落日の影

 花を育てるのは好きだ。
 何も得意なことがない劣等感の塊である自分にも、花は愛情を注いでいれば応えてくれる。だから俺はいつも、おもちゃよりも花の株や種を母親に強請った。
 土が乾いていたら忘れないように水をあげて、虫や雑草を見かけたら取り除いて、晴れた日はなるべく日に当てて。
 気がつけば家の庭は俺の育てた花でいっぱいだった。住宅街の一軒家でたくさん花が咲いているのは見栄えがいいからか、母もよく喜んでくれていた。

「穂高のうちの庭、いつもきれいだよなぁ」

 小学三年生の初夏。如雨露で水を撒く俺を見ながら、感心するように準が言う。一緒に宿題をやろうと言ってランドセルを背負ったままで来てくれていたが、今日はとても天気のいい日だったのでとりあえず先に水やりをしたかった。準は漫画を読みながら待ってるから大丈夫、と言いながらも、ページは全然進まずに花の世話に興味津々だ。

「オレの家はさ、植木鉢の花も花瓶の花もすぐに枯れちゃうから」
「おばさん、お世話しないの?」
「買っただけでいつも放ったらかしだからさ……花もかわいそうだよな」

 たしかに、準の家の中や周りで植物を見た事が無い。大きめの一軒家で庭も広かったはずだが、全くガーデニングなどはしていない。

「穂高が育ててる花はいつも幸せそうだ」
「そうかな?」
「そうだと思う。最初に会った時に持ってた朝顔もきれいに咲いてたもんな」

 もうあれから二年くらい経つんだ。時間が経つとは本当にあっという間だ。
 鉢植えで前が見えなかった俺を準が助けてくれて、初めて声を掛けてくれた大切な日。きっかけをくれたのが鉢植えのような気がして、あれから俺はさらに懸命に花の世話をするようになった。

「それもいい感じに咲いてるな」
「やっと咲き始めたんだ」
「へー、じゃあ全部咲いたらもっといい感じになるんだ!楽しみだな」

 結局漫画は放り出して、準もこちらへ来て花壇の傍に屈み込む。自分の一生懸命頑張っているものに準が興味を示してくれるのはとても嬉しかった。
 だが、今は大きな不安がある。空を見上げても今は僅かな雲しか見当たらない晴天だが、予報によると夜頃から大きな崩れがあるはずだ。

「でも、明日ごろに台風が来るって天気予報で言ってて。ちょっと心配で……」

 鉢植えではなく花壇に植えているので、家の中に避難させてやるのも難しい。それでも長く面倒を見てきた花なので、できればもうしばらくは元気なままで咲いていてほしい。なんならまだ満開ではないので、蕾が開いていないところもある。

「台風、来ないといいよなぁ」
「うん……」


 しかし俺たちの願いも虚しく、次の日に台風は俺たちの住む地域に直撃した。
 あまりの雨風の強さに外に出るのも危険で、朝一から警報が出て小学校は休みになった。
 どうしてやることも出来ず、俺は自分の部屋の窓からただただずっと強い雨風にさらされる花壇を見ているだけだった。
 夕方になって天候が落ち着いた頃、すぐに外に出て花壇の確認をする。だが花はほぼ全て折れてしまっていた。

「穂高!」
「準……」

 落胆する俺のところに長靴を履いた準が駆け寄ってくる。変わり果ててしまった花壇を見て、準も悲しい顔をする。

「ひどいな……」
「自然のことだしどうしようもないけど、やっぱり悲しいね……」

 折れてしまった花はどうすることも出来ない。
 見ていて悲しい気持ちになるのは嫌だったので、本当はすぐにでも処分してしまいたかったが、それすらできなかった。
 種から育ててこれだけたくさん花をつけてくれたのは今までで初めてだった。だから今までのものよりもかなり気をつけて世話をしていたが、こればかりはどうしようもない。

「……穂高、泣いてるの?」
「…………」

 準も楽しみにしてくれていた。
 自分が手塩に掛けた綺麗に咲きほこる花々を、準にも見て欲しかった。
 考えれば考えるほどに悔しくて、ぼろぼろと涙が止まらなくなる。

「う、うっ……」
「ほだか……」

 一度溢れ出すと止まらない。わんわんと泣きじゃくる俺の背中を、準はそっと撫でてくれる。
 日が沈んで真っ暗になっても、俺が泣き止むまで準はずっとそばに居てくれていた。


