落日の影

「オレさ、街の中心の方にある公立の高校目指そうかなって思ってる」

 中学二年生の夏。俺の部屋に来て進路希望を一緒に書いていた準がそう言う。
 まだ先のことだと思っていたが早いもので、もう進路希望調査が始まっている。

「ここから10個くらい先の駅のとこ?」
「そうそう!まだ先のこととかわかんないけどさ、進学校だから高校入ってから悩んでもいいかなって」
「そうだね……」

 たしか立地の良さもあり人気の学校で、割と偏差値も高いところのはずだ。準は成績優秀なので、このまま順調に行けばそこまで苦労はなく志望校に合格できるだろう。
 まっさらな進路希望を見つめながら、俺の気持ちは重い。

(……たぶん、俺の成績では厳しいよな……)

 準のおかげもあり、なんとか苦手教科の赤点は免れているとはいえ、俺の成績は相変わらずいいとは言えない。できれば高校に入っても準と同じ学校に通いたい……なんて思ってはいたが、俺たちの成績の差は明らかだ。
 別の学校に通うようになったら、きっと一緒に帰ることも無くなってしまう。準を独り占めできる特別な時間は終わってしまうということで。

「穂高はどうすんの?」

 準は俺の進路希望を覗き込む。そこにはもちろん何も書かれていない。

「……決まってないんだ。俺、得意なこともないし、やりたいこともないしさ……」

 自分が人よりも劣っているという自覚はある。得意なことは無くて、運動はできないし、成績も良くはない。こんな自分がこれからどうしたらいいのか。

「穂高、花育てるの得意じゃん」
「そんなの得意って言えないよ……。ただこつこつ水やりしたり雑草や虫を取ってあげてるだけだし」
「でもその根気の良さがあるんだぜ?オレにはきっとできないよ」

 準は俺の部屋の窓際に置いてある鉢植えを見ている。育てやすいからと買ったベゴニアはたくさんの花を付けている。

「決まってないならさ、オレと一緒の学校行こう。オレも穂高と一緒なら安心だし」
「……俺の成績じゃ無理だよ」
「そんなことないって。いまならまだ夏期講習とか申し込めるし、オレもできる限り勉強するの手伝うからさ」

 簡単に言ってくれるが、今の成績ではかなりの高望みだ。俺は頷けずに俯いてしまう。
 俺だってそれが叶うならそうしたいが、そんなに上手くいくとは思えない。俺だって準と離れてしまうのは嫌だが。

「穂高がいないとつまんないだろうからさ、無理そうだったらオレも別の学校にしようかな」
「え」

 けろっと言い放ち、準は配布されている冊子を開くと別の学校の偏差値を調べ始めてしまう。

「ま、待ってよ。準だったら絶対そっち行けるじゃん」
「でも穂高が居なかったらひとりで登下校しなきゃいけないし、別のとこでもいいかなーって」
「だ、ダメだよ!俺もちゃんとやるから……!」

 思わず言ってしまうと、してやったりと言う顔で準はニヤリと笑う。

「よし!じゃあ夏休みはガッツリ勉強しようぜ!今追いついとけば絶対なんとかなるからさ」
「え、ほんとにやるの……?」
「穂高が理解できるようになるまで頑張ろう!それまではオレも遊ぶの我慢するから」

 有言実行。
 それからはお互いの家を行き来して、夏休みのすべてを勉強に費やした。俺が苦手なところは理解できるようになるまで準が解説してくれて、あまり乗り気ではなかった予備校への夏期講習も、準が一緒に申し込んで通ってくれた。
 おかげで新学期の学力テストで見たこともないような点数をたたき出して、俺自身が誰よりも驚く羽目になった。

 進路希望を提出すると、担任は今の成績なら行けるだろうからキープできるようにがんばれと言う。絶対に厳しいと思っていたので、二者面談が終わって教室を出ると俺はほっと胸をなでおろした。

