落日の影

「穂高、おなかいたいの?」

 もうすぐ授業が始まろうという時間、運動場から少し離れた日陰でずっとうずくまっている俺に、準は優しく声を掛けてくれる。
 小学五年生の秋。夏の暑さもだいぶ落ち着いてきたが、まだ残暑は厳しい。それでも公園や学校の木々も赤く色づいてきた。
 最近の体育の授業はほぼ運動会の準備。組体操などの学年での種目と、そして全員参加のクラス対抗リレーの練習。運動が苦手な俺にとってあまりにも気が重い。
 普段のように一人で行うものなら、授業中は憂鬱ではあるけど誰かに影響が出るわけではないので問題はなかった。
 だけどクラス競技となると話は別だ。
 運動が出来ない自分は周りに迷惑をかけてしまう。それが嫌でなんとか授業に出ない方法や、体調不良のふりをして運動会に参加しないための方法ばかり考えてしまうようになる。
 何度も練習から逃げるうちに、気がつけば仮病を使って担任に嘘をつくことも平気になっていた。それでも、準に嘘をつくことはどうしても出来なくて。

「……おなかが痛いわけじゃないんだ」
「でも最近よく見学してるから、どっか痛いのかなと思って」
「……ううん、ちがうよ」

 準は運動が大の得意だ。元々活発だったが最近はもっと成長していて、みんなでかけっこをしても鬼ごっこをしてもほぼ負けは無い。スポーツテストもいつも好成績で、お手本として見せるためにみんなの前へ担任に呼び出されることもある。きっと俺のような悩みを持ったことなどないだろう。

「俺、足遅いからさ……きっと、リレーの時にみんなに迷惑かけちゃう」

 本当のことなのだが、自分でも驚くくらいあまりにも情けない声が出る。

「なんで?いつもがんばって走ってるじゃん」
「でも……俺のせいでほかのクラスにどんどん抜かされると思う。せっかくみんながんばって練習してるのに……」

 そのくらいなら、自分が参加しない方がいい。
 もしも欠員が出ると、代表の一人がもう一度走ることになる。うちのクラスだとおそらく準が代表に選ばれるので、一番初めに走って、最後にもう一度走る流れになるだろう。俺が参加するよりもずっと別のクラスに勝てる可能性は高い。
 準の足の速さは学年内でもトップだ。おかげでリレーの練習が始まった時点で「織原がいるならきっと一位を取れる」なんてクラスのみんなはかなりやる気になっている。争わない低学年の内とは違い、五年生にもなると闘争心だってかなり強い。一丸としてやる気になっているので、学年で一番になったら担任からアイスのプレゼントがあるなんて話まで出される始末だ。
 そんな空気に、自分のせいで水を差したくはなかった。

「俺、ケガしたって言って見学するよ。だから準に代わりに走ってほしい」

 惨めなことを頼んでいるのは自覚している。
 それでもクラスのみんなを落胆させたくない。もしかしたら俺のせいで負けてしまって、クラスの全員から嫌な目で見られる可能性だってある。
 せっかく準が作ってくれた自分の居場所を壊したくは無い。
 そのためであれば嘘だってつけた。

「ごめん、こんなこと頼んで」

 あまりにも虚しくて準の目を見られない。俺が人並みにこなせていたならこんな思いはしなくてよかったのに。
 怒られるかな、と思っていると、準はそっと俺の手を握ってくる。

「穂高、大丈夫だから、いっしょにやろう」

 しゃがみ込んで顔を覗きながら掛けてくれた、準からの力強い言葉。
 それでも俺は首を横に振って、準の目を見られなくて俯く。

「ダメだよ。怖いんだ……俺のせいで負けたらどうしようって、そればっかり考えてる」
「大丈夫だよ。じゃあ……穂高はオレの前の順番にしてもらお。そしたらオレが全員に追いついて追い抜くから」

