落日の影

「なぁなぁ、穂高」

 小さなころから通ってきた、見慣れた夕焼けの帰り道。
 車通りも多くは無い住宅街の長い一本道を、いつも少し前を行く準の後ろをついていく。
 俺にとってのかけがえのない時間。
 うちの中学から今の高校へ進学したのは俺たちふたりと、他は数える程しかいない。
 お陰でこれまでと変わらず、町がオレンジ色に染まるこの時間は、俺が準を独り占めできる。

「どうした?」
「あのさ……」

 こちらを振り返って準が俺に話しかけてくる。
ずっと次の言葉が出ず、準にしては珍しく少し言葉を詰まらせる。普段はあまり後先考えず、なんでもスパスパと言っていくのが常なのに。
 そんな素直なところが俺にとって憧れでもあり、羨ましいところ。

「…………なぁ、オレ、女子に告白された」

 まるで頭を殴られたような衝撃。
 なんだか少し困ったような、それでいて照れくさそうに、準は鼻先を掻きながら少し目を逸らす。太陽を背にした逆光の中でも分かるくらい、その顔は赤く染まっている。
 そんな彼を見ている俺は、彼から真っ直ぐに伸びる影の中でどんな表情をしているのだろう。自分でも分からなかった。

「へ、ぇ?そうなんだ」
「お前だから言うよ。同じクラスの宮代さん。ちょこちょこ話すこともあってさ」
「あぁ……うん」
「とりあえず付き合ってみることにしたんだ。いい子だしさ、オレあんまりそういうの分からないけど、お友達から……って」

 準とする会話はどんな会話でも楽しくて。
 それがどれだけくだらないことあっても、俺はいつだって全部の内容を覚えていた。
 その日に起こった楽しい出来事はもちろん、準が好きだと言ったもののことなんかは、それを嬉しそうに語る彼の表情と一緒に、どれだけ何気ないことであろうと宝物みたいに自分の中のノートにファイリングして。
 だけど、今の準の話は俺の中に留まらず、ぽろぽろとこぼれ落ちていくようで。

「穂高だから話したんだぜ。みんなにはナイショだからな!オレもまだよく分かってないからさ、またいろいろ聞いてほしい」
「……うん」

 「恥ずかしいからこの話は終わり!」と準はその話を打ち切り、別の話に切り替える。最近買ったゲームのことを楽しげに話す準を、また自分の中に記憶していかないといけないのに。何の内容も頭に入ってこない。
 気もそぞろなうちに、気がついたら自分の家よりも少しだけ手前に立地している準の家の前まで到着していた。呆然としながらも相槌を打っていた俺に、またな!と手を振って準が家に帰っていく。俺が話を聞いていなかったことには気がついていなさそうだった。
 準がいなくなると、まるで足元に画鋲をばらまかれたように怖くて。もう少し行けば自分の家に着くのに、俺はそこから一歩も踏み出せなくなって。
 何も出来ないままただ目を見開いて、準が作っていた影のあった場所を見ていた。
 真っ赤な太陽に焼かれながら。





 俺と準は小学生の頃からの友達だ。
 俺は小さい頃から内向的で、小学校に上がってしばらく経ってからもひとりも友達を作れなかった。人見知りなのもあるが、進学のタイミングで今の町に引っ越してきたので、周りに知った顔がいなくて輪に入りづらかったという理由もある。
 入学してから数ヶ月間経ってもいつもひとりで下校していた俺に、準が声を掛けてくれたことがきっかけだった。

 その日は朝顔の鉢植えを持ち帰らなきゃいけない日だった。よりにもよって他の荷物の持ち帰りもあって手が埋まっていて。小学一年生には辛い量の荷物を持ち帰りながら、朝の時点で母さんに帰りは迎えに来てほしいと頼まなかったことを後悔しながら歩いていた。

「わ……っと」

 支柱に絡みつく長く伸びた蔦が視界を遮っていて、まともに前が見えない。よく育ってくれて花も大きなものがきれいに咲いたのだが。
 真っ直ぐ歩けているのかも分からずにふらついていた時、突然目の前の鉢植えがふわりと前へ移動する。何が起こったのか分からずに支柱の向こうを覗き込むと、誰かが俺から取り上げた鉢植えを持ってくれている。

