穂高を見ているだけでも楽しかった。
その矢先、穂高が大切に育てていた花は台風による強風ですべて折れてしまった。
前の日から花壇の心配をしていた穂高のほうがオレは余程か心配で、雨が上がって直ぐに穂高の元へと駆けつけた。だが、すでに花壇の前では穂高は項垂れていた。
「……穂高、泣いてるの?」
「…………」
穂高はいつもオレのことを何よりも優先してくれる。
そんな彼が、花の世話をするときはオレに「少し待ってて」と言ってくる。それだけ穂高にとって花壇の世話は特別なもので。
「う、うっ……」
「ほだか……」
堪えきれず泣きじゃくる穂高の背を撫でて、落ち着くまでずっと隣にいる。
オレも悲しかった。
オレに見せてやりたいと守っていた穂高の大切なものを、オレだって守ってやりたかった。
だけど、俺にはそんな力はなくて。
「準!遅くまで何やってたの!」
真っ暗になってから家に戻った俺を待っていたのは、飛び交う怒号。
「どうせまた樫本くんの家にいたんでしょ!こんな台風の後に外に出て!」
がなり声をあげる母の言葉をシャットアウトして、オレは自分の部屋に戻ろうとする。
そんなオレの手を引っ張って静止し、母はオレの頬を叩いた。
「あの子と付き合うのはやめにしなさい」
母は穂高のことを何も知らない。前にオレが話したって聞こうともしていなかった。
それなのに、何も知らないままで否定し、オレを拘束する為だけに引き剥がそうとしている。
「……そんなこと、お前に決められたくない」
オレにはなんの力もない。
自分の守りたいものも守れないし、思うようにも生きられない。
掴まれていた手を振り払って、一心不乱に家を飛び出していく。
とにかくここにはいたくなかった。
本当は穂高に会いたかったが、きっと穂高のところへ行ってはすぐに見つかって連れ戻されてしまう。
今は出来る限り家から離れたくて、真っ暗な道をがむしゃらに走り抜けた。
だが、街灯も少ない慣れない場所で、かつあちこち水溜まりばかりで足元が悪い。
不注意でオレは足を滑らせてしまって何度も転んでしまう。
それでも構わず走った。だが、転んだ拍子に足を痛めてしまっておりよろめく。その先が長い階段だということに気が付かなくて。
ぐるぐると回る世界。
地面に投げ出されて鈍い痛みを感じながら、視界が赤くなっていく。
自分のいるところまで微かな明かりが届いており、おそらく目の前にある階段から転がり落ちたのだと理解する。
(……からだが、うごかない。死ぬ?)
起き上がろうとしても指先ほどしか動かせない。
水溜まりの中に、少しずつ自分の血が混ざっていく。
ドクドクと脈打つ心臓がうるさい。
「まだ子供だってのに、可哀想なことだ」
誰かが自分に声を掛けてくる。
だけど頭を動かせないので、誰がどこから声を掛けてきているのかはわからない。
「だれ……?」
「さぁて、誰だろうな?」
「オレは死ぬの?」
「死ぬかもしれないな」
こんな状況だと言うのに、相手の話し方はどこか楽しげだ。
きっとまともなやつじゃない。自分を助けに来た誰かというわけではなさそうだ。
だんだんぼんやりとしてくる意識の中で、何もかもがどうでも良くなっていく。
「助けて欲しいのか?」
別に助からなくてもいい。どうせ生きていたってこのまま苦しいままだというのはわかる。
だけどひとつだけ、気がかりなことがある。
穂高。
オレが死んだら、穂高が泣いてしまうだろうか。
花のために泣いていた穂高。泣き顔もきれいだった。
あの涙をオレのために流してくれるだろうか。
「ほだかにあいたい」
死んでしまったら、もう穂高に会うことが出来なくなる。
そうしたら穂高は、ひとりぼっちであの帰り道を帰っていくのかな。
「それがお前の願いか?」
音を立てることも無く、目の前にある血溜まりの上に何者かが歩いてくる。足元は真っ黒で、どんな姿なのかも分からない。
「あわせてくれるの……?」
「お前が望むならなんだって叶えてやろう」
「じゃあかなえてよ……オレの望むこと、ぜんぶ……」
クスクスと笑いながら、そいつはオレの目の前に屈み込む。
「例えば?」
「オレはつよくなりたい……なんでもできるようになって、ほだかのことをまもってやりたい」
だって、オレは非力な存在だから。
「契約成立だな」
ふと気がつくと、オレは自分が転がってきた階段の目の前にいる。
痛みはなくなっていて、普通に体も動かせる。
「……?」
まるで、階段から落ちてしまう直前に戻ってきたような。
「その通りだよ」
「……え?」
「お前が階段から落ちる前に時間を戻した」