 手を握る力がぎゅっと強くなる。
 泣きそうな顔をようやく上げた俺を、準はニカッと笑って見つめ返してくれた。

「オレは穂高にも参加してもらいたいよ。ちゃんとオレが勝つからさ、だから大丈夫」
「……ほんとに?」
「ほんとに!約束する」

 準がいくらすごいとはいえ、そんな根拠なんてないのに。
 それでもその言葉には、俺を信じさせる力があって。


 運動会の当日。組体操は無事にやり遂げて、遂にクラス対抗リレーが始まる。
 学年は3クラスで、なんとか自分のクラスはトップを守っている。だが他のクラスも同じように負けじと練習をしてきており、かなりの僅差だ。
 気が休まらないうちに俺の順番が回ってくる。
 準と何度もバトン渡しの練習はした。大丈夫だと心を落ち着かせるために深呼吸をする。
 震える手でバトンを受け取って走り出す。ここまでは練習通りだ。何とかアンカーである準に繋いでみせる。
 だがすぐに他のふたりに抜かされてしまい、走っても走っても差は広がるばかりで。

(やっぱりダメなんだ)

 走っている途中で泣きたくなってくる。離されていくたびに、さっきまで懸命に応援していたクラスメイトの落胆する声が聞こえる気がする。こんなことならやはり参加しない方が良かったのかもしれない。

「穂高!大丈夫だから!オレのとこまで来て!」

 諦めそうになったときに聞こえた声。
 次の順番を待つ準が、力いっぱいに声を張り上げている。
 その直後から、ほかの周りの声は何も聞こえなくなって。

「じゅん……っ!」

 走りきって、必死で準へとバトンを繋ぐ。渡した直後に倒れ込んだ俺を、ほかの友人が支えて移動させてくれる。

(準は……!?)

 酸素の回らない状態で、なんとか準が走っていくのを見守る。
 かなり差が開いてしまっていたが、見る見るうちにひとつ前のクラスのランナーを捕まえる。そしてそのすぐ先、1位のクラスを視界に捉えると準はスパートをかけていく。

「がんばれ、準……!」

 固唾を飲んで、枯れそうな声を振り絞って応援する。
 ゴールの直前、大きな一歩で準は1位に躍り出る。僅かな差を守り、そのままゴールテープを切った。

「やった……!」

 クラスのみんなから歓声が上がる。
 一着を取った準は、人差し指を立てて腕を掲げる。その姿を見た瞬間に泣いてしまいそうだった。
 表彰式が始まる前に、準は駆け足で俺の方へ向かってくる。さっきまで全力で走っていたのになんというスタミナだろう。

「ほだかっ」

 肩で息をする準を、まだ呼吸が落ち着かないままで見つめる。

「約束、守ったぜ」

 あの時、約束をした日のように、準が俺に笑ってくれる。ありがとうと言って、俺も笑い返したけれど、安心したら涙が止まらなくなってしまった。





「いいね、そのスニーカー」
「お、さすが穂高!自分から自慢しようと思ってたのに先に気付いてくるとは」
「なんかあれだね、すごく速く走れそう」
「だろ。今度助っ人あるからさ、ちょうどそろそろ新調しようと思ってたし奮発しちった」

 薄青いアスファルトの上、下したてであることが一目でわかる真新しいスニーカー。
 それを見せびらかすように準はその場でスキップする。そんな嬉しそうな準の様子を見ていて、俺までうれしい気持ちになれる。

 帰りはいつも一緒に帰っている俺たちだが、実は朝も基本的には一緒に登校している。
 ただ、俺が係の仕事で早めに呼び出されていたり、準が『助っ人』として呼ばれているとき以外。

 準は小さいころからスポーツが得意だ。小学生の時にスポーツテストや運動会で毎回好成績を収めてきた。
 中学に進学すると、そんな彼にはあちこちの部活からスカウトの声が掛かった。
 もしもどこかの部に入ってしまったら一緒に帰れなくなるかもしれない……なんて心配は杞憂。なんと準はどの部にも入らなかった。
 理由は「どれも気になるしどの部の活動でもできないことはないけど、悩み始めるとどれにしたらいいのかわからなかった」なんて気の抜けるものだった。
 俺としてはうれしい話だったが、こぞって声をかけていた先輩部員たちはがっかりしていた。
 だけど、部員不足で困っていた友人からの誘いでどうしても……と一度助っ人に入って以来、別の部員たちからも声を掛けられて助っ人部員として引っ張りだこになっている。
 なので、準が助っ人をしているときは朝練のために別で登校することもある。それでも帰りはよほどのことがない限りは一緒に帰ってくれるのだが。