 涙で腫れた目で準を見送って、俺は家の中に戻る。家で心配していた母さんは、また今度新しい種を買いに行こうと言ってくれた。用意してくれていた夕飯はすっかり冷めてしまっていて、俺は申し訳ない気持ちになる。
 食欲はなかったが母さんがせっかく作ってくれたものを食べないのは嫌で、なんとか完食した。
 夕飯を済ませてからすぐに風呂に入る気にならなくて、今日のうちに花壇の花を片付けてしまうかどうしようか悩む。このままにしておいて、明日の朝に外に出たときにまた落ち込んでしまうのも辛い。
 そうして悩んでいるときだった。

「穂高!準くんが……」

 電話をしていた母さんの青ざめた顔。ただ事ではないということがすぐに分かる。電話の相手は準の母親だった。
 準が突然、いなくなってしまったと伝えられた。


「穂高!待って!」

 母さんの静止を振り切り、すぐに家の外に飛び出す。
 俺の家から戻ってしばらくしたあと、準は母親と喧嘩になって家を出ていってしまったらしい。
 まだあちこち水溜まりだらけで、床もぬかるむ真っ暗な夜の住宅街。既に台風は過ぎ去っており空には星々が輝いている。

「準!じゅん……!!」

 照明も少ないので、明るい時間に通っている道とはまるで別の場所だ。普段なら怖くて外に出られない時間帯なのだが、それよりも早く準を見つけなくてはという思いが自分の足を動かす。
 いつも一緒に遊んでいる公園や、みんなで集まって鬼ごっこをする路地、小学校の方などを一心不乱に走り回る。だけど暗い町の中のどこにも準の姿は見当たらない。

(どこ……?)

 運動は得意ではないし体力もない。足の痛みや疲れを感じ、照明の下でよろけて壁に手をつく。
 気がつけば結構遠くのあまり見慣れない場所まで来てしまった。それでも準は見つからない。
 見つけられるかどうかがだんだん不安になってきて、また視界が涙で滲んでくる。

「なんで……」

 さっきまで一緒だったのに。あのあと一体何があったというのか。

「穂高……?」

 真っ暗闇の中から聞こえる、自分を呼ぶ声。
 聞き慣れたその声に反応し、すぐに顔を上げてそちらを見つめる。

「準……!」

 ゆらりと現れるその姿を見て、俺は目を見開いてしまう。
 それは紛れもなく準だった。
 彼は泥に塗れていて、歩きづらそうに足を引きずりながらこちらに近づいてくる。照明に照らされる場所まで来るとあちこちに血が滲んでいるのも分かる。
 俺は慌ててそちらに駆け寄っていく。

「じゅ、準……どうしたの……?」
「ちょっと転んだだけ……水溜まりで滑っちまったんだ。ダサいよな……」

 とてもちょっと転んだだけ、なんて様子では無い。かなり怪我をしているように見える。

「と、とりあえずつかまって……!」

 肩を貸して準の体を支える。準は俺の顔を見ながら、悲しそうな、なんとも言えない表情をする。

「……なんでこんなことに……」
「ほんとに、ただ転んだだけだから。大したことないよ」

 早く手当てをしないといけない。それにはまず家の方へ戻らなければいけなくて。本当にこの道で合っているか不安になりながらも、来た道だと思う方へと戻っていく。

「……なにか、あったの?」
「……」
「おばさんから準がいなくなったって電話がかかってきて。俺、びっくりして飛び出してきちゃって……」

 少し歩くと見覚えのある道に出てくる。見づらくてよく分からなかったが、そこまで遠くまで来ていたわけではないのかもしれない。走り回っていた時は必死であまり周りが良く見えていなかった。

「……かあさん、なんか言ってた?」
「喧嘩して準が出ていっちゃった、って……」
「……」
「……どうして喧嘩したの?」

 準が出ていった原因が準の家族にあるとしたら、家の方へ戻っていって大丈夫なのだろうか。ふとそう思うが、準が怪我をしているのに戻らないわけにもいかなくて。
 普段は明るくてよく喋るのに、準は全然話さない。こんな時間に飛び出していってしまうくらいだから、余程のことがあったのだろうということはわかる。