オレの横に立つ人影。
真っ黒で、どんな姿なのかはよく分からない。おそらく人ではない「何か」なのだろう。
「あんたは誰、なの……?」
「何と思ってくれても構わない。俺はお前と契約した。好きに願いを叶えていってやろう」
まるで神様のようなことを言うが、きっとその態度や風貌からするに神様なんかではない。
むしろ、それとは真逆の何かなのではないか。
「……なんでも叶えられるの?」
「お前が望むならな、しかし対価は頂く」
「対価?」
「俺は根無し草でな、安心して過ごせる場所が欲しい。お前の『影』の中に住まわせてもらう。いい話だろう?」
そんな事でいいのか。
こいつの正体は分からない。そうだとしても、こんなことでなんだって叶えてくれるのなら安いものだ。
どの道もう、オレはさっきこいつに願いを叶えてもらってしまっている。
「願いを叶える度に、お前の中の影は深く大きくなる」
「……?」
「最後はお前をも飲み込み、お前は俺と同じ『人ではない何か』として存在することになる。それでも構わないなら、俺を好きに使うといい」
そう言うと、『それ』はオレの影の中に入っていく。
「……なんでそんなこと教えてくれんの」
「お前はきっと、それでも俺の力を使う。そう思ったからだ」
足元から這い上がる影は、オレの体に巻きついて、母に打たれた頬を撫でてくる。
「……これから、面白いものを見せてくれ」
階段から落ちる前に転んだ傷跡はそのままだが、あの時に負った傷はなくなっている。
時計を持っていないので確認できないが、本当に少し前に戻っているのだろう。
(……なんでも、叶う)
それならば。
影の言ったことが本当だとしたら、オレは家を飛び出す必要もなくなるのでは無いか。
ゆっくりと、オレは来た道を戻っていく。擦りむいた箇所は多少ヒリヒリしているし、捻ってしまった足が若干痛む。
そのまましばらく歩いていくと、少し先の街灯の下に見覚えのある姿が彷徨っている。
遠く離れていても、暗い夜道でもすぐに分かる。
「穂高……?」
名前を呼ぶと、彼は泣きそうな顔でこちらを振り向く。
「準……!」
足を引き摺りながら穂高のとこに向かうが、やはり上手く歩けない。ふらつくオレを見て、穂高は慌ててこちらに駆け寄ってくる。
「じゅ、準……どうしたの……?」
「ちょっと転んだだけ……水溜まりで滑っちまったんだ。ダサいよな……」
さっきまではもっと大怪我をしていたけど、とは言えない。
「と、とりあえずつかまって……!」
穂高はこちらに来て、泥で汚れてしまうことも構わずに肩を貸してオレの体を支える。
泣きべそかいた表情。こんな時間にこんなところまで、オレのことを探しに来てくれていたのだろうか。
それだけで、泣いてしまいそうな程にうれしくて。
(死ななくてよかった)
そのまま穂高の方を借りて、なんとか家の方へと戻っていく。
穂高の家に着くと、母が穂高の母親と一緒に落ち着かない様子で話していた。オレの姿を目視すると、母は一瞬驚いた顔をしたあとに、何か言いたげな表情を浮かべている。
「……穂高、もう大丈夫だから」
穂高から離れて、足を引きずって母の方へと向かう。穂高は不安げにその場に立ちつくしたままでいて、オレは後ろを振り返る。
「今度話すから……。来てくれて嬉しかった、ありがとう……」
きっと話せることと話せないことがある。
それでも自分を探しに来てくれた穂高に、感謝の思いは必ず届けてみせる。
「……早速あんたに頼みがあるんだけど」
歩きながら呼びかけると、オレから伸びる影はすっと母の方へ近づいていく。
「……それが終わったら、次はあの家の花壇を元に戻してあげて欲しい」
奴の言ったことは本当だった。
オレの願いはどんなことだって叶う。勉強だってどれだけでも出来るし、運動も誰よりも得意になった。両親をオレに一切干渉させないことだってできた。
その日から人の心も、自分のことも、なんだって思うがままだった。
なんでも出来て皆に慕われる『織原準』は、虚像で作られた存在ではなく本物になっている。
「それでも穂高を自分のものにはしないのか」
誰もいない教室の中、俺から伸びた影は人の形を模していて、隣に立って話し掛けてくる。
「この力を使って穂高に願うことはないよ」
「……」
「穂高はありのままのオレのことを見てくれている。だからこんな力がなくとも、穂高はオレを好きでいてくれるから」
だからこの力は、自分や穂高を守るためにある。
奴はオレの影の中にいて、オレの願うことはなんでもすぐに叶えてくれる。オレは抵抗もなくこの力を何度も使った。
