「準に会えてよかった」
自分の気持ちを告げるのは得意ではない。
だから嫌なことは断れないタイプだし、好きな人にも好きって伝えられない。
思うところがあったとしても、周りのことを考えて、ずっと自分の意見を押し殺して生きていくことが正しいのだと思っていた。
だけど、準が唐突に「穂高に会えてよかった!」なんて言ってくるのだ。
「ありがとう」と伝えるのが正しいのか?「急にどうしたの?」ととぼけるのが正しいのか?分からなくて、自分の中に答えが用意されていなくて、思わず咄嗟に出た言葉が自分の本当の気持ちだった。
「穂高もそう思ってくれてんの?」
「うん……」
もしかすると、自分は考えすぎて言葉にできないタイプなのかもしれない。だけど後先のことを考えれば、きっとそれで間違ってないと思う。
だって今、ついつい本音を言ってしまったがために、パニックで準に返す言葉が見つからない。
「うれし、えへへ」
だけど、準は嬉しそうに笑っていて。
「……俺もうれしい」
準に会ってから、すべてが変わった。
俺を救ってくれたのは間違いなく準で。あの日、ひとりぼっちだった俺に準が手を差し伸べてくれなかったら、きっと今の俺はいなくて。
それからもずっと、準は俺のことを救ってくれていて。
俺はそんな、準のことが――
「穂高、オレさ、穂高のことが好き」
無邪気な準のあどけない笑顔。これは雰囲気的に、おそらく準が失踪したあとのことくらいだろうか。
準と話したことはどんなことだって覚えているはずなのに、これが何時のことだったのかなぜかよく思い出せない。
この会話自体、何をきっかけに出た話題なのかもよく覚えていない。
「だいすきなんだ。俺、やさしい穂高を誰にも取られたくなくて不安だったけど、きっとこれからはずっといっしょにいられるよ」
そもそも、俺は準にこんなことを言ってもらった記憶が無い。
そんな幸せなことを言われて、俺が忘れてしまうはずがない。
これはいつの、何の記憶なのか?
「これからは穂高が困ってたら、俺がどんなことだってしてあげられるから」
だって準は俺のことを、そんなかたちで好きではなかったはずだ。
それならこれは、何。
「………………」
夢を見ていた。
俺は何度も何度も、準と過ごした日の思い出を夢に見ている。
初めて出会った日の夢も、ふたりで出かけた思い出の夢も、映画のフィルムを何度も流すように再生している。
それだけ自分の中で、彼と過ごした時間の全てが大切な宝物だった。
(……だけど、ときどき身に覚えのない夢を見る)
夢なので自分に都合のいいものを見せている可能性もある。むしろ夢とはそういうものだと思う。
だけど今、このタイミングで今日の内容を夢に見たくはなかった。
ベッドの上で、俺はしばらくのあいだ頭を抱えて蹲っていた。
「なぁなぁ、穂高」
小さなころから通ってきた、見慣れた夕焼けの帰り道。
車通りも多くは無い住宅街の長い一本道を、いつも少し前を行く準の後ろをついていく。
俺にとってのかけがえのない時間。
うちの中学から今の高校へ進学したのは俺たちふたりと、他は数える程しかいない。
お陰でこれまでと変わらず、町がオレンジ色に染まるこの時間は、俺が準を独り占めできる。
今日、までは。
「どうした?」
「あのさ……」
俺はこの先の展開を知っている。この空も、この景色も、見るのは二回目で。
この少し前に、準は同じクラスの宮代さんに告白されて、ふたりは付き合うことになっている。
言葉を詰まらせた準はその事を俺に打ち明けてくれる。そのはずだ。
俺は全てを覚悟の上で、この瞬間に戻ってきた。
初めから全てなかったことにする。何も変えない。このままでいい。
自分の気持ちに準を関与させない。
それがきっと、いちばん正しい選択肢なのだ。
そのはずだった。
「学校から1駅行ったとこにでっかいゲーセンが出来たんだって」
「…………え?」
「行ってみたいんだけど、たぶん最初のうちはすげぇ人多いだろうな」
準はこちらを振り向きながらうーん、と唸っている。
……なんで?
