モイライ来りて糸を繰る


 七月三十一日。世間的には平日の金曜日。
 陽向にとっては運命の日。
 辰巳は前日の夜から八月一日の朝まで泊まり込む予定だ。夏休みの課題が思ったより多かったので、友人宅で助け合いながらしっかり終わらせたいと言って自分の家族を説得したらしい。辰巳と陽向の成績では助け合うどころか、陽向が一方的に助けを求める事になるだけだと自分では思うのだが。
 木曜の夕方にやって来た辰巳は近くのスーパーで買ったというパンや卵、野菜が入った袋と一緒に、老舗洋菓子店の焼き菓子セットを持ってきてくれた。焼き菓子の方は家族が持たせてくれたそうだ。
 夕食は陽向があらかじめ買っておいた食材を使って、二人でわいわい話しながらカレーを煮込む。兄は中辛が好きだという話をすると、それなら辛さは悠さんの好みに合わせようと調整してくれた。
 あれからほとんど眠っているかのような日が増えた兄だが、どうにか食事だけは摂っている。今日も念のためカレーライスの皿にラップを掛けて部屋に持っていくと、陽向が部屋を出る前に匙を手に取っている兄の姿が見えた。
 悠さんどうだったと聞く辰巳に、リビングに戻った陽向はどうやら無事に食べてもらえそうだと話をする。安心した様子の笑みを見せる彼と一緒に、夕食を摂った。食後は辰巳が持ってきてくれた焼き菓子の箱からそれぞれマドレーヌとフィナンシェを取り出し、お茶を飲む。
 明日の事さえなければ、楽しい楽しい青春の一ページである。
 夜は以前両親が使っていた部屋が開いていると言ってみたが、それはさすがに無理だという。そこで来客用の布団を出し、陽向の部屋で一緒に休む事になった。
 互いにそれぞれ風呂に入った後、陽向はベッド、辰巳は布団にもぐり込む。午後の十一時過ぎには部屋の電気を消しておやすみと挨拶したが、明日の事を考えるとすぐに眠れるはずもない。
 時計の針があと数分で零時を指し示すという時間帯が、一番吐き気がした。こればかりは無理もないのだろうが、それにしても思った以上に神経質になってしまっている。

「陽向、まだ起きてる?」
「うん」
「そっち行っていい?」
「あ、やっぱり布団よりベッドの方が良かった? 交代していいよ」
「いや、そうじゃなくて……やっぱりいい。忘れてくれ」

 辰巳の意図を陽向が図りかねている間に彼はこちらに背を向けてしまう。しばらくすると、安らかな寝息のような呼吸音が聞こえてきた。
 時計を確認すると日付が変わるまであと一分もない。もう誤魔化しきれない恐怖と焦燥感に駆られた陽向はベッドから降り、辰巳が眠っている布団に横から潜り込んだ。
 広くて背筋の硬い背中にそっと額を擦り付け、確かに存在する体温に触れると、ようやく幾許かの安心感を得られた。いつも寝間着代わりにしているというTシャツの裾を指先で摘まむ。
 そのまましばらくじっとしていると、少しずつあの嫌な焦燥感や恐怖感が収まってくる。完全にはゼロにならないが、それでもまたベッドに戻って一人で眠れるぐらいには回復した。
 摘まんでいたTシャツの裾を離し、布団から出ようとする。すると、それまで向こうを向いて眠っていたはずの辰巳が突然寝返りを打ち、あっという間に陽向の体を抱き込んでしまった。
 寝ぼけているのだろうか。どうにか抜け出そうとするが、陽向がもがけばもがくほどに辰巳の腕の力が強まっていく気がする。
 こうなったらもう駄目だ。今夜はこのまま眠ろう。明日の朝、辰巳より早く起きてどうにか離れれば良い話だ。