「あぶないよ」
「……」

 不意のことに何が起こったのかも分からなくて。
 俺は目を白黒させながら、鉢植えの向こうにいる人物の顔を見ていた。

「こまったときはたすけあいって、オレのかあさんがいってるんだ」
「……?あり、がとう……」
「ね、きみ、オレのいえのそばにすんでるこだよね?かえりにいつもみるよ」

 俺の鉢植えを抱えた彼は、そのまま進行方向の方へと歩き始める。俺はとりあえずその後ろについて行って、そわそわしながらその顔を窺う。
 あ、同じクラスの子だと、そのとき初めて気がついた。
 色素が薄めな自分とは対称的な真っ黒の髪、いつも明るくて周りにたくさん友達が集まっているタイプの男の子。確か席が近かったはずだ。

「オレ、じゅんだよ。おりはらじゅん」
「あ……ぅ、そうなん、だ」
「きみはたしか、かしもとくんだっけ?」
「う、うん、かしもと、かしもとほだか」

 その時、俺は初めてクラスメイトと喋った。
 学校で声を出したことすら、入学式の直後に教師に自己紹介をさせられたっきりだった。
 あのあと何を話したらいいのか、誰と話したらいいのかもわからなくて。その間にみんなはグループを作ってしまっていて、俺はそこから誰かと話すことがなかった。

「ねぇね、ほだかくん」
「ん?」
「これからいっしょにかえろ!オレのうち、ほかのこのいえとすこしとおくて、いつもかえりはひとりなんだ」

 鉢植えを抱えたまま、きらきらと輝く瞳で準が言う。朝顔の花も彼と一緒に微笑むようにこちらを見ている。
 うちの近くと言っていたが、どの辺りなのだろう。いつもあまり近所に興味を示さずにまっすぐ家に帰っていたので、彼がこの辺に住んでいるということも知らなかった。

「……いい、の?」
「オレもさみしかったんだ!これからはいっしょにかえれば、さみしくないね!」

 さみしかった。俺と同じだ。
 こちらに向けられる屈託ない笑顔が眩しくて、まっすぐに見ていられない。
 彼が帰りにひとりぼっちだったことも、そんなふうに思っていたことも、普段学校で彼を見ているときには想像もつかなかった。

 その時の話を、いまの準が覚えているかはわからない。
 いっしょにかえろ、その言葉が、ずっとひとりぼっちだった俺にとってはまるでお守りみたいなもので。


 その日をきっかけに、準はクラスでも俺と話すようになった。
 次の日に登校すると、すぐに集まっているグループに引き入れてくれて俺の話をしてくれる。「ほだかくんのそだてたあさがおはすごくきれいでおおきくさいてた!」と言われると、クラスのみんなもそれを知っていたようで「クラスでいちばんきれいだったよね!」と続けて褒めていってくれて、なんだか照れくさい。それまでずっと誰とも話せなかった俺を、準は自然にグループに溶け込ませてくれた。
 言われた通り準の家は俺の家の近所だったし、思っていたように出席番号が近く席もすぐ側だった。どうりで顔を知っていたわけだ。
 もちろん学年が上がってクラスが離れることもあるが、それでも帰り道は毎日準と一緒に帰った。

 得意なこともないし別に目立つ方ではなかったが、それからは進級しても、進学しても、友人に囲まれながら普通の学生生活を送ることが出来ている。
 準以外にも友達はできた。
 あれからは人ともだいぶ話せるようになって、準のグループとはつながりがない友達もいる。
 それでも俺にとって、あの時ひとりだった自分を救ってくれた準は、他とは違う特別な存在だった。

 中学のときに別々のクラスになって、通りかかった教室の窓から偶然友達と楽しそうに話す準の姿が見えた。
 笑っている準を見たときに、このクラスでも上手くやれているんだなと安心した反面、なぜか心がチクッと痛む。
 それでも一緒に帰れる下校時間、その会話の内容や今日の出来事を楽しそうに話す準を見ていると、そんなことは忘れて。