「言いたくないならいいよ。ごめんね……」
「……」
「うちの方に戻っていくけど、いい……よね?」

 戻りたくないのかもしれないけど、他に行くあてもない。
 話しながら歩いているうちに、俺の家の近所まで来ていた。俺の家の外に、母さんと準の母親が集まっているのが見える。

「……穂高、もう大丈夫だから」

 俺から離れて、足を引きずりながら準が歩いていく。俺の少し前へ行くと、またさっきの悲しそうな表情で振り返ってくる。

「今度話すから……。来てくれて嬉しかった、ありがとう……」

 そう言うと、準は母さんたちの方へ歩いていく。俺はその少し後ろを歩いてついていく。ボロボロになった準を見て驚きながら、準の母親は頭を下げてすぐに準を家へと連れていった。

「穂高が準くんを見つけたの?」
「うん……」
「怪我してそうだったね、ひどくないといいけど……」
「……うん……」

 でも危ないから急に出ていったら駄目だと少し叱られる。そんなに時間は経っていなかったけど、母さんは俺の心配もしていたようだ。
 家へ帰るとそのまま俺はすぐに風呂に入ってベッドに転がる。今日は色々なことがあった。体がいつもの数倍重たくなっている気がする。

(そうだ、花壇……)

 結局花の片付けをしていなかった。
 思い出したが、疲れすぎてそのまますぐに意識を手放してしまう。



 次の朝、目を覚まして学校の支度をする。色々なことがあったからまだなんとなく疲れている気がする。
 昨日の台風がうそだったように、窓の外には青空が広がっている。

「ほだかー!準くんが来てるわよ!」

 母さんに呼び出されて、急いで玄関に向かう。するとそこには、あちこち絆創膏だらけの準が微笑んで待っていた。

「けがは……大丈夫なの?」
「全然平気!こんなのかすり傷!」

 昨日あったことがまるで嘘だったように、準はいつも通りに元気そのものだ。
 家に帰ってから上手く話は出来たのだろうか。

「それより穂高!花壇見てみろよ!」
「え?」

 準に引っ張られて、玄関の外にある花壇に向かう。そこには昨日の台風で折れてしまった花が萎れている……はずなのだが。

「あ、れ……?」

 日光に照らされながら、花々は真っ直ぐに咲き誇っている。

「元気になってる!良かったな、穂高!」
「ほんとだ……なんで……?」

 一度折れて萎れてしまった花は元には戻らないはずだ。だけど花壇の花は台風が来る前と変わらない姿に戻っている。

「穂高ががんばってるからさ、きっと花が応えてくれたんだよ」
「そう……かな?」
「そうだよ!きっとそうだ!」

 準は嬉しそうにニカッと笑う。
 やった!と飛び跳ねる足は、昨日の傷の気配がまるでない。

(……まるでぜんぶ、夢だったみたいだ)

 そのまま俺は、昨晩何があったのかを準に聞くのを忘れてしまっていた。
 きっとすべてが悪い夢だったのだと、そう思うことにした。





(……どう、なったんだろう)

 昨日、あのまま悪魔は姿を消してしまった。何かが変化したのどうかは、今のところはまだ分からないままだ。
 その後も特に準から連絡はなかった。もしかしたら何かメッセージを送ってくるかもしれないと思い、ずっとスマートフォンを気にしていたが通知は来なかった。

 本当は何も変えていなかったら、悪魔が自分のことをからかっていただけだとしたら。
 だとしたら、準はいつもの集合場所には来ないかもしれない。あんなことを言ってしまったのだ。俺に会うのが気まずくて先に学校へ行ってしまった可能性もある。

(わからない……けど)

 本当に悪魔が何かを変えているのだとしたら。いつも通り、準は来てくれるかもしれない。
 落ち着かなくて、普段よりも少し早く家を出る。いつもの時間までまだ5分もあったがじっとしていられなくて、とりあえず来るのかも分からない準を待つことにした。



(……え?)