話の内容があの時と違う。
まさか、別の日に戻ったのか?
だけど前後の記憶との辻褄は合っている。戻るのはこの瞬間にして欲しいと悪魔に頼んだはずなのだが、勝手に別の日に変えてしまったのか。
でも、この会話に覚えがない。ならばこれはいつの話なのか。
この違和感の謎を確認するすべもなくて、俺は目を泳がせる。
「どした、穂高?」
「あ、いや……なんでも……」
もう悪魔を頼らない。今後は互いに干渉せず、関わることもない。
この決断を最後にする。
そう決めてここへ戻ってきたはずなのに。
(……まさかわざとこんなことして、また俺が困惑してるのを見て嘲笑ってるのか?)
姿は見えずとも、奴は今も俺の事を見ているのだろう。
俺と話す前からずっと見ていたと、奴はそう言っていた。だからきっと、俺が干渉しなくても奴は俺のことを足元の影の中から見ているのだ。
「次の週末は多分めっちゃ混んでるよな」
「そう……だろうね」
「だよなー……じゃあ大人しく家でゲームするかぁ。穂高もうち来る?」
「う、うん」
だとしても、おそらく自分にとって悪い方向に変わったわけではない。
肩透かしを食らってしまった気分だが、不安を払拭して準のうしろに続く。
今は考えたって仕方がなかった。
翌日の昼休み。
準やみんなに断り今日はひとりで早めにランチを済ませ、中庭の花壇に向かう。今週はうちのクラスがこのエリアの担当だ。
自分の家のものよりもずっと長いホースを蛇口に繋ぎ、霧吹き状に切り替えて中央付近の花壇から順番に水を撒いていく。天気予報の通りなら、これからしばらくは晴天が続くはずだ。早めに土を湿らせておいた方がいい。
授業後に来てもいいのだが、準を待たせたくないのもあり、水遣り程度であればなるべく昼休みに済ませておきたい。
「あ……」
実習棟の出口から宮代さんがこちらに向かって歩いてくる。宮代さんは俺と同じ園芸係だ。おそらく彼女も昼休みのうちに水遣りを済ませておきたかったのだろう。
「もう始めてたの?」
「あ……この辺りは俺がやっておくよ。宮代さんは校舎の近くの方をお願いできる?」
宮代さんはもう一本のホースを蛇口に繋いで、校舎に面したエリアまでホースを引っ張っていく。
全てを元に戻したことで、俺の嘘で宮代さんの大切な想いを踏みにじったあの件はなくなった。なので俺が彼女やその仲間に目の敵にされることも無くなったのだが、自分のしてしまったことの記憶はしっかりと残っており、何となく彼女への罪悪感や気まずさは感じる。
彼女が準を好きということは変わりないはずだ。それに本来だったら昨日、彼女は準に告白をしているはずだ。前回と準の様子が違ったおかげで、結局どうなったのか分からないという蟠りが残っている。
(……聞き出すのも変だよな)
昨日準が何も言わなかったので、そもそも彼女が準を好きということすら俺は知らないはずなのだ。現にあのとき準に伝えられるまでは全く気がついていなかった。
宮代さんとは反対側の校舎側までホースを引っ張っていきながら、ついちらちらと彼女の方を見てしまう。宮代さんは落ち着いている。実は準が俺に黙っているだけで、彼女が告白をしてOKを貰えていると様子も、はたまた断られてしまったという雰囲気もない。どちらにせよそんなに分かりやすく表に出ていないだけという可能性もあるのだが。
「そっちは終わった?」
「う、うん」
一通り水を撒くと、宮代さんはすぐにホースを巻き取って片付けていく。慌てて俺もすぐに片付けを始めて彼女の分のホースも運ぶ。
「ねぇ、樫本くん」
「な、なに?」
「織原くんとはだいぶ前から知り合いなのよね?」
どうにも意識をしてしまうからか、彼女の口から準の名前が出るだけでもドキッとする。