おかげで、オレの足元に広がる影は随分大きくなっている。奴の言うリミットまで、あとどれくらいの猶予があるのかも分からない。
それでも、不自由に生きるくらいなら安い代償だった。
「穂高がオレのこと友達でいて欲しいって思うのならオレは穂高のいい友達でいるし、恋人になって欲しいと思うのなら恋人になるし」
友人でありたいと願いながらも、他の誰かと付き合うと穂高は傷ついてしまうらしい。
そのことももう分かった。だから誰かと付き合ったりはしない。
またこの間のように穂高が自分を求めてくれる時がきたら、オレはそれに答える。それまでは何もしないで、後ろをついてくる穂高の前を歩き続けるだけだ。
初めて穂高に気持ちを伝えた日。
ひどく戸惑ってしまった穂高を見て、オレは後悔した。
今の穂高がオレに求めるのはこの形ではなかったのだと。
あのとき時間を巻き戻して、それを無かったことにしてオレは穂高の友人であり続けた。
だからオレは穂高が求める時に、求める関係性でそばに居る。
穂高がオレに向ける感情が恋愛感情だということは分かっている。だけど彼は自分のその感情すらも上手く受け入れられていない。それならオレは、彼の準備が整うまで待ち続ける。それだけだ。
「歪んだ愛情だな」
「歪んでたってなんだっていいさ!オレはただ穂高といっしょに、ずーっと帰り道を歩いていければそれでいいんだ」
閉じ込めたくなるあの特別な時間を守ることが出来るのなら、どんなことだって出来る。
時間を巻き戻すことだって、自分を変えることだって、穂高に気を失ってもらっているうちに邪魔者を排除することだって、なんだって。
「……お前と契約したのは正解だったよ」
満足気に言っているこいつとの付き合いももう随分になる。
初めは暗闇で顔が見えなかったはずなのに、気がつけばなぜかこいつの顔はオレにそっくりになっている。
もしかしたら最後はオレに成り代わって、こいつが人間になって、オレがこいつみたいに生きていくことになるのかなとか、そんなふうになるのではないか、とはうっすらと考えている。
それでも別によかった。
「オレがお前のようになったら、オレは穂高の影の中で生きていけばいい。そうすれば、どんな時もずーっと一緒にいられるんだもんな」
もうきっと、とっくに自分は人間では無いのだろう。
「準!おまたせ……!」
園芸係の仕事でプランターの植え替えを行っていた穂高がこちらへ走ってくる。ひらひらと手を振っていると、影はオレの隣から姿を消して、またオレの影の中へと戻っていく。
「おかえり、穂高!」
「思ったよりも早く終わって良かった……」
「でも寄り道はちょっと厳しいよな。今日はまっすぐ帰って、次の休みにポテト屋とゲーセン行こうぜ」
「そうだね」
教室を出て、オレたちは駅まで歩き始める。
寄り道の予定は潰れたが、少しタイミングがズレたので電車はいつもよりは混んでいないかもしれない。穂高に近づくきっかけが無くなってしまうのは少し残念だが。
「……本当に、悪魔と人間とは、何が違うのだろうな」
影は憐れむように、嘲笑うように、小さくそう呟いていた。
いつもの最寄り駅からの帰り道。
沈んでいく夕陽は今日も変わらず町を焼き尽くすようにオレンジ色に染め上げている。それに向かっていくようにオレが歩き始めると、穂高はその後ろをついてくる。
大きく広がるオレの影はすっぽりと穂高を包み込み、まるで閉じ込めるように覆い隠していく。オレが振り向けば、真っ暗闇の中から穂高はオレに微笑みかけてくれる。
オレが何をしているのかを穂高は知らない。知らないままでいい。だってオレは、穂高の前ではあの時のままの『織原準』なのだから。
「穂高!」
「なに?」
「頑張って大学入ってさ、これからもオレと一緒にこの道を歩いてくれよ!」
穂高は一瞬驚いたような顔をして、そのあと少し俯きながら、頬を赤くして頷いている。
小さなころから通ってきた、見慣れた夕焼けの帰り道。
車通りも多くは無い住宅街の長い一本道を、いつも後ろをついてきてくれる穂高の少し前を歩く。
オレにとっての何にも変えられない大切な時間。
オレの作る影の中に穂高を閉じ込めておくためなら、オレはこれからもどんなことだって出来る。
好きだとか、愛してるだとか、そんな言葉では言い表せないこの感情ごとこの闇の中に隠して。
それがオレの、最大限の愛のかたち。
子供の頃から母親に言い聞かされてきた言葉。そうすれば、何も出来ないあなたのこともきっと誰かが救ってくれると言われた。
本当にそうだろうか?