 集合場所に向かうと、なんと既に準はそこに待っている。見慣れた姿が遠くから見えただけで心がざわつく。
 すぐ近くだというのに、不安な気持ちで一歩一歩が重い。まずは昨日のことを謝らなくては。準が許してくれるのならこれからも一緒にいたいと伝えなくては。

「穂高!」

 悩みながら近づいている間に、準がこちらに気がついて手を振る。笑顔が見られて胸を撫で下ろすが、昨日見せた悲しい表情がどうしても脳裏にちらつく。

「お、はよ……早かったね」
「たまたま早く目が覚めて、微妙な時間だし早めに待ってようかと思ってさ。穂高もいつもより早かったしちょうど良かったな」
「そうだね……」

 準はいつも通りだった。
 感じ的に昨日のことを気にしている様子はない。それどころか、まるではじめから何も無かったように。
 それでもきちんと謝っておきたい。自分勝手な意見の押しつけで酷いことを言って、準を傷つけてしまった。あれは自分の気持ちじゃなかったかもしれない。もしかしたらああ言うように、気が付かないうちに悪魔に誘導されていたのかもしれない。だけど俺自身が言ってしまったのは事実だ。

「あのさ、準……」
「ん?」
「昨日は本当にごめん……俺、ひどいこと言って……」

 謝って頭を深々と下げる。形はどうあれ、許して貰えないとしても仕方のないことを言った自覚はある。
 準がどんな顔をしているのか見るのが怖い。驚いているのか、訝しんでいるのか。

「……オレもさ、穂高に謝らなきゃって思ってた」

 準はそう言って、俺の両肩を掴んで体を起こしてくる。
 その表情は、とても優しい笑顔で。

「オレが曖昧なこと言ったから、穂高は追い詰められて悩んでたんだよな。本当に……ごめん」
「そ、んな、ことは……」
「ちゃんと言うよ。オレも穂高のこと好きだ。穂高がいなくなったらなんて考えられないし、これからも一緒にいたいんだ」

 それは、夢にまで見た言葉。
 準はまっすぐに俺を見つめて、誠実に自分の想いを伝えてくれる。だけどそんなことが起こるわけがないと、受け入れられていない自分がいる。これが現実だなんて、信じられないような気持ち。
 どん底だった昨日からこんなことになるなんてどうしても考えられなくて。もしかしたら自分はどこかのタイミングから、ずっと夢を見ているのかもしれないとさえ思う。

「っやべ!電車の時間になっちまう!穂高、駅まで走れるか?」
「え、あ、うん……!」

 手を引かれて、駅の方へと準が走り出す。準ひとりならきっともっと速く走っていけるはずだが、俺に合わせたペースにしてくれている。その気遣いが嬉しい。
 確認したいことはまだいくらでもある。だけど今はとりあえず急がなくては。




 ギリギリで遅刻を免れた俺たちは、そのままホームルームを受けて、いつも通り授業をこなしていく。
 昨日と同じく、どうしてもついつい準の様子を見てしまう。
 準はいつもと同じ様子で、授業中に手持ち無沙汰になりながら――ときどき、こちらをちらりと見てくる。

(目が合った)

 準は俺が見ていることに気がついて、はにかみながらこっそりこちらに手を振る。いつも俺から見ているだけなのに、まさか準がこちらを見てくると思わなくて驚いてしまう。
 どうせ気が付かない、という気持ちがあったので、本人に気が付かれると気まずさでそちらを見られない。

 以降も何度か視線がかち合ってしまうので、いたたまれなくなって途中から準の方を見られないまま昼休みになった。
 今日のメニューはカツカレーだ。学食の人気メニューで、野菜の溶け込んだカレーの上に揚げたての大きいカツがまるごと乗っている。あまりのボリュームで俺には完食できないので、いつも準に何切れか渡している。

(気まずい……)

 いつもであれば手をつける前に食べきれなさそうな分を渡して、準がサンキュ、と言って受け取って終わりなのだが。
 この空気感のせいでなんとなく話しかけづらい。まだ準からきちんと話が聞けていないから、というのもあるが、この雰囲気にどうにも慣れない。かといって二人きりではないのでここでそんな話をするわけにもいかない。

「準、今日はどうする?」
「え、えっと……準の食べたい分だけ持っていっていいよ」
「オレとしては本当は穂高にもうちょい食ってもらいたいんだけどなぁ……」

 落胆しながらも、準はいつもくらいの量を俺の皿から運んでいく。準はよく食べるので本当は放っておけば二人前くらい軽く平らげてしまうだろう。食の細い俺に食べさせるためにあのくらいの量だけを持っていくということか。
 準の席はいつも俺の左隣だ。特に誰がどこに座るかは決めていないし、集まったり集まらなかったりする友人もいてグループの人数もまちまちだ。だけど余程のことがない限りは大抵準は俺の左に座っている。おかげで受け渡しはスムーズだ。