「小学校に入ってすぐくらいからは……」
「そうなの」
「準が……どうかした?」
準のことが好きなの?とは聞けないが、そのくらいの事なら聞けるはずだ。
「彼……ちょっとおかしいよ」
「……え?」
「実は私、彼のこといいなと思ってたの。でも昨日話してて、初めて彼の異常性に気がついた」
目を伏せて、体の前で指を組みながら彼女はそう話す。その手は微かに震えている。
自分が想像していたものとはかけ離れた彼女の様子に俺は言葉を詰まらせる。
彼女の話からしてもやはり昨日、宮代さんと準は話をしていた。だけどその時何を話したのか、何が起こったのかまでは分からない。
「樫本くんは彼のこと信じてるだろうから分からないだろうけど、きっと気をつけておいた方がいいよ」
「なに、を……?」
「織原くんは……」
話そうとしたところで、彼女は口元を手で押さえて言い淀む。
「ほだかー!水やり終わった?」
声のするほうを見上げると、廊下の窓から準が身を乗り出して手を振っている。「もう終わるから!」と答えると、両手で丸の形を作って準は引っ込んでいく。
「宮代さんごめんね、準が……どう……したの……」
先刻まで彼女が立っていたところにはもう誰もいない。視界の端に、ぱたぱたと逃げるように走っていく宮代さんの後ろ姿が見えた。
俺の最後の願いは、悪魔が初めて現れた日に戻ること。
あの日、準からの告白に絶望したあの瞬間に戻って、すべてをなかったことにする。
だけど、あの時と明らかに何かが違う。
準も、宮代さんも、俺が何も行動を起こしていなくてもあの時と同じにならない。
(どうして……?)
どこかで何かが少しずつ違うのかもしれない。
だけど、自分には何も身に覚えがない。
もしかしたら宮代さんたちに追い込まれていた時のように、俺の知らないうちに何かが起こったのかもしれない。だが、それを確かめるために悪魔を呼ぶわけにもいかない。
「どうしたんだよ、穂高」
いつもの帰り道。
俺が考え込んでいるうちに少し前へ行った準が、振り返ってこちらを見ている。
「ちょっと……考え事」
今日はもう日が落ちているのか、いつもよりも少し暗くなっている。時間が遅かったのか、少し曇ってきたのか。どちらかは分からない。
「もしかして進路のこと?」
「え?」
「もうそろそろ進学か就職か、どうするかって言ってたよなー……穂高はどっちの予定?」
確かに今日のホームルームで話が出ていた気がする。俺たちももう二年生だ。確かにそろそろ考えなくてはいけない時期……とは分かっているが、準への気持ちや自分に起こる不思議な現象のことで頭がいっぱいで、そんなことは全然考えていなかった。
「俺は……そんなに成績も良くないし、就職かな」
「えっ、大学行かねぇの?」
「勉強が好きってわけじゃないし、いいかなって……」
「オレは穂高とサークル活動とかしてみたかったんだけどなぁ」
残念そうに準が唇を尖らせる。
成績優秀な準はきっと進学を選ぶだろうから、この時間を過ごせるのは卒業までだと思っていた。だが、準と進学を目指せば、もしかしたらこれからも一緒にこの道を歩くことが出来るのかもしれない。
「……サークル、どんなの入るの?」
「運動系でも良かったけど、穂高が一緒なら園芸系とかそういうのもありだなって」
「そんなのもあるんだ……」
「学校によってすげぇいっぱい種類があるみたいだよ。アウトドア系で一緒に山の中で植物探したりさ、そういうのもいいなって思ってた」
準の考える未来にはちゃんと俺の居場所が用意されていて、俺はそれに驚く。思えば高校受験の時もそうだった。あの時も準が俺を気にかけてくれて、おかげで今の学校に通えているし、こうして今もふたりで帰り道を歩いている。