そう思いながらも、オレはいつも親の言うことには逆らえなかった。
成績が上がらないと、父も母もオレに失望したように目を合わせてくれなくなる。助け合いだの優しさだのを解かれながら、結局は形で現れるもので結果を出せないとすぐにそんな態度をとる。
そのことに子どもながらに気がついていた。
「じゅんー!今日帰ったらあつまってゲームしようぜー!」
「おう!やろうやろう!」
学校のみんなは、本当のオレのことを何も知らない。
校内で集まるとき、放課後に遊んでいるとき、そんな時はみんな自分のことを呼んでくれる。だけど自分は所詮、大勢の中の一人でしかない。
オレは誰かにとっての特別な存在でありたかった。
みんなの前ではいつも笑って、悩みなんてないように取り繕って、どこにでもいる自分の価値のなさを思い悩んでは、布団の中でひとりぼっちで泣く。
さみしかった。ありのままの自分を見せて、それでも受け入れてくれる誰かとずっと一緒にいたかった。
オレはそんな虚しい子供だった。
学校からの帰り道は好きだった。
高い建物もほぼない住宅街は、夕方になると町のすべてが燃えるようなオレンジ色に染まる。
友達はみんなオレの家とは反対側に住んでいて、こちらの方に帰ってくるときはいつもひとりだった。おかげで、オレは家へ帰るまでのその時間だけは誰かのために作った『織原準』ではなく、本当の自分でいられた。
その日の帰り道もオレはひとりだった。
今日は放課後の予定も何も無くて、真っ直ぐ家に帰るしかなくて、重い足取りで家への帰り道を歩く。
永遠に家に着くことはなくて、この道がずっと続けばいいのに、とさえ思う。
(……もうすぐついちゃう)
とぼとぼと歩くうちに、自分の家が見えてくる。
うちの中にはおそらく母親がいる。最近はうちに帰ると、買い込んだ教材をやれとばかり言われる。今の時期からきちんと勉強をしていないといい学校にいけないから、と。そのために友達と遊ぶことすら週の回数を制限されている。
オレにとってはそんなことどうでもよかった。
別にいい学校なんて行けなくていい。普通になんの問題もなく過ごせればいいと、そう思っていたのに。
まだ時間は早い。
家へ帰りたくなくて、なんとなくそのまま自分の家を通り越していって、その先のほうまで歩いていく。
自分の家から先は未知の場所だ。近いのに初めて行く場所に踏み込んで、オレは心が浮き立つのを抑えられなかった。
(……ん?)
