底のない深い海に沈んでいくような感覚。
そこは寒くて、寂しい場所だった。
その中で漂っていると、不意に知らない映像が脳裏を掠めた。
――錆びた柵。
どこだ? 知らない場所だ。
俯瞰した映像ではなく、誰かの目線のようで視野はそう広くはない。
のろのろと揺れながら進み。空を見た。
真っ青で、薄い雲がかかっていた。
ゆらりゆらり、空も揺れる。
そのうちに空の半分が歪んで見えにくくなった。
――泣いている?
空から画面は手のひらに映った。手には棒付きのキャンディーを持っている。
幼児向けのお菓子。
水色の飴はヒューゴの光の色と似ていた。
これは貰ったものだ。
どうしてそう思ったのかわからない。
けれど、誰かから受け取ったことだけは、なぜか確信していた。
透明のフィルムを剥がし封を開くと、その飴が視界の隅に消える。
カラ、と歯にあたる音がし、自分の口にソーダの爽やかな甘みが広がった。
ああ、この目線は俺で、飴を舐めたんだとわかった。
しかし、自分であって自分ではない。そんな違和感は付き纏う。
その時の俺は、強い怒りと、投げやりな気持ちに支配されている。
反対に、飴の甘さだけがその場では異質で、癒しとなっていた。
コロコロと舌で転がし暫く味わっていると、景色がまた動き出す。
面白くもないのに笑って、傷だらけの腕で柵を掴む。
ぐっと掴んでそこに足を乗せると、――――履きつぶされたスニーカーが強く柵を蹴った。
――――飛んでいる。
恐怖はなかった。
それよりも、やりきれない感情が占めていた。
大空に放り出された身体は、直後に重力に引っ張られ、ズっと落ちる。
やっぱり泣いていたみたいで、落ちるのが遅い水滴が空中に舞うのが見えた。
その間もずっと甘さだけが口内に残り、切なさを増幅させる。
***
猛スピードで落ちていく感覚で目が覚めた。
「――っはっ……!」
心臓が嫌な音を立てるみたいに脈打ち、荒い呼吸が止まらない。
目を見開き、視線だけで自分の居場所を確かめる。
ベッド。
――ああ、夢か。
自分の部屋だと確認して、ようやく体のこわばりがほどけ、ほっと息をつく。
恐ろしい夢だった。
エアコンは付いているのに変な汗をかいて全身どろどろだ。
起きようと身じろぎすると、横からぬっと伸びた手が肩にまわり阻止された。
ヒューゴの手だ。
昨夜、さんざん俺のものを取り入れたので、また一日くらいはくっついていられるはず。
『凪、おはよう』
「おはよ……」
まだ夢を引き摺り、心臓はバクバクとうるさいままだった。
声のした方を向くと、ヒューゴが俺をじっと見つめていた。
「……あ、目が青い、ね」
外国人のような透き通る青ではなく、黒目に青が混ざっている。その奥は異様な光を纏っていた。
これって、やっぱり俺の影響だよな。
『凪とたくさん交ざったから』
愛おし気に頬を撫でられ、恥ずかしさが込み上げる。
同時に、安堵に似た幸福感にも包まれた。
俺の存在がヒューゴの中にとどまっている間は、ヒューゴはここに居てくれる、そんな気がしているから。
ずっとこうしていたくて、ぎゅっと抱きついた。
汗を擦りつけて、離れるなと俺の存在を植え付ける。まるでマーキングだ。
――俺を全部あげる。全部全部。だからずっと一緒にいよう。
『どうした?』
「ヒューゴとこうしていられるの、幸せだなって思ってるだけだよ」
気だるい体も、こうしていると癒される。素直に甘えると、ヒューゴの手は頭や背中を撫で応えてくれた。冷たくて気持ちがいい、それがヒューゴの体だ。
夢で、すこし思い出したことがあったので聞いてみた。踏み込んではいけないと思いつつも、ひとつだけ、どうしても確認しておきたくて。
「ねぇ、俺が小さい時、葬儀場で会った時さ」
『うん?』
「俺、ヒューゴに飴を……あげなかった?」
保育園が終わると毎日飴を一本貰うのが日課だった。
ぶどう、りんご、みかん、メロン。果物のフレーバーの中になんでか交ざるソーダ味は俺にとっては特別な存在で、俺は当時、その味が一番好きだった。
『――ああ。うまかった。あの時はありがとう……』
――やっぱり。
ヒューゴは微笑んでいるが、何を思っているか分からない目をしていた。
やっぱり、あの夢はヒューゴの過去……?
あの映像は……。
いや、俺が勝手に見た妄想かもしれない。何の確証もないものだ。
これ以上確認をする必要なんてなくて、耽っていた思考をふりきる。
最後が誰のせいだったかなんて、どっち(・・・)でも(・・)いい(・・)。
今ヒューゴがここにいる。それだけが真実だ。
『でも、突然どうしたんだ?』
「なんか、急に思い出して。でも別になんでもない。懐かしいなって思っただけだよ」
胸に顔を埋めて、温もりも、匂いさえもないヒューゴの体を堪能した。