 その痛みの正体に気がついたのは、もう少し経ってからのことだった。





(歩け)
 足が動かない。
(動け)
 まるで縫い付けられたみたいに。
(うちに、帰らなきゃ)
 1ミリも動かせない。

 いつまでも準の家の前に立ち止まっているわけにもいかない。
 もしかしたら、俺がまだ残っていることに気がついた準が外に出てくるかもしれない。そのときにこの状況をどう説明したらいい?
 早く何とかしなければいけないと分かっているのに。
 どれほど時間が経ったかも分からない。何時間も経っているかもしれないし、実は数秒の出来事かもしれないし。
 沈みゆく太陽の中、終わらない永遠の時間を過ごしているみたいで。

「……」

 今日、準は俺と合流するのが遅かった。
 ランチルームで話しているときに「今日はちょっと用事があるから先に帰っていてもいい」と言われていたけれど、「そんなに遅くならないなら待つよ」と、俺は断って校門の前で準を待った。
 だって、俺にとって準と家へ帰る時間はかけがえのないものだから。
 だから待つのも苦ではなかった。
 だけどもしかしたらあのとき、俺が待っている間に。

 別に俺は準の友達以上の何者でもない。
 だから準が誰と付き合おうと何かを言う権利もないし、こうして打ち明けてくれた準の相談に乗ってあげなければいけない。
 だけど、とても自分にはそんなことができると思えない。
 だって俺だって、ずっと準のことを――

 どうしたらいいのかわからなくて、その場で泣きそうになる。
 誰でもいいから助けて欲しい。
 いや、やはり良くない。準は、準にだけは。

「ずいぶんお困りのようだな」

 突然、背後から誰かが声をかけてくる。
 驚きで反射的に飛び上がりながら後ろを振り返る。
 だが、そこには誰もいない。

「……え、」

 ならばと思って正面を向き直すが、やはり誰もいない。思わず俺は周囲をきょろきょろと見渡す。だけど夕焼けの町の中には人影ひとつない。
 幻聴だったのかとも思ったけれど、確かに男の声が耳に届いていた。

「……だれ、」

 情けなく震える声で、呟くように問う。
 すると、くつくつと笑う声が背後から聞こえてくる。

「俺はずっとお前と話したかったんだぜ。やっと俺に気付いてくれたな」

 その声は愉快に、弾むようで。
 姿が見えなくても相手の機嫌の良さが伺える。

「誰……?誰なんだよ……」
「俺はずっとお前と一緒に居たというのに、冷たいやつだな」

 この状況は普通じゃない。それを理解した瞬間、恐怖で体中に汗が滲む。
 幽霊の類は信じているタイプだ。人の念は強いので、そういうスピリチュアルなものは本当に存在しているとは思う。だけど実際に自分がそういう場面に直面したことはないし、身に覚えもない。
 ひと呼吸おいてからゆっくりと、もう一度体ごと後ろを振り返る。だけどやはり、そこには誰もいなかった。

「姿は見えないだろう。俺はお前の影の中にいる」
「かげ……?」
「だからどれだけ探したって見つからない」

 夕日を背にして、自分から伸びる真っ暗闇。
 その中から、確かに声が聞こえる。

「な、なに…………なんなんだよ……」

 正体の分からないそれがただただ恐ろしくて、俺はその場にへたり込む。
 腰が抜けてしまったのかもしれない。
 状況からしても明らかに声の主は人間ではない。それだけは分かる。

「確かに……俺は……なんだろうな?人ではないな」

 狼狽える俺をよそに、相手は淡々と自分の言葉に返答していく。膝の上で握った拳はじっとりと汗で滲んで震えている。
 早く、逃げなくては。誰かに助けを求めなくては。何も分からない現況の中で、本能的にそう察する。

「だ、だれか、たすけ、」
「準を呼ぶのか?」
「!?」

 そうだ、ここはまだ準の家の目の前で。
 もしも自分が声を上げて、彼が来てしまったら。
 万が一、何も知らない彼が自分に語り掛けてくる得体の知れないものに危害を加えられたら。