たまたま視界に入った、キラキラと輝くプリズム。
花がたくさん咲いている目の前の家の方から見えたそれが気になって、こっそりとその家の庭を覗き込む。
すると、庭先の花々に囲まれながら、ホースで水を撒いている少年がひとり。
(……すごい)
その今までに見たことのない幻想的な光景は、まるで自分の近所とは思えなくて、オレは目を離せなくなってしまう。
慈しむように花壇を見つめる線の細い少年。それが見覚えのある顔だったので驚く。
(……うちのクラスの子じゃなかったっけ、たしか……かしもとくん)
確か自分の近くの席で、輪に入れずいつもひとりでいる子ではないだろうか。
他のみんなは自然に多く人のいるグループに集まってくるのに、その子だけはいつもひとりで本を読んでいる。時折ちらちらとこちらを見ているが、声を掛けてきたことは一度もない。
(……うちの、ちかくにすんでたんだ)
教室にいる時の表情とはまるで別人だ。
オレはしばらくの間、ぼんやりとその姿に見惚れていた。
その次の日。
みんなと集まって遊ぶ日だったが、オレは断っていつもの帰り道を少し早めに歩いていく。
すると、思っていた通り先を歩く彼の姿があった。
(あの子だ)
同じ方角なら、きっと同じ道を通って帰っていると思った。
少し後ろを歩いて、胸を高鳴らせながら家の方へと向かっていく彼のことを目で追う。
だけど様子がおかしい事に気がつく。
ふらふらと、前を歩くランドセル姿。鉢植えを抱えているが、まさか前がよく見えないのではないだろうか。
オレは慌てて彼の前へ回り込んで、彼が抱えていた朝顔の鉢植えを取り上げる。
「あぶないよ」
「……」
突然自分の持っていた鉢植えを取り上げたオレのことを、彼は驚いた様子で見ている。
「こまったときはたすけあいって、オレのかあさんがいってるんだ」
「……?あり、がとう……」
「ね、きみ、オレのいえのそばにすんでるこだよね?かえりにいつもみるよ」
いつも見る、と言うのは嘘だ。
もしかしたらこの道を通って帰るかもしれないという憶測でついてきていただけだ。
彼は何が起こったのかよく分かっていないという顔でオレの事を見ている。そんな彼を誘導するように、オレはその前を歩き始める。
「オレ、じゅんだよ。おりはらじゅん」
「あ……ぅ、そうなん、だ」
「きみはたしか、かしもとくんだっけ?」
「う、うん、かしもと、かしもとほだか」
よく分かっていないまま、彼はオレの後ろをついてくる。
感じを見るに、きっと人見知りなのだろう。作りものの笑顔で輪に入っていくオレとは対照的だ。
もっと、彼のことを知りたい。彼に自分のことを覚えてもらいたい。
「ねぇね、ほだかくん、これからいっしょにかえろ!オレのうち、ほかのこのいえとすこしとおくて」
「……いい、の?」
「オレもさみしかったんだ!これからはいっしょにかえれば、さみしくないね!」
はじめて、人にさみしかったと言った。
きっとこの時の穂高は余裕がなくて分かっていなかったと思うけれど、それはオレが初めて人に話した本音だった。
それからオレたちはいつも一緒に帰った。
オレは穂高に色々な話をした。どんな話でも、穂高は楽しそうに聞いていてくれる。
オレを慕って、まっすぐにオレだけのことを見てくれている。
それはオレにとってなによりの幸せで。
オレは、その時からずっと穂高のことが好きだった。
学年が上がってからは、一緒に帰りながらそのまま日が暮れるまで遊んだ。
だけどそんないい事ばかりではなくて。
毎日のように遅くまで穂高と遊んでいるオレのことを、両親はよく思わなかった。
「また樫本くんと遊んでいたの?」
「…………」
「ちゃんと勉強もしなさい」
母はやっと見つけたオレの幸せを、そんなふうにしか見ていない。自主的に勉強をしなくなってからは、父とはほぼ口を聞かなくなった。
成績の良さなんてどうだっていい。オレには穂高さえいれば良かったのに。
そんな頃のことだ。
あまり自分から話をしなかった穂高だが、オレに花を見せてやりたいということは毎日のように語ってくれていた。
オレにとっても花の世話をしていた穂高を偶然見かけたことが彼に出会えたきっかけなので、花の世話をしている穂高を見ているだけでも楽しかった。
その矢先、穂高が大切に育てていた花は台風による強風ですべて折れてしまった。
前の日から花壇の心配をしていた穂高のほうがオレは余程か心配で、雨が上がって直ぐに穂高の元へと駆けつけた。だが、すでに花壇の前では穂高は項垂れていた。