「どうだった?」

 俺より先に面談が終わっていた準は、いつも通り一緒に帰ろうと下駄箱で俺を待ってくれていた。

「今の成績ならいけるって。びっくりしちゃった」
「やったじゃん。やっぱ穂高は根気強いからさ、勉強だっていけるって思ったんだよな」

 根気強いからじゃない。続けられたのも、成績が良くなったのもきっと準がいたからだ。
 楽しげに前を行く準を追いかけながら、俺の気持ちは晴れやかだった。





 準の言う『お試し期間』が始まってから、あっという間に3ヶ月が経つ。
 俺たちはいつもと同じように一緒に学校へ行き、取り留めもない話をして、いつも集まるグループでランチへ行って、帰りはふたりでいつもの帰り道を一緒に帰っていく。先日のように時折寄り道をして帰ることもある。
 繰り返されるいつも通りの日常。特になんの変化もなければ不満もない。俺にとっての大切な時間は今まで通り、誰にも邪魔されずに守られている。
 そのはず、なのに。

(……なんで俺は不安になっているんだろう)

 あれからも準は変わらず俺と仲良くしてくれている。だからこそ怖かった。
 俺の準への気持ちは変わらない。それどころか、気持ちを告げた日からもっと強くなっている。
 だけど準はどうだろうか。
 俺から本当の気持ちを告げられて、気持ちの変化はあったのか。彼の言っていたお試し期間はいつまで続くのか。未だに曖昧なままで何も分からない。
 その疑問を本人に投げかけて、もしも否定的な気持ちが出てきたら。まだ答えが出ていなくて、俺に催促されるような形が嫌でこの関係が終わってしまったら。そもそも俺の告白自体を深く考えていなかったら。
 色々なネガティブな考えが頭を過ぎる。表面上は今までと変わらずに一緒に笑い合いながらも、心をすり減らしていくようで。かといって自分から確認するのがどうしても怖くて。
 ざわついているのに何も出来ずに時間だけが過ぎていく。

(……どこかで、ちゃんと言い出さなきゃ)

 分かってはいるのに、結局は大切なものが壊れてしまうことを恐れて行動できなかった。



「それじゃ、また明日な」
「……うん」

 夕焼けの道、家の中へと消えていく準の背中を見送る。
 今日こそは、と思いながらも、やはり今日も何も言えなかった。

 準が去っていったあと、後ろを振り返って、ぼんやりと自分から伸びる影を見つめる。
 結局あの保健室での会話以降、悪魔は現れていない。

(……あいつに頼れば、準の気持ちを聞き出すこともできるのかな)

 そんなことに使うのは間違っていることは分かっている。むしろ、奴を頼ること自体がダメな事のはずだ。あの時の問題も何も分からないまま解決していない。
 それでも縋ってしまいたくなるくらいには気持ちが追い詰められており、俺はぶんぶんと頭を横に振る。
 いや、ダメだ。大切な人のことなのだ。きちんと自分の力で確認しなくては。

 自宅の方へと向かう途中、SNSを開いて準へのメッセージを打ち込む。
 先延ばしにしてばかりではいけない。また明日も言えない後悔を抱えたままここを歩く前に、まずは退路を立たなければいけない。

「明日、ちょっと確認したいことがあるんだけどいいかな?」

 気持ちを聞き出すのはメッセージではなく、ちゃんと直接会って聞いた方がいい。なのでメッセージでは内容については触れない。
 それから家の方へと歩いていると、着く前にすぐに準から返事が返ってくる。

「オレも穂高に確認したいことがあるから聞いてくれ」

 たった一言のメッセージを見ただけでドキッとする。もしかしたら、準も同じように俺に答えてくれるタイミングを伺っていたのかもしれない。

「わかった。また明日」

 それだけ送ると、すぐに準から「またな」とセリフのついたゆるキャラのスタンプが送られてくる。準なりに俺が固くならないようにと気を使ってくれているのかもしれない。

(ついに明日……)

 もしも断られる流れになったら、これからはひとりで帰らなければいけなくなるのだろうか。
 いや、上手くいかなかったあとの事ばかり考えてはいけない。少しでもいい方向に考えなければ。
 そう思いながらも、その日の夜はよく眠れなかった。





 今朝はお互いに口数少なく学校へ向かった。天気が悪かったので、傘を差している分お互いの距離が少し空く。今はそれが少しありがたかった。
 授業中もほとんど集中出来ずに、ついつい準の席の方ばかりを見てしまう。やはり特に変わった様子は無い。ノートにペンを走らせているかと思いきやペン回しを始めたり、少しうとうとして船を漕いでいたり、授業中も目に見えてマイペースないつも通りの準だ。あれでも好成績をキープしているのだが。