友達の立ち位置であっても、もしかすると準にとってずっと一緒にいる俺は少し特別なのかもしれないと自惚れてしまう。
「……勉強がんばれば、いけるのかな?」
「いけるって!高校受験だって上手くいったんだしさ、また俺が勉強手伝うし!」
ぐっ、と準は両手を胸の前で握る。
どれだけ準に頼るのだと言う話だが、準の方から来てくれるのでこちらも縋りやすい。はっきり自分の意見も言えない俺を、準はいつでも引っ張っていってくれる。
準が居なかったら、俺は今頃どうなっていたのだろうか。
「じゃあ……ちゃんと勉強、がんばろうかな」
「やった!いい感じのサークルがあるとこ一緒に目指そうぜ」
準は嬉しそうに飛び跳ねる。これからも彼の少し後ろのこの位置で、彼のことを見ていられることができるなら頑張れる。
なんの取り柄もない自分でもそう思える気がして。
「準」
「ん?」
「ありがとう」
恋人になんてならなくてもいい。
ただ彼の影の中に守られて、後ろから準のことをずっと見ていられればそれでいい。
好きだとは言えない。だから今の自分の言える、最大限の言葉を準に送る。
「オレの方こそ、ありがとう」
感謝されるようなことをした覚えは無いけど、つられるように準も俺に感謝を告げる。
お互いによく分からなくて、目を見合せて吹き出してしまう。
「ぷはっ、なぁんだよ、改まって……!」
「準のほうこそ……!」
俺たちは笑い合いながら、歩き慣れたいつもの黄昏時の帰り道を歩く。
沈みゆく夕陽は、今日も正面から準を照らしている。
俺はそんな彼の大きな影の中を歩く。眩しすぎるこの落日に焼かれないように。
その影がずっと大きく広がっていることに、これからも気が付かないふりをしながら。
自分の気持ちを告げるのは得意ではない。
だから嫌なことは断れないタイプだし、好きな人にも好きって伝えられない。
思うところがあったとしても、周りのことを考えて、ずっと自分の意見を押し殺して生きていくことが正しいのだと思っていた。
だけど、準が唐突に「穂高に会えてよかった!」なんて言ってくるのだ。
「ありがとう」と伝えるのが正しいのか?「急にどうしたの?」ととぼけるのが正しいのか?分からなくて、自分の中に答えが用意されていなくて、思わず咄嗟に出た言葉が自分の本当の気持ちだった。
「穂高もそう思ってくれてんの?」
「うん……」
もしかすると、自分は考えすぎて言葉にできないタイプなのかもしれない。だけど後先のことを考えれば、きっとそれで間違ってないと思う。
だって今、ついつい本音を言ってしまったがために、パニックで準に返す言葉が見つからない。
「うれし、えへへ」
だけど、準は嬉しそうに笑っていて。
「……俺もうれしい」
準に会ってから、すべてが変わった。
俺を救ってくれたのは間違いなく準で。あの日、ひとりぼっちだった俺に準が手を差し伸べてくれなかったら、きっと今の俺はいなくて。
それからもずっと、準は俺のことを救ってくれていて。
俺はそんな、準のことが――
「穂高、オレさ、穂高のことが好き」
無邪気な準のあどけない笑顔。これは雰囲気的に、おそらく準が失踪したあとのことくらいだろうか。
準と話したことはどんなことだって覚えているはずなのに、これが何時のことだったのかなぜかよく思い出せない。
この会話自体、何をきっかけに出た話題なのかもよく覚えていない。
「だいすきなんだ。俺、やさしい穂高を誰にも取られたくなくて不安だったけど、きっとこれからはずっといっしょにいられるよ」
そもそも、俺は準にこんなことを言ってもらった記憶が無い。
そんな幸せなことを言われて、俺が忘れてしまうはずがない。
これはいつの、何の記憶なのか?