「今度は何部?」
「剣道部」
「ちょ、全然靴関係ないじゃん!」
「ばれたか……、でも、体育祭近いしちょうどいいだろ!」

 なんてことない、他愛もない話。
 この日常が続くためなら、俺はどんなことだってできる気がした。





「樫本、ちょっと話があるんだけど」

 四限終了後。机の上を片付けている俺に、近くの席の女子が話しかけてくる。
 まだ座ったままの俺の横に立つ、今まで話したこともない相手。
 確か宮代さんのグループの女子のひとりだ。名前までは憶えていない。

「……なに?」
「ここじゃ言いたくないからさ、ちょっとついてきてよ」

 とはいっても、本来なら準やほかの友達と一緒にランチルームに向かうタイミングだ。
 強めに言う彼女の様子は明らかに穏やかな雰囲気ではない。どのくらい時間が掛かるかも分からなさそうな気配だし、先に声くらいは掛けておきたい。

「ごめん、準に一声くらいは掛けていって……」
「いいから来て」

 俺の言葉は聞き入れられず、手首をつかまれ、強引に連れ出される。
 女子の力だ。いくら俺が非力とはいえ、さすがにその気になれば振りほどくこともできるだろう。だが、彼女の目に見えてわかる苛立ちに圧倒されてしまう。

「あの……」
「……」

 何も言わずに鋭く睨みつけられて、びくりと肩が震える。
 騒がれたりしてことを大きくしたくもない。自分で自分が情けなかったが、今は彼女に従うしかなかった。




 連れてこられたのは、実習棟裏の人気のない場所。
 壁に向かって投げ捨てるように、掴まれていた手を離されてその場によろめく。
 手を離した後も彼女は何も言わずに、ずっと俺に嫌悪のまなざしを向けている。

「……話、って?」

 手首が痛む。思いっきり握られていたせいか、真っ赤に跡がついている。
 壁を背にした俺を追い込むように、無言で彼女が近づいてくる。
 その後ろから、ふたりの人の気配。

「……」

 彼女の後ろからグループの女子がもう一人と、そして宮代さんが現れる。
 彼女とはクラスの係が同じだ。元から面識もあったが、先日の件のおかげもあり、今は自分にとって忘れられなくなってしまった存在だ。
 準のことを、好きな女の子。

「お前、織原になんか言っただろ」
「……え?」
「ランチのとき、近くにいた友達が聞いてたんだよ。お前が織原に愛莉が罰ゲームで告白する、とか何とか言ってたって」
「…………」

 愛莉、宮代さんのことだろう。
 迂闊だった。
 あのとき、近くの席に彼女たちのグループの子がいたのだろうか。そんなに大きな声で話していたつもりはなかったが、近くに入れば会話の内容も聞き取れたかもしれない。あのときはとにかく必死で、そんなことまで確認できる余裕はなかった。内容すらも無理矢理すぎてこんな話を準が信じてくれるかと思っていたが、ほかにも心配すべきことがあった。

(どうしよう、どうする、どうすればいい)

 自分を責める、刺すような三人の眼差し。
 前に立つグループの女子二人は俺に対して明らかな敵意を向けてきているが、少し後ろにいる宮代さんは少し違う。
 悲しむような、なんでと言いたげな、そんな表情。

 何を話したらいいのかも分からないし、普段あまり女子と話すことはない。
 だが、宮代さんとは話す機会もあった。
 全員が何かしらの役割を持たなければいけなかったので、クラスの係決めのとき、俺は花が好きなのもあって園芸係を選んだ。
 そのときに、自分と一緒に園芸係で手を挙げたのが宮代さんだった。
 それ以来、水やりの当番の週や花の苗の植え替えなどの係の仕事があるときに、彼女とは当たり障りのない話をしている。俺と同じで子どもの頃から世話をしていたようで、彼女も花が好きだと話してくれていた。

 その彼女に、俺は。

「何とか言えよ、樫本」

 俺をここまで引っ張ってきた女子が、何も言わない俺にますます苛立ちながら俺を詰める。
 頭の中が真っ白だった。
 自分で蒔いた種なのに、どうすべきなのか何も思い浮かばず、ただ奥歯をがちがちと鳴らしていた。

「お困りか?穂高」

 ふいに、背後から声が聞こえる。
 聞き覚えのある声は、ぴたりと張り付いた壁の中から聞こえる。

(悪魔、)

 あの不思議な体験からしばらく経つが、あれ以来この声を聞くことはなかった。
 まるでやっぱり全部が夢だったのではないかと思ってしまうほどに。

「何とかしないと、準のところへ行けないぞ。どうするんだ」
(どうする、って言っても……)

