六月上旬の土曜の朝。辰巳は事前の打ち合わせ通り八時半に現れた。
「悠さん、おはようございます。じゃあ行きましょうか」
灰色のスウェットにサンダルという出で立ちの悠心に、辰巳は微笑んで挨拶をしてくれた。彼は悠心の片方の腕をしっかりと持ち、支えながらゆっくり歩く。
幸い雨こそ降らずにいたものの、天気は曇り空だ。薄い光の中に連れ出された兄は、妙に白っぽく見えた。
病院に到着した後は受付を済ませ、問診票に必要な事項を記載して待つ。兄は問診を自分で書ける状態ではなかったので、分かる範囲で陽向が記入した。
今回受診が少し遅くなったのは希望する検査の予約の都合だ。ここは院内にCTもMRIも完備されており、望めば即日検査結果の説明が受けられる。とはいえ、さらに脳波検査も行いたいとなると、どうしても空き数が限られてしまうのだ。
MRIで三十分、脳波検査で一時間。さらに検査着への着替えや待ち時間も含めると、最終的に午前中いっぱいかかった。
「脳の器質的な異常はみられませんね。脳波の方も、てんかんの所見はないようです」
濃紺のスクラブ姿の専門医が、様々な図や波形を参照しながら淡々と説明する。
「問診では時々痙攣がみられるとのことでしたが、実際に症状が出ている時の動画などはありませんか?」
「動画ですか? いいえ、特には……」
「なるほど。てんかんだけでなく小さいお子さんのひきつけなどでもそうなのですが、医療者側が実際に痙攣している場面を目撃するケースは稀なんです。なので、発症時に近くにいた方の目撃情報が診断や治療には重要になってきます。今の時代はスマートフォンですぐに録画できますからね。とはいえ実際には動揺して難しいとは思いますが、できればそういう状況が詳しく分かる物を見せてもらえると助かります」
比較的若そうな男性医師は電子カルテに何かをタイピングしつつ、時々悠心と陽向の方を見てそう告げた。確かにあの状態は実際に見てもらわないと、詳細を他者に伝えるのはなかなか難しい。
できればもう二度とあってほしくないが、また同じような事が起きたらスマホの録画機能を作動させてみよう。しかし、そうなるとあの予言まで医療者に聞かれることになるのだろうか。
さすがに今回の診察では言っていないが、あんなうわ言にしか聞こえない文言のことまで知られてしまったら、兄はどうなるのだろう。映像による証拠があったとしても、第三者にはフェイクを疑われそうな気がする。
「まあ、以前までアルコールの多飲があったとのことですし、突然飲酒を止めたことによる離脱症状の可能性もないとは言えません。念のため、再度脳波の検査を行いましょう。二週間後にまた予約を入れておきます」
医師に礼を言い、兄を連れて待合室へと戻る。受付近くの椅子で待っていた辰巳がお疲れ、と声を掛けてくれた。
会計を済ませて次回の予約票を受け取り、病院を出る。薬の処方は出なかったので、そのまま自宅に戻ることにした。検査で何も出なかったら医師も薬の出しようがないのだろうか。
「MRIも脳波も調べて何もないんじゃ、手の打ちようがないな」
「そう、だね。でも、異常がないって分かっただけでも良かったよ。一応また脳波は調べてもらう予定だけど」
努めて明るく笑いながら、陽向は内なる恐怖を押さえられずにいた。
もしも今回の検査で異常が見つかれば、少なくとも原因をそこに求められた。原因が分かれば、多少なりとも対処の仕方が見えてくる。
だが原因になるような異常が何もないとなってしまえば、兄のあの症状は一体何なのか。
「もしまた同じ事が起きたら、スマホで撮ってみるよ。お医者さんにも勧められたんだ。そしたら実際にどんな症状かよく分かるからって」
「撮るって言ってもな。お前の話聞いてると、とてもそんな余裕を持てるような雰囲気じゃなさそうだけど」
「でも、兄さんのためだから。これで治療の方法が少しでも分かるなら、僕は何だってする」
曇り空の下、震える声で強がってみせる陽向に、辰巳は黙り込む。その顔は何かを堪えているようにも、むしろひどく傷付いているようにも見えた。
自宅マンションに辿り着き、エレベーターで二階へと上がる。陽向一人なら階段でさっさと行ってしまうが、同行者がいるとそうもいかない。
兄を着替えさせてベッドに運ぶ。久しぶりの外出で疲れたのだろうか。横にならせるとすぐに安らかな寝息を立て始めた。
「梶山君、今日は本当にありがとう。週明けに何かお礼を渡すね」
「やめろよ、かえって気遣うだろ」
帰宅する辰巳を玄関先まで見送る。彼は快活に笑った後、不意に真剣な表情で陽向に向き直った。
「もし、また同じ事が起きたら、すぐ俺に言え。一人で抱えないでくれ、頼むから」
少しずつ晴れてきた雲間の光が、辰巳の綺麗な瞳に映る。その懇願するような響きに陽向は何も言えなかった。