「これからは穂高が困ってたら、俺がどんなことだってしてあげられるから」
だって準は俺のことを、そんなかたちで好きではなかったはずだ。
それならこれは、何。
「………………」
夢を見ていた。
俺は何度も何度も、準と過ごした日の思い出を夢に見ている。
初めて出会った日の夢も、ふたりで出かけた思い出の夢も、映画のフィルムを何度も流すように再生している。
それだけ自分の中で、彼と過ごした時間の全てが大切な宝物だった。
(……だけど、ときどき身に覚えのない夢を見る)
夢なので自分に都合のいいものを見せている可能性もある。むしろ夢とはそういうものだと思う。
だけど今、このタイミングで今日の内容を夢に見たくはなかった。
ベッドの上で、俺はしばらくのあいだ頭を抱えて蹲っていた。
「なぁなぁ、穂高」
小さなころから通ってきた、見慣れた夕焼けの帰り道。
車通りも多くは無い住宅街の長い一本道を、いつも少し前を行く準の後ろをついていく。
俺にとってのかけがえのない時間。
うちの中学から今の高校へ進学したのは俺たちふたりと、他は数える程しかいない。
お陰でこれまでと変わらず、町がオレンジ色に染まるこの時間は、俺が準を独り占めできる。
今日、までは。
「どうした?」
「あのさ……」
俺はこの先の展開を知っている。この空も、この景色も、見るのは二回目で。
この少し前に、準は同じクラスの宮代さんに告白されて、ふたりは付き合うことになっている。
言葉を詰まらせた準はその事を俺に打ち明けてくれる。そのはずだ。
俺は全てを覚悟の上で、この瞬間に戻ってきた。
初めから全てなかったことにする。何も変えない。このままでいい。
自分の気持ちに準を関与させない。
それがきっと、いちばん正しい選択肢なのだ。
そのはずだった。
「学校から1駅行ったとこにでっかいゲーセンが出来たんだって」
「…………え?」
「行ってみたいんだけど、たぶん最初のうちはすげぇ人多いだろうな」
準はこちらを振り向きながらうーん、と唸っている。
……なんで?
話の内容があの時と違う。
まさか、別の日に戻ったのか?
だけど前後の記憶との辻褄は合っている。戻るのはこの瞬間にして欲しいと悪魔に頼んだはずなのだが、勝手に別の日に変えてしまったのか。
でも、この会話に覚えがない。ならばこれはいつの話なのか。
この違和感の謎を確認するすべもなくて、俺は目を泳がせる。
「どした、穂高?」
「あ、いや……なんでも……」
もう悪魔を頼らない。今後は互いに干渉せず、関わることもない。
この決断を最後にする。
そう決めてここへ戻ってきたはずなのに。
(……まさかわざとこんなことして、また俺が困惑してるのを見て嘲笑ってるのか?)