 こんな状況の中、相手に返事をすることすらできない。

「助けてほしいのか?」
「えっ」

 思いもしなかった申し出。
 あまりのことに声が出てしまい、目の前の女子が怪訝そうに眉を顰める。

「とぼけてんのか?」
「あ、いや、ちが……」

 助けてほしいのは山々だが、うまく助けを求めることもできない。
 そもそも、助けるったって奴は何をするつもりなのか。
 あのときのように時間を過去に戻すのか、それとも何か別の方法があるのか。

「悩んでいる間にも時間は過ぎるぞ。どうするんだ」
「な、なにを、何をする気なんだよ」
「さぁ?俺は人じゃないからな」

 そもそも、あのときだって結局何をしたのか?時間が戻った以外のことは何もわからないままで。
 あのとき、普通では有り得ないことが起こっているのだ。
 その後おかしなところは特にないが、それがまた自分の中でずっと引っかかっていた。
 あれだけのことが起こりながら、自分には何のリスクもない?そんな都合のいい話があるわけない。
 わかってはいたが、聞き出すこともできなくて。
 知っておきたいが、知ってしまってはいけないことかもしれない。自分の中の第六感がそう告げている気がして。怖くて相手を呼び出して確かめることもできなかった。そもそも、ずっと自分を見ていたと言っていたとはいえ、こちらからの呼び掛けに応じてくれるのかも分からない。

「なにをって……お前がちゃんと答えれば何もしねぇし。あたしはどうだったかって聞いてんだろ」
「…………」

 悪魔の声はおそらくほかには聞こえていない。
 だからこそ、自分が奴に返事をするたびややこしいことになっていく。

(どうする、どうしたらいい。助けを求めて大丈夫なのか?でも、助けてもらう以外に方法もないんじゃ)

 すぐそこまで出かけた言葉が詰まる。
 だけどこの状況を打破するための方法が自分には何も浮かばない。早鐘を打つ心臓の音はうるさくて、全部の思考を消していくように、だんだん何も考えられなくなっていく。

「準が待ってるぞ」

 言葉のまま、悪魔の囁き。
 なんというずるい一言なんだろう。きっとこいつは、悪魔は、俺のことを俺が思っている以上にわかっている。

「…………助けて……」

 絞り出すような、なんとも無様な声でそう言う。
 俺の答えに悪魔は満足げに笑って、そのあとすぐにあの時のように俺の目の前は真っ暗になった。









 暗い影の中に、俺は横たわっている。
 意識はあるのに、指先ひとつ動かすことができない。
 遠く、はるか遠くに、うすぼんやりと見える太陽の光。
 燃えるように赤いそれは、細く伸びてゆっくりとこちらに向かってくる。

 近づくたびに、鋭く、赤さを増して。
 目の前へ迫った時、切っ先から高く炎を上げる。
 それは指先から俺へと燃え移り、それでも俺はそのまま動けなくて。

(死、ぬ?)

 体全体に纏うように、高く燃え上がる炎。
 このままでは、自分の存在はきっと燃えてなくなっていく。
 だけど不思議なことに、熱さも痛みも感じなくて。
 もしかしたらもう死んでいるのかもしれないと思うと、つうと涙が零れ落ちる。

(どうせ死んでしまうのなら、好きだといえばよかったかな)

 自分の脳裏によぎるのは、夕焼けの帰り道、自分の前を行く準の背中。
 このまま死んだら、準にもきっと会えなくなる。
 あの帰り道を、準はこれからひとりで歩いていくのか。
 それとも、俺以外の誰かが彼の後ろを歩くのか。

「いやだ……」

 俺だけの、特別な場所。
 彼から伸びる影の中は、ひとりぼっちだった自分が息をできる唯一の場所。
 燃えるような夕焼けの赤から、まるで自分を守るように。
 その影は、いつもやさしく自分を包み込んでくれて。

「穂高」

 自分に燃え移った炎の形が、人の形に変わっていく。
 見慣れたその姿に、俺はまた涙をこぼす。

「準……」

 包み込むように、飲み込むように。
 彼が自分のことを抱きしめている。

 ああ、なんて、残酷な夢。




「穂高!」

 頭も、体も重い。
 だけど、大好きな声が俺のことを呼んでいるのが聞こえるから。

「じゅん……?」

 瞼を上げると、目の前に不安げな顔をした準がいる。長い付き合いになるが、過去一番くらいの至近距離で思わず飛び上がりそうになる。
 だけど体が重く動かせなくて、俺はただ心配そうに俺を見ている準にくぎ付けになっている。

