憑依未満の夏葬

冷たい水で顔を洗い、Tシャツとハーフパンツに着替えた。
朝昼兼用の食事をとってから出発することにする。

食パンを焼いてピーナッツクリームを塗ると、ちぎってヒューゴの口の前に差し出した。
ヒューゴも食べるふりをするが、当たり前のようにスカッと通りぬける。

『なんか喉がイガイガする気がする』

ヒューゴが怖い物から逃げるように首を後ろに引いた。

「食パン嫌いだっけ。前もあげたよね?」

いちごジャムを乗せた食パンを上げた時はそんなことは言っていなかった。

『ピーナッツか……? よくわかんないけどいやな感じがする』
「あ、もしかしてナッツアレルギーだったとか」

閃いて、ぽんと手を叩く。

『あー……そうかも……? うわ、なんかそう思ったら喉かゆくなった』
「え、すご。なんかやっぱり進化してない?」
『感心してるなって、アレルギーのショックとか怖いじゃん』

アレルギーのある幽霊なんて聞いたことがない。生きていた時の記憶かもしれないな、と思いながら牛乳を差し出した。これもヒントになるかも。まさかアナフィラキシーショックで亡くなったとか……?

「お口直し」
『ここんところ毎日牛乳だな』

そういいながらも、ヒューゴは飲むふりをする。
ままごとみたいだけど、俺たちの間では大事な儀式のようなものだ。俺がヒューゴと関われば関わるほど、ヒューゴは人間らしくなる。

もしかしたら生き返るかも、と思わせるほどに。

「ヒューゴが俺を小さいって揶揄うからじゃん! まだまだ成長期で、背は伸びるんだからな!」
『はいはい。がんばれよ』

食べ終わり、水無瀬葬祭までは自転車で向かった。俺は猛暑の中一所懸命自転車を漕いでいるのに、ヒューゴは涼し気にその横を飛んでいた。

父さんから預かった鍵で、事務所の鍵を開ける。
今日は電話当番の社員さんの勤務があるものの、終日外回りにでているのでふたりきりだ。

周囲に気を遣わず、会話ができるので気が楽だ。
パソコンを立ち上げて、過去の資料を漁る。

ここに来るための言い訳として使ったけど、本当に自由研究の題材にすれば宿題も進んで一石二鳥だ。

「ヒューゴ苗字思いだしたりした?」
『まったく』
「だよなぁ。何かヒントみたいなのあるといいよなぁ」

ロッカーにある書類も取り出して広げると、その多さに思わず空を仰いだ。

――これ、終わるのか?

今日だけでは到底無理だ。
そんな弱音が浮かんだが、ゆっくりと飲み込む。

ヒューゴの手掛かりがどこかにあるかもしれないんだから。
果てしない作業になりそうだけど、一件ずつ地道に調べることにした。

集中していると、あっという間に二時間が経っていた。時計を見て、丸まっていた背中を伸ばして、腕を上げてぐーっとストレッチをする。

「あれ、ヒューゴ?」

いつからいないんだっけ。
ところどころ会話をしていたが、最後に話したのは何分前だ?

絶対離れないで、トイレの中まで付いて来ようとするヒューゴの姿が見えない。

「ヒューゴ、どこ? 休憩しよう」

呼べばいつだって、すぐに返事をくれたのに、今は声を出しても空気が揺れるだけだった。
彼がいるはずの場所に目を向けても、姿はどこにもない。
それでも、消えたのか、自分が見落としているだけなのか判断がつかなかった。

「ヒューゴっ……」

部屋を見回すけど、いつもみたいに空気が動く感じがなくて、自分はここにひとりなんだと本能的に感じた。
はっと短い息が漏れる。
ドクドクと心臓がうるさくなり、緊張がこみ上げた。

どうして? 何があった?

――もしかして。 

怖いことを想像して事務所を飛び出した。事務所以外は冷房が効いていないのに、真夏にもかかわらず空気がひやりとした。

「ヒューゴ! どこ⁉」

薄暗い廊下に俺の声が響く。足を縺れさせながら走る。
倉庫、トイレ、控室を見回るがいない。

「ヒューゴっ……!」

最後に大ホールの扉を開くと、その部屋の真ん中にヒューゴは佇んでいた。ズボンのポケットに手を突っ込んで、まっすぐ浮かんでいる。考え事をしていたのか、見えた横顔は真剣だった。

「あ……」

――いた!

ヒューゴは振り向いて、きょとんとした。

『凪?』

いつも通りだ。
汗がどっと噴き出す。ちょっとしか走っていないのにマラソン後みたいに息があがって、上擦った短い呼吸を繰り返した。

「っヒューゴ……」

俺は泣きそうになって、ヒューゴに駆け寄ると両手を広げて抱きつこうとした。
――が、当然のごとく体はすり抜け、ヒューゴに支えてもらう筈だった体は重心が一機に前へ崩れる。そのまま宙を舞い見事にお腹を床に打ち付け、ぐふっと情けない声が漏れた。

『あ、おい、っ凪! なにやってんだよ』

ふわりとヒューゴの空気が背中に触れる。
本当だよ何やってんだ。
顔をあげると心配そうなヒューゴの顔が覗き込んでいた。

「いるじゃん……」

呟くと、ずっと目に溜まっていた涙が零れた。

「いないから、消えちゃったんかと思って……ちょっと……焦った」
『凪……』
「なんだ。早とちりした」

床に倒れたまま、息がまだうまく整わないまま涙を拭って、へらりと笑う。
いなくなったらどうしようって、ずっと怖かった。

くっつかれて困ることだってあったのに、呼吸が浅くなるほど離れるのが怖いなんて、おかしい。
プライベートがないって不自由に感じた日もあったはずなのに。

それなのに今、胸の奥だけが妙に静かで、どうしてこんなにもほっとしているんだろう。
ヒューゴが成仏できるようにって調べてるのにすごく矛盾していた。