モイライ来りて糸を繰る


 リビングに沈黙が落ちる。
 辰巳は陽向を見つめたまま動かない。その端正な顔に浮かんでいるのは怒りでも困惑でもなく、もっと別の、形容しがたい何かだった。

「なあ、陽向」

 永遠にも思える時間を経て、辰巳は静かに言う。

「お前ってさ、何でも一人でやろうとするよな。兄弟の世話も、家の事も。今度はこれも一人でって、本気で思ってんのか」

 責めるような言い方ではない。ただそこに在る事実を、丁寧に確かめているだけ。
 それ故に、陽向は返す言葉を見つけられなかった。
 俯く陽向の耳に椅子を引くような音が届く。辰巳が席を立ったのだ。

「悠さんの部屋、どこだったっけ」
「梶山君」
「あ、こっちか。悪い悪い、思い出した」

 陽向が止める間もなく、辰巳は廊下に出ていってしまう。悠心の部屋の前に立ち、ドアノブに手を掛けようとした。

「待って! 本当に一緒にいるつもり?」
「当たり前だろ。ここまで来て逃げるかよ」
「……怖くないの?」
「お前を一人にする方がよっぽど怖い」

 こちらを向いた顔には、もはや一切の迷いがない。

「お前の準備ができたら開ける」
「……うん。いいよ、開けて」

 陽向の言葉とほぼ同時に、辰巳は部屋の扉を開けた。
 電気を点けてみると、兄がベッドに腰掛けているのが見えた。机の上の食事には手を付けた様子がない。一応ラップはしているが、さすがに一晩このまま放置するわけにもいかないだろう。
 ここにきて陽向の頭の中を妙に現実的な思考がかすめる。駄目だ。今やるべき事を忘れるな。

「陽向、キツかったら俺が言うけど」
「大丈夫。ありがとう」

 辰巳が小声で言ってくれたが、陽向はそれを振り切って一歩前に進み出た。
 兄の正面に立ち、その顔をじっと見つめながらはっきりと呼び掛ける。

「あぐり君」

 ピクリ、と悠心の体が動いた。これまでどんなに『兄さん』と呼んでも、ほとんど反応しなかった彼が。

「あぐり君。そこにいるの?」

 問い掛けた瞬間、エアコンによる冷気とは明らかに異なる寒気が全身を襲った。兄の体がガタガタと震え始める。

「ウウウウウウッ」

 低い唸り声が兄の喉から迸った。
 来る。身構えたその時、陽向は兄が腰掛けているベッドも振動している事に気が付いた。
 地震? 違う。これは地震に伴う動きではない。

「陽向!」

 辰巳が陽向を守るように覆い被さる。
 ポルターガイスト。騒がしい霊という意味のその言葉は、誰も触っていないのに物体が移動したり、異常な音がしたりする現象を表す。
 昔、夏の特番で見た心霊映像が頭を過った。電灯が激しく明滅する。食器が宙を舞う。部屋の壁や窓が一斉に叩かれる。
 今、目の前で同じ出来事が起こっている。

「陽向、一旦この家から出よう! もう俺たちの手には負えない!」

 陽向を強く抱きしめている辰巳が叫ぶ。逞しい体の隙間から、兄が痙攣を起こしている様が見えた。

「ガッ、ガガガガガ、アァ」
「兄さん!」

 腕を振り解いて兄の元へ行こうとする陽向を、辰巳は絶対に行かせないとでも言わんばかりにますます強く抱く。辰巳が抵抗する陽向をどうにか引きずって部屋から出ようとした時。
 不意に、不可思議な出来事がピタリと止まった。電灯は問題なく点いている。机の上の食器も元通りラップを掛けられた状態で置かれている。壁や窓を叩く音もしない。
 そして、目の焦点が合っていない悠心が、二人のすぐ目の前に立っている。

「七月の晦日(みそか)

 兄の右手の人差し指が真っ直ぐに伸びる。

「瀬戸陽向は鉄の獣に轢き潰される」

 その声は、いやにはっきりと鼓膜に響いた。