 それだけは、絶対に嫌だ。

「…………」

 急に頭が冷えて、その場にすっと立ち上がる。
 見えない相手はほう、と感心したような声を上げる。

「……俺に、何の用なの」

 そう問いながら、確かめるように一歩、足を前に出す。
 大丈夫、歩ける。
 まずは早くここから移動しなくては。準の近くから相手を遠ざけなければ。

「俺はお前のために現れたんだ。そんな怖い顔で言うなよ」

 取り繕っていても、自分の表情が強ばっていることはわかる。
 いつの間にか汗でぐっしょりと濡れる全身に力が入りすぎていて、息すらも上手くできない。
 浅い呼吸を繰り返しながら、もう一歩足を前へと出す。

「……俺の、ため……?」
「ああ」

 一歩、また一歩。
 少しずついつものように動けるようになっていく。
 会話に乗ることで相手のことも自分のことも誤魔化しながら、なんとか少しずつ遠くまで離れていく。
 もう、準の家は見えない位置まで来ている。

「どういう、こと……」

 無心で歩みを進めていると、気付けば自分の家の当たりを通り越して、近所の公園まで来ていた。
 子供の頃は、よくここで日が暮れるまで準と遊んだ。
 うちに帰るのが遅いと母さんに怒られても、少しでも準と長く一緒にいたかった。その想いはあの頃から変わらない。
 そこに相手ごと自分の体を引き入れる。

「お前、いま絶望してるんじゃないか?」
「……え?」

 自分の足元に伸びる影は、何となくさっきよりも少し大きくなったように感じて、反射的に体を一歩引く。
 そんなことをしたって、もちろん自分の影は同じように自分の足元から伸びているのだが。

「そんなに警戒するなよ。俺はお前のために現れてやったと言ってるだろ」
「……」

 自分の影の中にいるこいつを、どうやったって追い払うことは不可能だ。
 相手がさっき言っていた通り、ずっと俺の影から俺のことを見ていたとしたら。
 こいつは話してもいないのに準のことだって知っていた。きっと、話し掛けられる前に俺が何を思っていたのかさえ見透かされている。
 そうだとしたら、どうやったって逃げ場は無いのかもしれない。

「……ふーっ……」

 胸に手を当てて深呼吸をする。
 得体の知れないこの相手の目的すらも分からない。逃げることも出来ないのだし、とりあえずこのまま相手との対話に応じるしかない。
 俺は確かめるように足元の自分の影を見ながら、震える声を絞り出していく。

「絶望、って……?」
「聞かなくったってわかるだろ。今しがた、この世の終わりみたいな気持ちになったばかりだろう?」
「…………」

 そうだ。
 準が、人のものになった。

「……なんでそんなこと分かるんだ」
「わかるさ、俺は『ずっと』お前のことを見てきたのだから」

 いましがたの恐怖も忘れて、暗い気持ちが自分の心を支配していく。
 準には恋人ができたのだ。これからは、帰り道だって自分ではなく他の相手と帰っていくかもしれない。
 あの日からずっと、準が俺の心の支えだったのに。
 何も無い自分だけれど、準が自分の前を歩いてくれるから、準が俺と一緒に帰ってくれるから。
 準、俺は……。

「いま、俺を呼び出したのはお前だよ。お前が助けを求めていたからだ」
「助け……」
「準が人のものになったと理解したとき、全部が終わりだと感じていたのだろう?」

 俺の幸せな時間は永遠じゃなかった。
 家まで続く道が永遠じゃないように。門限が来て準と離れなきゃいけないように。
 これからはきっと、俺が『なりたかったもの』の場所に別の相手が入ってきて。
 俺は何も出来ないまま、きっとこのまま彼の人生から消えていって。

「……なにが、できるんだ」
「お前が望むことは?どうしたい?このままでは嫌なのだろう?」
「……お前は、お前は何なんだ」
「それは俺にも分からない。でも神や仏なんかでは無い」

 こんな得体の知れない相手に打ち明けて何になる。だけど、これからの自分のことを考えられないのは事実で。
 このまま自分を押し殺して、明日からも準の前で笑える自信すらなくて。
 そうだとするなら、俺が望むこと。
 それはきっと。