「……穂高、泣いてるの?」
「…………」
穂高はいつもオレのことを何よりも優先してくれる。
そんな彼が、花の世話をするときはオレに「少し待ってて」と言ってくる。それだけ穂高にとって花壇の世話は特別なもので。
「う、うっ……」
「ほだか……」
堪えきれず泣きじゃくる穂高の背を撫でて、落ち着くまでずっと隣にいる。
オレも悲しかった。
オレに見せてやりたいと守っていた穂高の大切なものを、オレだって守ってやりたかった。
だけど、俺にはそんな力はなくて。
「準!遅くまで何やってたの!」
真っ暗になってから家に戻った俺を待っていたのは、飛び交う怒号。
「どうせまた樫本くんの家にいたんでしょ!こんな台風の後に外に出て!」
がなり声をあげる母の言葉をシャットアウトして、オレは自分の部屋に戻ろうとする。
そんなオレの手を引っ張って静止し、母はオレの頬を叩いた。
「あの子と付き合うのはやめにしなさい」
母は穂高のことを何も知らない。前にオレが話したって聞こうともしていなかった。
それなのに、何も知らないままで否定し、オレを拘束する為だけに引き剥がそうとしている。
「……そんなこと、お前に決められたくない」
オレにはなんの力もない。
自分の守りたいものも守れないし、思うようにも生きられない。
掴まれていた手を振り払って、一心不乱に家を飛び出していく。
とにかくここにはいたくなかった。
本当は穂高に会いたかったが、きっと穂高のところへ行ってはすぐに見つかって連れ戻されてしまう。
今は出来る限り家から離れたくて、真っ暗な道をがむしゃらに走り抜けた。
だが、街灯も少ない慣れない場所で、かつあちこち水溜まりばかりで足元が悪い。
不注意でオレは足を滑らせてしまって何度も転んでしまう。
それでも構わず走った。だが、転んだ拍子に足を痛めてしまっておりよろめく。その先が長い階段だということに気が付かなくて。
ぐるぐると回る世界。
地面に投げ出されて鈍い痛みを感じながら、視界が赤くなっていく。
自分のいるところまで微かな明かりが届いており、おそらく目の前にある階段から転がり落ちたのだと理解する。
(……からだが、うごかない。死ぬ?)
起き上がろうとしても指先ほどしか動かせない。
水溜まりの中に、少しずつ自分の血が混ざっていく。
ドクドクと脈打つ心臓がうるさい。
「まだ子供だってのに、可哀想なことだ」
誰かが自分に声を掛けてくる。
だけど頭を動かせないので、誰がどこから声を掛けてきているのかはわからない。
「だれ……?」
「さぁて、誰だろうな?」
「オレは死ぬの?」
「死ぬかもしれないな」
こんな状況だと言うのに、相手の話し方はどこか楽しげだ。
きっとまともなやつじゃない。自分を助けに来た誰かというわけではなさそうだ。
だんだんぼんやりとしてくる意識の中で、何もかもがどうでも良くなっていく。
「助けて欲しいのか?」
別に助からなくてもいい。どうせ生きていたってこのまま苦しいままだというのはわかる。
だけどひとつだけ、気がかりなことがある。
穂高。
オレが死んだら、穂高が泣いてしまうだろうか。
花のために泣いていた穂高。泣き顔もきれいだった。
あの涙をオレのために流してくれるだろうか。
「ほだかにあいたい」
死んでしまったら、もう穂高に会うことが出来なくなる。
そうしたら穂高は、ひとりぼっちであの帰り道を帰っていくのかな。
「それがお前の願いか?」
音を立てることも無く、目の前にある血溜まりの上に何者かが歩いてくる。足元は真っ黒で、どんな姿なのかも分からない。
「あわせてくれるの……?」
「お前が望むならなんだって叶えてやろう」
「じゃあかなえてよ……オレの望むこと、ぜんぶ……」
クスクスと笑いながら、そいつはオレの目の前に屈み込む。
「例えば?」
「オレはつよくなりたい……なんでもできるようになって、ほだかのことをまもってやりたい」
だって、オレは非力な存在だから。
「契約成立だな」
ふと気がつくと、オレは自分が転がってきた階段の目の前にいる。
痛みはなくなっていて、普通に体も動かせる。
「……?」
まるで、階段から落ちてしまう直前に戻ってきたような。
「その通りだよ」
「……え?」
「お前が階段から落ちる前に時間を戻した」
オレの横に立つ人影。
真っ黒で、どんな姿なのかはよく分からない。おそらく人ではない「何か」なのだろう。
