モイライ来りて糸を繰る


 がっ、と兄の口から苦しげな息が漏れた。辰巳に胸ぐらを掴まれたのだ。
 わなわなと震えている形の良い唇と鍛えられた腕に浮かんだ血管が、彼が激しい興奮状態にある事を如実に示している。

「梶山君、離して」

 陽向は冷静に、指示するように告げた。辰巳は射殺さんばかりの眼光で悠心を睨み付けた後、渋々という様子で腕を離す。解放された兄はベッドにうつ伏せに倒れ込んで、じっと動かなくなった。

「七月の晦日って、七月の最終日って意味だよね」
「陽向」
「そっか。僕、その日死ぬんだ」
「陽向!」
「鉄の獣って何だろう。あ、車かな? 僕にも同じ目に遭ってほしいんだね」
「落ち着け、しっかりしろ!」

 辰巳が陽向の両肩を掴む。今にも泣きそうな顔をしている彼に対して、陽向の方は一滴も涙が出る気配がなかった。

「大丈夫、大丈夫だから。その日はもう夏休みに入ってるだろ? 日付が変わるまでずっと家にいよう。俺が一緒にいるから。どうしても外に出ないといけない用事があるなら、俺が全部やるから。俺が守るから、俺が」

 陽向に向かって落ち着けと言っておきながら、自分が一番動揺しているではないか。くすっ、と妙な笑いが漏れる。
 やっぱり自分も大概に混乱しているようだ。

「ありがとう。でも、気持ちだけで十分だよ。あとは自分で何とかするから」
「何で……っ、何でそんな悲しい事言うんだよ! そんなに俺は頼りないか!? 昔からずっと、お前を守るためだけに何もかも努力してきたのに!」

 悲痛なまでの叫びに胸が締め付けられる思いがする。同時に、辰巳が発した言葉に若干の引っ掛かりを覚えた。

「僕を、守るため?」
「……ああ、そうだよ。勉強頑張ったのも料理覚えたのも空手習い始めたのも、全部お前のためだ。お前が安心して、好きなように生きていける手伝いができたらって、昔からずっと思ってた」

 思いがけない真実に、陽向はその場に立ち尽くす他ない。動かなくなった陽向を、辰巳は恐る恐るといった様子で抱きしめた。

「諦めるなよ。一緒に、生きる方法を探そう。こんな呪いでお前の命が終わっていいわけがない」

 涙声になりながら、それでも彼は懸命に陽向を励まそうとしている。
 突然の言葉にかえって頭が冷えたからだろうか。ようやく、自分は彼の思いに応えなければならないという意識が芽生えてきた。
 そうだ、こんなところで死ぬわけにはいかない。

「ありがとう、たっちゃん」
「陽向……」
「僕、頑張るよ。必ず生き延びてみせる。だから、一緒にいてくれる?」

 陽向の決意に、辰巳は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。返事の代わりに力強く抱きしめてくる腕の温もりを感じながら、陽向は改めて兄に向き直る。
 やはりうつ伏せのままだが、呼吸は規則的でしっかりとしている。どうやら眠ってしまったらしい。寝冷えしないように上から毛布を掛けた。
 辰巳は自分の親に連絡して今日は泊まると言ったが、明日は一応平日だ。やはり一旦家に帰ってもらおう。一晩置いてさらに互いの頭をクールダウンさせたら、より建設的な話ができるかもしれない。
 すっかり真夜中近くなってしまったが、辰巳は一人で帰ると言う。送っていくと言ったが、そうしたら帰りが結局陽向一人になるのでむしろ心配だ、と返されてしまった。
 せめてもの気持ちで、マンションのエントランスまで見送る。ポツポツと街灯が照らしている夜道で辰巳は何度もこちらを振り返り、手を振りながら帰路についた。
 どこかの草むらでヒメギスの鳴く声がしている。