(準も帰りに話をするつもりなのかな)

 教室の中は騒がしく、こんな内容の話を出来そうなタイミングは無い。それに準のためにも、グループのみんなにはあまり聞かれたい内容では無い。
 そうしてタイミングを見計らっているうちに、普段と変わらず時間が流れていき、ひとりでそわそわしているままで下校時間を迎える。
 一日ぐずついた空模様で、夕方になっても相変わらず天気はあまり良くないままだ。今日はいつもの真っ赤な夕日を見ることは出来ない。

「行くか」
「うん」

 俺の席まで準が迎えに来て、カバンと傘を手に取って教室を出る。
 どこで話をすべきだろうか。学校から駅までの道のりはかなり人が多い。電車内は満員で落ち着いて話はできない。やはり最寄り駅から準の家までのいつもの道だろうか。

「……」
「……」

 気のせいなんかではなく、なんとなく準も口数が少ない。
 いつもなら授業の話とか、昨日観たテレビの話、映画の話など、時間が足りないくらいに話すことがあるはずなのに。

 お互いにあまり話さないまま最寄り駅に着く。もしかしたら、準は俺が話し出すのを待っているのかもしれない。覚悟を決めて深呼吸をして、ようやく声をかける決意をする。

「準」
「ん?」

 だがどうするか。自分が先に話し始めるべきなのか、それとも先に相手の話を聞くべきなのか。
 それを昨日からずっと悩んでいたが、きっと準から話してもらったほうがいい。

「あの……聞きたいことって?」

 俺が聞くと、準はああ、と言ってうんうんと唸り声を上げる。

「そうそう、穂高に聞こうと思ってさ……ちょっと困ったことがあって」

 ピタリと足を止めて、準は道の端に寄る。困ったこと、俺にとっては良くない話なのか。

「実は……」
「…………」
「部活の助っ人がバッティングしちまったんだ。両方とも同じ日が試合でさ、どちらからもどうしてもって頼まれてるから、どっちを選べばいいのかわかんなくて……」

 それで今日一日ずっと悩んでたんだよな、と準は続ける。
 強くなる雨のノイズが、準の話をかき消していく。彼は他の事で悩んでいただけで、自分のことなんて何も考えていなかった。準も俺とどうするのかを悩んでくれていると、そう思っているのは自分だけだった。

「穂高だったらどっちの手伝いに行くか聞いてみたくてさ」
「…………」
「穂高?」

 きっとそうだろうと分かっていた。
 分かっていたことなのに、勝手にひとりで悩んで、傷ついて、裏切られような気持ちになって。

「準は……」

 いつもの俺なら、準の話題の方に合わせて一緒に悩んで、それでどちらに転んでも準が困らないような最適の答えを探して。
 だけど、今は自分の気持ちで頭の中がいっぱいで、彼の期待に応えることはできない。

「準は……俺のこと、何も考えてないの?」

 どうやって話を切り出そうかと、ずっと悩んでいた。
 聞き出すときにどうすれば棘が立たないか、でも曖昧な聞き方だとしっかり気持ちを確かめられないかもしれないと、3ヶ月間ずっと悩んでいた。
 少しでも傷を残さない、丁寧な言葉を探していた。
 だけど何かが切れてあふれるように、一気にどうでも良くなって。

「準がお試し期間って言ってくれたから、俺はずっと待ってた」

 急にこんなことを言われて準は驚いているのだろうか。それとも何の話かも分からないだろうか。
 お互いの傘が邪魔で表情が見えない。

「俺のこと親友だって言ってくれた。同じ好きじゃないって伝えてくれても、それでもチャンスをくれたから、だから俺は舞い上がってた。もしかしたら、いつか準も俺と同じ気持ちになってくれる可能性があるってことじゃないかって」
「……穂高」
「でも……結局は何も思わなかったんだよね。それくらいならいっそ嫌いになって欲しかった!気持ちを告げたのに今まで通りを続けられるのなら、思いっきり突き放して欲しかった!」

 あれ?
 ちがう。これは俺の気持ちじゃない。そんなことを言いたかったわけではない。
 俺はただ、関係が変わろうと、今まで通り準と一緒に帰り道を歩ければそれで良かった。良かったはずなのに。
 今の言葉は、誰の――