「なんでこんなところで倒れてるんだよ……。誰かに何かされたのか?どこか痛むところはないか?」
「え……?」
「穂高、声かけようとしたらいなくなってて。待ってても戻ってこないからオレ、学校中探して……。そしたら、ここに倒れてたんだよ」

 だんだん意識がはっきりしてくる。
 周りを見渡すと、そこは俺がさっきまで女子に詰められていた場所のままだ。
 準は俺の上半身を抱き起こして、ずっと顔を覗き込んでいる。背中に自分を支えてくれている準の腕の体温を感じる。

 そうだ。
 あの状況の中、俺はどうしたらいいのかわからなくなって。
 そのとき悪魔が俺に声をかけてきて。
 それで、そのあとは……。

(あれ、何も思い出せない……)

 だけどそこに居るのは準だけで、宮代さんたちはいなくなっている。
 あれから何が起こったのかも、どのくらいの時間が経ったのかもわからない。

「ごめん、気が付いたら倒れていて……。俺もよく覚えてない」
「大丈夫なのか……?調子悪かったのか?」
「えっと……だいじょうぶ、だと思う」
「しかも、なんでこんな場所に……」

 女子に呼び出されていた、とは言いづらい。
 雰囲気的にも、準が来た時には多分俺が一人でここに倒れていて、彼はきっと彼女たちにはきっと会っていない。
 あのあと彼女たちはどうしたのか?
 体に痛みはないので、実は自分が殴られて気を失っていた……とかではなさそうだ。

(じゃあ、悪魔が何かをした……?)

 自分が不甲斐なくも助けを求めてしまったことは思い出した。
 だけれど、一切そのあとの記憶がない。

「その……忘れ物したの思い出して、急いで取りに行こうとしてここに来た気がする。で、でもそのあとのことよく覚えてなくて……。転んで頭でも打ったのかも」

 あの時もそうだが、準に嘘をつくのは心が痛い。
 だけど、正直に呼び出されていた時のことを話すわけにもいかない。

「本当に大丈夫か……?そんな勢いで頭打ったなら痛むんじゃ……」
「へ、へいき。打ちどころがたまたま悪かったのかも」
「そういうもんなのか……?まぁ、無事ならよかった……」

 準はふーっと安堵のため息を漏らして、ゆっくりと俺の体を起こす。
 そのまま、脇の下に手を入れて俺の体を支えてくれる。

「立てるか?」
「う、うん」
「支えとくから、調子悪かったら言って」
「え、あ、ありがとう……」

 準の支えを借りて、俺はその場に立ち上がる。
 やはり特に痛むところはない。
 制服についてしまった砂埃を、準が軽く払ってくれている。

「昼休み終わっちまったんだよな……。腹減ってない?食えそう?」
「もうそんな時間なの?」
「穂高、なかなか見つからなかったから……。ま、いいや。オレも昼食えてないし、このままサボろう」

 いつもより少し弱々しく、準が俺に笑いかける。きっとかなり心配してくれていたのだろう。昼も食べていないということは、昼休み中もずっと自分のことを探してくれていたということだろうか。
 申し訳なさと一緒に、仄暗いうれしさがこみ上げてくる。

(準が、そんなに俺を……)

 鼻の奥がつんと痛む。
 気が付いたら涙が流れ落ちていた。
 まるで、さっきまで見ていた夢の中みたいに。

「穂高……?やっぱり、どこか痛むのか?」
「う、ううん。なんか安心したら泣けてきちゃって……ごめん……」



 なんとも都合のいいことに、今の時間は移動教室らしく。
 俺たちはそっと誰もいない教室に戻って、荷物をまとめて学校を出ることになった。準は教卓に「樫本くんの調子が良くないので家まで送ります」と置き手紙を残してくれる。
 準が荷物をまとめている間、俺は例の女子たちや宮代さんの席をちらっと確認する。
 何ら変わりない教室の光景。俺たち以外は誰もいないので、彼女たちがどうなったのかもわからない。

「行こ、穂高」
「うん」

 準と一緒に俺は教室を後にする。
 結局、あの後何が起こったのだろう。
 結局また何もわからないままだけれど、俺にはそれを確かめる勇気もなかった。