「穂高さ」
「ん?」
「授業中にオレの方見てたよな?オレ、なんかおかしかった?」
「え」

 まさかここで言われると思っていなくて、驚きでスプーンを落としそうになってしまう。

「い、や、その……」
「誰かが見てる気がするなーと思ってたら穂高だったからさ、そのあとも気になって穂高の方見てたらまたこっち見てたから」

 カレーをかき込みながら準がそう言う。何の言い訳も考えていなかった俺は手を止めて固まってしまう。
 どうするか。何も言わないわけにもいかなくて。どちらかと言うとどうして準が俺の方を見ていたのかを聞きたかったのだが。

「……え、と……」
「?」
「準のうしろに、何か居たような気がして」

 我ながらかなり苦しい言い訳だ。ここで心霊現象でした、なんて話を突然出しても何もピンと来ないだろう。もちろん全くの嘘だし。
 だけど準はそれを聞いて、ぴたりと手を止めてこちらを見ている。

「……なにか?」
「ご、ごめん……!そんなわけないよね、たぶん俺が居眠りでもしてて勘違いしたんだと思う」

 絶対に怪しまれるだろう。この間の件といい、アドリブも嘘が下手な自分を恨む。事前に考えてシミュレーションをしていたところで、結局は上手く話を運べないのだが。

「……だよなぁ!ビビらせるなよ!トイレに行けなくなっちまうだろ」
「本当にごめんね……この間ホラーゲームの動画観てたから、そのせいかも……」

 なんとか誤魔化せたようで、準はまたカレーに手をつける。準の方は残りがかなり少なくなっていたが、自分の方にはまだ半分以上残っている。俺も慌ててかき込み始めた。

 そのまま残りの授業中はなるべく準の方を向かないようにいつもよりも授業を真面目に聞いた。ホームルームが終わると、いつも通り準が俺の横まで迎えに来てくれる。

「行くか」
「うん」

 荷物をまとめていると、準はスマートフォンで何かを調べている。これこれ、とタップすると、画面を俺の方に見せてくる。

「こないだ言ってたクレープ屋、行く?」

 準が見せてきたのはSNSのおすすめで上がっていて、俺が気にしていた店だ。ちゃんと覚えていてくれたらしい。
 準が気にかけてくれていたのも嬉しいし、行きたいのは山々だが、今はそれよりも色々確認しておきたいことがある。

「お昼が多かったからまだお腹いっぱいなんだ。また今度でもいい?」
「そっか、じゃあまたにしよう」
「せっかく誘ってくれたのにごめんね。今日はまっすぐ帰ろう」

 カレー多いもんな、なんて大盛りを軽く平らげていた準が言う。本当に食欲はあまりない。色々なことが起こって悩みすぎて疲れているのもある。
 学校を出て、最寄り駅の方へ向かう。準は昨日よりも口数が多く、先にクレープをどの種類にするか決めておこうかな、なんて話している。そういえば、昨日話していた助っ人の話はどうなったのだろう。
 帰宅ラッシュの電車の車内は今日も満員だ。いつも通り押し込まれるように角へ行くと、その前に準が立ってくれる。このあいだ守ってくれていた時と同じだ。

「今日も混んでんな」
「うん……」

 目の前の逞しい体つきにくらくらする。毎日トレーニングをしていると話していた。朝は早いし、帰りは一緒だし、夜に行っているのだろうか。
 よく考えれば、準も色々と忙しいはずなのに俺にかなり時間を割いてくれている。下校時間だけを独占しているつもりだったが、ふたりきりと限定しなければ準が自分といる時間はかなり長い。

「大丈夫か?」

 俯いて考え事をしていたからか、準は心配そうにこちらを見つめている。この間体調が良くなかったことをまだ気にかけてくれているのかもしれない。

「大丈夫だよ」
「しんどかったら言ってくれ」
「……ありがとう……」

 周りから守るように、準が俺に体を寄せてくる。
 この間よりもさらに近くなっている。この距離はもう、友人の距離感ではなくて。

(……でも、これも、悪魔のやったことなのかな)