「……そんなふうに思わせてたんだな。オレ、何も気がついてなかった」
「じゅ……」
「穂高に好きって言ってもらってからもさ、穂高は同じように友達でいてくれたから、このままでいいんだって思ってたんだ。オレ、穂高に甘えてたんだな」

 傘をずらして、準が俺の顔を覗き込む。
 その表情は、過去に一度だけ見たことのある悲しい顔に似ている。
 ずいぶん昔、突然いなくなってしまった準が戻ってきた時に見せたときの、あの時の顔と。

「ごめんな、泣かせちまって」

 もう戻れないのかもしれない。
 その表情も、その声も、俺をそんな気持ちにさせて。



 それからの事はよく覚えていない。
 準から逃げるように一心不乱に走って、気がつけば自分の部屋だった。
 途中で傘も落としてしまい、制服も髪も雨でびしょ濡れになっている。そんなことを気にする余裕もないくらい頭の中が真っ白で。
 真っ暗な部屋の中、ドアを背にしてその場に崩れ落ちる。

「…………ッ」

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 あれから結構時間経ったけど、どうかな?準の中で、俺はまだ友達のまま?
 それならそれでいいんだ。俺の気持ちを知っても嫌じゃないって思ってくれるなら、これからも友達でいてほしい。俺と一緒に、この帰り道を歩いて欲しいんだ。
 だから、答えを聞かせて欲しい。

 もっとうまく話を切り出すはずだった。そのはずなのに、どうしてあんなことを言ってしまったのか。
 嫌いになって欲しかったなんて、突き放して欲しかったなんて、そんなこと思うはずがないのに。
 宙ぶらりんの状態でずっと悩んで、苦しかったのは事実だ。だけど、それでも準が笑ってくれるなら、それで良かったはずなのに。
 まるで、自分の言葉じゃないみたいに。

「紛れもないお前の言葉だよ」

 どこからか、悪魔の声が聞こえる。

「……ちがう」
「あれはお前の本当の気持ちだよ。自分はちゃんと気持ちを伝えたのに、それに応えてくれなかった準に対して業を煮やしたお前の言葉だ」
「ちがう!そんなこと……思うはずない!」

 くつくつと悪魔が笑う。俺を嘲るような、そんな笑い声。

「人は強欲だよな。既に持っていた幸福では飽き足らず、もっともっとと何かを欲する生き物なのだ。悪魔と人間、何が違うのだろうな?」

 そう、俺は既に自分の望む幸せを持っていたはずなのに。
 彼の影に入らなければ生きられない。そのはずだったのに、隣を歩こうとする。触れようとする。手にしたはずの幸せを手放してまで、もっと大きな幸せを得ようとした。
 そもそもこの気持ちは準にはずっと告げないつもりだった。自分の中だけにしまっておいて、それでも彼の後ろをついていければよかった。

 だけどあの時、自分のことを気にかけてくれた準に、もしかしたらと淡い期待を抱いてしまった。
 準はあくまで友人として俺のことを心配してくれていた。それなのに俺は勘違いをした。
 自分の持っている感情を、勝手に彼の行動と置き換えていたのだ。
 こんなに自分を気にかけてくれるのは、準も自分のことを好きだからなのかもしれないと。何の根拠もなくそう発展させてしまったのだ。

「……こんなことなら、やっぱり好きだと言うべきじゃなかった」

 あの告白は間違いだった。
 どれだけ気持ちが昂ったとしても、それを本人には伝えないと決めていて、何年もそうしてきたはずなのに。
 あれだけ恐れていながら、自らの手で自分の大切なものを壊してしまったのだ。

「ならどうする?また時間を戻して告白の事実を消すのか?」

 悪魔が呆れたように言い放つ。
 確かにそれが可能ならば今までの幸せを続けていくことは出来る。そうすれば今まで通り、また準の影の中で生きていくことが出来る。
 すぐに首を縦に振ると、瞳から涙がこぼれ落ちた。

「……つまらないな。もっといい方法だってあるだろう。何故それを実行しない?」

 いつかのように、自分の背後から広がる影が人の形に変わっていく。
 あの日保健室で見たときよりも鮮明に悪魔の形がわかる。俺よりも少し背が高い。部屋の中が暗いからなのか、闇に溶け込んでいるような感じで、その顔までは分からない。