「これからも……準と一緒に帰りたい」
「そうだろうな」
「人に取られたくない……俺が、俺は、ずっと準のこと……」

 たったそれだけ。ほんのささやかな願いのつもりだった。
 準とどうにかなりたい訳でない。他には何も望まない。ただ、彼の後ろを歩くことができればそれで良かったのに。
 その未来はもう保証されなくなってしまった。

「そのために、お前には何が出来る?」
「俺が……?」
「お前が願いを叶えるには行動が必要だ。俺はそれを手助けするだけ」

 俺に出来ること。
 準が、誰かと付き合ったりしなければ。そうしたらこれからも変わらずに、同じ時間を続けていけるかもしれない。
 準の話しぶりからして、準は相手の告白に応じただけであって、相手に対してそこまで好意を持っている雰囲気じゃなかった。
 それならば。

「二人が……付き合った事実を、消すことが出来れば」
「ほう」
「準を告白に応じさせなければ、きっかけさえ無くなれば、きっと……」

 そうすればこれからも、俺は準と一緒に帰ることができる。
 自分の大切な時間を守ることが出来る。

「了解した、穂高。あとはお前の行動次第だ」
「え?」
「俺はあくまで手助けをしてやるだけ……ここからの行動はお前が実行するか否かだ」

 足元から影が浮き上がり、暗闇が自分の体を包んでいく。
 真っ暗になる視界の中で、俺の頬に姿の見えない何かが触れる。

「俺には名前もない。好きに呼ぶんだな」
「……え……」
「楽しみだよ、穂高。お前はこれから俺に何を見せてくれるのかな」

 神や仏ではない何か。どんな顔をしているのかすら分からない。闇に包まれたその姿はまるで『悪魔』だ。
 悪魔が、するりと俺の頬を撫でる。
 全身に重くのしかかるような何かのせいで、目すら開けて居られなくなる。
 疲れ果てて眠りに落ちるときのように、俺は目を閉じた。








「……だか…………穂高?」
「……?」

 隣に座る準が俺の肩を揺さぶっている。
 頭がぼんやりとして重い。いつの間にか眠っていたのだろうか。
 箸を手に持ったままで、目の前には食べかけのランチ。まさか昼食中に寝落ちしてしまったんだろうか。
 なんとなく、妙な夢を見ていたような気はする。

「どうしたんだよー、穂高……ぜんぜん進んでないなと思ってたら、寝落ちしてんじゃん」
「あ、う、うん、ごめん」

 一体どのくらい眠っていたんだろう。
 昼休みの残り時間もわからないので慌てて残りを食べようとすると、準がほら、と水を差し出してくれる。
 隣のトレーには空の食器しかない。準は既に食べ終わっているようだ。

「ありがと……」
「きのう夜更かししてたのか?程々にしないと体にも悪いぞ」
「ご、ごめん、そうだね」

 冷えた水を口にすると少しだけ頭がスッキリする。
 なんだろう、何だっけ。

「あ、そうだ、穂高」
「?」
「今日の帰りさ、ちょっと遅くなりそうだから先に帰っててもいいぞ」
「…………え、」

 準の何気ない一言。
 初めて聞くはずなのに、俺はこの瞬間に覚えがある。
 そうだ。思い出した。

 ――お前の行動が必要だ。俺はそれを手助けするだけ。

 そうだ、準から宮代さんと付き合うと聞かされて。その後、影の中から誰かが話し掛けてきて。
 少しずつだがはっきりと思い出していく。
 あれは夢じゃなかったというのか?

(もしかして……時間が、前に戻ってる?)