 最寄り駅で降りて、いつもの道を歩く。今日は天気も良く、街は鮮やかな夕日の色に染まっている。
 俺にとって何よりも大切で、何よりも特別な時間。

「しっかし、急に幽霊がいたとか言われたからビビっちまっただろ。当分後ろが気になっちまうよ……」
「ごめんってば……」

 準は笑っている。いつもと変わらない笑顔。大好きで、俺を何度も救ってくれた顔。
 普段であれば俺は準の後ろをついていって、その影の中に隠れるように歩く。だけど、今日は横並びでとなりを歩いている。

「ねぇ、準」
「ん?」

 人通りもほぼない、見慣れた町並み。
 こちらを向いてくれる準の瞳には、俺だけしか映っていない。

「準は……いつから、俺のことを好きだったの?」

 もしかしたら、本当は悪魔は何もしていなくて。
 準からの俺への気持ちも変わらずに、今まで通り親友だと思ってくれているかもしれない。

「初めからだよ」
「え……?」
「あの日、朝顔を持った穂高を見たときから……いや、本当はもっと前から、俺は穂高のことが好きだった」

 鉢植えで前が見えなかった俺を準が助けてくれた、特別な一日。
 あれは俺にとって人生で何よりも大切な時間で、あの日のことを忘れることはない。
 俺はあの日、初めて準と話した。だけど、準は俺のことを「帰りにいつも見る」と言っていた。
 あの時の話の通りなら、俺が準のことを認知するよりも先に、準は俺を知っていたということになる。

「どうし、て……?」
「ずっと気になってたんだ」
「……?」
「いつも寂しそうで、誰とも話をしない。きっと誰かと話したいのだろうけど、自分から話しかけられない。そんな穂高のことを、オレはずっと見てた」

 改めて言うと恥ずいな、なんて準が頬を赤くする。
 もしかしたら本当は、準も初めから俺のことを好きだった?
 いや、ちがう。
 準の言う「好き」のかたちと、俺の育ててきた「好き」のかたちは別のものだった。それが真実の言明だったのだ。

「おあ、もう家か」
「……ほんとだね……」
「じゃあな、穂高。また明日」

 いつだって家に入っていく準の背中を見つめてきたのに、その日は準は最後まで俺に手を振ってくれていた。



 次の日の朝、家から出ると、準は俺の家の前で待ってくれている。

「どうしたの……?」
「なんかさ、早く穂高の顔が見たくなって」

 まさか家の前で待ってくれているとは思わなかったし、そんなことを言われるとも思っていなくて、準と目を合わせることも出来ない。
 準は歩幅を合わせ、俺の隣に並んで歩き始める。いつも後ろをついていっていた俺は、どうしても隣を歩くのに慣れない。
 いつも通り話をしながら登校したけど、やはりなんとなく現実味がない。

 その日の放課後、ちゃんと何を頼むのか真面目に考えてきたという準に連れられ、昨日行けなかったクレープ屋へ向かう。
 そんな気分にもなれなかった俺は何も調べていなくて、準に聞いてみて勧めてもらったものを選ぶ。

「それにするかすごく悩んだんだよ」
「食べてもいいよ?」
「マジで?やった、両方食えるじゃん」

 準はうれしそうに俺の差し出したクレープを頬張る。
 準の方はホットでチョコレートとバナナが入っているもので、俺の方はイチゴとバニラアイスが入っている。どちらも店のおすすめメニューらしいが、対象的なメニューのチョイスだ。確かにどちらにすべきか悩むかもしれない。