姿は見えずとも、奴は今も俺の事を見ているのだろう。
俺と話す前からずっと見ていたと、奴はそう言っていた。だからきっと、俺が干渉しなくても奴は俺のことを足元の影の中から見ているのだ。
「次の週末は多分めっちゃ混んでるよな」
「そう……だろうね」
「だよなー……じゃあ大人しく家でゲームするかぁ。穂高もうち来る?」
「う、うん」
だとしても、おそらく自分にとって悪い方向に変わったわけではない。
肩透かしを食らってしまった気分だが、不安を払拭して準のうしろに続く。
今は考えたって仕方がなかった。
翌日の昼休み。
準やみんなに断り今日はひとりで早めにランチを済ませ、中庭の花壇に向かう。今週はうちのクラスがこのエリアの担当だ。
自分の家のものよりもずっと長いホースを蛇口に繋ぎ、霧吹き状に切り替えて中央付近の花壇から順番に水を撒いていく。天気予報の通りなら、これからしばらくは晴天が続くはずだ。早めに土を湿らせておいた方がいい。
授業後に来てもいいのだが、準を待たせたくないのもあり、水遣り程度であればなるべく昼休みに済ませておきたい。
「あ……」
実習棟の出口から宮代さんがこちらに向かって歩いてくる。宮代さんは俺と同じ園芸係だ。おそらく彼女も昼休みのうちに水遣りを済ませておきたかったのだろう。
「もう始めてたの?」
「あ……この辺りは俺がやっておくよ。宮代さんは校舎の近くの方をお願いできる?」
宮代さんはもう一本のホースを蛇口に繋いで、校舎に面したエリアまでホースを引っ張っていく。
全てを元に戻したことで、俺の嘘で宮代さんの大切な想いを踏みにじったあの件はなくなった。なので俺が彼女やその仲間に目の敵にされることも無くなったのだが、自分のしてしまったことの記憶はしっかりと残っており、何となく彼女への罪悪感や気まずさは感じる。
彼女が準を好きということは変わりないはずだ。それに本来だったら昨日、彼女は準に告白をしているはずだ。前回と準の様子が違ったおかげで、結局どうなったのか分からないという蟠りが残っている。
(……聞き出すのも変だよな)
昨日準が何も言わなかったので、そもそも彼女が準を好きということすら俺は知らないはずなのだ。現にあのとき準に伝えられるまでは全く気がついていなかった。
宮代さんとは反対側の校舎側までホースを引っ張っていきながら、ついちらちらと彼女の方を見てしまう。宮代さんは落ち着いている。実は準が俺に黙っているだけで、彼女が告白をしてOKを貰えていると様子も、はたまた断られてしまったという雰囲気もない。どちらにせよそんなに分かりやすく表に出ていないだけという可能性もあるのだが。
「そっちは終わった?」
「う、うん」
一通り水を撒くと、宮代さんはすぐにホースを巻き取って片付けていく。慌てて俺もすぐに片付けを始めて彼女の分のホースも運ぶ。
「ねぇ、樫本くん」
「な、なに?」
「織原くんとはだいぶ前から知り合いなのよね?」
どうにも意識をしてしまうからか、彼女の口から準の名前が出るだけでもドキッとする。
「小学校に入ってすぐくらいからは……」
「そうなの」
「準が……どうかした?」
準のことが好きなの?とは聞けないが、そのくらいの事なら聞けるはずだ。
「彼……ちょっとおかしいよ」
「……え?」
「実は私、彼のこといいなと思ってたの。でも昨日話してて、初めて彼の異常性に気がついた」
目を伏せて、体の前で指を組みながら彼女はそう話す。その手は微かに震えている。
自分が想像していたものとはかけ離れた彼女の様子に俺は言葉を詰まらせる。
彼女の話からしてもやはり昨日、宮代さんと準は話をしていた。だけどその時何を話したのか、何が起こったのかまでは分からない。
「樫本くんは彼のこと信じてるだろうから分からないだろうけど、きっと気をつけておいた方がいいよ」
「なに、を……?」
「織原くんは……」
話そうとしたところで、彼女は口元を手で押さえて言い淀む。
「ほだかー!水やり終わった?」
声のするほうを見上げると、廊下の窓から準が身を乗り出して手を振っている。「もう終わるから!」と答えると、両手で丸の形を作って準は引っ込んでいく。
「宮代さんごめんね、準が……どう……したの……」
先刻まで彼女が立っていたところにはもう誰もいない。視界の端に、ぱたぱたと逃げるように走っていく宮代さんの後ろ姿が見えた。
俺の最後の願いは、悪魔が初めて現れた日に戻ること。
あの日、準からの告白に絶望したあの瞬間に戻って、すべてをなかったことにする。
だけど、あの時と明らかに何かが違う。
準も、宮代さんも、俺が何も行動を起こしていなくてもあの時と同じにならない。
(どうして……?)
