モイライ来りて糸を繰る


 期末試験が終わり、梅雨も明けた七月の初め。
 焼けるような陽射しが照り付けセミが鳴くようになっても、兄の状態は変わらない。あれから痙攣も予言めいた発語もなく、平和と言えば平和な日々が続いていた。
 あの後合計で三回脳波の検査をしてもらったが、異常は一つも見つからないままだ。症状も出ていないことから、医師も頭を抱えているように感じる。

「ヒナちゃん、もう鮮度チェックやっちゃっていいかも」
「分かりました」

 辰巳の話を聞いてからほとんどすぐに期末試験に入ったので、シフトに出るのは少し久しぶりだ。猛暑で冷たい飲み物やアイスクリームの売れ行きが増えた事以外は大きな変化はなく、四谷に会うような日もなかった。陽向のシフトは週末が多いので、もしかしたら平日に来店しているのかもしれないが。
 七月中旬の日曜日。今日も今日とて夕方近くまでの予定で陽向はバイトに出ていた。冷蔵品のチェックを済ませて戻ると、英梨がこれからトイレ掃除に取り掛かると言う。交代でレジの中に入り、ほんの数分ほど経った頃だろうか。

「あのさあ」

 カウンター越しに声を掛けられる。声のした方を見ると、五分刈りで黒いシャツに身を包んだ三十歳前後の男と目が合った。

「はい」
「おたくの店、掃除とかちゃんとやってんの?」

 忌々しそうな顔で言う男に、どうかされましたかと聞く。彼は両腕を掻きながら陽向を睨み付けた。

「さっきから虫がちょくちょく肌に当たってるみたいで痒いんだよ。ハエか何か沸いてんじゃねえの?」
「そのような事は……」
「何だよ、俺が嘘ついてるって言いてえのか!?」

 突然激昂し始めた男の形相に背筋が震えたものの、すぐに頭を下げて申し訳ありませんと言う。例えこちらに非が見当たらなくとも、まずは相手が落ち着くのを待つ。
 しかし男はなかなかクールダウンする気配がない。トイレ掃除から戻った英梨も、こちらの様子をそわそわした表情でうかがっている。
 他のお客さんに迷惑が掛かる前に、場所を移ってもらおう。そう決めた陽向が口を開きかけた時だ。

「あれ、白崎んトコの若中じゃん。三橋だっけ? 何してんの」

 聞き覚えのある穏やかな声がした。黒いシャツの男と陽向が同時に顔を向ける。
 カジュアルなスーツにいつものピアス姿の四谷が、薄く笑みを浮かべて立っていた。

「何だよ、四谷。テメエには関係ねえだろ」
「いや、そこにいられると俺が会計できないからさ。ていうか、いい年した大人がそんな若い子に絡んじゃって、恥ずかしくないの?」

 飄々とした調子で男を挑発する四谷に、陽向の方がヒヤヒヤする。どうやら知人の間柄のようだ。とはいえ気安く冗談を言う仲でもないのか、四谷にコケにされた男は今にも掴みかからんばかりの勢いで彼に噛み付く。

「うるさいんだよ、テメエ! 関係ねえんだから引っ込んでろ!」
「だから俺の会計が……んー? ちょっと待って」

 四谷は三橋と呼んだ男の体に顔を寄せ、ニオイを嗅ぐような素振りを見せる。んだよ気色悪いと悪態をつく男に向かって、彼は冷たく囁いた。

「三橋、お前またシャブ食ってんな」

 明らかに動揺してみせる男に、四谷はさらに畳み掛ける。

「ニオイで分かるんだよ。蟻走感なんてよくある中毒症状の一つだろうが、店のせいじゃねえよ。大体お前んところ今、シノギあんま上手くいってないんだろ? ウチの社長が言ってたぞ。どうやってクスリなんか買ってるんだ? まさか売り物に手付けてるんじゃないだろうな」
「……クソッ」

 男は一つ舌打ちをしてから、陽向に凄んでいた剣幕を嘘のように静めて踵を返す。そのまま自動ドアまで歩いていって、さっさと店を出てしまった。

「お疲れ様。八十五番のウィンストン、一つもらえる?」
「あ、は、はい!」

 陽向は慌てて後ろの棚からタバコを取り、レジを打つ。

「あの、ありがとうございました。助かりました」
「ん。まあ、ちょっと知ってるヤツだったからね。見てられなくてさ」

 安堵した様子の英梨が掃除用具の補充のためバックヤードに消えてしまい、店内に陽向と四谷の二人が残される。四谷はタバコの箱をスーツの内ポケットにしまいながら、普段通りの静かな声で言った。

「殴る蹴るだけが喧嘩のやり方じゃないんだよね。俺も今の仕事に就いてから初めて知ったけどさ」
「……今のお仕事って、金融関係ですか」

 陽向の言葉に、彼は表情を変える事もなく頷く。

「お兄さんから聞いた?」
「誰からでもいいでしょう。東京にオフィスがある貸金業者。間違いないんですよね?」

 四谷はまじまじと陽向の顔を見つめ、それから再び内ポケットに手を伸ばした。小さな四角い厚紙を一枚取り出してカウンターの上に置く。名刺だった。

「一応、社会人のマナーとしてね。こういう所で働いてますって証明」

 差し出された名刺には四谷(よつや)大翔(ひろと)というフルネームと、メガラーファイナンスという会社名が記載されていた。
 じゃあねと言って店を出ようとする彼を、陽向は短く引き留める。

「四谷さん」
「何?」
「どこかのタイミングで少し話せませんか。個人的に」

 自分でも驚くほどはっきり声が出た。四谷はしばらく動かずに陽向と向き合って、小さく息をつく。

「今日、バイト何時まで?」
「五時です」
「そこのバス停近くの喫茶店にいるから」

 それだけ言い残すと、彼は今度こそ本当に店を出ていった。