「あんたは誰、なの……?」
「何と思ってくれても構わない。俺はお前と契約した。好きに願いを叶えていってやろう」
まるで神様のようなことを言うが、きっとその態度や風貌からするに神様なんかではない。
むしろ、それとは真逆の何かなのではないか。
「……なんでも叶えられるの?」
「お前が望むならな、しかし対価は頂く」
「対価?」
「俺は根無し草でな、安心して過ごせる場所が欲しい。お前の『影』の中に住まわせてもらう。いい話だろう?」
そんな事でいいのか。
こいつの正体は分からない。そうだとしても、こんなことでなんだって叶えてくれるのなら安いものだ。
どの道もう、オレはさっきこいつに願いを叶えてもらってしまっている。
「願いを叶える度に、お前の中の影は深く大きくなる」
「……?」
「最後はお前をも飲み込み、お前は俺と同じ『人ではない何か』として存在することになる。それでも構わないなら、俺を好きに使うといい」
そう言うと、『それ』はオレの影の中に入っていく。
「……なんでそんなこと教えてくれんの」
「お前はきっと、それでも俺の力を使う。そう思ったからだ」
足元から這い上がる影は、オレの体に巻きついて、母に打たれた頬を撫でてくる。
「……これから、面白いものを見せてくれ」
階段から落ちる前に転んだ傷跡はそのままだが、あの時に負った傷はなくなっている。
時計を持っていないので確認できないが、本当に少し前に戻っているのだろう。
(……なんでも、叶う)
それならば。
影の言ったことが本当だとしたら、オレは家を飛び出す必要もなくなるのでは無いか。
ゆっくりと、オレは来た道を戻っていく。擦りむいた箇所は多少ヒリヒリしているし、捻ってしまった足が若干痛む。
そのまましばらく歩いていくと、少し先の街灯の下に見覚えのある姿が彷徨っている。
遠く離れていても、暗い夜道でもすぐに分かる。
「穂高……?」
名前を呼ぶと、彼は泣きそうな顔でこちらを振り向く。
「準……!」
足を引き摺りながら穂高のとこに向かうが、やはり上手く歩けない。ふらつくオレを見て、穂高は慌ててこちらに駆け寄ってくる。
「じゅ、準……どうしたの……?」
「ちょっと転んだだけ……水溜まりで滑っちまったんだ。ダサいよな……」
さっきまではもっと大怪我をしていたけど、とは言えない。
「と、とりあえずつかまって……!」
穂高はこちらに来て、泥で汚れてしまうことも構わずに肩を貸してオレの体を支える。
泣きべそかいた表情。こんな時間にこんなところまで、オレのことを探しに来てくれていたのだろうか。
それだけで、泣いてしまいそうな程にうれしくて。
(死ななくてよかった)
そのまま穂高の方を借りて、なんとか家の方へと戻っていく。
穂高の家に着くと、母が穂高の母親と一緒に落ち着かない様子で話していた。オレの姿を目視すると、母は一瞬驚いた顔をしたあとに、何か言いたげな表情を浮かべている。
「……穂高、もう大丈夫だから」
穂高から離れて、足を引きずって母の方へと向かう。穂高は不安げにその場に立ちつくしたままでいて、オレは後ろを振り返る。
「今度話すから……。来てくれて嬉しかった、ありがとう……」
きっと話せることと話せないことがある。
それでも自分を探しに来てくれた穂高に、感謝の思いは必ず届けてみせる。
「……早速あんたに頼みがあるんだけど」
歩きながら呼びかけると、オレから伸びる影はすっと母の方へ近づいていく。
「……それが終わったら、次はあの家の花壇を元に戻してあげて欲しい」
奴の言ったことは本当だった。
オレの願いはどんなことだって叶う。勉強だってどれだけでも出来るし、運動も誰よりも得意になった。両親をオレに一切干渉させないことだってできた。
その日から人の心も、自分のことも、なんだって思うがままだった。
なんでも出来て皆に慕われる『織原準』は、虚像で作られた存在ではなく本物になっている。
「それでも穂高を自分のものにはしないのか」
誰もいない教室の中、俺から伸びた影は人の形を模していて、隣に立って話し掛けてくる。
「この力を使って穂高に願うことはないよ」
「……」
「穂高はありのままのオレのことを見てくれている。だからこんな力がなくとも、穂高はオレを好きでいてくれるから」
だからこの力は、自分や穂高を守るためにある。
奴はオレの影の中にいて、オレの願うことはなんでもすぐに叶えてくれる。オレは抵抗もなくこの力を何度も使った。