「いい方法、って……」
「今までだってお前は望んできただろう?あのときお前が望まなければ、そもそも準はあの女のものだったのではないのか?」

 それはそうだ。
 俺には宮代さんの準への気持ちを止める権利なんてない。だけどあの時、俺は過去に戻って彼女の想いを成就させなかった。

「あんなことをしておきながら、今更過去に戻って自分の告白の事実を消すだけなのか?」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ……」

 告白したところで、準は俺の事を友人以上には見てくれなかった。それは紛れもない事実だ。
 そのうえ、自らの言葉で友人としても続けられない道を選んでしまった。
 今の状況でこれ以上、もう何もできることなんてなくて。

「準の気持ちを変えてしまえばいいんだよ」

 悪魔はたった一言、俺にそう言う。

「きもち、を……」
「そうだ。あいつのお前への気持ちを恋愛感情へと変えてしまえばいい。それだけの事だろう?」

 気持ちを変える?
 そんなことが可能なのか?
 そう思ったが、今までこいつがしてきたことを思えば不可能にも思えない。時間を巻き戻すことだって出来るのだ。気持ちを変えるくらいわけないことなのではないだろうか。
 いや、そうだったとしても。

「でも……そんなことをしたら準の気持ちは、どうなるんだ……?」
「どうも何も、準はお前に好意を示すようになる。あいつはお前のものとなり、今の現実がお前の望んだ結末に変わる。それだけだろう?」

 奴の提案は絶対に間違っている。
 人の心を変えてしまうなど、そんなことが許されるわけがない。それは俺の今までの想いすらも踏みにじるような方法だ。こんな方法で準と結ばれたかった訳では無い。
 分かっている。それなのに、まるで白羽の矢が立てられたような気持ちになって。
 準が自分のものになる。その言葉に頭を殴られたように、俺は正常な判断ができなくなる。

「……俺のせいで準が……危ない目にあったりはしないんだよな……?」
「思考や心を弄るだけだ。そんなことは無い」
「それを頼んだら俺は……代償に何を支払うんだ?」

 あの日、結局解決しなかった問題。
 じきに分かるとは言われたが、ずっと考えていた。こいつは悪魔だ。なんの代償もなく、魔法のように願いを叶えてくれているわけが無い。
 そうだとしたら、きっと俺は代償で何かを奪われている。それが何かは分からないが、そうでもしないと悪魔であるこいつに俺の願いを叶えるメリットがない。
 今もこうしてそんな有り得ないようなことを向こうから提案してきている。きっとこの考えで間違いない。

「……何だと思う?」

 もやもやとした影の中からにやりと笑った口元が見える。
 こいつは楽しんでいるのだ。俺がこうして苦しんでいることも、自分の手を借りていることも。

「……残りの寿命……?」
「違うな」

 溜息をつきながらも、悪魔は楽しげだ。

「俺はお前からもっといいものを貰っている」
「…………」
「契約は成立だな」

 はっきりと言葉で了承した訳ではない。だけどこいつは、俺の心の弱さを分かっている。
 現にさっきまで死にたいほどに落ち込んでいたはずの俺は、悪魔からの提案でその気持ちを失っている。
 悔しさと自分への苛立ちで、ずぶ濡れのまま俯く。このあと準は、自分はどうなってしまうのか、不安なはずなのに期待があって。

「こんなの、準の魂を売ってしまったのと同じだ」

 絶対に間違った決断だとは分かっている。それでも抗うことも出来なかった。
 俺が自嘲気味に言うと、悪魔は膝をついて俺の顎を上げてくる。

「これからもよろしく頼むよ、穂高」

 僅かに見えた弧を描く口元。自分の顔を覗き込む仕草。その見覚えのある行動や姿に、俺は目を見開く。
 そんなはずが無い。
 そうなのだが、あまりにも似ている。俺が彼を見間違えるわけが無いのだ。

「……じゅん……?」

 声も中身もまるで違う。奴が準であるはずがない。
 分かっているはずなのに、あまりにも似ている。
 何故なのか。
 戸惑う俺を他所に、広がる闇は俺のことを包み込んでいき、また体が重くなっていく。
 瞼を閉じると、今までと同じように俺は意識を手放した。