「準、クリームついちゃったよ」
「マジか、取ってもらっていい?」
「うん」

 紙ナプキンで口元を拭ってやると、準は撫でられた猫のように目を細める。

「どうしたの?」
「いやぁ、こういうのいいなって」
「……なにそれ」

 満足そうにほくそ笑む準につられて、口元が緩んでしまう。

「ほら、穂高もオレの方食べなよ」
「いいの?ありがとう……」

 今まで自分に起こってきたことを忘れてしまいそうなくらい幸せな空間。それが俺は怖かった。



 最寄り駅からの帰り道。
 今日も天気は良く、町は美しい朱に染まる。見慣れた光景のはずなのに、何故かそれがとても不気味なもののように感じて。

「うまかったな」
「うん」
「また行こう」

 準はとても満足気だ。
 今日も電車の中で、俺が人混みに揉まれないように気遣ってくれていた。今、準は俺のことをとても大切にしてくれている。それをひしひしと感じる。

「穂高」

 となりを歩く準が俺に手を伸ばす。
 やさしく髪を撫でながら、頬に手を添えてくる。そんなことをされるのは初めてだ。

「昨日の話だけどさ」
「……うん」
「きっと本当は、穂高も誰かと友達になりたいんだ。だけどきっと話すきっかけが出来ないんだなって思ってて、それで……寂しそうにしてた穂高のこと、放っておけなかった」

 夕日に照らされる準の瞳が赤く輝いている。
 惹き込まれるようなその色から目を離すことも出来ない。

「優しくしたら、オレのこと好きになってくれるかなぁって……」

 反対側の手で、手首を掴まれて引き寄せられる。
 よろけた拍子に、俺は準の胸に倒れかかる。

「今のオレは穂高のものだよ」
「じゅ、ん……?」
「オレを……どうしたい?」

 間近で見つめる準の瞳に映る俺も、まるで同じ朱に焼かれたような顔をしていて。

 まぶしい。
 目を開けていられない。

 堪らずに瞳を閉じると、くちびるに伝わってくるやわらかい感覚。
 準が吐き出す吐息が触れて、唇がこんなにも敏感な場所だったのだと初めて気がつく。

「好きだよ、穂高」
「…………俺も、準が……準のことが、ずっと好きだった」

 きっと今の俺は、今まで生きてきた中で一番幸せで。
 全ての願いを叶えたはずなのに。
 だけどこれは、全て偽りの幸せで。

 準、俺は、準の影の中でしか生きられない存在なんだ。
 こんなにも強い落日の中ではきっと、すぐに燃えて無くなってしまう。





「……ずっと、見てるんだろ」

 奴と初めて契約した公園。
 自分の影は、気がつけばあの時よりもずっと大きくなっている。気のせいなんかではない。まるで足元から飲み込んでくるように暗く広がっている。

「願いは叶ったか?」

 這い上がるように目の前に現れる人影。意識して見ていると、やはりそれは「彼」によく似ている。
 もしかするとこの姿すらも、自分の望みが見せている姿なのかもしれない。

「思い通りになってよかったな、穂高」

 似ていると気がつくと、より奴に対しての嫌悪感が増す。
 初めから良い奴だとは思わなかった。
 だけどそれ以上に許せないのは、こんな得体の知れないものに抗えなかった自分自身だ。

「……元に、戻して欲しい」

 自分でけじめをつけることすら叶わない。
 結局最後まで、俺には悪魔を頼ることしか出来ない。

「自分から得たものを自分で手放すのか」
「…………」
「喪失感にお前は耐えられるのか?また煮え切らない関係に苦しむことになるのだぞ?」

 心配している訳では無い。奴は心底楽しそうに、自分の手のひらで踊らされている俺を見ている。それだけだ。

「……これは、俺の望んだ結末じゃなかった」

 何よりも大切なはずの彼を、ずっと想ってきた彼のことを、俺は人の力ではないもので変えてしまったのだ。
 自分が好きになった準は、きっともうこの世界のどこにもいない。
 今までの彼を、俺が殺してしまったも同然だ。

「過去に戻ったところで、お前の差し出した代償を返すことは出来ない」
「……分かってる」
「もちろん、この願いでも代償は頂く……いいな?」
「……戻れるのなら、それでいい」

 あの日、ここで悪魔の誘いに乗ってしまった日から、きっと戻ることは出来なかった。
 全ては自分の心の弱さが招いたことで。

「楽しかったよ、穂高」

 準に似たその姿で、奴は俺の頬を撫でる。まるでついさっきの瞬間を再現するように。
 何も出来ずに、俺はただされるがままに悪魔を見ている。瓜二つの顔が、本当の彼にはできないであろう笑みを浮かべる。

「……これからも、ずっとお前を見ている」

 溶けていくように、広がる闇が俺のことを包み込む。陽の落ちかけた町の姿も、何も見えなくなって。
 飲み込まれていきながら、なぜか心地良さを感じる。どうせ何も見えないのだと、身を委ねて瞼を閉じた。