おかげで、オレの足元に広がる影は随分大きくなっている。奴の言うリミットまで、あとどれくらいの猶予があるのかも分からない。
それでも、不自由に生きるくらいなら安い代償だった。
「穂高がオレのこと友達でいて欲しいって思うのならオレは穂高のいい友達でいるし、恋人になって欲しいと思うのなら恋人になるし」
友人でありたいと願いながらも、他の誰かと付き合うと穂高は傷ついてしまうらしい。
そのことももう分かった。だから誰かと付き合ったりはしない。
またこの間のように穂高が自分を求めてくれる時がきたら、オレはそれに答える。それまでは何もしないで、後ろをついてくる穂高の前を歩き続けるだけだ。
初めて穂高に気持ちを伝えた日。
ひどく戸惑ってしまった穂高を見て、オレは後悔した。
今の穂高がオレに求めるのはこの形ではなかったのだと。
あのとき時間を巻き戻して、それを無かったことにしてオレは穂高の友人であり続けた。
だからオレは穂高が求める時に、求める関係性でそばに居る。
穂高がオレに向ける感情が恋愛感情だということは分かっている。だけど彼は自分のその感情すらも上手く受け入れられていない。それならオレは、彼の準備が整うまで待ち続ける。それだけだ。
「歪んだ愛情だな」
「歪んでたってなんだっていいさ!オレはただ穂高といっしょに、ずーっと帰り道を歩いていければそれでいいんだ」
閉じ込めたくなるあの特別な時間を守ることが出来るのなら、どんなことだって出来る。
時間を巻き戻すことだって、自分を変えることだって、穂高に気を失ってもらっているうちに邪魔者を排除することだって、なんだって。
「……お前と契約したのは正解だったよ」
満足気に言っているこいつとの付き合いももう随分になる。
初めは暗闇で顔が見えなかったはずなのに、気がつけばなぜかこいつの顔はオレにそっくりになっている。
もしかしたら最後はオレに成り代わって、こいつが人間になって、オレがこいつみたいに生きていくことになるのかなとか、そんなふうになるのではないか、とはうっすらと考えている。
それでも別によかった。
「オレがお前のようになったら、オレは穂高の影の中で生きていけばいい。そうすれば、どんな時もずーっと一緒にいられるんだもんな」
もうきっと、とっくに自分は人間では無いのだろう。
「準!おまたせ……!」
園芸係の仕事でプランターの植え替えを行っていた穂高がこちらへ走ってくる。ひらひらと手を振っていると、影はオレの隣から姿を消して、またオレの影の中へと戻っていく。
「おかえり、穂高!」
「思ったよりも早く終わって良かった……」
「でも寄り道はちょっと厳しいよな。今日はまっすぐ帰って、次の休みにポテト屋とゲーセン行こうぜ」
「そうだね」
教室を出て、オレたちは駅まで歩き始める。
寄り道の予定は潰れたが、少しタイミングがズレたので電車はいつもよりは混んでいないかもしれない。穂高に近づくきっかけが無くなってしまうのは少し残念だが。
「……本当に、悪魔と人間とは、何が違うのだろうな」
影は憐れむように、嘲笑うように、小さくそう呟いていた。
いつもの最寄り駅からの帰り道。
沈んでいく夕陽は今日も変わらず町を焼き尽くすようにオレンジ色に染め上げている。それに向かっていくようにオレが歩き始めると、穂高はその後ろをついてくる。
大きく広がるオレの影はすっぽりと穂高を包み込み、まるで閉じ込めるように覆い隠していく。オレが振り向けば、真っ暗闇の中から穂高はオレに微笑みかけてくれる。
オレが何をしているのかを穂高は知らない。知らないままでいい。だってオレは、穂高の前ではあの時のままの『織原準』なのだから。
「穂高!」
「なに?」
「頑張って大学入ってさ、これからもオレと一緒にこの道を歩いてくれよ!」
穂高は一瞬驚いたような顔をして、そのあと少し俯きながら、頬を赤くして頷いている。
小さなころから通ってきた、見慣れた夕焼けの帰り道。
車通りも多くは無い住宅街の長い一本道を、いつも後ろをついてきてくれる穂高の少し前を歩く。
オレにとっての何にも変えられない大切な時間。
オレの作る影の中に穂高を閉じ込めておくためなら、オレはこれからもどんなことだって出来る。
好きだとか、愛してるだとか、そんな言葉では言い表せないこの感情ごとこの闇の中に隠して。
それがオレの、最大限の愛のかたち。