どこかで何かが少しずつ違うのかもしれない。
だけど、自分には何も身に覚えがない。
もしかしたら宮代さんたちに追い込まれていた時のように、俺の知らないうちに何かが起こったのかもしれない。だが、それを確かめるために悪魔を呼ぶわけにもいかない。
「どうしたんだよ、穂高」
いつもの帰り道。
俺が考え込んでいるうちに少し前へ行った準が、振り返ってこちらを見ている。
「ちょっと……考え事」
今日はもう日が落ちているのか、いつもよりも少し暗くなっている。時間が遅かったのか、少し曇ってきたのか。どちらかは分からない。
「もしかして進路のこと?」
「え?」
「もうそろそろ進学か就職か、どうするかって言ってたよなー……穂高はどっちの予定?」
確かに今日のホームルームで話が出ていた気がする。俺たちももう二年生だ。確かにそろそろ考えなくてはいけない時期……とは分かっているが、準への気持ちや自分に起こる不思議な現象のことで頭がいっぱいで、そんなことは全然考えていなかった。
「俺は……そんなに成績も良くないし、就職かな」
「えっ、大学行かねぇの?」
「勉強が好きってわけじゃないし、いいかなって……」
「オレは穂高とサークル活動とかしてみたかったんだけどなぁ」
残念そうに準が唇を尖らせる。
成績優秀な準はきっと進学を選ぶだろうから、この時間を過ごせるのは卒業までだと思っていた。だが、準と進学を目指せば、もしかしたらこれからも一緒にこの道を歩くことが出来るのかもしれない。
「……サークル、どんなの入るの?」
「運動系でも良かったけど、穂高が一緒なら園芸系とかそういうのもありだなって」
「そんなのもあるんだ……」
「学校によってすげぇいっぱい種類があるみたいだよ。アウトドア系で一緒に山の中で植物探したりさ、そういうのもいいなって思ってた」
準の考える未来にはちゃんと俺の居場所が用意されていて、俺はそれに驚く。思えば高校受験の時もそうだった。あの時も準が俺を気にかけてくれて、おかげで今の学校に通えているし、こうして今もふたりで帰り道を歩いている。
友達の立ち位置であっても、もしかすると準にとってずっと一緒にいる俺は少し特別なのかもしれないと自惚れてしまう。
「……勉強がんばれば、いけるのかな?」
「いけるって!高校受験だって上手くいったんだしさ、また俺が勉強手伝うし!」
ぐっ、と準は両手を胸の前で握る。
どれだけ準に頼るのだと言う話だが、準の方から来てくれるのでこちらも縋りやすい。はっきり自分の意見も言えない俺を、準はいつでも引っ張っていってくれる。
準が居なかったら、俺は今頃どうなっていたのだろうか。
「じゃあ……ちゃんと勉強、がんばろうかな」
「やった!いい感じのサークルがあるとこ一緒に目指そうぜ」
準は嬉しそうに飛び跳ねる。これからも彼の少し後ろのこの位置で、彼のことを見ていられることができるなら頑張れる。
なんの取り柄もない自分でもそう思える気がして。
「準」
「ん?」
「ありがとう」
恋人になんてならなくてもいい。
ただ彼の影の中に守られて、後ろから準のことをずっと見ていられればそれでいい。
好きだとは言えない。だから今の自分の言える、最大限の言葉を準に送る。
「オレの方こそ、ありがとう」
感謝されるようなことをした覚えは無いけど、つられるように準も俺に感謝を告げる。
お互いによく分からなくて、目を見合せて吹き出してしまう。
「ぷはっ、なぁんだよ、改まって……!」
「準のほうこそ……!」
俺たちは笑い合いながら、歩き慣れたいつもの黄昏時の帰り道を歩く。
沈みゆく夕陽は、今日も正面から準を照らしている。
俺はそんな彼の大きな影の中を歩く。眩しすぎるこの落日に焼かれないように。
その影がずっと大きく広がっていることに、これからも気が付かないふりをしながら。
