憑依未満の夏葬

――今日、葬式はなかったはずなのに。

凪は立ち止まって、クンと鼻を動かし周囲の空気を探った。
線香の匂いが強い。

線香の匂いは建物に染みついているとはいえ、催事の無い日には匂いは多少は薄くはなるものだ。
幼いころからそこに出入りしていた凪は、それをわかっていた。

廊下から暗闇に目を凝らすと、開きっぱなしの観音扉の向こう側、誰もいないホールにゆらゆらと漂う白い靄が見えた。まるで線香の煙のようだったが、違うようだ。初めは細かったその靄は渦を巻きながら膨らみ、意志を持ったように移動をする。
まるで踊っているかのように揺らめきながらホール内を回って、時折、誘導灯に照らされ緑に色づいた。

「なんだ? あれ」

いわゆる霊感と呼ばれるような、この世に存在しないものを見る能力は持ち合わせていないものの、ここは葬儀場というある意味特殊な場所であるがゆえ、不思議なことは何度も経験してきた。

だがそれは、担当したスタッフが誰もいないのにありがとうという声が聞こえたとか、故人の止まっていた時計が急に動きだすとか、そんな、なんとなく不思議なことが起こるという程度だ。
恐怖に慄くようなものではない。

人ならざる者が、こんなはっきり見えるのは初めてだった。

思わず声をだすと、その靄は驚いたように動きを止めざっと振り向いた(・・・・・)。
――そう、振り向いたのだ。いかにも人間らしく。

俺は息を呑む。
只の煙に、なんでそんなことを思ったのかわからない。ただ漠然とそう考えた。
靄の奥で、目が合った気がした。
ぞわりと背筋が粟立つ。

金縛りにあったみたいにその場から動けずにいると、縒り集まった靄はくるりと身を翻してこちらに向かって迫って来た。

「え、あ、うわっ」

(――嘘だろ)

成仏できなかった死者かもしれないと脳裏によぎると、それまで他人事だったこの出来事が、急にリアルになり恐ろしくなった。
動かない足に動けと命じる。
無理やり後ろに足を数歩下げると、縺れさせ転んで尻もちをついた。

手に持っていた書類と鍵の束が落ち、乾いた金属音が不気味に響く。任された戸締りはまだ終わっていないというのに、今すぐ外に逃げだしたかった。
床にへたったまま動けずにいると、それは濃さを変えより見えやすくなる。凪の素性を確認するかのように周囲を周りながら、徐々に人の形をかたどった。

「え……、――え⁉」

ぐにゃり。

鼻先がつきそうなほど近い距離に、顔が形成された。

「……っ……」

悲鳴を飲み込めたのは、その顔がグロテクスな見た目ではなく人形のように綺麗だったからだ。
二十代……? いや、十代かも。若い男性で、お爺さんやお婆さんではないことは確かだ。

顔以外はまだ不完全で、靄が散って消えそうになっている。どこを見ているかわかるはずなんてないのに、珍しいものを観察するかのように、舐め回すような視線を感じた。

呪い殺されるんじゃないかという恐怖もあったが、禍々しさというものが感じられない。
それに、どこかで会ったことがあるような既視感があった。

「だ、れ……」

呟いたとたん、ギョロリと目玉が出現する。

「ひっ……!」

人の目だ。他は全部わたあめのように真っ白なのに、瞳だけがリアルに変化した。

「やめて……! 俺は食べても美味くない!」

どうして食べられると思ったのか。

呪われるとか、黄泉の国へ引きずり込まれるが最初に考えることじゃないのか。
とにかくパニックになりながら、腕で顔を見てガードした。

大きな口にグワリと飲み込まれる想像までしたのに、何も起こらない。

『……ねえ、俺のこと見えてんの』

代わりに、若い男の声がした。
声は小さく、微かに聞こえる程度。それでも、こいつが凪に話しかけていることがわかった。

声は、子供でもなく、おじさんでもない、凪と同年代くらいのトーン。
ゆっくりと腕をおろし、凪は目を見開く。

透き通るほどの金髪が、海藻のように揺らめいている。


――――目の前には、白いシャツと濃紺のパンツ、制服姿の男がぷかぷかと浮いていた。