 このとき、それでも一緒に帰りたかった俺は、準を待つと答えて。
 そして、帰り道に告白されたことを伝えられて。
 それで……。

「じゅ、準!」
「?」

 もしかすると、これは天が……いや、悪魔が俺に与えてくれたチャンスなのかもしれない。

「も……もしかして、宮代さんに呼ばれてる……?」
「!? そうだぜ、よく知ってんな」

 まだ何も話していないのに。
 準はそう言いたげな顔をして驚いている。

(やっぱり、)

 悪魔は俺に行動が必要だと言った。つまり、自分が行動しなければこのまま未来は変わらないのかもしれない。
 どうしたらいい。どうすれば未来を変えられる。
 なんとか行動を起こしたくて、必死に思考をめぐらせる。

「なんか話したいことがあるんだって」

 間違いない。
 そう確信すると、思考を巡らせながら見切り発車で話に割り込む。

「そ、それ!それなんだけど!」
「ん?」
「俺、聞いたの!そのっ…………準に、罰ゲームで告白するんだって!」
「……え?」

 咄嗟に出た嘘だ。
 もちろんそんな事実は無い。

「……どういうこと?」
「宮代さんと友達が、ゲームで負けたからくじ引きで当たった男子に告白するって話してるの聞いちゃって、それで……そのとき準の名前が出てたから、それかも……って……」

 宮代さんはいつも女の子数人のグループでつるんでいる。
 実際に彼女たちがゲームで賭け事をしてジュースやお菓子を奢りあったりしているのは見たことがある。
 宮代さんとは会話したこともあるし、大人しめのタイプなの女の子なのだが、彼女の周りの女子の騒がしい雰囲気はあまり得意じゃない。
かなり苦しい嘘だが、彼女たちがそうして集まって遊んでいるのは準も見ているはずだ。

「……そんなことがあったのか」
「だ、だから、もしかしたらその話が出るんじゃないかな、って……」
「マジかぁ……まぁ確かに、あの子たちがそんな感じの話してるのよく見るよな。そういう話だったらなんか嫌だな……サンキュー、穂高」
「う、うん……役に立てたなら、よかった」

 これで、運命を変えられたかもしれない。
 あまりにも幼稚な作戦ではあるが、少しの違いが結末を変えることだってあるだろう。今はそう信じるしかない。
 準に嘘をついてしまったという罪悪感と、これから先の未来がどうなるのか、という妙な焦りが自分の中を駆け巡る。

「穂高、プリン食べないの?」
「え、あ、いいや、準にあげる」
「マジで?やった」

 考え事をしてばかりで結局食が進んでいなかった。全然手をつけなかったプリンを手にして、準はご満悦だ。

 上手くいったかどうかは分からない。
 それでも、何もしないままでこの笑顔を誰かに取られてしまうのは絶対に嫌だ。






「……本当に待ってたの」
「うん、大した時間じゃないかもしれないし、一緒に帰りたいなって」

 あの時と同じように、宮代さんの呼び出しに応じた準を門の前で待つ。結局どうなったのだろうか。結果が気になって、待っている間は気が気じゃなかった。
 前回よりもずっと待ち時間は短く、少し待っていたところで暗い面持ちの準がやってきた。
 夕暮れ時、一度見た同じ景色の中で。

「……穂高の言ってたとおりだったよ。急に告白された」
「そう……だったんだ、どうしたの……?」
「もちろん断った」
「そ、そうだよね」
「宮代さんは断られて落ち込んでるみたいだったけど、落ち込みたくなるのはオレのほうだよな」

 オレなんかが断ってくるわけないと思ってたのかな、と準は大きくため息をつく。
 そんなわけないだろ。彼女は本気だろうし、準は一度それを受け入れていたのだから。
 そう言いたいのをこらえながら、落胆しているその肩をぽんと叩く。すると俺のほうを向いて準はふ、と小さく嘲笑する。

「あーあ!なんか疲れたな。甘いものでも食って帰ろうぜ、穂高」
「……そうだね。俺、ちょうどアイス食べに行きたかった」
「お、いいじゃん!行こうぜ」

 最寄り駅へと歩き始めた準の後ろへ、俺は弾むように駆け寄っていく。
 さっきまで苦しかった胸の痛みがすっと引いて、気持ちが一気に軽くなる。
 まさか、本当に上手くいくなんて。

 正面から照らす夕焼けが眩しくて、俺は準の影の中に隠れる。
 ふたりから伸びる影の中で、くつくつと愉快そうな笑い声が聞こえたような気がしたが、俺は聞こえないふりをした。